Peter Lamarque, "The Death of the Author: An Analytical Autopsy," British Journal Of Aesthetics, 40:4(1990), pp. 319-31.
Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology, ed. Peter Lamarque, Stein Haugom Olsen(Blackwell, 2003), pp. 433-41.
ラマルク「作者の死 - 分析的検死」という論文を読みました。
ラマルクは、分析美学(分析哲学の中の美学・芸術哲学)の研究者です。サブタイトルに「分析的検死」とあるように、本論文は、分析哲学というフランス現代思想とはずいぶん異なった学問的伝統に属するラマルクが、フーコーとバルトの著名な「作者の死」の議論を、分析哲学の流儀でまじめに取り扱ったものです。
対象となる論文は、フーコー「作者とは何か」、バルト「作者の死」の2本です。
わたしも改めてこの2本の論文を翻訳で読んだのですが、この辺りの論文は、2人の書いたもののなかでも、特にアジテーションの色彩の強いもので、ほとんど論証しているようには見えません。
ところがラマルクは、これを非常にベタな哲学的議論として再構成し、検討と反論をくわえています。あれだけふわふわした文章をよくここまで再構成したと、個人的には非常に感心しました。
以下簡単に要約を。
まず、フーコー、バルトの論文では、歴史的に誕生し、死んだ(死ぬべきだ)と言われている「作者」は3通りに解釈できることが指摘されます。
- 1. あるカテゴリーの人 (writer-as-author)
- 2. あるカテゴリーの批評(author-based criticism)
- 3. あるカテゴリーのテクスト(authored text)
これらのうち、1番目と2番目の解釈だと、彼らの主張はもっともらしく、穏当でもあるが、ごくふつうの主張になります。ところがこれは、3番目の解釈とは結びつかないし、どうもフーコー、バルトの本当の意見のようには見えません。
一方3番目の解釈で読むと、彼らのテーゼは非常に過激であり、おもしろくもあるが、非常に極端で同意しがたい意見となり、あげられている議論も失敗していると、ラマルクは主張します。
20年前、10年前にとっく紹介されているべきものだったと思います(発表は1990年)が、今読んでも十分におもしろいです。
皆様、愛していますか。
つい気持ち悪い挨拶をしてしまいましたが、今日はバレンタインデーなので(24時すぎましたけど)、以前より関心のあった 愛の哲学について少しだけまとめてみます。
日本には、愛を哲学的に研究している人はあまりいません。哲学史家の人が、プラトンの愛の概念について述べていたり、バタイユのエロティシズムについて述べていたりなどの事例が少しあるくらいのものです。
しかし英語圏の分析哲学の世界では、愛の研究というのはそれなりにさかんです。主として倫理学的関心から論じられることが多いようですが、哲学史研究ではなく、愛そのものの哲学的研究がかなりの数存在します。
スタンフォード哲学事典の「love」の項目を中心にいくつかの論文を読んだので、それを中心にまとめます。
http://plato.stanford.edu/entries/love/index.html
「愛」のようなきわめて個人的な問題が哲学的探求の対象になるというのは、人によっては違和感もあるでしょう。しかし、愛は serious probrem であり、真剣な哲学的探求に値する重要な現象であると、少なくともわたしは考えます。愛についての心理学や社会学や歴史学ももちろん必要でしょうが、他の重要な問題と同様に、哲学的研究も必要なはずです。他の分野の研究とは違って、哲学的研究の場合、主として「愛の定義」や、「愛はわれわれにどういう規範を要求しているか」などといった論理的・概念的な事柄が問題にされます。
こうした議論を通じて、愛について改めて考えを深めることができれば、すばらしいことではないかと思います。
■ 用語
ここでいう愛は、恋人や配偶者への愛を中心として、友人に対する友愛や家族への愛までを含むものです。ただし、主として人に対する愛のみを対象としています。
