お返事遅れましたが、勝手批評さんのコメントに答えます。
■ 1つめのコメント
まず1つめのコメントについてですが、以下の2つの論点が述べられていると思いましたので、これについて答えます。
- A: 祥子の問題は名前の問題にすぎないのではないか?
- B: これは様相論理の問題ではないのではないか?
まずAについて。
特に赤田さんが例としてあげた「祥子」議論について言うと、ここで時点1・時点2・時点3を貫いているのは(クリプキが言うような固定指示子なんてことではなく)「祥子」という(単なる)名前であるのは明らかではないでしょうか?
勝手批評さんのコメントが述べておられるのは、「時点1に言及された祥子」、「時点2に実際に誕生した祥子」に共通するのは名前だけであり、両者はまったくの別人であるということでしょうか。
だとすれば、「この子があのとき話していた子どもだよ」という友人の発言は、文字通りの意味では「間違い」であると考えるべきでしょう。なぜならば友人は、両者の同一性を主張している(ように見える)からです。
一方わたしの動機の1つは、「この友人の発言を文字通りの真として受け取りたい」という点にあります。なぜなら見たところ、この友人のようなタイプの発言は比喩やつくり話や皮肉などではなく、文字通りに受け取るべきもののように思えるからです。
別の方向から言えば、わたしには、以下のような直観があります。
これから生まれる祥子について話すとき、また、「この子があのとき話していた子どもだよ」と語るとき、話者は単に名前の話をしているのではなく、そのような名前が付けられた子供の話をしている。
そして、ここで問題にしているのは時点1に言及された子供と時点2に誕生した子供が同一であるという論点です。
単に「名前」の話をしているのではなく、「子供」の話をしている以上、両者の同一性を問題にすることが奇妙だとは思いません。
われわれは、同じ「祥子」という名前が付けられた子供であっても、1月10日生まれの祥子と、2月10日生まれの祥子は「別人である」と考えるのではないでしょうか。「同じ名前がついた子供は同じ子供である」というのは、可能的対象について考えた場合でさえ、明らかに間違った主張であると考えます。われわれは「祥子の誕生日が1月10日生まれである未来」と「祥子の誕生日が2月10日である未来」を別の未来として区別することができますし、1月10日生まれの祥子と2月10日生まれの祥子は、数的に別個の存在であるように思えます。
繰り返し定式化するとわたしの問題は以下の通りです。
以下の条件はどれも、それほど違和感のない直観にあったものに思えます。
- (1)時点1に言及された祥子と時点2に誕生する祥子は同一である。
- (2)時点1には、祥子aが生まれてくるのか、祥子bが生まれてくるのか、祥子cが生まれてくるのか...わからない。
- (3)祥子a, 祥子b, 祥子c...は別人である。
- (4)時点1において言及される祥子はただ1人であり、祥子a, 祥子b, 祥子c...などのいずれか1人だけである。
- (5)祥子a, 祥子b, 祥子c...のいずれが生まれてくるのかわからないならば、未来の時点で生まれてくる祥子をただ1人だけ選び出して言及するなどということはできない。
ところが鋭く対立させるなら、(1)と(5)は矛盾を引き起こします。
(1)は、時点1における話者が「正しい祥子」を選び出し言及できると述べています。
(5)は、話者にはそんなことはできないと述べています。
これに対し、わたしの提案は、(4)の条件を否定することです。時点1における話者は複数の祥子に言及していたと考えるならば、上記の問題は生じません。
反事実的条件法を持ち出したのは、それが複数の祥子に同時に言及するための「自然な方法」だからです。
次にBについて。
そもそもの問題としてこれは様相論理を持ち出して考えるべきことなのか、という根本的な疑問があるのです。全く論理の言葉を用いないで考えるべき問題なのではないか、と。
こちらについては、勝手批評さんが、「論理の言葉を用いることで何が失なわれると考えているのか」がまだよくわかっていません。
わたしの方では、あまり論理の言葉に依存する考察を行なっているつもりはないのですが。
■ 2つめのコメント
2つめのコメントには以下の2つが述べられていると理解しました。
- C: 可能的な対象に向けられた謝罪は本当に謝罪なのか?
