■ 前置き
架空の裁判状況を考えましょう。
裁判官がわたしに質問します。「5月12日の午後7時頃、確かにその男を東京で見たのか」と。
「見た」とわたしは答えますが、裁判官はさらに疑いの念を向けてきます。
「本当は夢で見たのではありませんか? そのとき自分が見ていたものが夢でないと確認することができますか?」と。わたしは何と答ええるべきかわからなくなって沈黙します。
現実の裁判で裁判官が夢の可能性について疑いはじめることがどれだけあるのかわかりませんが、『インセプション』のなかでなら、「これは夢かもしれない」という疑いはありふれたものです。日常的な状況で「それは夢だったかもしれない」と言うことは哲学的なジョーク以上のものではないかもしれませんが、『インセプション』のような状況に置かれれば、われわれはまったく自然に「これは夢かもしれない」と疑います。哲学的疑問「これは夢かもしれない」と『インセプション』的状況における疑問「これは夢かもしれない」の違いは、もしそういう違いがあるとすれば、致命的なものです。
http://wwws.warnerbros.co.jp/inception/mainsite/
話題の映画、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』を観ました。
以下はネタバレを含むので、まだ観ていない人は、まず映画を観に行きましょう。おすすめです。
『インセプション』はとても手の込んだエンターテイメント作品です。「夢のなかで夢を見る」みたいなややこしい話がちゃんとしたハリウッド映画になるなんて、この映画を観るまではちょっと想像できないんじゃないかと思います。
この映画は「夢と現実の区別」という特別にややこしいテーマを扱っています。映画のなかでコブ(デカプリオ)やアリアドネ(エレン・ペイジ)は、自分が夢にいるのか現実にいるのかを知るためにいろいろな工夫をこらします。コマの形の「トーテム」や「パラドックス(だまし絵)」を利用するシーンが印象的です。
「これは夢じゃないのか?」という問題は、17世紀にデカルトという哲学者が考えた有名な問題でした。この問題の起源は古くはプラトンにまで遡るそうですが、デカルトが集中的に扱って以来数百年、「夢」の問題は哲学のホットトピックでありつづけました。現在でもまだ、精力的にこの問題を扱っている哲学者は絶えません(若干嘘かも)。
「これは夢じゃないのか?」問題は、懐疑論や外の世界の知識といったテーマとの関連で重要になります。かつてデカルトが問題にした論証は、夢論証[dream argument]と呼ばれます。この論証では、なんと「われわれを取り巻く物理世界について、われわれは何も知らない」という超破壊的な結論が導かれてしまいます。
単純に言って、わたしは今、自分がネットブックを前にしてキーボードを叩いていると思っているし、思っているだけではなく、そう知っていると考えています。ところがこの論証は、「それは嘘だ」「そんなことは知らないはずだ」と主張します。
「この世の中に確かなものなんて何もない」と言えば、何らかの教訓がありそうにも思えますが、懐疑論は人生に対する教訓を唱えているわけではありません。そうではなく、哲学的懐疑論は、日常目にするまわりのものについて、すべての人は何も知らないと主張します。しかも、「彼女はニューヨークについて何も知らない」などというのと同じ、まったく日常的な意味で何も知らないと主張します。
■ 本
懐疑論と夢の論証については日本語でも以下のような本が読めます。
大部な上に細かいですが、説明は丁寧だし文章はわりとわかりやすいと思います。根気があれば読める本です。
- ルネ・デカルト『省察 (ちくま学芸文庫)』
デカルトのオリジナルはこちら。
- 戸田山和久『知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)』
夢論証についてはそれほどページを割いていませんが、知識の哲学と懐疑主義について丁寧かつわかりやすく解説しており、「懐疑主義について考える」ということがどういうことなのか理解するたすけになると思います。
■ 夢論証
夢論証のような歴史ある厄介な問題を紹介するのは大変ですが、簡単な紹介を試みてみましょう。
基本的なストーリーは以下のようなものです。
夢論証
- (1)われわれがまわりの世界について何かを知るためには、われわれは自分が夢を見ているのではないと知る必要がある。
- (2)われわれが夢を見ているのではないと知ることはできない。
- 結論: われわれはまわりの世界について何も知らない。
基本的には、「もし夢を見ているのだとすれば、『わたしがネットブックのキーボードを打っている』などなどの信念はすべて知識ではない。夢を見ているという可能性が退けられないかぎり、知識を持つことはできない。しかし夢を見ているという可能性を退けることはできないのだから、やっぱり知識を持つことはできないのだ...」ということです。
よく似た議論である「培養槽のなかの脳[Brain in a vat]」や「欺く神(全能の悪霊)[Dieu Trompeur]」について聞いたことがある人もいるでしょう。
形式はどれもよく似ており、知識の必要条件として、「われわれは今夢を見ているのではない」「われわれは培養槽のなかの脳ではない」「われわれは全能の悪霊にだまされているわけではない」...などの知識を要求します。この要求には、「しかしこの必要条件は満たされない」という不可能の判定がつづき、最終的には大部分の知識が成立しないというグローバルな懐疑論に到達します。戸田山和久さんは、前述の本のなかで、この形式の議論を「懐疑の水増し戦略」と呼んでいました。もっともらしく思われた小さな疑いを、グローバルな懐疑にまで発展させるからです。
ただし、似ているのは形式だけで、細かい対処法や性格は個々の議論ごとに異なります。夢論証であれば、「夢」というものに対する捉え方が議論の成否に強い影響を及ぼします。
私見では、いずれに論証においても、懐疑主義者は次の二点の要求に答えなければなりません。
(i)懐疑主義者の論証に現われる「知っている」は、日常的な「知っている」と重要な点で似通ってなければならない。
(ii)懐疑主義者が提案するシナリオは、十分にありそうなものでなければならない。
(i)が必要なのは、こういうことです。もし懐疑主義の言う「知識の不可能」が、ものすごく特殊な意味での「知っている」概念に基づくなら、そもそも問題はそんなに深刻ではありません。「人間は存在しない」と言われればびっくりしますが、「ここで言う人間というのは100メートルを5秒以内で走り、100か国語を話すようなもののことだ」と言われれば別の意味でしかびっくりしません。
こうした意味で、懐疑主義者の提案する
- 外側の世界について、何かを知るためには、自分が夢を見ているのではないことを知らなければならない
- 外側の世界について、何かを知るためには、自分が培養槽のなかの脳ではないことを知らなければならない
などの主張は、それが「(日常的な意味での)知識に対する一般的条件として妥当なものか」という観点で厳しく精査されなければなりません。一方、「培養槽のなかの脳」や「全能の悪霊」などのシナリオは、しばしば「その可能性はあまりに突飛なので、知識を持つためにそんなおかしな可能性を排除する必要はない」という批判を受けます。要するに、実現している確率がほとんどない選択肢は、あらためて排除する必要もないかもしれません。
夢論証のアドバンテージは、夢を見ているという可能性がありふれたものであることです。われわれは一日のうちの半分近くは寝ているわけですから、「これは夢かもしれない」という選択肢は、全能の悪霊にだまされて変な幻覚を見せられているという可能性よりは、はるかにありそうなものに思えます。
■ 『インセプション』と夢論証
ようやく本題に入ります。
夢論証のアドバンテージは、夢を見ているというシナリオが現実に「近い」ことです。一方、『インセプション』は、夢を見ている可能性が、これまでよりもさらに「近く」なった状況を描いています。
ということは、次のように言えないでしょうか。
『インセプション』のような状況でさえ、夢の可能性を否定できるならば、夢論証の前提「夢ではないと知ることはできない」は否定されてよい。
『インセプション』的状況は、夢の確率がふつうより高い状況です。確率がふつうより高い状況でさえ、夢と現実の区別がつくならば、夢の確率がより低いわれわれの日常においては、さらに簡単に夢を見ている可能性を否定できるのではないでしょうか。
『インセプション』には、夢と現実を区別するたくさんの方法が登場します。
- カーペットの材質(映画の冒頭で、サイトウはカーペットの材質が現実とちがうことをきっかけに、「これは夢である」と気がつきます)。
- 記憶をたどる(コブがアリアドネに教えたように、夢のなかではしばしば「どうしてここにいるのか」という記憶の連続性が途絶えます)。
