すごく今さらですが、Movable Typeって更新面倒だなと思ったので、移転します。

http://d.hatena.ne.jp/at_akada/


ここはとりあえず残しておきますが、新しい記事ははてなダイアリーに書くと思います。


最近の記事で、比較的ましなもの一覧にリンクをはっておきます。

哲学入門

理論構築をベースにした哲学入門ってないかな。

ここで「理論構築」ということで考えているのは比較的テクニカルなものからもう少しゆるいものまで幅広い対象を念頭に置いている。

今適当に思いつくままに書くと、指示の因果説、二次元意味論、超付値による解決、四次元主義。「理論をつくって解決しよう」というのは、分析哲学のわりと重要な部分であるような気がするのだけど、それを平易に説明して、何なら「きみもつくってみよう」というくらいの本は無いだろうか。

哲学における「理論」というものがもっている独特の役割を知りたいと思ってもいる。



哲学に対するよくある誤解

哲学に対するよくある誤解のうち、大きなものの1つは「哲学者の仕事は新しい魅力的な世界観を提示することだ」というものではないだろうか。

しかし、大半の哲学者は(分析哲学者はといった方がよいかもしれないが)、それが自分の仕事だと考えてはいないと思う。というか、個人的には、哲学者が言っていることについて、その「結論」に注目することはあまり有益ではないと思う。

偉大な哲学者というのは、共感できる・魅力的な・新しい世界観を提示した人ではない。少なくともわたしは、自分が偉大だと思う哲学者の大半について、魅力的な世界観を提示しているとはまったく思わないし、それどころか結論に賛成すらしていない場合が多い。

すばらしい哲学者というのは、「新しいことを言った人」ではなく、新しいことでも古いことでも何でもいいけれど、それを擁護するための「新しい議論を考えた人」であると思う。とにかくわたしは丁寧に議論する人が好きだ。



Zangwill, "Fashion,Illusion,and Alianation" 「ファッション、幻想、疎外」

http://www.dur.ac.uk/nick.zangwill/PDFs/Wolfendale_c02.pdf

たまたま目についたので読んだ。一般向けの本の一章として書かれたものらしく、短かいし、内容も平易。おもしろかった。

個人的な趣味であるが、哲学者が少し変わった話題について書いたものには好きな文章が多い。トマス・ネーゲルなど、変な話題であればあるほどおもしろいものを書くのではないかとさえ思える。


簡単に要約すると、一人称視点から流行について考えるとき、それはまずクールなものとして体験される。一方、一人称の視点を離れ、流行について考えるとき、流行は社会学的・関係的な性質として理解される。その2つの視点にいやおうなく分離することによって、流行は人を疎外に誘う。


ただ一人称視点と三人称視点の分離といった話題は、流行にかぎったものではなく、価値概念一般に言えることではないのだろうか(かならずしもそうではないという考え方もできそうだが)。もしそれが価値概念一般ないし、より広いものの見方について成り立つことであれば、それによって流行に特有の現象(この場合疎外)を説明するのは難しいだろう。



Fred Feldman "Confrontations with the Reaper"「死神との対面」

Confrontations With the Reaper: A Philosophical Study of the Nature and Value of Death


kindle storeにあったので買った。まだ前書きしか読んでいない。

この人が擁護したい主張の1つに「死がミステリアスであること」というのがあるのだけど、「ミステリアスであることの論証」をどのようにやるのだろう。



Beebe, "Constraints on Sceptical Hypotheses"「懐疑論的仮説の制約」

http://www.acsu.buffalo.edu/~jbeebe2/Constraints%20on%20Skeptical%20Hypotheses.pdf


これは今読書会(ゆるふわモテ形而上学)で読んだ論文。懐疑論のシナリオが満たすべき条件を論じる(懐疑論のつくり方)。

白眉は懐疑論のシナリオは形而上学的・論理的に可能である必要はないと主張するあたり。


一言もデイヴィドソンやパトナムには触れていないのだが、デイヴィドソンやパトナムみたいなタイプの議論に対しておもしろい批判になっているように思える。


懐疑論については、いくつか読んだら、何となく議論の潮流と自分の趣味は見えてきたような感じで楽しくなってきた。

個人的には、懐疑論への応答のなかでは、新ムーア主義とか素朴実在論系の回答が好きなように思う。


しかしこの膨大な議論の量と、とにかく細かくなっていく議論の流れを見ると、とても自分で新しいことが言えるような気はしない。これにひってきする蓄積のある問題というと、「自由意志」くらいじゃないだろうか。



Beebe, "A Priori Skepticism"「アプリオリ懐疑論」

http://www.acsu.buffalo.edu/~jbeebe2/APSKEP.pdf


「懐疑論的仮説の制約」と同じ著者による。また読んでない。

読書会のレジメをおきます。


元論文はドラフトがWebで公開されてます。

http://www.acsu.buffalo.edu/~jbeebe2/Constraints%20on%20Skeptical%20Hypotheses.pdf


Beebe "Constraints on Skeptical Hypotheses"

The Philosophical Quarterly Vol.60 No.240


懐疑論に関する関心の移り変わり

伝統的な懐疑論の問題設定

  • 知識の基礎付け
  • カント的問題(認識はなぜリアリティと接触を持てるのか)

最近の懐疑論の問題設定

  • 知識のパズル
    • いくつかの常識的な仮定から、馬鹿げた結論が出てきてしまうという意味での哲学的パズル
    • 知識に関する理解が問題

問題意識

  • 過小決定underdeterminationの問題

過小決定: 経験だけからは1つの理論を決定できない。経験を説明する複数の理論がある。

クワインの過小決定: 経験的に等価な複数の理論がある

Yalcinの過小決定: 認識的に等価な複数の理論がある

Yalcin, 1992, Skeptical Arguments From Underdetermination.