また、細かい話になりますが、日本語で「愛する人」と書くと、「whom I love わたしが愛を向けている人」を指しているのか「who loves someone 誰かを愛している人」を指しているのか曖昧になってしまいます。ゆえに、日本語として不恰好ですが、ここでは「愛をしている人」「愛をされている人」という表現を用いることにします。
花子が太郎を愛しているとき、花子は愛をしている人であり、太郎は愛をされている人です。愛が相互に成立している場合には、これがお互いにとってお互いに成り立ちます。つまり、花子は「太郎に対して愛をしている人」である一方、太郎も花子を愛しているならば、花子は「太郎の愛をされている人」でもあります。
■ 愛の定義
Helm の記事は、これまでに提出された愛の定義を「合一(union)説」「強固な関心(robust concern)説」「価値付け(valuing)説」「感情(emotion)説」の4つに分類しています。これは排他的な分類でも網羅的な分類でもないのですが、主として愛を「個人的態度」として定義する立場と、「人の関係性」によって定義する立場の2つに分かれるようです。すべてを紹介するのは大変なので、ざっくりと2つの方向性に分けて紹介してみましょう。
■ 個人的態度としての愛
愛を愛をしている人の個人的態度によって定義する場合、一番シンプルで分かりやすいのは、Helm が「強固な関心説」と呼んでいるものです。強固な関心説は、愛を、利他的な関心によって定義します。この立場としてあげられているのは、Frankfurt, Taylor, Sobleなどです。
たとえば、「太郎が花子が愛している」を、「太郎は、花子のための花子の利益に関心を持つ」という風に定義するわけです。
孫引きになりますが、Taylorの定義を紹介します。
要約: もし x が y を愛しているならば、x は y の利益や y とともにあることなどを望み、また x がこれらの望みを(少なくともそのいくつかを)持つのは、x は y がいくつかの確定的な特徴ψを持っていると信じており、その特徴のために y が利益を得たり、y とともにあることは価値のあることだと考えるからである。x はこれらの望みを充足することを、目的と見なしており、他の何らかの目的に対する手段とは見なしていない。
To summarize: if x loves y then x wants to benefit and be with y etc., and he has these wants (or at least some of them) because he believes y has some determinate characteristics ψ in virtue of which he thinks it worth while to benefit and be with y. He regards satisfaction of these wants as an end and not as a means towards some other end.
「確定的な特徴ψ」という部分がわかりにくいですが、この部分は、愛の対象となる人に価値を与えているような肯定的な特徴のことを言っていると思われます。たとえば「花子の笑顔がかわいいので、花子が幸せになるのは価値のあることだ」と太郎が考えているなら、太郎は花子を愛しているのです。
価値付け説や感情説も(少なくとも個人主義的なバージョンのそれは)、大きくは異なりません。
それらの立場は、愛をされている人の利益を望むことを、ある種の「感情」と呼んだり、愛をされている人が持っている「価値」と考える点で区別されます。どの立場も、「役に立つから利用してやれ」という道具的な欲求とは区別された、愛の対象それ自体の利益を問題にします。
なお、価値付け説に関しておもしろいのは「価値の発見」と「価値の創造」が区別されていることです。愛をされている人が利益を享受するだけの価値を持っているとして、その「価値」は、元々その人が持っていた価値を「発見」したのか、それとも「創造」したのか。つまり価値があるから愛するのか、愛するから価値があるのか。
これは、後述する「愛は正当化できるか」という問題との関係で重要になってきます。
Helm は、愛を個人の態度に還元するような定義に対し、一面では真実をついていることを認めながら、厳しい評価を下しています。