- トーテム(夢は現実の物理法則を正確に再現しないので、手触りや重みや動きを正確に覚えている物であれば違いに気がつきやすい)。
- パラドックス(夢のなかでは、エッシャーの階段のような不可能な構造物が実現する)。
これらの内、「記憶をたどる」とかトーテムを利用する方法は現実にも適用できるように思います。
冒頭にかかげたような問い「そのときあなたは夢のなかにいたのではないか?」を向けられたとしても、『インセプション』の登場人物ならば、いろいろな証拠をあげて、「夢のなかにいたのではない」と答えることができるはずです。「トーテムを確認した」だけでも答えとしては十分かもしれません。何より、われわれはごく自然に「サイトウは夢のなかにいることを知った」とか「モルは自分が夢のなかにいるという知識を忘れようとした」と言うことができるでしょう*。
同様に『インセプション』のなかでも、区別できない場合があることは、それほど問題にならないと思います。おそらく夢のなかで50年すごした際のサイトウは、夢と現実を区別できない状況にあったでしょうが、「区別できる場合が多い」だけでも夢論証への反論としては十分です。
つまり、わたしは次のように考えます。
『インセプション』に現われる夢と現実を区別する方法は、デカルトの夢論証に対し、きちんとした反例となっている。
馬鹿げていると思うかもしれませんが、「夢と現実を区別する方法はある」という立場に基づいて夢論証に反論する人はそれなりに存在します。
たとえばJ.L.オースティンは、小説や絵画に対して「夢のよう」などとよく言われるように、「夢らしい質感」というものがあるので、夢と現実はだいぶ印象が異なっており、区別できると主張しています(J.L.オースティン『知覚の言語―センスとセンシビリア』)。
それに対して、「いや、それでも夢の可能性は否定できない。トーテムを確認しても間違えるかもしれない」と反論するならば、夢論証の支持者にとって状況はもっと悪くなるかもしれません。先述した「懐疑主義者への要求」
(i)懐疑主義者の論証に現われる「知っている」は、日常的な「知っている」と重要な点で似通ってなければならない。
が満たされなくなるからです。つまり、われわれがごく自然にモルやサイトウの「知識」に言及するにもかかわらず、あくまでも「それは知識ではない」「本当は知らない」と主張するなら、懐疑主義者の言う「知識」は日常的な意味での知識ではないと疑われてしかるべきです(あるいはこのとき懐疑主義者は「錯覚論証」という別の論証に移行しています)。
最初に述べたように、ひょっとするとわれわれは、哲学的疑問「これは夢かもしれない」と、『インセプション』的状況における疑問「これは夢かもしれない」を違う種類の疑問だと受け取るかもしれません。しかし、もしもその2つに違いがあるとすれば、その違いは、懐疑主義者にとって、致命的なものになりかねないでしょう。一方もし違いがないとすれば、われわれはまさに『インセプション』の登場人物がしたように、夢と現実の違いを確かめればよいことになります。
以下、補足や反論に対するコメントなどをここに書いていこうかなーと思いました。
世界にたった一つしか無いものは「大きい」とも言えるし「小さい」とも言える。絶対的な価値はその意味を失うと思うよ。
http://b.hatena.ne.jp/steam_heart/20100525#bookmark-21779105
id:steam_heart さんから、はてブでこういうコメントを頂きました。
これ、シンプルな反論だけど、ちょっと答えてみたくなったので答えます。
世界にたった一つしか無いものは「大きい」とも言えるし「小さい」とも言える。
これはおそらく「宇宙」という種類のものは1つしかないということですよね。
とりあえずものの種類は置いておいて、ものを1つだけ含む集合について考えてみましょう。
「at_akada 一人だけを含む集合で、at_akada は大きいか、そうではないか?」
「この蟻一匹だけを含む集合で、この蟻は大きいか、そうではないか?」
この質問には答えがありそうにありません。「大きい」という形容詞は、ものを複数含む集合を前にしたときしか使えないようです(ちらっと書いたけど、複数であるという条件と、差が分散しているという条件が必要です)。
よって「宇宙は大きいか」というのが、「宇宙1つだけを含む集合のなかで、宇宙は大きいか」という意味であれば答えはありません。
となると問題は、「宇宙」に対して「大きい」という形容詞を適用する際に、ターゲットとなる集合は同じ種類のものだけからなる集合(この場合だと宇宙は1つしかないので、この宇宙1つだけを含む集合)でなければならないのかという点です。
しかし、「大きい」のターゲットとなる集合は、同じ種類のものからなる集合だけとはかぎりません。
前の記事でも、「大きい」は物の種類と相性がよいと書きましたが、それはデフォルトの解釈で同じ種類の対象の集合が選ばれるというだけであって、もっと違う風に使うこともできます。
たとえば「...と比べれば」という表現を導入すると、新しい文脈を創造できるようになります。
木星はマグロと比べれば大きい。
パンダは食パンと比べれ大きい。
どっちも、正しいように聞こえますし、まったく意味のない文にも見えません。しかし木星とマグロ、パンダと食パンは別に何らかの共通の種に属するというわけではないでしょう。
こういう現象を見ると、「大きい」の適用ターゲットとなる集合にはほとんど制限がないのではないかと思います。実際、「これとこれとこれを含む集合のなかでは、これが大きい」って言えますし。
なので「宇宙はあらゆるもののなかで大きい」という表現は実際に使えるし、真だろうと思ったわけです。
宇宙という種類のものが1つしかないことは、特に障害とはならないでしょう。
■ ブログへのコメント
このブログのコメント欄見づらいのでこっちにも載せます。宇宙の大きさは無限という人は結構いるようです。
# minori 『
「包み込みの原理」についてちょっと疑問に思ったのですが、直感的にみてxがyより大きいにもかかわらず、yがポップコーンみたいに膨張したり、あるいはビローンと伸びたりしてxを包み込んでしまう、というようなケースに関して、この原理は「ビローンと伸ばすのは禁止」といった条項を含んだものとして理解すべきだということなのでしょうか。
それからまた、部分-全体に関係の論理としてのメレオロジーにおいては、「大きさ」の概念についてはせいぜい「部分は、それを含む全体より大きくはない」ということが言える程度だと思うので、「包み込みの原理」はメレオロジーとはまた独立したものとして考えるべきなのではないかとも思うのですが。
』 (2010/05/26 3:18)
# ま きや 『
あんまり本筋と関係ない気もするが宇宙のことには突っ込まずにはいられない。
>現在観測されている限界を宇宙の限界とし、その外には何も
>ないとする仮説には、一応は観察に基づいた根拠がある。
この"観察に基づいた根拠"って具体的になにがあるのでしょう。
観測限界はただの観測限界にすぎず、その外がどうなっているかは誰にもわからないのではないでしょうか。
>一方、宇宙に無限の大きさがあるという仮説には、特に何の根
>拠も理由もない。
現在の宇宙物理学的には「宇宙は無限の大きさをもつ」となっている(と思う)。
大雑把にいうと、
まず観測事実として地球から見て大スケールでは宇宙は一様等方である(空のどの方向をみても特別な方向がない)。
- >地球がたまたま宇宙の中心にあればこの事を説明できるが、それは不自然。むしろ、宇宙に中心はなく、どの点から見ても一様等方とした方が自然である。
- >宇宙には中心がない。端もない。
- >宇宙は無限大。
という感じ。
「宇宙は一様等方で、特別な場所を持たない」という考えは宇宙原理と呼ばれていて、現代の標準的な宇宙論はこの仮説に基づいて構築されています。
>宇宙が無限の大きさを持つのであれば、無限の大きさを持
>つものに「大きい」という形容はあてはまらないから、大
>きいものはないのである。
ここがよくわからなかった。
無限の大きさをもつものは、それ自身以外のあらゆるものを包み込めるはずで、「大きい」と形容してもいいのでは、と思いました。
>わたしが知らないだけで、宇宙に無限の広さがあるという
>仮説が広く受け入れられているのであればあやまりたい
というわけで謝って下さい。
』 (2010/05/26 17:19)
# at-akada 『
>minori さん
素敵なコメントをありがとうございます。
ビローンと伸びるケースについては単に考えてませんでした。そういう条項は必要ですね。メレオロジーについては、移動をどう定義すべきか悩んだので、もう少し勉強した方がいいなと思ったのでした。
> まきや
とりあえず謝ります。すいません。
で、ほんとによくわからないのだけど、宇宙って無限なの?