一方われわれの経験によって支持される理論の内には、非常に奇妙なものがある

[S]: 懐疑論の仮説(水槽脳, 世界五分前仮説)

[D]: 日常的知識

[S] <-- 決定不可能 --> [~S]

競合

[D]


懐疑論の仮説とは、(1)排除できない(Sなのか~Sなのかわからない)、(2)にもかかわらず日常的知識の大部分と競合するような種類の仮説。

例えば世界五分前仮説は、過去の知識と競合する。水槽脳は外的世界の知識(わたしは今駒場にいるとか)と競合する。

懐疑論とは、懐疑論的仮説を用いて、ある種の知識(外的世界の知識、過去の知識等)が大部分成立していないとする論証。



事前に知っておくとよいかもしれないこと1

必然的 / アプリオリ

伝統的には同じような意味だと考えられてきたが、クリプキが反論。クリプキ『名指しと必然性』

  • アプリオリな命題: 調べなくてもわかること。「物には形がある」とか。
  • 必然的な命題: 認識から独立した形で、偽であることが不可能な命題。

アプリオリで偶然的な命題「切り裂きジャックは殺人犯である」

アポステリオリで必然的な命題「熱は分子運動である」



事前に知っておくとよいかもしれないこと2

「真である」は知識の必要条件の内の1つでしかない。

すべての懐疑論が「真である」という条件を攻撃するわけではない。

cf. Schaffer "debasing demon"

  • debasing demon(基づかなくする悪霊)

デカルトの欺く悪霊がひきおこすのは以下の2点

  • 本当は偽である
  • 本当は偽であるのに真であると思い込む

Schafferのdebasing demonは以下の2点をひきおこす

  • 本当は証拠に基づかない
  • 本当は証拠に基づかないのに、証拠に基づくと思い込む

ポイント:

debasing demonタイプの懐疑論は、「偽である」ことが不可能な命題にも適用できる。



この論文のテーマ: 「懐疑論をつくる」

懐疑論の仮説が満たすべき制約をあげることで懐疑論の仮説のつくり方を説明


[Sceptical hypotheses]

懐疑論的仮説は、(1)通常の状況と主観的には区別できない、(2)にもかかわらずわれわれが知識を持たないような状況を描く

懐疑論の制約について、広く信じられているが間違っていること

(i)懐疑論的仮説はわれわれの信念が偽であるような状況を描く

(ii)懐疑論のシナリオは論理的・形而上学的に可能でなければならない


[In this article]

[I begin in $1]

1節: 懐疑論の仮説は信念と矛盾しなくてもよい。知識を持たずに信じることがなぜ生じたかだけを説明すればよい。

2節: 必然的な命題に対しても懐疑論できる。

3節: アプリオリな命題に対しても懐疑論できる。

4節: 懐疑論の仮説は論理的・形而上学的に不可能でもよい。

5節: 懐疑論の仮説は認識論的に可能である必要もない。

6節: 「主観的に区別できない」という条件の明確化。

# 2,3,4節がまぎらわしいので注意

# 2と3は懐疑の対象となる信念の方を問題にしており、4は懐疑論の仮説側を問題にしている


[It is important]

この論文では、懐疑論のつくり方は説明するが、懐疑論に答える方法は扱わない。



1節

1節: 懐疑論の仮説は信念と矛盾しなくてもよい。知識を持たずに信じることがなぜ生じたかだけを説明すればよい。


[The most familiar]

●閉包原理(CP)による懐疑論の定式化

CP:

もしSがpことを知っており、Sがpがqを含意することを知っているならば、Sはqことを知っている

Kp K(p→q)

------------

Kq


例:

  • 太郎はカエルが両生類であることを知っている
  • 太郎はカエルが両生類であればカエルが哺乳類でないことを知っている
  • ゆえに太郎はカエルが哺乳類でないことを知っている

CPによる懐疑論

D: 日常的知識

SK: 懐疑論の仮説

とすると、私はDならばnot-SKであることを知っているので、

1.1: もし私がDを知っているならば、私はnot-SKを知っている

1.2: 私はnot-SKを知らない

1.3: ゆえに私はDを知らない



●過小決定原理(UP)による懐疑論の定式化

CPよりUPの方が弱いと言われている

CPはUPを含意する


UP:

pとqはSにとって認識的に等価(Sがpことを信じる証拠がpことをqことより支持しない)

Sがqこととpことが両立しないことを知っている

ならばSの証拠はpことを信じることを正当化しない。

K(p → ~q) ~F(p,~q)

--------------------

~J(p)