Helm にとって最大の問題は、これらの定義は弱すぎて、愛の「深さ」を説明できないことらしいです。単に利他的な関心を持つことが愛なのであれば、それは「好意」や「尊敬」とあまり変わりないことになります。しかし愛というのはわれわれ自身を大きくゆさぶり、人生を変えてしまうようなものではないかと言いたいようです。
Helm の議論はともかく、Kolodny(2003)のケースがおもしろいです。
Kolodny が、娘のクラスメイト、フレッド・サイモンを助けたいという基礎的衝動を抱いて目をさましたと仮定しよう。フレッドは Kolodony にとって、クラス名簿で名前を見たことがあるという以外、まったくの他人である。
Kolodny には、フレッド個人を助けることにこだわるようなポイントは特に何もない。ただ気がつくと、「サイモン坊やを...助け...なければ」と考えているだけである。
Kolodny はフレッドを愛していないように思われる。Kolodny がフレッドに対してとっている態度がいかなるものであろうとも、それは Kolodny の自分の娘に対する愛と同じ種類のものではない。
このケースのように、利他的な関心を何の理由もなく突然抱いた場合、その関心がどれほど利他的なものであっても、愛とは呼べないように思われます。この批判は、独立した精神的態度を一つ取り上げることで愛を定義する困難さをうまく突いています。
一方、単純な関心によって愛を定義する試みを不十分に感じる論者は、愛を、人の関係性に注目することによって定義しようとします。
■ 関係としての愛
合一説は、愛を「わたしたち we」の形成(あるいは形成したいという欲望)によって定義します。
わたしのためでもなく、あなたのためでもなく、わたしたちのために行為する一人称複数の主体の形成こそが愛の本質であるという立場です。Scruton, Solomon, Nozick などがこの立場らしいです。
極端な立場になると、「わたしとあなたの境界が消滅する」とか「両者の魂が融合する」などとうわごとのようなことを言いだしますが、少なくとも、「わたしたちのため」に行為するような集合的な利益主体を想定することは、それほど奇妙には思えません。
しかし、この説にも批判はあります。まずこの「わたしたち」が一体何なのかを明らかにしないかぎり、まともな説明とは言えないでしょう。一部の論者はこれをただの比喩としていますが、別の論者は、「わたしたち」は文字通り世界に現われた新しい事物であると考えます。
そうした存在論的問題以外にも、この説を取ると、「愛による自己犠牲が理解できなくなる」という批判があります。合一説の場合、愛をされている人の関心は、私たちの関心となり、愛をしている人自身の関心にもなってしまうので、私たちのための行為はすべて本人が望んでやっていることになります。つまり、愛する人のために何かを我慢したり断念したりすることは、定義上存在しないことになります。これは奇妙な帰結でしょう*。
また「私たち」の形成は、愛の特徴付けとしては弱すぎるように思われます。たとえば、会社のような法人組織も、個々のメンバーの利益とは区別された「わたしたち」の利益を追求するはずですが、会社組織のメンバーが愛によって結ばれているとはかぎらないでしょう。愛を定義するためには、形成される「わたしたち」についてもっと踏み込む必要があります。
Helm や Kolodny は愛を形成するような関係性が歴史を持つものであることを問題にしています。
家族や友人や恋人たちがともに過した際の心理や活動がそれらの関係性の内実を形づくっています。また、Rorty(1986/1993)も、愛の定義としてではないですが、歴史的に変動していくような愛を、豊富な事例とともに描いています。
Helm(2009)は愛を、人を焦点とすることで結びつく一連の感情の複合体として定義しています。これらの感情複合体は両者の関心の共有や相互依存によって形成されています。
Kolodny(2003)は、愛を、家族や友人や恋人の関係性を理由とする(従ってこれらの関係性によって正当化される)一連の心理学的状態としています。この際、恋人や友人同士の歴史的関係性を背景として、それらの関係性自体や愛される人を価値付け、特定の関心を持つことが愛の構成要素となります(本当はもっとだいぶ細かい定義がありますが)。
細部をどうやって定義するのかが難しいですが、個人的には、この方向で定義を与えるのが一番うまくいきそうに思えます。Helm の議論は「焦点」という概念が明確でないように思われましたが、Kolodony の議論はおもしろいです。
■ 愛は正当化できるか?