- >地球がたまたま宇宙の中心にあればこの事を説明できるが、それは不自然。むしろ、宇宙に中心はなく、どの点から見ても一様等方とした方が自然である。
- >宇宙には中心がない。端もない。
- >宇宙は無限大。
そうなのか。。
』 (2010/05/26 20:15)
# http://www.hatena.ne.jp/kugyo/ 『
こんにちは。楽しく拝読いたしました。3点、思いついたことを書きます。
1点めに、宇宙の大きさについては、私もそれほど詳しくないのですが、宇宙が観測限界よりも十分大きければ、宇宙のなかの多くの場所にとって、そこからの観測範囲は一様になってていいので、地球もその多くの場所の1つであって何の不思議もないと思います。
宇宙→ (×○○○○×)
観測限界を1マスとして、こういうモデルを考えると、×以外の全ての場所で、宇宙には端などないように見えるはずで、確率的にいって、地球が×のような特殊な場所にある可能性はとても低かったはずですから。
乏しい知識から申しますと、宇宙が一様等方であると見なされる理由には、宇宙背景放射の一様性があったと思うのですが、あれも微小なゆらぎがある(方向によって偏りがある)ので、その偏りから宇宙の大きさを推定するのかな、と想像していました。
2点めに、空間の体積は、長さ同様慣性系のとりかたに相対的ではないか、ということを考えました。しかし、この場合でもやはり、宇宙は最大の大きさを持つといえそうです。これは、どのように慣性系をとっても、同じ空間を占める2つのものが別の長さになることはないためです(ここでの「占める」はとてもラフな言いかたですが)。
鉄球と、それを実際に(隙間なく)包んでいる風船とを考えます。このとき、どのように慣性系をとって観測しようと、鉄球の直径が風船の直径より長くなることはないはずです(2つの直径は同様に変化するので)。同様に、どのように慣性系をとったとしても、宇宙のなかのものが宇宙より大きくなることはないように思います。
3点めに、「宇宙の3倍の大きさ」のような抽象概念には大きさがあるかどうか、という論点については、態度を決めかねています。もちろん、問題なのは抽象概念それ自体の大きさではなく、その指示対象の大きさだと思いますが。ここで、時空的関係を持たない2つの宇宙があったとして、これらの大きさの合計を持つもの、というのは、この2つの宇宙をあわせた世界に存在することになるでしょうか。
「存在する黄金の山」という抽象概念について、そういう概念の指示対象は、存在するという性質を持たない(存在は性質でない)という解決と同様に考えては解決できないかもしれないな、と思っています。
以上です。
』 (2010/05/27 6:39)
# at-akada 『
pubkugyoさん、コメントありがとう
>2点目
それは少しだけ考えました。実際体積が慣性系に相対的だとしても、「より大きい」という関係の順序が変化しないかぎりは問題ないと思います。
>3点目
これはちょっとよくわからなかった。
「問題なのは抽象概念それ自体の大きさではなく、その指示対象の大きさだと思いますが。」
これはその通りだと思います。
しかし「宇宙の三倍の大きさを持つもの」が(たとえば)記述句だとすると、その指示対象は存在しないので、やはり大きさは持たないだろうと思います。言い方を変えると「宇宙の3倍の大きさを持つもの」という思考対象が、【実際に宇宙より大きい】という事態が成立するためには、「その思考対象が存在すること」「その思考対象が宇宙の3倍の大きさという性質を(宇宙と同じ意味で)例化すること」という2つが必要に思われますが、これは無理だろうと思ったわけです。
時空関係を持たない島宇宙については、そのメレオロジカルサムの存在を認めるかどうかに依存すると思います。しかしどちらの結論をとった場合にも、わたしの所論には影響ありません(「2つの島宇宙の内、より大きい方は大きい」と言うか、「2つの島宇宙のメレオロジカルサムは大きい」と言えばよいことだからです)。
』 (2010/05/29 2:48)
# minori 『
先日のコメントがやや言葉足らずなままだったので、もう一言だけ。とはいえ詳述する余裕がないので、またしてもオレ様コメント風になってしまうのはご容赦ください。
「包み込みの原理」についてですが、「ビローン問題」その他の問題を切り抜けるための最も単純なやり方は、この原理を事物それ自体の大きさに関する原理としてでなく、ある時点に事物が占有している領域に関する原理として読み替える、というものではないかと思います。
しかしこのやり方には二つの問題がありようにも感じられます。一つは、このようなやり方をとる場合には、絶対的に大きなものが存在するという主張はかなりトリヴィアルになってしまうのではないか、ということです。たとえば、空間的な大きさに関する説得的な公理を古典的なメレオロジーに付け加えた拡張体系においては、絶対的に大きなものとしての宇宙(存在する全てのものからなるmereological sum)の存在は、ほとんど自明とも言えるのではないか。(つづく)
』 (2010/05/28 16:52)
# minori 『
もう一つは、このような考え方からすると、大きさの相対性云々という問題と、価値その他の相対性という問題とのアナロジーは希薄になってしまうのではないか、ということです。先の記事での言い方を借用すると、「相対性が失われる瞬間」というのは、大きさに関してはあまりに早く訪れてしまうのではないでしょうか。というのも事物の大きさに関しては、空間的な広がりという共通の尺度(mensura)があるわけですが、これに対して価値の相対性云々といった場面で本当に問われているのは、そもそも共通の尺度で測ることができるかどうか、commensurableかどうか、という問題だろうからです。
』 (2010/05/28 16:54)
# at-akada 『
コメントありがとうございます。
かなり重要なコメントだと思います。
ええと、まず「包み込みの原理」そのものは「x は y より大きい」ことの、必要条件ではなく十分条件にすぎないことは確認しておきたいと思います。包み込みの原理を満たさず他方が大きいことは、(特に文脈限定的な場面では)十分ありえます。
その上で、一点目。
>絶対的に大きなものとしての宇宙(存在する全てのものからなるmereological sum)の存在は、ほとんど自明とも言えるのではないか
これは無制限構成を認めた場合ですよね? しかし無制限構成自体が議論の対象であるからこそ、世界の存在が問題になりえるのだし、自明とまでは言えないと思います。
(その意味ではニヒリズムへの反論をちゃんと扱った方がよかったですが、これはこれでひとつのテーマになってしまうのでほぼ省略しました)。
二点目。こちらの方が重要ですが、
>というのも事物の大きさに関しては、空間的な広がりという共通の尺度(mensura)があるわけですが、これに対して価値の相対性云々といった場面で本当に問われているのは、そもそも共通の尺度で測ることができるかどうか、 commensurableかどうか、という問題だろうからです。
わたしはまず「大きい」に関しても、尺度は共約可能commensurable ではないと思います。
たとえば、
太郎: 165cm で横幅が広い
次郎: 170cm でやせ型
という二人を比べたとき、
ある状況(日常会話で身長を問題にするときなど)では、「次郎は太郎よりも大きい」が真でしょうが、また別の状況(狭い車のなかに人を詰めこむときなど)、では「太郎は次郎よりも大きい」が真となるでしょう。
この意味で、「大きさ」の順序関係も文脈に依存的であると考えます。しかし、その順序関係はいかなる文脈においても包み込みの原理を満たすような構造をとると思います。
つまりわたしは、
- 大きさの順序は文脈相対的であるが、