例:

  • 花子が持っている証拠は、太郎が次郎を殺したことを、三郎が次郎を殺したことよりも支持しない。
  • 花子は太郎が次郎を殺したことと三郎が次郎を殺したことが両立しないことを知っている。
  • ゆえに花子の証拠は太郎が次郎を殺したことを正当化しない。
  • ゆえに花子は太郎が次郎を殺したことを知らない


UPによる懐疑論

2.1: もしDを信じる証拠がDを他の仮説SKより支持せず、DとSKが両立しないならば、私の証拠はDを信じることを正当化しない

2.2: 私のDを信じる証拠はSKよりDを支持するわけではない

2.3: 私がDを信じることは正当化されていない

2.4: 私はDを知らない



[Although many epistemologists]

多くの認識論者はCPとUPに基く懐疑論的議論が歴史的な懐疑論的挑戦の芯をとらえていると主張するが、CPとUPは以下の条件を満たす懐疑論の仮説でなければ使えない。

SH1(x): Sの知識pに懐疑論するために、SKはpと両立しないものでなければならない。

# 長いので「知識pに重大な懐疑論的挑戦をもたらす懐疑論の仮説であるために」の略として「pに懐疑論する」を採用


しかし夢仮説はこの制約を満たさない。

  • 私が自分が立っている夢を見ている(SK)
  • 私は夢を見ながら実際に立っている(p)

の両方が真であることは可能

一方「私がpことを夢に見る」ことで、pことを知ることはできない。「私がpことを夢に見る」ならば「私はpことを知らない」。

懐疑論者は、Sはpことを知るために夢仮説を排除する必要があると主張できる。


歴史的には、夢による論証も、水槽の中の脳などの論証同様のもっともらしさを持つものとして扱われてきた。

  • 4.1 もし私が自分が手を持っていることを知っているならば、私は自分は水槽の中の脳ではないことを知っている。
  • 4.2 私は自分が水槽の中の脳ではないことを知っている。
  • 4.3 ゆえに私は自分が手を持っていることを知らない。
  • 5.1 もし私が自分が立っていることを知っているならば、私は自分が立っている夢を見ているだけではないことを知っている。
  • 5.2 私は自分が立っている夢を見ているだけではないことを知らない。
  • 5.3 ゆえに私は自分が立っていることを知らない。

この論証を一般的な原理の形で定式化するのは非常に難しい。以下のCPの高階バージョンのような原理には欠陥がある。

Kp & K(Kp → q)] → Kq


これを認めるとKK原理(というやや強すぎる原理)が導出される

  • K(Kp → q) →(Kp → Kq) と変形
  • K(Kp → Kp) → (Kp → KKp) # qにKpを代入
  • Kp → KKp # K(Kp → Kp) より


[The following condition]

以下もまちがっている。

SH2(x): Sの知識pに懐疑論するために、SKはpと両立しないものであれば十分である。

フレッドは自分の目の前のおりにいる動物がシマウマであることを信じている。以下の命題はすべてフレッドの信念と矛盾する。

6.1 このおりの動物はライオンである。

6.2 このおりの動物はシマウマではない。

6.3 このおりの動物は巧妙にシマウマに偽装されたラバである。


6.1と6.2は懐疑論的仮説ではない。6.3だけが懐疑論的仮説たりえるように思える。6.3は以下の制約を満たす。

SH3(o): Sの知識pに懐疑論するために、SKはいかにしてSがSの証拠のもとでpことを信じつつ、しかもpことを知らないのかをしめさなければならない。

これは妥当な制約。


II

2節: 必然的な命題に対しても懐疑論できる。

反例: 神

# この節はわりとわかりにくいですが、Gが必然的かnot-Gが必然的かいずれかであり、どちらの場合でも懐疑論できるという場合分けになっています。

# また、「真な信念だけど、知識ではないものがあるよね」という前提から必然的な命題に対する懐疑論を考えてます。

# この辺の例を見ると、著者が「懐疑論」をかなり広い意味で理解していることがわかります。



[An erroneous condition]

以下の条件も広く信じられているがまちがっている。

SH4(x): Sの知識pに懐疑論するために、pが偽であることは論理的・形而上学的に可能でなければならない。


有神論と無神論の対立を以下のように理解する。

有神論: 必然的神的対象は存在する

無神論: 必然的神的対象は存在しない

このときG(必然的神的対象は存在する)は、必然的に真であるか必然的に偽であるかのいずれかである。

SH4によれば、Gが正しければGに対する懐疑論は実現できないし、Gが偽であればnot-Gに対する懐疑論は実現できない。

これはバカげている。


[Freud offered an]

フロイトの過小決定的宗教論

フロイトによれば、われわれは願望充足を目的とした心理機構によって神の存在を信じるようになった。

# コメント:

# もしある信念Pが、願望充足を目的とした心理機構によって生じたものであれば、Pは知識とは呼べないだろう。

# 「家に帰ればアイスが用意されていてほしい。用意されているはずだ。用意されていなければおかしい」

# => 仮に真であったとしても、こういう仕方で形成された信念を知識とは呼ばない。


[Accordingly, a religious]