- D: 現在の@pubkugyoと未来の@pubkugyoには違いがない。
まあ、正直言ってこれは謝罪というより単に最初に言い訳をしておいて批判を封じ込めているという感じで「Aさんに悪いことをした」→「Aさんに謝罪する」という正当な(何が「悪いこと」なのか、何が正当なのかが問題になるけど)手順を踏んでないので「『可能的対象』に対する謝罪」として良い実例になっているのか疑問だ。
こちらについてもわたしは、「もし仮に私の言葉を不快に思うものがいれば、謝罪する」は、謝罪であるという直観を持ちますし、この直観を擁護する方向で考えたいと思っています。
これは不特定多数の人々へ向けられた謝罪かもしれませんが、それでも謝罪であると考えます。
という主張なんですけど、「私の@pubkugyoへの言及は、現在の@pubkugyo さんへ伝えることを意図したもの」である、とどうして未来の@pubkugyoさんにわかるのかなあ。「意図」なるものが何かのテレパシーであるわけではないのだし、これでは正当化されたとは言えないのでは。「祥子」議論で書いたことに似てますけど、字面が同じ「@pubkugyo」である以上、そしてそれ以外に違いが無い以上、混同は避けられないんじゃないんでしょうか。
これについては、現在存在する@pubkugyoさんと、未来の@pubkugyoさんの間には字面以上の違いがあると考えます。
そもそもこの両者はまったく別個の人間です。
たとえば現在存在する@pubkugyoさんは、id:kugyoというidではてなダイアリーにブログを開設しており、デイヴィド・ルイスを敬愛していますが、たぶん未来の@pubkugyoさんはそのような性質を持たないでしょう。
1つめのコメントの場合と同様に、「@pubkugyo」という名前の話をしているわけではなく、わたしはそのような名前のついた人の話をしており、両者の間にはたくさんの違いがあるという風にわたしは思っています。
以上です。
■ 前置き
id:kugyoさんと論争をしています。
http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20090509/1241807293
論争の一部は、シノハラユウキさんと夏目陽さんの「Twitter本」に掲載されたのですが、わたしとkugyoさんは、ページ数の都合により、この論争はまだ決着を見てないと考えています。そこで「Twitter本」にも書いた通り、Webで論争のつづきをはじめたいと思います。
http://twitter.g.hatena.ne.jp/sakstyle/20090429/1240992769
Twitter本を読んでない方には何が何だかわからないかと思われますが、なるべく周辺事情を丁寧に説明しつつ、論争をつづけるようにしましょう。
■ 何の論争か
この論争は、「@shoukou5」という非存在のTwitterアカウントが「可能的対象」なのか、「虚構的対象」なのかを争うものです。
序
@shoukou5とは、二○○九年一月一三日にTwitter上で@pubkugyoが@shokou5と間違えて言及したアカウントである(注一)。当時 Twitter上には@shoukou5というアカウントは存在しなかった。@pubkugyoは、@shoukou5に「誤って呼び出して」しまったことを謝罪し、@shoukou5は虚構的対象であると主張した。一方、@at_akadaは@shoukou5は虚構的対象ではなく可能的対象であると反論した。可能的対象とは存在しうる、あるいは存在しえた対象のことであり、虚構的対象とは虚構に登場する対象のことである。このような重要な意見の対立があった以上、われわれは盛大にMetaphysical Partyを開催し、決着をつけるべきだろう。
注一: Twitter上では@のあとにアカウント名を書くことで対象ユーザーのページにリンクが張られる。
「Twitter本」には、わたしとkugyoさんの主張をまとめた文章とふたりの短かい応答が掲載されました。
- 「未知・反実・虚構」 kugyo
- 「@shoukou5に関する可能説」 at_akada
- 「結局@shoukou5合計何人だ?」kugyoの応答
- 「反事実的存在仮定説」at_akadaの応答
論点のまとめも用意してあります。
@pubkugyo論点まとめ
- 可能説と虚構説との対立は本物の問題である
- 可能説内部には未知説と反実説との区別がある