- 包み込み原理からの帰結(「木星は地球より大きい」など)は、両者をドメインに含むようないかなる文脈でも真である。
と主張してます。
同様に、価値に関して、それが文脈依存的であるとしても、すべての文脈に関して満たされるような順序構造があるということは決して不可能ではないでしょう。
わたしがこの問題を通して考えたかったことの1つは、相対性の問題を尺度の共約可能性の問題からずらすことだと思います。たとえば、いかなる文脈でも真となるような順序構造を発見すれば、そこから再び相対性に対する反論を擁護できるでしょう。このことが明らかになるだけでも、意味はあると思います。
』 (2010/05/29 3:11)
# minori 『
リプライに感謝します。
第一点についてですが、問題は、「宇宙は存在する」という定言的な主張の自明さではなく、「もし宇宙が存在するならば、それは絶対的に大きい」という仮言的な主張の自明さにあるのではないでしょうか。
第二点目については、大きさについて語られる文脈と、価値について述べられる文脈と、その二種類の文脈について果たして同一の仕方、あるいは類比的な仕方でうまく取り扱えるものかどうか、僕にはまだちょっとよく分かりません。
あまり中身のないコメントですが、以上は補足ということで。
』 (2010/06/ 1 21:53)
■ 修正点など
修正が必要な箇所をメモしておく。
「包み込みの原理」は修正が必要。まず「ビローンと伸びるもの」を防ぐ条項が必要。
あと指摘されて気づいたが、木星と地球などは文字通りに部分を共有するわけではないので、メレオロジーはそのままの形では使えない。
(「x を y の位置していた空間に移動させるという操作を考えたときに、他方が占めていた空間の部分を包み込んであまりあるならば、x は y よりも大きい」とかそういう方向で考えなければならない)。
あと宇宙が無限に広いという説はそれなりに信じられているようなので、その点ももっと考慮する必要がある。
■ 補足
2010年6月2日(水)の追記。
わたしがはじめに混乱していたために、他の人たちにも多くの誤解を生んだようである。
議論している内に、いくらか頭がクリアになったので、そのことをメモしておく。「大きい」の文脈依存性ということで、以下の3つが考慮されるべきであった(わたしも当初この3つを混同していた)。
- 比較クラスの相対性(何を比較クラスにとるかで、「大きい」ものが変動する)
- 関心の相対性(関心の持ち方によって、比較クラスのなかの「大きさ」の順序が変動する)
- 曖昧性(中間領域に関して、どこから上が「大きく」、どこから下が「大きくない」のかが決定しがたい)
これら3つの問題は、関連するけれども別の問題である。
そしてわたしの主張は、「すべてのもののなかで(比較クラスを越えて)、あらゆる関心に即して(関心の相対性を越えて)、曖昧でなく、大きいものがある」という風に定式化されるべきであった*。
たとえば、他の文脈依存性(可能性とか)については、わたしは特に何も言っていない。文脈依存性という便利な言葉にたよったことでこの辺がぼやけてしまったきらいがある。
ただし、この3つの条件は段階的形容詞一般について重要なものであると思う。そのことがわかっただけでも、自分としては重要な収穫であった。
■ twitterでもらったコメントなど
一部ブログのコメントと交差してます。
昨日の記事を書いていてちょっと思いついたこと。
- [1]Kennedy, Chris "Vagueness and Grammar"
http://semantics.uchicago.edu/kennedy/docs/vaguenessandgrammar.html
この文献で、著者は不正確性と曖昧性を区別している。
あまり定義ははっきり述べていないが、「不正確だが曖昧でない」語もあるということ。
例としてあげられているのは(絶対的段階的形容詞と呼ばれているのだが)、dry, transparent, bent, straightなど。
これらは比較の形でも使えるが、肯定形でふつうに使うときは曖昧でない。
1. この棒はbentだ
2. この棒はstraightだ
一番素朴な読みを採用すると、棒がちょっとでも曲ってたら1は真になるし、2は偽になる。
あるいは、
Aの棒はBの棒よりもstraightだ。だからBの棒はstraightじゃない。
こういう推論もそこまでは変じゃない。一方「広い」とか「長い」で同じことをやると変。
(「この棒はあの棒よりも長い。だからあの棒は長くない」って変でしょう)。
しかし日常的にbent, straightを使うときは、もっとズレを許容するような使い方をしている。
つまり「曖昧じゃないけど不正確だよね」ということらしい。
次。分析哲学、特に形而上学方面で人気のある曖昧性についての説明に「超付値による解決」というのがある。
デイヴィド・ルイスが「たくさんだけど、ほとんど一つ」という論文で採用して以降?(歴史はよく知らない)、頻繁に見かける。
ざっくり説明すると、基本的な考え方は、「曖昧な文というのは、語の外延指示が複数考えられ、その内のどの解釈をとるかが曖昧である。言語が曖昧なだけであって、決して世界そのものが曖昧なわけじゃない」というもの。
たとえば「富士山」は境界が曖昧なわけだが、富士山そのものが「曖昧な実体」というわけではない。曖昧な実体などというものはこの世界にはない。そうじゃなくて、「富士山」という語の指示対象が、ある解釈では「この範囲からこの範囲」、また別の解釈では「あの範囲からあの範囲」という風になって、一体どの指示対象について語っているのかが曖昧である。
述語に関しても同様。「山である」という述語は、ある場合には、これこれの対象を含めるし、ある場合にはこれこれの対象を含めるという風に述語に対する外延の割り当てが複数あって、どの解釈を使っているのかが曖昧である。
で、何を思ったかというと、この解決方法って、要するに「曖昧性は不正確性だ」という説明なのかもしれないと思ったのである。
本来は曖昧でない語を、われわれは多少のズレを許容する形で使っているという意味で。
一方、超付値による解決は、段階的形容詞に適用すると、ちょっと変なことになる。
「この棒は長い」の曖昧さという現象に対し、この解決をそのまま採用すると、「長い」という語が、ある場合には「3m以上」を意味し、ある場合には「4m以上」を意味する、そしてどの意味で使っているのかがよくわからないから曖昧なのであるという風になる。でもこれは少し変だ。
「富士山」や「山である」を正確化することはできるし、日常会話で実際にそういうことをすることもある。しかし「長い」を正確化することはまずない。「長い」について、曖昧でない複数の解釈があって、その内のどれを採用するかが不明であるから曖昧なのだという説明には、だいぶ違和感がある。
段階的形容詞以外の名前や述語の場合、曖昧性はキャンセル可能である。しかし段階的形容詞の曖昧性はキャンセルできず、語自体の意味に組み込まれているように思う。
- 富士山、というのは、ここでは、ここからここまでの範囲を指すのだが...
- 山、というのは、ここでは、これこれの対象を指すのだが...
- 長い、というのは、ここでは、2.34m以上のことを指すのだが...
最初の2つは自然だが、最後の1つは結構変だ。
最初の2つは「富士山」や「山」について、少し説明を付け加えているだけのように聞こえるが、最後の1つは「長い」にかわって新しい単語をつくってしまっているように聞こえる。
というわけで段階的形容詞の曖昧性は、他の場合よりも厄介だなあと思ったのだった。
結論や新しいアイデアは特に無いが、このように考えたのでメモしておく。
Vagueness (Problems of Philosophy (Routledge (Firm)).)