もしGが正しく、Gが必然的に真だとしてもGに対して懐疑論できる。

  • 7.1: 私はもし神が存在することを知っているならば、神に対する信念は願望充足を目的とした心理機構が生んだものでないことを知らなければならない。
  • 7.2: 私は神に対する信念は願望充足を目的とした心理機構が生んだものでないことを知らない。
  • 7.3: ゆえに私は神が存在することを知らない。


[It is rarely]

もしnot-Gが正しく、Gが必然的に偽だとしてもnot-Gに対して懐疑論できる。

プランティンガ「神覚sensus divinitatis」

神覚は原罪によって歪められている


神が信じられないのは、神覚が歪んでいるから。

  • 私はもし神が存在しないことを知らないならば、神が存在しないという信念は、原罪による神覚の歪みが生んだものでないことを知らなければならない。
  • 私は神が存在しないという信念は、原罪による神覚の歪みが生んだものでないことを知らない。
  • ゆえに私は神が存在しないことを知らない。


III

3節: アプリオリな命題に対しても懐疑論できる。


[All of the]

アポステリオリな命題に対してじゃないと懐疑論できないと思われてきた

SH5(x): Sの知識pに懐疑論するために、pはアポステリオリでなければならない。


[Suppose a bumbling]

みじめな悪霊からの論証

modus ponensのようなアプリオリな命題は「正しさの感じ」を持っている

後件肯定のようなまちがった命題は「まちがった感じ」を持っている

みじめな悪霊はこの2つの感覚を入れ換えようとしたが、欺きの術に長けていないため、modus ponensを正しく思わせ、後件肯定をまちがっているように思わせてしまった。

この状況では、「正しさの感じ」「まちがった感じ」は悪霊によってつくりだされたものであるため、この偽の感覚によって形成された信念は知識とは言えない。

これはアプリオリな知識についてのゲティアケース、らしい。

# ほんとか?

# というかこの例、悪霊が感覚を交換した結果modus ponensを信じるようになったという設定じゃだめなのだろうか...

# おそらくは4節の例と分けるためか

# 3節: アプリオリな命題が真であるが、なおもわれわれがその命題を知りそこねる状況

# 4節: アプリオリな命題が偽であるが、なおもわれわれがその命題を信じている状況


  • 8.1: もし私がmodus ponensが正しいことを知っているならば、私はmodus ponensが正しいという信念はみじめ悪霊によってつくられた偽の直観的経験のせいではないことを知っている。
  • 8.2: 私はmodus ponensが正しいという信念はみじめ悪霊によってつくられた偽の直観的経験のせいではないことを知らない。
  • 8.3: ゆえに私はmodus ponensが正しいことを知らない。


IV

4節: 懐疑論の仮説は論理的・形而上学的に不可能でもよい。

# 今回のハイライト

# 「この必然的命題が間違っている状況は想像できないけれど、それでも間違っていることはありえる」と考えることは許されてしかるべきではないか(未知の論理の想像可能性)

# しかし、このような思考をどう捉えればよいのか

[Most of the]

SH6(x): Sの知識pに懐疑論するために、SKが真であることは論理的・形而上学的に可能でなければならない

[I begin by]

デカルト: 全能の存在ならば、単純な算術の命題などについてでも欺けるかもしれない。2+3=5は本当は誤りなのに、欺かれた結果そう信じてしまったのかもしれない。


[An analogous but]

ウィトゲンシュタイン:

数学および論理学の必然的に真に見える命題が偽であることはわれわれには想像できない。

にもかかわらずわれわれ以外の生物にとってそうした他の選択肢は可能である。


[Describing his reflections]

9.7: われわれのような生物にとって、正しい計算、推論、計測を構成しているものが何であるかについての直観は避けがたい一方、それらの直観は正しい計算、推論、計測が何であるかについての事実と本質的なつながりを持っていない。

9.7は(後述する意味で)可能である。9.7の可能性と、われわれが必然的真理について知識を持っていることは両立しないので、われわれは論理的・数学的真理を知るために、9.7のような可能性を排除しなければならない。

ウィトゲンシュタインの実際の意図はともかく、ウィトゲンシュタイン的な論理的必然性についての考え方は懐疑論の仮説として機能する。


[Decartes and Wittgenstein]

デカルトおよびウィトゲンシュタインが描いている状況においては、アプリオリな命題が自己明証的にself-evidently真であると思えるような心のエピソードが生じつつ、それらの命題は真ではない。

DW: アプリオリな命題について大規模かつ恒常的に誤っている主体

アプリオリ懐疑論

  • 10.1: もし私が2+3=5を知っているならば、私は自分がDWでないことを知っている。
  • 10.2: 私は自分がDWでないことを知らない。
  • 10.3: ゆえに私は2+3=5を知らない。

[One cannot prevent]