哲学の世界では、しばしば「原因による説明」と「理由による正当化」が区別されます。
原因による説明とは、原因を示すことで、何かが起らなければならないことであると述べます。一方理由による正当化は、理由を示すことで、何かがすべきことであると述べます。要するに、理由による正当化は、物理的現象の説明ではなく、社会的な規範にかかわるものであるわけです。
しばしば愛に原因はあっても理由はないと主張する論者がいます。つまり愛にはきっかけはあるが、特定の愛を正当化するような理由は無い。この主張は一見もっともらしく思われますが、愛には理由があるという議論にも説得力があります。
Kolodny(2003) は、愛に理由があるという主張を擁護するために3つの議論を提出しています。
■ (1)一人称視点からの議論
愛を経験する人としての、一人称視点から見ると、愛を構成する感情や動機は、適切なものに思われます。たとえば、恋人に幸せになってほしいと願うとき、その欲求は、何の根拠も持たないものではなく、規範にかなった適切なものとして感じられます。煎じつめれば、「理由があるような感じがするだろ!」ってことですが、これも理由説を信じる動機の1つにはなるでしょう。
■ (2)三人称視点からの議論
われわれはしばしば三人称視点で、愛を不適切であると主張したり、愛が無いことを不適切であると主張します。
不実な夫を愛する妻に苦言を呈したり、子どもを愛さない親に不満を述べたりします。愛に理由が無いのだとすると、これらの倫理的主張は何を述べているのでしょう。
■ (3)感情や動機には理由がある
感情や価値付けや動機が愛の構成要素であると言われますが、これらの精神的状態には、ふつう理由があります。よって愛にも理由があるはずだという議論です。
一例として、感情はしばしば認知的な内容を前提としており、これが感情の理由であると言われます。
たとえば、わたしが、近所の犬を「噛みつくかもしれない」という理由で怖がっているとします。ところが、このとき「この犬は噛みつくかもしれない」という評価がわたしの恐怖の理由となっています。しかし、実は近所の犬は老犬で、人に噛みつくことなどありえないことが明らかになったとしましょう。このとき、わたしの恐怖は認知的な支えを失い、理由のない不適切なものであったことが判明します。
感情に理由があるならば、愛を構成する感情にも理由があるはずであり、よって愛には理由があるはずです。
さらに Kolodny のような論者は、愛を理由によって個別化されるものとして定義するので、「理由説を認めれば、そうした定義が可能になる」というのも、理由説の動機になるでしょう。
一方、理由説には以下のような批判があります。これに対する反批判も紹介しておきます。
■ 人は、特定の理由をもとに人を愛することを選択するわけではない。
複数の理由を比較考量し、「よしこの人を愛そう」などと決断する人はあまりいません。「恋に落ちる」と言われるように、人はむしろ非選択的に誰かを愛するようになります。これは、一見すると、「愛に理由がある」ことと矛盾するように思えます。
しかし、何かが意志的でないことは、必ずしも理由の不在を意味するわけではありません。たとえば、先に例にあげた「感情」はふつう選択的に抱かれるものではなく、非意志的に湧き起こるものです。感情に理由があるとすれば、愛に理由があることも不可能ではないでしょう。
■ 愛の対象は代替不可能である。
誰かを愛することが特定の理由によって正当化されるとすると、それらの理由をよりよく満たす人々もまた愛の対象として同様にふさわしいことになります。
たとえば、「花子はとても眼鏡が似合う」というのが、太郎が花子を愛する理由だったとしましょう。太郎の愛がこの理由のみによって正当化されるとすると、花子よりも眼鏡が似合う良子は、太郎の愛の対象としてよりふさわしいことになります。太郎は花子への愛を捨て、良子を愛すべきなのでしょうか。
無論現実には、「そばにいてくれれば誰でもよかった」とか「かっこいい方がいい」とか「お金を持っている方がいい」ということはあるでしょうが、愛の対象を代替することはふつう倫理的によろしくないこととされています。理由による正当化が愛に関する規範だとすると、この愛の対象の代替不可能性は何によって生じるのでしょう。
しかし、すでに述べたようにKolodny のような論者は、愛を正当化する要素を、歴史的関係性としています。「眼鏡が似合う」「かわいい」「若い」などのような個人的特質と違い、花子と太郎がこれまでに築いた関係性は、歴史を書き換えないかぎり、他の人間によって満たされることはありません。
よって代替不可能性の問題は、理由の不在を示す証拠にはなりません(ただし、Kolodny はこの代替不可能性と、正当化に必要な一般性を両立させようとしていろいろ苦労しているようです。この辺りの議論が成功しているかどうかは判断が分かれるところかもしれません)。
以上、きわめて不十分ですが、愛に関する哲学的議論のさわりを紹介しました。愛に関する哲学研究がもっと盛り上がりますように!