以前読んだウィリアムソンの曖昧性についてのサーベイが啓発的だったので、これも読もうと思っていたのである。
あとスタンフォード哲学事典の「曖昧性」の項目も。
先日「抽象的な話をする会(抽象会)」というものを開きました(3回目です)。抽象的なテーマについて議論し、最終的には多数決で結論を出すという趣旨の会です。
そのときのテーマのひとつに「絶対的に大きなものはあるか」という問題をあげました。これについては、わりと議論も用意していたのですが、当日あまり説明しきれませんでした。説明しきれなかった悔いと、考えていたことのログを残したいという思いと、まとめておけば誰かコメントをくれるかもしれないという思いをこめ、まとまった記事として残すことにしました。
なお、抽象会のログは以下で見ることができます。
http://youkoseki.com/diary/2010/05/05#p5
(書いてたら、やたらと時間がかかった上に長くなってしまいました。かくも細かく、切迫性もほとんど無いテーマに興味をもつ人がどれだけいるのかわかりませんが、公開はしておこうと思います。「既存の学に基かぬ論」((c)@pubkugyo) になってしまっているかと思いますが、ご意見あればおよせください)。
■ 関心
以前よりわたしが抱いている基本的な関心のひとつに「相対性」という主題がある。わたしにとって、真理に関する相対主義、存在に関する相対主義、概念に関する相対主義、価値に関する相対主義などのテーマは、常に気になるものである。共感よりも、相対主義への懐疑の方が強いのだが、それでもなお、相対主義は様々な問題に際し、重要なオプションのひとつでありつづけている。
もう少し言うと、わたしは相対性が失われる瞬間というものに興味を抱いている。
そして「大きい」という概念については相対性はどこかの段階で消えているのではないかと考えている。価値のような概念に比べると、大きさは比較の意味が明確で扱いやすい概念である。これを媒介とすることで、相対性について、より十全に把握することができるだろう。
また「大きい」のような比較の形を持った形容詞は、段階的形容詞gradable adjectiveと呼ばれる。段階的形容詞には相対性、曖昧性などいくつかの重要な特徴がある。この問題に対するわたしの関心の軸のひとつは「相対性」であるが、もうひとつの関心の軸は、段階的形容詞に対する適切な形而上学的扱いである。「大きい」についての形而上学的説明を手に入れることでわれわれは、やはり段階的形容詞であるように思われる「良い」や「美しい」に対する対処法をも学ぶことができるかもしれない。
■ 絶対的 / 相対的
相対的に、ということで、ここでは主として「文脈に相対的に」ということを考える。相対的な概念というのは、ある文脈のなかでという限定を付けた場合にのみ意味をもつ概念のことである。
たとえば「相対的な価値」というのは、ある時代・ある文化のなかでのみ成り立つ価値のことである。たとえばある時代の文化に相対的な価値、「19世紀ヨーロッパのなかでの価値」「16世紀の日本のなかでの価値」というものがあるだろう。19世紀ヨーロッパに価値あるものが、16世紀の日本でも価値があるとはかぎらない。あるいは、関心に相対的な価値というのもあるだろう。「病気を治すことにとって価値がある」とか「資金を増やすことにとって価値がある」というのがそれである。この場合も、特定の関心に応じて、異なる種類のものが選ばれ、異なる価値付けを受けるだろう。
異なる文脈が異なる対象の集まりを選び出し、異なる評価の基準が適用される。相対的な概念とは、複数の集まりに分割された概念のことであり、相対的な概念の適用に際しては、必ず、対象の集まりを特定するパラメーターが補完される必要がある。
価値というものが、もし仮に本質的に相対的なものであれば、「価値がある」というのは文脈による限定を付けないかぎり意味がない言明である(ここでは説明上そう仮定しているだけであって、本当に価値がそういうものであるかどうかは問わない)。このとき、どのような価値のあるものも、あるグループのなかで・そのグループ特有の基準によって価値を持つのであり、ただ端的に「価値がある」ものは存在しないことになる。
相対的でない概念はあるか。たとえば形は(よほど特殊な立場に立たないかぎり)相対的ではない*。あるものが丸いとか四角いとか言うとき、あるグループのなかでのみ成り立つ丸さや四角さなどというものはない。ものは端的に丸いし、端的に四角い。「現代では丸い」とか「彼らにとって四角い」と限定つきで言うことはできるが、その限定に何かの意味があるようには思えない。この意味で、形はおそらく絶対的である。
ふつうわれわれが「大きい」という言葉を使うとき、その「大きいこと」は相対的である。たとえば「このネズミは大きい」という。しかし「大きいネズミ」は「小さな象」よりもおそらく小さい。同様に「大きい分子構造」はおそらく「大きい惑星」より小さいだろう。「大きいネズミ」が大きいことや「大きい分子構造」が大きいことは、ネズミや分子構造という種や、われわれの関心に応じてのみ意味を持つ。
あるいは、「うちの家族はみんな大きい」という言明について考えてみよう*。この言明は、「うちの家族のメンバーは全員ある一定水準以上の大きさを持っている」という意味ではない。たとえば「妹は小学生としては大きい、父は成人男子としては大きい...」という場合にもこの表現を使うことはできる。このケースでは、妹はひょっとすると身長140cm程度であり、他の家族のメンバーと同じ基準で大きいわけではないかもしれない。「うちの家族はみんな」とひとしなみに言っているのにもかかわらず、家族のメンバーそれぞれが属するグループに相対的な大きさの基準が適用される。「大きい」という概念は、少なくともこの程度には強い相対性への選好を持っている。
では、相対的でなく、無限定に、端的に大きいものはあるだろうか。わたしは「ある」と考えている。
注意しておきたいが、「絶対的」という言葉には、「他との比較によって成立するわけではない」という意味もある。しかしこの用法はここでは使わない。どう考えても大きさは比較から離れることのできない概念である。どんな種類の「大きい」でも、他のものの大きさとの比較によってはじめて意味のある概念となる。この意味では、「大きい」は相対的な概念である。しかし、考えたいのはそういうことではない。
考えたいのは、いかなる種類のグループとも関係なく、端的に大きいものはあるかということである。
単純に考えて、「あらゆるもの」というグループのなかで大きいものがあれば、それは絶対的に大きいと言えるだろう。たとえば、クジラは地球の動物のなかで大きい。しかし、絶対的に大きなものは、あらゆるもののなかで大きい。「あらゆるもののなかで」という限定は、もはや限定として意味をなさないだろうから、絶対的に大きなものは、単純に大きいのである。絶対的に大きなもの以外のどんな大きなものも、本当はいずれかのグループのなかでだけ大きい。しかし、絶対的に大きなものは、端的に大きいことになる。
別の言い方をすれば、「大きいこと」という性質は関係的性質である。大きいことは、他のものとの関係なしにはありえない。しかしそれは二次性質(主観的な性質)ではなく、この世界の構造だけによって定まる性質である。「何が大きいか」は、比較のターゲットとなる対象のグループと、そのグループに属する対象のサイズの分布のみによって決まる。そしてわれわれの住むこの世界は偶然にも、普遍的なドメインのなかに「大きいもの」が存在するような世界であると考える。
相対的な比較概念
絶対的な比較概念
■ 大きさの比較
二者を比較して、「こちらの方があちらよりも大きい」ということが、「大きい」のための基礎を与えている。わたしがこの記事で考えたい「大きい」は比較形の「...よりも大きいbigger」ではなく単純な形「大きいis big」であるが、単純な形について考えるためには、まず比較形について考える必要がある。
「大きい」という言葉は、他の大多数のものよりも際立って大きいものについて使われる。たとえば、他の大多数のネズミよりも際立って大きいネズミが「大きいネズミ」である。相対的な大きさの場合は、あるグループのなかの大多数のものよりも際立って大きなものであれば、そのグループのなかで大きい。絶対的な大きさの場合も、あらゆるもののなかの大多数のものよりも際立って大きければ「大きい」と言えるだろう。「大多数のものよりも際立って大きい」という言明は、二者の比較を繰返すことで真となる。従って、二者の比較が、「大きい」について考えるためにも必要となる。
二者の大きさの比較はどう行なうのかについても考察の余地はある。
一番単純なのは体積を比較することである。この場合は、半径3メートルの風船と、半径3メートルの中心までつまった鉄の球では、鉄の球の方が大きいことになるかもしれない。風船の中空部分を除いて大きさを体積を測るなら、風船の大きさは見かけよりずっと小さくなる。しかし、こうした大きさ比較の方法は、多少直観に反するところがある。
実際には、異なる種によって異なる大きさ比較の方法が適用されるように思われる。たとえば人間であれば、身長が重要な要因の1つとなるだろう。同じくらいの体格であれば、他方の横幅が多少広くても、身長が高い方を大きいと見なすかもしれない。一方惑星や分子構造のようなものであれば、まったく異なる基準が用いられることになるだろう。大きさについては、二者の比較の基準も、ある程度は関心と種に相対的に決まるのである。
しかしどのような大きさ比較の方法を取ったとしても、次のことは言えるだろう。
- 包み込みの原理
- 有限の大きさをもつ2つの対象について、重ね合わせたとき、一方が他方を完全に包み込んであまりあるならば、包み込む側の方が大きい。*
[ 任意の x と y について、ある移動の仕方 m が存在し、m のもとでは、任意の p が x の部分ならば、p は y の部分であり、かつ、ある q が存在し、q は y の部分であるが、x の部分ではない」 => y は x より大きい
「P(x, y)」 は, 「x は y の部分である」,
「x < y」 は「y は x より大きい」と読む.