- 可能な@shoukou5という説明はtwitterアカウントの説明として不適格
@at_akada論点まとめ
- 可能的対象に対する謝罪は成立する
- @pubkugyoは可能な@shoukou5に謝罪すべきである
- 可能な@shoukou5に謝罪すべき状況であるのに、虚構の@shoukou5に謝罪するのは奇妙である
@pubkugyoによる対論まとめ
- 可能的対象に対する謝罪も成立する
- 謝罪する相手が複数になるような議論はやはり受け入れがたい
@at_akada反論を受けて
- 可能的対象の人数の問題は、可能的対象についての語りを、前件が存在命題の反事実的条件文と捉えれば解決する
- 可能な@shoukou5についての語りは複数の世界の複数の対象に言及するが、いずれの可能世界でもただ一つの@shoukou5だけに言及する
ここには、わたしからの応答文である「反事実的存在仮定説」ロングバージョンを掲載するところからはじめたいと思います。
■ 反事実的存在仮定説
@pubkugyoさんの言葉で言えば、わたしの立論は「未知説」に分類されるものです。未知説をとった上で、可能な人物への謝罪が成立すると見なすことがポイントになっています。
これに対し、@pubkugyoさんの反論は、大きく以下の2つに分類されるかと思います。
(1)現に存在するアカウントとの整合性
(2)可能な人物の人数の問題
これらの内(1)が致命的な問題とは思いません。悪事が発生し、謝罪が成立するのは、単に相手に害を為しただけではなく、その危害が正当化されていない場合であると考えます。たとえば未来のある時点に「@pubkugyo」というアカウントが別人によって使用されるようになったケースを考えてみましょう。その場合にも未来の@pubkugyoさんは、過去の@pubkugyoさんへの紛らわしい言及によって害を受けることがありえます。しかし、これに対する謝罪は必要とされません。なぜなら、現在の時点には別の@pubkugyoさんが存在し、私の@pubkugyoへの言及は、現在の@pubkugyoさんへ伝えることを意図したものであるという理由によって、正当化されています。この場合、害は存在しますが、正当化によって害が悪事ではなくなっていると判断します。一方、@pubkugyoさんの@shoukou5さんへの言及は、単純なタイプミスによるものであり、正当化されていません。よって、現に存在するアカウントとの不整合は、様相の違いによるものではなく、リプライを送った際の理由の違いによるものであると主張します。
一方(2)はきわめて難しい問題を提起しています。こちらは最初の論考でも問題となった論点です(注 一)。
可能的対象の同一性は古くからある哲学の問題の一つです。しかし幸運にも私は、この問題に対する一つの解答をすでに思いついています。私の理論は、紙幅の都合上不十分な説明しか与えられませんし、多くの部分が未完成に留まっていることを認めます。しかし、あえて理論を提出する野蛮の方が、謙虚さよりも対話を生産的なものにすると信じます。
@shoukou5の数が問題を引き起すのは、どちらももっともらしく思える以下の2つの直観が対立するからです。
(1)@pubkugyoが語りかけ、われわれが言及している@shoukou5はただ1人の可能的な対象である。
(2)@shoukou5に該当する人物は複数想定できる。
私は、この2つの見かけ上の対立は、適切なパラフレーズをほどこすことによって、語法の問題に還元できるだろうと考えています。
まずわれわれが可能的対象について語るとき、ただ一つの対象を指しているとしか思えない場合があることを確認しておきたいと思います。
現在の@shoukou5のケースに少し似た以下のケースを考えてみましょう。
- 時点1
私が友人のK夫妻と、2人の間に将来生まれてくる子どもについて話している。2人はこれから生まれてくる子どもが女の子だったら「祥子」という名前を付けたいと話す。夫妻はこの時点ではまだ妊娠していない。
- 時点2
およそ一年後、子どもは実際に生まれ、実際に「祥子」と名付けられる。
- 時点3
子どもの誕生後、生まれてきた子どもに対面した私に、友人は「この子があのとき話していた子どもだよ」と語る。
時点3に、「あのとき話していた子どもだよ」と語る友人Kは、時点1には「可能な子ども」でしかなかった祥子と、時点3における「現実の子ども」祥子との同一性を主張しているように見えます。