■ 文献
- Helm, B. W., 2009, "Love, Identification, and the Emotions", American Philosophical Quarterly, 46:39-59.http://edisk.fandm.edu/bennett.helm/Papers/Helm-Love_Identification_and_Emotions.pdf
- Helm, B. W., 2009b, "Love" http://plato.stanford.edu/entries/love/
- Kolodny, N., 2003, "Love as Valuing a Relationship", The Philosophical Review, 112:135-89.http://sophos.berkeley.edu/kolodny/LVR.pdf
- Rorty, A. O., 1986/1993, "The Historicity of Psychological Attitudes: Love is Not Love Which Alters Not When It Alteration Finds", in Badhwar (1993), 73-88.
■ 感想
ふだんのゆるふわ形而上学読書会メンバーと数名で開催。
本の性格を考えると、文学系の人が来てくれたのは大変よかったですね。わたしも文学理論や文学の哲学の話は元々の関心ではあるんだけど、ふだんあまりその話をする機会がないので、そういう話がいっぱいできて満足。
なお、3月には著者さまを呼んで開催する公式検討会もある予定だよ!
■ 『フィクションの哲学』について
- 前半「作者と語り手の分離」という定式化は二つに分裂してないか?
- 1つは、物語的な語りの特徴として捉えられた「視点の分離」(あまりうまく表現できない)
- もう1つは、単純に「わたし」が誰を意味するか。および真偽の追求先が誰にあるか
- ノンフィクションは前者は満すけど、後者は満さないよね。
- この本は、重要な主張が変なところにさらっと出てくる。
- しかもかなり大胆な主張してるよね。
- この本の特徴付けだと、私小説って扱いがたくない?
- ウォルトン+清塚の立場って、なんで非主張説のバリエーションじゃないの?
- 作者の関与を認めないから?
- ウォルトン+清塚的には、フィクションというのは「想像を指定する道具」で、使用目的に沿った「公認の想像」が作品の内容とされる。
- 道具の目的は何によって決まるの?というところで、作り手の意図を持ち出したくならないのだろうか?
- ウォルトン+清塚的には、「岩に入ったひび割れがフィクションの機能を持つかもしれない」(スワンプテクスト by kugyo)
- しかしたとえば、アマゾンの奥地で、「鉛筆の機能を持った木の枝」が発見されたとして、それを「鉛筆」と呼ぶか?
- (言わなかったけど)最近の慣習論とか機能論だと、機能を意図に還元しないで、「機能は複製元となった祖先との因果作用によって決まる」という説もある。ただその場合でも、清塚+ウォルトンの「岩に入ったひび割れがフィクションに見える」(スワンプテクスト)は、フィクションの機能を持たないはず。
- あと、岩に入ったひび割れがフィクションに見える例って、アニミズム信仰みたいな話であって、「擬人化」してないか?というのも気になる。「想像を指定する作者を想像してる」のでは?