デカルトおよびウィトゲンシュタインの懐疑論的仮説が不可能であると主張するだけではアプリオリ懐疑論への反論にはならない。

これらの仮説が不可能であるという信念はアプリオリな信念であり、それこそアプリオリ懐疑論の仮説が疑問としている当の信念である。

帰納的証拠を集めるだけでは帰納の問題の反論にはならない

証言による証拠を集めるだけは他人の心の問題の反論にはならない

同様にアプリオリ懐疑論の不可能性に関するアプリオリな信念だけではアプリオリ懐疑論への反論にはならない

# じゃあどういう反論ならよいのか?


# 以下コメント

# [TA]

# not-P は思考可能ではない

# ゆえにpは形而上学的に必然的である(と考える十分な理由がある)

# [UA]

# にもかかわらず not-P かもしれない

#

# [TA]と[UA]を両方認めることはできるのではないだろうか。

# 少なくとも形而上学的必然性について可謬主義を取るなら、形而上学的必然性を主張する命題の多くは間違っていることがありえるだろう。

# では、[UA]の「可能性」をどう理解すればよいのか



V

5節: 懐疑論の仮説は認識論的に可能である必要もない。

[I shall call]

可能性の要請: 懐疑論の仮説は真であることが可能でなければならない。懐疑論のターゲットは偽であることが可能でなければならない。

論理的・形而上学的可能性は必要ない。

認識論的可能性も必要ない。

主観的区別不可能性という特別な種類の様相だけが必要。


[We often speak]

われわれはしばしば必然命題が偽である可能性について語る

  • フェルマーの最終定理は偽であるかもしれない
  • (古代ローマの人々が)ヘスペラスはフォスペラスではないかもしれない

われわれがフェルマーの最終定理が真であること、ヘスペラスとフォスペラスが同一であることを知っていたとしても、これらの主張は適切である。

われわれの知識は、その情報を欠いた人々がこれらの文を発話することで、真である何事かを言うことをさまたげない。

もしこれらの命題が形而上学的必然性を主張しているとすれば、偽であるだろう。

これらの命題の正しさは話者が知っていることと関係があるので、認識論的可能性とされる。

DeRose「認識論的可能性」「単純な「かもしれない」の指標詞的可能性と開かれた未来」「そうでなかったかもしれないにもかかわらずそうであるだろうことがありえるか」


[Sceptics try to]

懐疑論者は非懐疑論者に以下の命題のペアの内1つめだけは認めるようにせまる。

# 後者が形而上学的必然性か

  • 12.1 私はBIVかもしれない
  • 12.1' 私はBIVであったかもしれない
  • 12.2 modus ponensは正しくないかもしれない
  • 12.2' modus ponensは正しくなかったかもしれない
  • 12.3 2+3=5は真ではないかもしれない
  • 12.3' 2+3=5は真ではなかったかもしれない

後者の命題が正しいことかどうか知るには、われわれは自分がどんな世界に住んでいるのか知る必要がある。

もし「普通の」世界に住んでいれば12.1'は偽である。もしBIV世界に住んでいれば真である。

# なんで? BIVではない人がBIVであることは、形而上学的に不可能であると想定しているのか?

しかし懐疑論者も非懐疑論者も、少なくともある文脈では、われわれが住んでいる世界についての知識について論点先取に陥ることなしに、前者が正しいことに同意できる。

懐疑論者がBIVや悪霊の可能性をもちだすとき、念頭に置いているのは、認識論的可能性であることが示唆される。

SH7(x): Sの知識pに懐疑論するために、pが偽であることは認識論的に可能でなければならない。

SH8(x): Sの知識pに懐疑論するために、SKが真であることは認識論的に可能でなければならない。

しかし認識論的可能性の通常の理解では、可能性の要請を説明する助けにならない。


[Perhaps the most]

通常の定義

pはSにとって認識論的に可能 iff p はSが知っていることと両立する

もし私が自分が手を持っていることを知っているとすれば、私があざむかれて自分が手をもっているとあやまって信じていることは認識論的に可能ではなくなる。

これはありそうにない。もし私が自分が手をもっていることを知っている場合でも、懐疑論は可能である。

私の知識が懐疑論の挑戦に応答する助けになるとしても、事前に挑戦をふせぐことはできない。

われわれが自分が知っていると思っていることを知っているかどうかがある意味でオープンクエスチョンであることを認めたとしても、かならずしもBIVであることが世界について知っていることとと両立するかどうかを認めたわけではない。

# なんかややこしい。「わたしは自分に手があることを知っている」はまさに懐疑論が否定する命題なのであるが、

# もし懐疑論が間違っており、自分に手があることをわたしが知っている世界にいたとしても、懐疑論の挑戦は可

# 能でなければならないということかな?

# NS世界(懐疑論が偽であり、わたしは自分に手があることを知っている世界)において、

# 懐疑論の挑戦を受けとめ、知識をもっているかどうかをオープンクエスチョンとする。

# このときわたしが保留したのは、「自分が知識をもっていることを知っている」という

# 高階の知識だけであり、依然として「わたしは自分に手があることを知っている」は真である。

# ゆえにこの状況でも、BIV仮説は依然認識論的に可能ではない...と理解すればよいだろうか


[Similar difficulties beset]

他の定義を採用しても同様の困難に陥る。

13.2 pはSにとって認識論的に可能 iff Sはpが偽であることを知らない

13.3 pは関連する共同体にとって認識論的に可能 iff 関連する共同体の誰もpが偽であることを知らず、共同体のメンバーがそれによってpが偽であることを確定できるような実行可能な調査がない。