私はこの友人の発言が文字通りの真理であることを認めたいと思います。時点1の可能的対象である祥子は、時点2に現実性を獲得し、現実の子どもになったと考えます。
もちろん時点1の可能的対象と時点2や時点3の現実の対象は異なった性質を例化しますから、厳密に同一の対象ではありえないでしょう。しかしそれは、同一の人物が異なる時点に異なる性質を例化しうるという慣時間的な同一性の問題のバリエーションにすぎず、可能的対象に特有の問題ではありません。ともに現実的な対象である時点2と時点3の祥子も、異なった性質を例化するでしょう。われわれはたとえば四次元主義的な解決を採用し、時点1の「可能な祥子」と時点2の「現実の祥子」は、祥子という同一の人物の異なる時間的部分だと言えば済むことです。可能的対象の問題はもっと別のところにあります。
問題は、時点1には、どの祥子が生まれてくるかがわからない点にあります。たとえば、異なる精子と卵子の組み合わせからは異なる人物が生まれてくると仮定しましょう。時点2の現実の祥子を生み出したものを精子a、卵子aと名付けるとすると、われわれは精子b、卵子bから生まれてくる別の祥子を想像することができます。時点1の段階で、将来に祥子a(精子a+卵子a)が生まれてくるのか、それとも祥子b(精子b+卵子b)が生まれてくるのかを知る方法はありません。「異なる精子と卵子の組み合わせからは異なる人物が生まれてくる」という仮定が強すぎると見なすならば、これを「誕生日が1月ずれると異なる人物が生まれてくる」という仮定に変えてもかまいません。1月10日に生まれる祥子を祥子a、2月10日に生まれる祥子を祥子bと名付けるとすると、やはり時点1の段階では、将来に祥子aと祥子bのいずれが生まれてくるかを決定する方法はありません。

話を単純化するため、想定される未来がa, b, c, d, eの5つしかないと仮定しましょう(図参照)。祥子aから祥子eは異なる精子卵子あるいは異なる誕生日を持った異なる人物です。またここでは、生まれてくる子どもが双子である場合や三つ子である場合は、考えないものとします。
時点1に未来の可能な祥子の話をしていたとき、われわれは5人の祥子(すなわち祥子5)について話していたのでしょうか、それとも祥子a, 祥子b, 祥子c, 祥子d, 祥子eのいずれかについて話していたのでしょうか。
祥子a, 祥子b, 祥子c, 祥子d, 祥子eのいずれか1つについて話していたわけではありません。私と友人Kはどの祥子が現実化するか知るすべがありませんし、ここで1人の祥子だけを特権化する理由はどこにも無いからです。この際私は「可能的対象とは、いずれか1つの可能世界に存在する具体的な対象のことである」というしばしば見られる前提を疑っています。少なくとも、可能的対象についての語りの内のいくつかは、それとは異なったものだろうと考えます。
さらに、いかなる意味でも5人の祥子について話していたわけではありません。われわれはただ1人の祥子について話していたのであって、5人の祥子が属する集合について話していたわけではありません。たとえば、時点1に私が「祥子はきっと美人になるだろう」と言う場合、私は5人の祥子の集合が美人になるだろうと述べたわけではありません。
ただし、祥子aから祥子eまでのいずれもが私と友人によって言及されたことになるという直観は正しく思えます。未来aを考えると、時点2に祥子aが現実化したとき、祥子aは、時点1に私によって言及されたという関係を例化します。未来bにおける祥子bも同様に、私によって言及されたという関係を例化するでしょう。このことは、時点1の可能な祥子と、時点2時点3の現実の祥子が同一の対象であるという先の主張から帰結します。
以上を踏まえ、私は以下の直観を提示したいと思います。
直観I: 私と友人は、「友人に女の子が生まれたら」という反事実的仮定のもとで、当の対象について話している。
それほど丁寧には論じられませんが、この直観によって問題は解決されるだろうと考えます(以下はLewis[1973, 1986]の反事実的条件文の分析、およびLewis[1993]の超付値による解決にヒントを得ています)。
デイヴィド・ルイスの分析に従い、反事実的条件文は、可変的な厳密条件文であるとしましょう。ルイス流の方法では、反事実的条件文は可能世界の集合(圏域[sphere])への量化によって真理条件を与えられます。
S1: ∃xφx □→ ∀y(φy→ψy)
(もし仮にφxところのxが存在するならば、それに該当するものはψだろう)