- conchucame氏の「語り手を想定するのはなぜなの?」という話。
- フィクションの読み方がわからない読者というのも、かつてはたくさんいたはずで、近代読者の誕生みたいな話とも無関係ではないよね、とか。
- あと、最終的には「慣習」を持ち出して、説明が打ち切られるんだけど、慣習って何?って話はもう少しつめたいかな。「規約」だとすると、明示的な合意が必要なので、結局意図に訴えるしかないんじゃないか?とか。
■ 打ち上げにて
- ベタに「本質主義」(に見える立場)を擁護しており、しかも勝てると思ってる人たちがいるというところで驚かれる(主にわたしですが))。
- 分析哲学は「本質主義」を恐れない。
- なぜか?(以下「本質主義」という言葉はとてもルーズに使います)
- 論理実証主義以来、ずっと対決してきた。分析美学の人たちも、「作者の死」を云々するヨーロッパ系の人たちとずっと対決しつつ作者や意図みたいな概念を復活させてきた。
- あと、論理実証主義がある種の「形而上学批判」を徹底させた上に、失敗して派手に死んでくれたおかげで、形而上学批判の問題点がクリアになったという側面もある。
- 論理実証主義は歴史上はじめての「間違えることができた哲学運動」。
- 間違えることができるくらいに明晰な主張をし、しかも研究プログラムをしっかり遂行しようとした(そして頓挫した)。
- そのおかげで、「検証主義」「知覚への還元主義」「規約主義」などというひとつひとつはもっともに見える哲学的主張の問題点が明らかになった。
- 間違えることができるというのは自信につながった。
- (このときは言わなかったが、あとで考えると)自然言語の扱いが単純に進歩したというのもあるよね。「自然言語は曖昧であり、明確な定義や真偽はない」って言われたときに、「それは単純におまえが努力してないからだ。様相文の分析も、時制の分析も、行為文の分析も、反事実的条件法の分析も、みんなできるようになったじゃないか」と言えるようになったというか。
- 一番素朴に見える立場をきちんと批判するのがいかに難しいかというのを噛みしめる日々なので、こういう風にふだん会わない専攻の人と話すと新鮮。
- 「いやわたしは全然勝てると思ってるので」ということで、テクスト論との対決をちょっとする。
- 擁護したい主張は、「解釈に関する言明は真理値を持つ」「その際作者の意図は真偽を左右する」「意図に関する言明も真偽を持つ」などであった。
- 懐疑主義への対応よろしく、「何でもあり派」「複数の矛盾する解釈を許す派」「読者を変数にする派」などに分けて対応する。
- しかし改めて考えると、ほとんど教科書的な懐疑主義への対応に近いものになった。「相手は過剰な不可謬性か極端な懐疑の二択を要求してくるので、そもそも不可謬性は必要ないことを確認する。可謬的な主張の中でよりましなものを選べばよいことを確認する。しかも極端な懐疑はなかでも特にもっともらしくないものであることを確認する」とか。
- この辺の話は、それぞれの業界においていろんな常識があるよねみたいな大人な対応とか、ベタに論争しようとする人とか、対立点をずらそうとする人とか、いろんな言説戦略があっておもしろかった。
- というか、「本質主義」の否定として持ち出されていたのは、繰り返し何度も見たような「柄谷行人が流行らせた過剰に懐疑主義的な観察決定論(行為の事後決定論)」だった気がする。「端的な主張というものはなく、観察者によって主張とされているものだけがある」みたいな。
- kugyo氏は、「解釈に真偽はなく、おもしろい解釈とつまらない解釈があるだけ」という立場らしい。
- 『こころ』を読んであきらかにまったく関係のない小説の内容を読み取る読者(『こころ』を読んでるのに『ももたろう』だと思ってしまう人)は、間違ってるのではなく、極端におもしろくない解釈である、のか?
- じゃあ『こころ』を読んで、全然別のストーリーを読み取ってしまうんだけど、そのストーリーがすごくおもしろかったらどうする?
- 『こころ』についての言明であるということを確保するのが、まずかなり大きな問題になるらしい(細部はよくわからなかった)。
- 意図に言及しないで、どうやってあるテクストを個別化するの?
- 徹底したテクスト論者なので、『こころ』を文字の途中とかで切ったものも『こころ』のテクストらしい。厳密に一致はしないんだけど、一致する部分がかなりあるので、何とか同じテクストについて語ってるように見える?