Hacking, DeRose

13.4 pは関連する共同体にとって認識論的に可能 iff 関連する共同体Cの誰もpが偽であることを知らず、もし仮にCのメンバーによって知られているすべての知識を知れば、その知識をもとにpが偽であることを知ることができるようなCのメンバーはいない。

P. Teller

13.5 pはSにとって認識論的に可能 iff Sが知っていることで、Sにとって明らかな仕方でnot-pを帰結するものはない。

J. Stanley

13.6 pはSにとって認識論的に可能 iff not-p はSにとって知っているとされてはおらず、アプリオリに形而上学的に不可能と認めることができない

D. Edgington

13.7 pはSにとって認識論的に可能 iff pが真であるかSはnot-pに対してpを無視できるのに十分な正当化をいていないかSのnot-pに対する正当化はゲティア証明ではない。

Huemer

13.8 「pことは可能である」の使用はある評価の文脈で真である iff その使用によって表現された命題は、評価の主体が知っていることによって排除されえない

J. MacFarlen

13.9 pはSにとって認識論的に可能 iff pはアプリオリな推論で排除されえない

Charmars

13.9以外とSH7,SH8を組み合わせると知識に数えられるような信念には懐疑論できない。

13.9は大抵の懐疑論的挑戦を許容するが、アプリオリ懐疑論が可能であることが説明できない。


VI

6節: 「主観的に区別できない」という条件の明確化。


[I propose that]

可能性の要請は主観的区別不可能性として理解されるべき。

Lewisの「Sの証拠によって排除されない可能性」の定義

14.1 wはSにとっての可能性である iff Sの知覚経験と記憶は現実のSの知覚経験と記憶に一致する

Lewisによればこれは「主体の知覚経験と記憶が現実にある通りである」可能性である。

世界全体がいかにあるかについての可能性ではなく、自己と今についての可能性、つまり個別の主体によって中心化された可能性である。

中心化された可能性は、世界と住人のペアと考えられる。

# 世界全体は同一であるが、自分がそのなかの誰であるかだけであるかが異なる2つの世界がある


[Because Lewis allows]

アプリオリな懐疑論の仮説も考慮したいので、知覚経験だけではなく直観などの経験も含めるために一般化する。

14.2 wはSにとっての可能性である iff Sの経験と記憶は現実のSの経験と記憶に一致する

この種の可能性を「経験的可能性」と呼ぶ。Lewisは14.1の可能性を、形而上学的・論理的に可能なことに限定していたが、懐疑論の仮説は形而上学的・論理的に不可能でもよいので、14.2は形而上学的・論理的に不可能なことも含む。


[I contend that]

SH9(o): Sの知識pに懐疑論するために、pが偽であることは経験的に可能でなければならない。

SH10(o): Sの知識pに懐疑論するために、SKが真であることは経験的に可能でなければならない。

BIVや悪霊の可能性は経験的に可能である。

帰納の懐疑論者の未来が過去に似ていない世界は、法則的にも認識論的にも不可能かもしれないが、経験的に可能である。


[Even when sceptical]

内的精神状態の知識に対する懐疑論についても、主観的区別不可能性が重要な役割を果たす。

Hans Reichenbachの懐疑論

記憶が混乱し、今日見えたある記憶のイメージは、昨日見た緑のものにひきおこされたにもかかわらず、昨日見た赤いものに似ている。一方今日見えたある記憶のイメージは、昨日見た赤いものにひきおこされたにもかかわらず、昨日見た緑のものに似ている。比較ができないので混乱に気づくことができない。

# 記憶だけの逆転スペクトル?

この例でも主観的区別不可能性が懐疑論的要素をもたらしている


Williamsonの明晰テーゼ(われわれは自分が何らかの精神的状態にあることを確実に知れる立場にある)への攻撃を一種の懐疑論的議論と見なすなら、そこでも主観的区別不可能性が不可欠の役割をはたす。

朝は寒いと感じていたが、だんだん暖くなり、正午には暑いと感じた。

はじめは、寒いと感じているし、自分が寒いと感じていることを知る立場にあるが、だんだん自信がなくなってきて、「寒いと感じるか?」という質問にも答えられなくなり、最終的にはノーと答える。

「寒いと感じる」と「暑いと感じる」の主観的区別不可能性が重要。

SH9, SH10 は内的精神状態に対する懐疑論を阻まない。


[The reason for]

主体に中心化された世界を用いる理由は、懐疑論が用いられてきた伝統的な仕方(特に外的世界の懐疑論)による。

わたしにとっての外的世界は、あなたの心を含む。あなたにとっての外的世界はわたしの心を含む。

伝統的な懐疑論の挑戦のエゴ中心的本質がSH9, SH10に反映されている。

[Let 'U' denote]

U: 私が住んでいる可能世界+不可能世界

V: Uの要素を中心化

W: Vのなかで私が特定の知識を持っていない世界

X: Vのなかで現実世界と主観的に区別できない世界

Y: X∩W

Z: X∩~W

中心化された現実世界は、排他的にYかZの要素である。

懐疑論者の挑戦は、私の証拠は私がY世界にいるのか、Z世界にいるのか決定するのに不十分だというもの。

私ではなく、あなたにむけられる懐疑論の挑戦は中心化された世界の異なる集合を用いるので、懐疑論の挑戦は「パーソナライズされている」とも言える。


[A brief word]