たとえば木星と地球ならば、木星が完全に地球を包み込むため、木星の方が大きい。成長しきった象と成長しきった人間ならば、象が人間を包み込むため、象の方が大きい。いかなる大きさ理論も、このことを認めなければならない。
ひょっとすると無限の大きさを持つようなものについては、これは成立しないかもしれない*。しかし、有限の大きさを持つどんなものについても成立するだろう。この意味で大きさは決着を付けやすい概念である。大きさの比較が難しい2つのものはあるが、他方が他方を包み込む場合には、大きさの勝敗は明確に決まる。
この原理について、直観的にはもっともらしく思えるという以外の議論は特に無い。しかし今のところわたしには、この原理の反例は思いつかない。
なお、このような原理が普遍的に成立することは、大きさ概念の興味深いところであると思う。多くの場合について、種に相対的な比較の方法が適用されるにもかかわらず、普遍的に一方が他方を負かす方法があるのだから。大きさについては、種や関心に横断的な比較の方法は、つねにある程度担保されているのである。
■ 極大に大きいものは大きい
それよりも大きいものがないようなものは大きい。以下では、「それよりも大きいものがない」状態のものを「極大に大きい」と呼ぶことにする*。「a < b < ... < n」という大きさの序列があったとき、n のように、極大に大きいものについては、「n は大きい」と言われてしかるべきである。以下ではそのことを論じよう。
| 名前 | 身長 |
| A | 180cm |
| B | 165cm |
| C | 170cm |
上はA, B, C の身長を示す表である。この身長の分布を与えられたとき、以下のような言明は不可能であると思われる。もしもそのように言う人がいれば、わたしにはその人の言うことが理解できない。
A, B, C の3人について言えば、A は大きくない。
むしろ3人のなかでは、A は明らかに大きい。そのことはこの身長の分布から明らかであると思う。
もし「A が大きくない」と言えるとすれば、それは次のような場合である。
「D は身長190cmであり、E は身長195cmである。D やE を考え合わせれば、A は大きくない」
しかしこの場合、反対者は「A, B, C の3人について」言っているのではない。「A, B, C, D, E の5人について」言っている。少なくとも最初にあげた3人について言えば、A は大きい。
ただしこれは180cmという数字が比較的身長が大きい部類に属するために、そう言えるのではないかという反論もありえるだろう。同じことが130cmや140cmの場合にも言えるだろうか? 言えるのではないかと思う。もし130cmの人間を「大きい」と言うことにためらいがあるとすれば、「D, E」を含めた場合のように、他の多くの人間を比較対象に含めてしまっているからである。
「うちの家族はみんな」の事例にも見られたように、「大きい」は対象が属する種と結びつきやすい語である。われわれは、「大きい」について考える際、なかなか対象の種類によるバイアスから離れることができない。従って、バイアスから離れられるようにするために、世界に3体しかいない種類の対象について考えてみよう。以下世界には、A竜とB竜とC竜の3体の竜しかいないものと仮定する。
| 名前 | 体長 |
| A竜 | 47m |
| B竜 | 35m |
| C竜 | 41m |
この場合にも、明らかにA竜は大きい。われわれが竜についてこれ以上の細部を知らなかったとしても、A竜が大きいことを否定するのは難しいだろう。
竜よりもはるかに小さいもの、たとえば虫を考えた場合にも、以下の A虫 は大きいだろう。
| 名前 | 体長 |
| A虫 | 168mm |
| B虫 | 155mm |
| C虫 | 145mm |
以上のような事例は、比較対象のクラスを固定したとき、「そのなかに大きいものはない」と言うことは奇妙であるということを示している。
わたしは、大きいことについての原理として、以下を認めたいと思っている。
- 大きいものの存在原理
- 複数の対象を含む、大きさに関して十分に分散している任意の集まりについて、必ず大きいものと大きくないものが存在する。
- より大きいものの原理
- x が大きく、かつ、y は x よりも大きいならば、y は大きい。
後者はほとんど自明だろう。ある文脈において x が大きいとされ、同じ文脈で x より大きい y について問われたならば、当然 y は大きい。前者は比較対象のクラスを固定したときに、必ず大きいものが1つ以上あることを示している。
両者を合わせれば、(複数の対象を含み、かつ十分に差のある)比較対象のクラスを固定したとき、極大に大きいものは必ず大きいことになる。
ただし、分布が十分に分散していることは必要な条件である。
| 名前 | 身長 |
| D | 145.1cm |
| E | 145.2cm |
| F | 145.1cm |
上のような場合については、必ずしも大きなものは存在しない。こういう分布を見ると、「D, E, F について言えば、みんな大きくはない」とか「みんな大きい」と言いたくなる(「みんな大きい」というか「みんな大きくない」と言うかは標準との関係によって決まるように思う)。つまり大きさについては、大きいものの存在原理に加え、以下の原理が存在する。
- 曖昧性の原理
- 複数の対象を含む、大きさに関して十分に分散していない任意の集まりについて、集まりに含まれる対象はすべて大きいか、またはすべて大きくない。
しかし先の表のようなあきらかに差があるケースで、「大きいものはない」と言うことは難しいだろう。後者のような事例は、「大きい」のような段階的形容詞の曖昧性に由来する現象であると考える。われわれは、「大きい」ものと「大きくない」ものとの間に、明確な境界が引かれることを避ける傾向がある。ほとんど大きさに差がない事例で、他方が「大きい」と言ってしまうと、「大きい」ものと「大きくない」ものとの境界線を決めなければならなくなる。しかしわれわれの多くはそうしたコミットメントを避けるのである。
このことをもって、「大きい」は主観的であると言う論者もあるかもしれない。しかし曖昧性は主観性とは区別される概念である。われわれは、たとえば「A竜は大きい」というときに、個々人の感じ方に左右されているわけではない*。
十分に差のあるクラスについては、以下のように言えるのではないかと思う。「大きい」に関する曖昧性が生じるのは中くらいの領域のどれを大きいとするかに関してのみである。一方極大の極に関しては、曖昧性なく、大きいことが定まる。
「大きい」のような事例については、文脈の役割は、比較の対象となる集まりを固定することと、中くらいの領域に関する境界設定だけであると考える。それ以外の条件、たとえば「極大に大きいものは必ず大きい」ということについては、サイズの分散だけが関係する事実である。
■ 宇宙より大きいものはない
宇宙は、他のあらゆるものを包み込んであまりある。従って宇宙より大きなものはない。
ここで、「宇宙」というのは、存在するもののすべてと、それを包み込む空間領域のことである*。
もし(1)宇宙というものが存在し、(2)宇宙が、現在多くの人が想定するように、有限の大きさを持ったものであれば、(3)宇宙より大きなものは無い。宇宙をすべてのものとそれを包み込む空間領域のことであると定義したため、包み込みの原理によれば、宇宙より大きなものはない。
(1)と(2)に関する反対を含め、種々の反論については以下で論じよう。ひとまずは(1)(2)を前提すると、(3)が導かれることを確認しておきたい。
ここまでの論旨をまとめておく。
- (a)「x は絶対的に大きい」というのは、x はすべてのもののなかで大きいということである。
- (b) x が極大に大きいならば、x は大きい。
- (c) 宇宙はすべてのもののなかで、極大に大きい。
- (d) b, c より宇宙はすべてのもののなかで大きい。
- (e) a, d より宇宙は絶対的に大きい。
宇宙が大きさの序列の上限であれば、宇宙は絶対的に大きいだろう。そして実際に宇宙はそれ以上大きなものがないくらいに大きい。よって、絶対的に大きなものはある。これがわたしの主張の要点である。
基本的な論旨は以上でつきているが、以下では想定される反論に答えていく。
■ 反論: 宇宙と同じ大きさのものがある
以下のような反論も考えられる(この反論については、@pubkugyoに感謝する)。
心は大きさを持たない。そしてこの宇宙からすべての心を取り除いたものは、重要な要素が失われているのだから、もはやこの宇宙とは別の対象である。しかしこの宇宙と同じ大きさを持つ。ゆえに宇宙は(唯一の)一番大きなものではない。
しかしこのことには問題がない。それ以上に大きなネズミがないくらい大きいネズミが二匹以上いたとしても、それらはすべて「大きいネズミ」である。同様に、宇宙も宇宙と同じ大きさのものも、すべて端的な「大きいもの」になるだろう。