- 最終的には、独我論 + 心に関する機能主義 + 汎テクスト主義みたいなものになるらしい...。そんな過激な立場だったとは知らなんだ。
- 解釈言明が真理値を持つとして真理メーカーはどこにあるの?と言われる。
- そういえば、David Lewisの"Radical Interpretation"は、デイヴィドソンの話はあまりしないんだけど、「根源的解釈」を「意味に関する事実は物理的事実にスーパーヴィーンするか」問題への解答として理解するという感じの内容だった気がする。
- http://philpapers.org/rec/LEWRI
- 善意の原則とか、いろんなルールを駆使して、欲求、信念、意味に関する事実を相互に決定していくイメージ。
- 細かい部分はともかく、わりとこんな感じで決まるんじゃないかというイメージは持ってるかなー。このプロセスって結局最終的には、本人の生物学的状態とか行動(not 行為)から決まるはずなので、それが真理メーカーになるかな。いや、正直そんなに自信はないけど。あとこれはもちろんフィクションにそのまま適用できる話ではない。
- うまくいくかどうかわからないこの手の試みをあげるより、もっと、なぜ(現状では、有効な真偽の決定手順など無いのに)「それでも真偽はあるはずだと期待するのか?」という話をした方がよいような気もする。
- 人がふだん行なっている解釈(解釈という言葉もあまり好きではないので別の言い方をすれば理解)は、おもしろさではなく、真偽を問題にしているように思える。「この文書で太郎はpと主張している」は、「この文書で太郎はpと主張しているという解釈はおもしろい」ではなく、「この文書で太郎はpと主張していることは真である」と言っているように見えるし、その否定、「この文書で太郎はpと主張していない」は、「この文書で太郎はpと主張しているという解釈はおもしろくない」ではなく、「この文書で太郎はpと主張していることは偽である」と言っているように見える。
- そして、それらの言明と、それらの言明に対する判定が、まったく何の合理性も持たない行きあたりばったりの判定を行なっているようには見えない、というあたりがポイントか。
- あと「解釈のおもしろさ」が問題になることがあるのはわかるのだが、それってかなり限定された特殊な文脈であって、常にそうではないよねと思っているかな。
あしたの検討会のためのレジメです。
- 検討会で人に見せたら変更したくなると思うけど取りあえずアップしておきます。
- 書き方がえらそうでごめんなさい。
■ 本書の目的
「フィクションの概念分析」
■ フィクションの概念分析とは何か
「フィクション」という概念に関する諸原理を明らかにする。
ただし、
「フィクション」は多義的である。
たとえばフィクションには以下のような相異なる意味がある。
- (1)虚偽
- (2)実在と対応しないもの
- (3)文学作品
本書は、
(3)の意味を基本としつつ、
- より包括的で
- より見通しのよい
フィクション概念を提案する。
より包括的であるとはどういうことか?
- 絵画、彫刻、演劇、映画などの非言語的作品も包括する。
より見通しのよいとはどういうことか?
- 問題領域についてよりよい理解が得られる
- 一貫したシンプルな原理によってフィクション概念の本質を捉える
- フィクションにかかわる諸事象を説明できる
■ 評価の観点
「より見通しのよい展望」(P17)について、本書にはあまり説明がない。
しかし、アドホックで非一貫的な概念の拡張は、明らかに理解を阻むものである。
また「見通しのよい」というからには、フィクションにかかわる事象をうまく説明できなければならない。
従って、
- 一貫したシンプルな原理に従う概念を提示しているかどうか
- フィクションにかかわる事象をうまく説明できるかどうか
が本書に対する評価の観点になる。
フィクションにかかわる事象をうまく説明するとはどういうことか?