上の反事実的条件式が空虚でなく真であるのは、以下の場合かつ以下の場合のみです。
- ある可能世界の圏域Sが存在し、Sの中の∃xφxが真であるすべての世界で、∀y(φy⊃ψy)も真である
以上が意味するのは、ある範囲の可能世界の集合の中では、φxを充足する対象が存在するなら、φxを充足する対象はすべてψxも充足するだろうということです。以上の定式化は、私の直観(1)、すなわち「ある種の対象が存在するという反事実的仮定のもとで、当の対象について語る」ことを許すように思えます。
上のケースに適用してみましょう。「祥子は美人だろう」という語りは以下のように分析されます。
S2: ∃xSx □→ ∀y(Sy→By)
「もし仮にK夫妻の娘であり、時点1からおよそ一年後に生まれ、祥子という名前を持つxが存在したならば、それに該当するすべてのyは美人だろう」
祥子がただ1人しか存在しないという条件を付け加えたい場合は反事実的条件法の前件を確定記述句に変えればよいはずです。
∃x(Sx∧∀y(Sy→x=y)) □→ ∀z(Sz→Bz)
「もし仮にK夫妻の娘であり、時点1からおよそ一年後に生まれ、祥子という名前を持つただ1つのxが存在したならば、それに該当するすべてのzは美人だろう」
可能な祥子についてのすべての語りを同様にパラフレーズすることができるでしょう。まず祥子という語句をすべて変数zに置き換え、次に置き換え後の文を以下の「...」の箇所に代入することでわれわれは望みの文を手に入れることができます。
S2-1: ∃x(Sx∧∀y(Sy→x=y)) □→ ∀z(Sz→...)
この際後件の変項は非常に複雑なふるまいをとります。複数の世界の複数の対象が後件の変数を充足するのですが、対象のドメインは前件の仮定と想定される可能性の範囲によって限定されています。
こうした文の中で、われわれは、ある意味では複数の世界と複数の対象について語っています。しかしわれわれが語るいかなる対象も、それぞれの世界の中では曖昧でなく限定されています(多くの場合はただ1人です)。ここで反事実的条件法の後件に同一性記号(=)を置くことも許されるでしょう。可能的対象の同一性に関する混乱した印象は、この文脈に置き直してみることで取り払われるのではないかというのが私のアイデアです。複数の対象について語っているが、そのつどただ1人の対象だけについて語っているという可能的対象の奇妙さは、平凡な反事実的条件文の語法に回収されているように見えます。
この際可能な祥子について語ることは、祥子aから祥子eまでのすべての祥子(あるいはその部分集合)のいずれもが例化する性質や関係について語ることに他なりません。わたしは、このことこそが未知の対象について語るときにわれわれが語っていることであると考えます。
@shoukou5問題の解決に向いましょう。
「@shoukou5はただ1つ存在する」という主張は以下のように分析されます。
S3-1: ∃xSx □→ ∀y(Sy→∀z(Sz→y=z))
「もし仮にshoukou5というTwitterアカウントが存在するならば、shoukou5というTwitterアカウントはただ1つ存在する」
あるいは
S3-2: ∃x(Sx∧∀y(Sy→x=y)) □→ ∀z(Sz→∀q(Sq→z=q))
「もし仮にshoukou5というTwitterアカウントがただ1つ存在するなら、shoukou5というTwitterアカウントはただ1つ存在する」
S3-2は自明に真です。shoukou5についての反事実的な仮定として、「shoukou5はただ1つ存在する」という仮定をもしもわれわれが立てていたならば、shoukou5というアカウントがただ1つであることは瑣末に帰結するでしょう。
一方S3-1は、shoukou5という名前のアカウントがTwitter上に存在するとしてもそれはただ1つしか存在しないだろうということを述べています。Twitterのシステムは同名のアカウントが2つ存在することを許しませんから、異常なバグなどを想定しないかぎり後件は真でしょう。「Twitterには同名のアカウントは2つ存在しない」ことを一種の法則的な事実と見なせばこの反事実的条件文も真となります。
私はS3-1とS3-2のどちらかが、可能な@shoukou5はただ一つしか存在しないという主張が述べることであると考えます。わたしは、このどちらも真だろうと判断します。