わたしの主張は「最大の大きなものがある」ではなく、「端的に大きいものがある」である。従って、それ以上ないくらい大きな対象がいくつあっても、反論にはならない。
■ 反論: 宇宙よりも大きなものを考えることができる
宇宙よりも大きなものについて考えることができる。たとえば、宇宙の3倍の広さの空間について考えることができるし、そうした空間が存在することは可能であっただろう。よって宇宙の大きさは、最大の大きさではないし、宇宙は絶対的に大きいわけではないと主張する論者もいるかもしれない。
しかしこの反論は的を外している。「宇宙は大きい」というのは、あくまでもこの現実世界についての言明であり、この宇宙が必然的に大きいことを言っているわけではない。「太郎は高校生としては大きい」という言明に対し、2メートルや3メートルの高校生が思考可能であることを持ち出しても反論にはならないだろう。従って、単なる思考可能性は宇宙の大きさに対する反論にはならない。
だが、この方向を押し進めることでさらに洗練された反論を考えることもできる。
反論者は次のように言うかもしれない。
われわれは、宇宙の3倍の体積や10倍の体積について、この現実の世界で思考することができる。その大きさを分割したり計算したり足し合わせたり、操作することができる。よって宇宙の3倍の体積や10倍の体積は、この現実世界に存在するのである。そして、われわれが思考・操作できる大きさには上限がないから、大きいものの上限はこの世界には存在しないのである。
これは、単なる思考可能性に訴える反論ではなく、宇宙を上回る大きさがこの世界に存在するという反論である。しかしこれに対しては、「そんなものはない」と答えておこう(より正確にはわたしの再反論は「あるかもしれないが、大きさは持たない」である)。
確かに、宇宙以上の体積について思考・操作することはできるかもしれない。しかしそうした思考の対象はあくまでも抽象概念であって、実際の大きさを持つものではないだろう。われわれは抽象概念に大きさを帰属しているのであって、抽象概念が実際に大きさを持っているわけではない。宇宙の10倍の体積に、抽象的でない対象を収容することはできない。それが宇宙の10倍の大きさを持つというのは、あくまでも抽象的な想定である。もし、そのようなものがある意味で存在しているとしても、抽象概念である以上は、その実際の大きさは0であると考えるべきだろう。
一方、抽象概念が、現実に存在する具体的な対象とまったく同じ意味で大きさを持つという主張にはあまり説得力がない。反論者は、抽象概念が実際に大きいと考える根拠を提示すべきである。
■ 反論: 宇宙より大きいものを想定できる文脈がある
前節の反論に似ているが、以下のように主張される場合もあるかもしれない。
たとえば、以下のような文脈を考えよう。「バベルの図書館をおさめるには、宇宙さえも小さすぎる」。このような言明はまったく正当なものであるのだから、宇宙が大きくないということは、ある文脈では正しい。よって宇宙があらゆる文脈で絶対的に大きいなどということは無いのである。
いくつかの文脈のもとでは、確かに宇宙が大きくないと言うこともありえるだろう。
しかし、そのような事例は、「反事実的な想定の文脈」であることに注意すべきである。反事実的条件を用いて正確に述べなおすならば、問題となっている事例は「もし仮にバベルの図書館が存在するならば、宇宙は大きくない」というものであろう。
しかし、もし反事実的条件法を用いた言明
もし仮にP ならば、Q ではない.
が真であったとしても、
Q ではない.
が真であるとはかぎらない。
もし仮にわたしがアメリカに住んでいれば、お茶を飲む習慣は無いだろう.
が真であったとしても、
わたしにはお茶を飲む習慣は無い.
は真でない。
反事実的条件法を用いた文脈では、後件は必ずしも現実に関する言明ではないのだから、これは反例にならないのである。
■ 反論: 宇宙より大きなものがある
思考可能性としてではなく、実際に宇宙よりも大きなものがあるという反論も考えられるだろう。
たとえばこの世界は、多くの宇宙から成るかもしれない*。世界が実際には、複数の宇宙によって構成されているならば、それらすべての宇宙を足し合わせたものは、宇宙より大きい。しかし、宇宙よりも大きな(有限の大きさをもつ)ものがあるという反論に対しては、「いずれにしても、絶対的に大きなものがある」と答えたいと思う。
もしこの世界が複数の宇宙から成るとしても、複数の宇宙から成る全体が「すべてを包み込む絶対的に大きなもの」と見なされるだけであり、わたしの所論には影響しない。ただし、これらの内、宇宙の外側にさらに無限の広さがあるという反論に対しては、後で答えることにする。
■ 反論: 宇宙には無限の大きさがある
反論者は次のように言うかもしれない。
宇宙が有限の大きさを持つという主張には確固たる保証はない。実際には宇宙はわれわれの観測範囲を越えて無限に広がっているかもしれない。宇宙が無限の大きさを持つのであれば、無限の大きさを持つものに「大きい」という形容はあてはまらないから、大きいものはないのである。
宇宙に無限の大きさがある可能性は否定できない。現在の物理学が解き明かしておらず、われわれが知らないだけであって、宇宙には無限の大きさがあるのかもしれない。
しかし宇宙に無限の大きさがある「可能性がある」だけでは反論にならない。反論になるのは、宇宙に無限の大きさがあるという仮説が、(わたしが依拠している)宇宙には有限の大きさしかないという仮説よりも確からしい場合である。
現在観測されている限界を宇宙の限界とし、その外には何もないとする仮説には、一応は観察に基づいた根拠がある。一方、宇宙に無限の大きさがあるという仮説には、特に何の根拠も理由もない。人間原理からくる多宇宙説のようなものも一応あるが、それはやはり有限の広さの有限の多宇宙の存在を主張するだけであって、知るかぎりでは、宇宙に無限の広さがあるという説は特にない*。もちろん、可能性は否定できない。しかし可能性にわずらわされる必要もないだろう。わたしは、宇宙は有限の大きさを持つという仮説が必然的に正しいと主張しているわけではない。そちらの方がもっともらしいために、そちらを信じようと言っているだけである。
また、宇宙に無限の広さがあった場合、本当に大きいものが存在しないことになるかどうかも疑わしい。たとえば自然数には上限がない。しかし10の1000乗は大きい数であるし、10の10000乗はいっそう大きい数である。上限がないとしても、ある程度大きい数はすべて「大きい数」と判断すべきかもしれない。同様に、宇宙の大きさには上限がない場合にも、ある程度よりも大きな領域はすべて「大きい」と見なしてよいかもしれない。
ただし恣意的でない境界の設定は難しいだろうし、多少直観から外れる部分があることも認めよう。しかし、大きさの上限がないからと言って、大きいものが存在しなくなるともかぎらないのである。
■ 反論: 宇宙に大きさはない
反論者は言うかもしれない。
宇宙は惑星や分子構造や人や素粒子のような本当の意味での対象ではない。もし「存在するもののすべて」というものがあるとしても、それが大きさを持つことは依然疑わしい。
しかし、われわれは通常宇宙の一部が大きさを持つことを認めている。太陽系同士の大きさを比較することはできるだろうし、島宇宙の大きさを測定したり、比較することもできるだろう。宇宙自体の大きさを推測したり、宇宙とその一部を比較することも当然してよいように思われる。もちろんわれわれが通常大きさを持つと見なしているからと言って、実際に大きさを持つことが結論されるわけでもない。しかし「われわれが通常そう見なしている」ことはひとつの判断基準である。
もちろん宇宙それ自体と宇宙の一部は違う。宇宙にはその外には何もないという明確な特徴がある。従って百歩譲って、宇宙自体が大きさを持たないとしても、宇宙の一部が大きさを持つことには依然問題がない。よって宇宙自体が大きさを持たないとしても、やはり、それ以上ないくらいに大きな宇宙の一部が存在するという説は否定されたわけではないし、わたしの所論にとってはそれで十分である。
しかし、反論者は、宇宙それ自体に大きさがないだけではなく、宇宙の部分には最大のものがないという風に反論を進めるかもしれない。これについては、次の節で別途答えることにしよう。
■ 反論: 宇宙は開いた境界をもつ
宇宙それ自体が大きさを持つかという問題とは別に、「宇宙の境界は宇宙の一部なのか」という問題もある。
やはり数を例にあげて考えると、たとえば「3未満の実数」というのは、境界を含まない実数の集合の例である。「3未満の実数」の場合、3に近いいかなる実数も集合の一部であるが、その「端」は集合の一部ではない。実数は連続的だから、どれほど3に近い実数を考えてもそれよりもなお3に近い実数が存在する。
同様に、宇宙も連続的であるかもしれない。実際、多くの場合われわれは空間を連続的なものと見なしている(物理学的には、現実の物理空間は連続的ではないそうだが、それでもなお理論的な空間の連続性を主張することはできるかもしれない)。また、宇宙の境界が宇宙の一部であるかどうかについては、わたしには判断する材料が一切ないが、「宇宙は境界を含まない」という説が不可能であるとも思えない。