[Because ersatz]


VII

[I have argued]

若手フォーラム

先日は哲学若手研究者フォーラムに参加してきました。

http://www.wakate-forum.org/


多くの発表に触れたり、人と話すことができ、大変刺激を受けるとともに、改めて自分の立ち位置を考えさせられました。

非常にまとまりのない感想で申し訳ないのだけど、個々の発表については当日も質問したし、発表者には自分の意見を伝えているし、改めて書くことが思いつかないな。


反証不可能について

重要な前提として、わたしはポパーを読んだことがなく、ポパーという名前を聞いただけで吹き出すので、多分変なことを言っているかもしれません。


それはそれとして、健全な仮説の基準として、「反証可能性」が持ち出されることは今でもよくある。

しかし反証可能性という概念の不思議な部分として、「反証不可能な命題」として上げられるもののほとんどは、「反証可能」とされる健全な仮説と両立しない。

たとえば、「世界五分前創造説」は大半の歴史的事実と両立しない。世界が五分前にできたなら、平城京遷都が710年に起きたはずはない(つまらない例でごめんなさい)。従って、見ようによっては、「世界五分前創造説」と、歴史的事実に関する個別の主張とは、競合する2つの仮説である。

しかし一方で、特定の歴史的事実に関する知識が確証を増せば増すほど、世界五分前創造説がそれによって反駁されるという風にはなっていない。しかし、なぜ? なぜ事態はそのようになっているのか。どうして、水槽の中の脳仮説や世界五分前創造説のような、他の諸説と競合するが競争しない(という言い方がよいかどうかはわからないが)不思議な「説」が存在するのだろう。


最近懐疑論に関心があるのだが、わたしの懐疑論に対する関心の一部は↑こういうところにあるような気がする。



Schaffer, Jonathan "The debasing demon"

「認識の地獄には、認識論が夢見るよりも多くの悪霊がいる」

これは、夏っぽくてよい。


デカルトの欺く悪霊は、知識の条件のうち、「真であること」という条件を攻撃してくる。欺く悪霊は、真でない事柄を真であるかのように見せかける。

改めて考えると、この「欺くこと」には2つの要素があることがわかる

  • (1)実際には、偽である
  • (2)偽であるのに、真であるかのように信じてしまう

「全能の悪霊にだまされている」とか「水槽の中の脳である」状態においては、この(1)と(2)の条件が大規模に成立している。その「ハイパー欺かれ状態」と、健全な知識を持った状態を(内省では)区別できないということが、懐疑論が成り立つための重要なポイントの1つである。


一方Schafferのdebasing demonは、知識の条件のうち、「証拠によって基礎付けられている」という条件を攻撃する。debasing demonは、適切な基礎を持たない信念を、適切な証拠によって基礎付けられているかのように見せかけるのである。

Schafferは次の2つが可能であるという。

  • (1)(われわれの信念の大部分が)実際には適切な基礎を持っていない
  • (2)適切な基礎を持っていないのに、基礎を持っているかのように感じてしまう

debasing demon は真であることではなく、基礎づけられているbasedという条件を攻撃する悪霊である。

Schafferによれば、この悪霊は普遍的(universal demon)であり、一切の知識をおびやかすものだという。実際Schafferは「アプリオリな知識(論理的知識)」「自己の感覚についての知識」「われ思うゆえあり」という従来確実なものとされてきた3種の知識について、debasing demonを使った懐疑論の素描を示している。


しかしなんというか、「悪霊学へむけて」という節タイトルとか、「認識の地獄には、認識論が夢見るよりも多くの悪霊がいる」というシェイクスピアのパロディ(だよね?)とか、いささか悪趣味にも思える。


ところでタイトルの"debasing demon"はどう訳すべきだろう。「欺く悪霊deceiving demon」のもじりだと思うんだけど、よい日本語が思いつかない。「基礎を抜く悪霊」だと手抜き工事みたいでいいかもしれない。



「部屋Aの壁が緑色であることを知っている」の2つの意味

以下のようなケースを考える。


太郎は部屋Aにいるが、太郎自身は自分が部屋Aにいることを知らない。眠っている間に連れてこられたからである。

一方太郎は自分がいる部屋の壁が緑色であることを見て知っている。


このとき、以下の1だけでなく、2もある解釈では真であるように思われる。

  • 1: 太郎は自分がいる部屋の壁が緑色であることを知っている。
  • 2: 太郎は部屋Aの壁が緑色であることを知っている。

というところまで考えたんだけど、何でこれが問題だったんだっけ(←それを忘れたら意味ない)

つづくかどうかわからないが読書メモをとることにした。


最近の関心

  • 自己知識
  • 他人の心 / 独我論
  • 懐疑論


Lewis, David, 'Attitudes De Dicto and De Se'


読んでいなかったので読んだ。

命題的態度について、(1)命題をつかってうまくいく場合は、性質でもうまくいく。(2)命題でうまくいかないのに性質でうまくいく場合がある、ということで、性質をつかった態度の理論を推す。