なおここでは2人以上の人間が共同で1つのアカウントを使う可能性は想定していません。しかしそういうケースは十分にありえますし、現に現在shoukou5のアカウントはわれわれ2人が連絡用に使用しています。この可能性に言及しなかったのは、仮に2人以上の人間が共同で使用していたとしても、「謝罪すべきである」という論点にも、「謝罪できる」という論点にも影響しないからです。共同で使用されているアカウントであったとしても誤言及した場合は謝罪すべきであるという点に違いが生じるとは思いません。
@pubkugyoは@shoukou5に謝罪すべきであるという主張は以下のように分析されます。
S4: ∃xSx □→ ∀y(Sy→Apy)
「もし仮にshoukou5というTwitterアカウントが存在するならば、@pubkugyoはshoukou5というTwitterアカウントに謝罪すべきである」
後件のSy、すなわち可能な@shoukou5は、複数の世界にいる複数の個体でありえますが、しかしいずれの世界においても曖昧ではありません。私はS4は真だろうと判断します。
謝罪の言葉はおおよそ以下のようになるでしょう。
S5: もし仮にshoukou5というTwitterアカウントが存在するならば、私はshoukou5というTwitterアカウントの使用者に謝罪する
この謝罪の言葉はいささか奇妙ですが、それは表面だけのものだと考えます。たとえば「もし仮に私の言葉を不快に思うものがいれば、謝罪する」という言い方は反事実的条件法を利用していますが、その謝罪におかしなところがあるとは思いません。反事実的な存在仮定の下で当の対象に対し謝罪することは、依然として可能であり、われわれが日常的に行なっていることの1つであると見なします。
Lewis, David, 1973, 1986, Counterfactuals, Basil Blackwell.(デイヴィド・ルイス, 吉満昭宏訳, 2007, 『反事実的条件法』, 勁草書房)
Lewis, David, 1993, "Many, but Almost One", (デイヴィド・ルイス、「たくさんだけどほとんど1つ」、『現代形而上学論文集』, 勁草書房)
Quine, W.V., 1980 "On What There Is" in From a Logical Point Of View, Harvard University Press.(クワイン、飯田隆訳『論理的観点から』, 1992, 勁草書房)
告知遅れてごめんなさい。
第八回文学フリマ参加します。
といっても新刊はありません。
旧刊を売ります。
- 日時: 2009年 5月10日(日) 11:00から16:00
- 場所: 大田区産業プラザPiO(京浜急行本線 京急蒲田駅 徒歩 3分、JR京浜東北線 蒲田駅 徒歩13分)
- ブース: B01
紹介は以下

前回コミティアに共同で参加したreoponは今回は新作の小説を売るそうです。個人的にはそれが楽しみですね。
あとTwitter本に寄稿しました。
http://twitter.g.hatena.ne.jp/sakstyle/20090429/1240992769
id:kugyoさんと論争をしています。
@shoukou5さんという、kugyoさんがまちがえて呼びかけた(非存在の)方がいらっしゃるのですが(基底的な意味ではいないのですが)、@shoukou5さんは虚構的対象なのか、それとも可能的対象なのか、というきわめてアクチュアルかつシリアスな議論にとりくみました。
@shoukou5とは、二○○九年一月一三日にTwitter上で@pubkugyoが@shokou5と間違えて言及したアカウントである。当時 Twitter上には@shoukou5というアカウントは存在しなかった。@pubkugyoは、@shoukou5に「誤って呼び出して」しまったことを謝罪し、@shoukou5は虚構的対象であると主張した。一方、@at_akadaは@shoukou5は虚構的対象ではなく可能的対象であると反論した。可能的対象とは存在しうる、あるいは存在しえた対象のことであり、虚構的対象とは虚構に登場する対象のことである。このような重要な意見の対立があった以上、われわれは盛大にMetaphysical Partyを開催し、決着をつけるべきだろう。
■ 仕事
いそがしい。ブログ放置してすいません。
楽勝ぶってたけど、最近激しくいそがしくてわたわたしてます。
デスマーチでチーム全員ひいひい言ってるのはともかく、なぜかわたしはデスマーチに加えていくつかプロジェクトを兼任してるんだけど、どういうことなの?