宇宙の連続性と、宇宙が境界を含まないことを仮定すれば、最大の大きさを持つ宇宙の一部は存在しないことになる。どれほど宇宙の境界に近い領域を選んでも、なおそれよりも大きく、宇宙の境界に近い領域が存在する。
このケースについても反論をくわえておこう。ただし、このケースがあくまでも特殊な仮定のもとでの条件を扱うことは忘れてはならない。実際には境界は宇宙の一部であるかもしれないし、宇宙は不連続かもしれない。そもそもこの反論の条件自体が成立しない方が確からしいという想定もできるのである。
宇宙が無限に大きいケースとの違いは、「開いた境界」の場合には上限があることである。このケースでは、宇宙の大きさには限界がある。ただわれわれは最大のものを1つ選び出すことができないだけである。ある一定以上のものはすべて大きいという説は、このケースにおいては、無限の大きさのケースよりも説得力を持つだろうと思う。3未満の実数が無限にあり、2.99より大きい実数が無限にあるとしても、2.99はやはり「大きい」のではないだろうか。2.99より大きい実数は、それよりもさらに大きいが、その差はそれほど広いものではない。「広い」かどうかも曖昧であるが、少なくとも3に近づけば近づくほどその差は小さなものになっていく。
すでに存在するネズミの最大のものが全長30cmだったとしよう。すでに存在したネズミにくわえ、31cm未満の非可算無限匹のネズミを増やしたとする。これによってネズミは、問題となっている宇宙と同様に、大きさの最大値を持たなくなる。しかし、新しい無限匹のネズミが増えたことで、大きなネズミはその「大きさ」を失うだろうか。いささかあやしいように思われる。30cmから31cmの間に無限匹のネズミがいるとしても、30cmから31cmの区間にあるネズミは依然大きいのではないだろうか。
■ 反論: 宇宙より大きなものがないとしても、絶対的に大きなものがあるわけではない
反論者は、わたしの所論のほとんどを認め、結論だけを否定するかもしれない。宇宙より大きなものはなく、宇宙は有限の大きさを持つ。しかし、にもかかわらず、絶対的に大きなものは無い。この立場を理解することは難しいが、想定は可能である。
反論者は、大きさの概念が本質的に相対的であると主張するかもしれない。
「大きさ」という概念はわれわれの実際の使用と離れて意味を持つことはない。そしてわれわれがその概念を使用するほとんどすべてのケースで、相対的な概念として使用されているのである。種や関心に相対的な限定をすべて取り払った「大きい」にはもはや意味はない。たとえば、ネジの大きさを比較するとき、「このネジの方が大きい」というのは、実際にはこのネジならネジ穴にはまるだろうということであり、それ以上の意味はない。同様に「このネズミは大きい」というのは、何らかの生物学的関心に支えられてはじめて意味を持つ。
何らかの関心や種に相対的な意味では、宇宙はやはり大きいだろう。しかし「端的に大きい」という言い方には意味がない。われわれの関心を離れた端的な大きさというものはないのである。
これは、一番根本的な反論であるが、議論によって答えるのは非常に難しい。「大きさは本質的に相対的であるわけではない」というのはわたしが根本的に前提していることであり、反論者はこれに対して異議を唱えている。平行線をたどりそうな対立だが、できるかぎり反論を試みてみよう。
大きさが本質的に相対的であるという説の難点は、どんなもの同士でも実際には大きさを比較できる点である。木星とマグロなら木星の方が大きいし、わたしと銀河系ならば銀河系の方が大きい。こうした比較をするとき、わたしは何をしているのだろう? 木星とマグロ、わたしと銀河系を統合する種があるのだろうか。もしあるとすれば、それはもはや「存在するもの」といった何の制限も与えないような「種」ではないだろうか。
また、わたしは何の関心もなく、単に時間を持てあまして大きさを比較することもできる。何の目的も抱かずに木星とマグロを比較するとき、わたしが使う「大きい」には本当に意味がないのだろうか。もしそうだとすれば、わたしはどれくらい関心を持てば、「大きさ」の概念を正当に使用できるのか。実際「正当な関心に基づかないから、その言葉には意味がない」という批判は奇妙である。われわれはほとんど何の関心もなしに多くの言葉を使っている。むしろ、言葉を意味を持って使うには、正当な関心が必要であるという前提の方が疑わしいだろう。正当な関心に基づく概念使用と、関心に基づかない概念使用の間に本質的な差があるようには思えない。どちらも同じ意味で同じ概念を使用しているように見える。反論者は、せめてこの「見かけの同義性」について説明すべきだろう。
一方、時間つぶしさえ、ある意味では正当な関心だということもできるだろう。しかし「関心」という言葉をそこまで広義に使うなら、批判はトリビアルなものとなる。その際には、そもそもわれわれは関心の無いことなどしないのである。
実際に大きさの比較をするときには、つねに何らかの関心に相対的に比較しているという指摘は興味深いが、そのポイントがどこにあるのか把握するのは難しい。しかし、反論者があくまでも「『大きい』は本質的に相対的だ」と主張するならば、「種によって相対的」や「関心によって相対的」ということで、何らかの実質的な制限が与えられるのでなければならないだろう。
本質的に相対的と言いながら、すべてのものを対象として概念を使用することが許されており、しかも、ほとんど何の関心も無しに当の概念を使用できるなら、そのような批判は何も言っていないに等しい。それが「本質的に相対的」の意味するところならば、おおよそすべての概念はそうだろう。
しかし反論者が、宇宙が実際にすべてのもののなかで極大に大きいと認めるならば、そのような制限は存在しないように思われる。すべてのものを対象とする大きさの比較はすでに行なわれ、勝者は決まったのである。
もちろん、反論者はすべての概念は本質的に相対的であると、あくまでも主張するかもしれない。しかし、わたしが退けなければならなかった相手はもっと実質的な内容をもった反論である。わたしが述べたのはこうだった。ある文脈のなかでのみ意味を持つ概念(わたしの言う「相対的」な概念)と、そうではない概念があること。「大きい」には後者の用法があり、しかも、その用法で大きいと言うことができる対象が存在すること。一方すべての概念が本質的に相対的であるという、希釈された反論が、依然わたしの所論にとって障害となるかどうかは疑わしい。
■ 展望
以上「現実に極大に大きいものが存在する」によって「絶対的に大きいものはある」を擁護するような議論をしてきた。
同様に、絶対的な美しさの存在を主張したり、絶対的な良さの存在を主張することはできるのだろうか。
極大に美しいものや極大に良いものの存在を認めることは、極大に大きいものの存在を認めることよりも難しいだろうが、そのような議論を想定することは決して不可能ではないように思う。
個人的には、「価値の相対性」のようなテーマが政治的に深刻に捉えられるあまり、不毛な平行線をたどりがちなことが気になっている。むしろ「相対性」が何を意味するのかにまで立ち返って議論することが必要だろうと思う。
■ 参考文献
参考文献らしい参考文献は特に無いのですが、関連するトピックについて2つだけ。
- [1]Kennedy, Chris "Vagueness and Grammar"
http://semantics.uchicago.edu/kennedy/docs/vaguenessandgrammar.html
段階的形容詞の意味論については主としてこちらを参考にしました。
曖昧な段階的形容詞と曖昧でない段階的形容詞の区別を提唱していたりなど、非常におもしろいです。
なおこの文献については @wataruu さんに教えてもらいました。
- [2]菅沼聡「世界全体は存在するか」
この記事にとってサブトピックの1つだった「世界全体は存在するか」というのはそれなりに論じられてきているテーマのようです。残念ながらわたしはこの論文にはあまり賛成できませんでしたが、問題への導入にはよいかもしれません。
この文献については @tsagis さんに教えてもらいました。
GCOEワークショップ フィクションの哲学
http://www.carls.keio.ac.jp/2010/03/gcoe2010327.html
昨年末に清塚邦彦氏が上梓し、大きな注目を集めている
フィクション論『フィクションの哲学』(勁草書房、2009年)をめぐるワークショップを行います。
参加無料・登録不要ですので、ぜひご参加ください。
日時:2010年3月27日(土)14:30~18:00
場所:慶應義塾大学三田キャンパス東館4階セミナー室
【提題者】
清塚邦彦(山形大学人文学部 教授)
森功次 (東京大学大学院博士課程)
鈴木生郎(慶應義塾大学大学院博士課程)
【司会】
飯田隆 (慶應義塾大学文学部 教授)
万難を排して出席することにしました。
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