途中の2人の神の思考実験がすばらしい。世界に2人の神がおり、2人の神の内、ひとりは最も高い山の上でマナを投げつづけている。もうひとりは最も寒い山の上で稲妻を投げつづけている。ふたりとも全知なので、この世界で成り立つすべての命題を知っている。しかしなお彼らには、まだ知らないことがある。彼らは、自分が2人の内のいずれの神なのか、最も高い山の上にいる神なのか、最も寒い山の上にいる神なのかを知らないのである。つまり、「この世界がどんな世界であるか」についてもっとも詳細な知識をもっていたとしても、「自分がこの世界のどの位置にいるのか」について無知であることがありえるというような。


De Se態度とDe Re態度の関係がよくわからない。De Re態度を自己との見知り関係を通じて同定された対象への性質帰属として理解する。またDe Se態度をDe Re態度の一種として解釈する(見知り関係のなかでももっとも強い関係である同一性関係をとる)という感じでいいのかな。

あと選言的信念や連言的信念などの接続詞はどう処理するのだろう。


これ以外に、自己知識系で次に読もうと思っているのは、以下。


Pritchard, Duncan, 'Wittgenstein on Scepticism'

ウィトゲンシュタインの反懐疑論を検討。超勉強になる。ウィトゲンシュタインの言う蝶番命題hinge propositionについての3つの解釈を検討。蝶番命題とは、われわれの認識を支えているが、それ自体としては正当化されていない、にもかかわらず疑うことが合理的ではないような命題(「わたしには手がある」とか)。

3つの解釈とは

  • 非認識説
  • 文脈主義
  • 新ムーア主義

非認識説(蝶番命題を知ることはできない)に対する批判がおもしろい。

Pritchardによれば非認識説は、閉包原理に矛盾する。

たとえば、通常の歴史的知識 p(「1192年に源頼朝は征夷大将軍に任命された」)と蝶番命題q(「世界は5分前にできたわけではない」)を考えよう。pからはqが帰結する。

  • わたしはpを知っている。
  • わたしはpからqが帰結することを知っている。

閉包原理によれば、この2つから、わたしは蝶番命題q を知っているが帰結する。

非認識説の人は、この自明な内容を否定しなければならない。あまりウィトゲンシュタインが閉包原理にこだわりそうなイメージもないが、蝶番命題が知識ではないという主張はやはりアドホックなものであって、他のいろいろな認識論的原理と整合性をたもてなくなるという例だろうか。


ちょっと気づいたこと。蝶番命題の特徴の1つ、「正当化されていない」は懐疑論に関する議論でよく指摘される「過少決定」の問題にかかわるように思われる(ex. われわれの経験は「水槽の中の脳」説もその否定も支持しない、われわれの経験は世界5分前創造説もその否定も支持しない)。

一方こうした正当化の欠如という条件にもかかわらず------「にもかかわらず」なのか「だからこそ」なのかしらないが------、反懐疑論的知識「われわれは水槽のなかの脳ではない」「世界は5分前にできたわけではない」が実践的に疑いの対象になることはまずない。

これは不思議といえば不思議なことである。正当化とか蓋然性の観点で、2つの命題を区別するものがないならば、合理性の観点で2つの命題の地位がこれほどに異なるのはなぜなのか。


Pritchard, Duncan, 'The Structure of Sceptical Arguments'

「懐疑論の構造」系。激むず。

従来の閉包原理をつかった懐疑論の定式化に対し、決定不全性原理(underdetermination principle)による定式化の方が弱いということを示す。決定不全性原理による懐疑論は、閉包原理による懐疑論よりも弱い主張であるため、閉包原理に基く懐疑論への反論では十分な応答にならない、らしい。


Cassam, "Possibility of Knowledge"

認識論における「いかにして可能か」問題(how possible probrem)を扱う。

「他人の心」の章に興味があったので購入(kindle store)。

「いかにして可能か?」という疑問文の分析から入るあたり好感がもてる。


Cassam によれば「いかにして可能か?」という疑問への答えには3つのレベルがある。

  • 1: 手段
  • 2: 障害除去(不可能に見える理由をとりのぞく)
  • 3: 可能性条件(必要条件をあげる)

この3レベルの構成を武器に、認識論に関する「いかにして可能か」問題に答えていく。


Cassamによる「S は xがFことを見る」S see that x is F の必要十分条件の分析

(1)Sはxを見る

(2)xはFである

(3)Sがxを見る条件のもとでは、もしxがFでなければ、x は現にあるようには見えなかっただろう

(4)(3)の条件を信じたので、SはxがFであると考える


わたしは鉄が熱くなっているのを見る iff

  • (1)わたしは鉄を見る
  • (2)鉄は熱くなっている
  • (3)わたしが鉄を見る条件のもとでは、もし鉄が熱くなっていなければ、鉄は現にあるようには見えなかっただろう
  • (4)(3)の条件を信じたので、わたしは鉄が熱くなっていると考える

正しそうな気もするが、誰か反例をあげてないのだろうか。



しかし、懐疑論に関する文献が膨大にあるのと対照的に、独我論と他人の心についての文献は少ないなあ。

著者について

赤田敦

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