しかし、「早くこのサービスを表に出したい」と念じながらやってるので、わりと充実してる感。
■ 勉強
いそがしくてもなぜか勉強する時間はある。電車のなかなどで論文を読んでいる。
もともとわたしは学生時代は英語が苦手だったのだが、最近は英語論文に対する忌避感がまったく無くなってきており、もこもこと英語を読んでいる。英語力がさほど変わったわけでもないので、変わったのは意識の問題だと思われる。
何を読んでいるかというと、可能的対象の問題と、あいまいな指示の問題について、ちょっと真面目に調べてみようと思いたち、その辺りを中心にちょっとずつ興味のあるものを読んでいます。哲学を本格的な趣味にしてもいいなーと最近ようやく思えてきたので、がんばって勉強しています。
せめて読んだものをメモしておくくらいはしたいんだけど、アウトプットの時間がない。
最近読んだこれはおもしろかったです。
Williamson, Timoty "Vagueness In Reality"
in:
■ 私生活
人に会ったらうつなのと聞かれ、言われてるうちにうつなんじゃないかと思って本当に心配になってきたのだが、やっぱりうつではない気がしてきた。
ひょっとしたらうつではないかと思ったのは、前の日にうっかりミスが多かった、唐突に人に会いに行った、次の日だるくて何もする気がしなかったなどの理由によるのだけど、思いあたることはそれくらいしかなく、さらによく考えると前の日うっかりミスが多かったのは眠かったせいだし、だるくて何もする気がしなかったのはたまにあることの上にご飯を食べたら回復したし、人に会いに行くのは単に会いたかったからじゃないかと思えてきた。一応心配してうつ病チェックリストを試したらひとつも当てはまらなかったし...。いそがしくて少し疲れているのは事実なので、もう少し様子を見ようと思います。
とりあえず読んだので記事を書く準備をする。
内容はこれから。
様相次元主義(modal dimensionalism)というのがでてくる。何かと思ったら、宇宙には時空にかかわる四次元にくわえて、様相の次元があるという説らしい。
「Ω ΩΩ< な、なんだってー!!」聞いた瞬間にそれは無いだろうと思った。その後しばらく考え、「待てよ、時制論理というのもあるし、時間と様相は似てる。だから様相を次元と見なすこともできるのか?」と思ったが、すぐまた「やっぱ無いわー」と思った。
目次
- それは何?
- 可能世界
- 可能主義実在論
- 対応者理論
- 様相次元主義
- 同一性問題
- 現実主義表象論
- 入れ子問題
- 本質による解決
- 可能主義実在論
- 可能世界以外
- 存立 vs. 存在
- 非存在対象の理論
- エンコーディングの理論
- 存立 vs. 存在
- ユニコーン
- 虚構的対象
- 量化様相論理
立場
- 1. U ⊆ A∩E (すべての対象は現実的であり存在する)
- 2. U ⊆ A (すべての対象は現実的だが、存在するものとしないものがある)
- 3. U ⊆ E (すべての対象は存在するが、現実的なものと現実的でないものがある): 可能主義
- 4. A ⊆ E (現実的なものはすべて存在する)
- 5. E ⊆ A (存在するものはすべて現実的である) : 現実主義
| 派閥 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
|---|---|---|---|---|---|
| 可能主義 | × | × | ○ | ○ | × |
| 様相次元主義 | × | × | ○ | ○ | × |
| 現実主義 | ○ | × | × | ○ | ○ |
| マイノング主義 | × | × | × | ○ | ○ |