「線引き問題」(ある対象をフィクションに含めるかどうか)については以下のような対応が求められるはずである。
- 「非フィクション」とされてきた対象を新たにフィクションに含める場合は、
- 従来の区別が非一貫的な基準に基づくものであったこと
- より一貫した原理に従えば、当の対象がフィクションに含まれること
を論じるべきである。
- 「フィクション」とされてきた対象を非フィクションとする場合は、
- 従来の区別が非一貫的な基準に基づくものであったこと
- より一貫した原理に従えば、当の対象がフィクションに含まれないこと
を論じるべきである。
それ以外の問題(作者の問題、フィクションの特徴はあるか...etc.)については、以下のような対応が求められるはずである。
- シンプルな原理によって明確な説明を与えること
- なるべく非直観的な結論に陥らないこと
■ 本書の結論
本書の議論は、以下のように要約される。
- 文学的フィクションの基本的な特徴は「作者と語り手の分離」である。
- 「作者と語り手の分離」はごっこ遊びの理論によって説明できる。
- 非言語的フィクションはごっこ遊びの理論によって説明できる。
- 従ってごっこ遊びの理論に基づくフィクション概念こそが、より見通しがよくより包括的なフィクション概念である。
従って、議論の検討のためには、清塚の「ごっこ遊びの理論」が上にあげた要請に従っているかをチェックすればよい。
■ 1章 フィクションの統語論
■ 本書の結論
- フィクションを定義づけるような一連の統語論的特徴(虚構記号)はある。
- それらの統語論的特徴は、必要十分条件群を構成する。
- それらの統語論的特徴は、「作者と語り手の分離」の表れである。
- しかし統語論的考察のみによってフィクション概念を明らかにすることはできない。
統語論的特徴としてあげられているもの
- (a)過去を表現しない過去形
- (b)体験話法 / 自由間接話法
- (c)作者と語り手の名前の不一致
従って、本書によれば、
(xがaをもつ) OR (xがbをもつ) OR (xがcをもつ) <==> xはフィクションである。
以下のような事例がこれに対する反例となる
十分性に対する反例:
a, b, c のいずれかを持つが、フィクションでないもの
必要性に対する反例:
a, b, c をいずれも持たないが、フィクションであるもの
■ 慣習的特徴と統語論的特徴
慣習的特徴とは?
必ずしも必要ではないが、それを持つことによっていかなる行為をしているか理解しやすくなるもの。
- おじぎの際に、帽子を脱ぐこと
- 警察官が職務の際に制服を着用すること
- 「わたしは約束する」
帽子を脱がなくてもおじぎできるし、制服を着用しなくても警察官の職務を遂行できるし、「わたしは約束する」という文を使わなくても約束できるが、それらがあることによって「何をしているか」を容易に理解させられる。
統語論的特徴とは?
本書が何を統語論的特徴と呼んでいるのかわかりにくいが、一般に統語論的特徴を問題にできるのは、反事実的条件法が過去形によって表現されるケースなど、意味論的構造と統語の構造が密接に結びついたケースであると想像される。
これは、「なくてもよい」という性格のものではないだろう。
たとえば「約束」には慣習的特徴はあっても、統語論的特徴は存在しないように思われる。
疑問
フィクションの統語論的特徴はあるのか? 清塚があげている虚構記号は慣習的特徴ではないか?
■ a: 過去を表現しない過去形について
「明日は...だった」という文はフィクション以外にも登場する。たとえば、フィクションではない過去の思い出話をするときにも、この表現を用いることはある。
ex. 「2年前の今日、僕は修論の準備をしていた。まだ半分しか書けておらず、とてもあせっていた。何しろ明日が修論の締め切りだったのだから」
以上のような語りの「僕」は文字通り話者を意味しており、語り手と話者の分離は生じていないように見える。
「(フィクションを含め、語りの臨場感を表現したい場合に)臨場感を増すために、『その日』や『次の日』ではなく『今日』や『明日』などの表現を使う」という方が自然な説明ではないだろうか。
■ b: 体験話法 / 自由間接話法について
他人の内面についての詳細な記述や、誰もいない場所からの記述など、「語りえない文」について。
われわれはふつう、自分が考えていることや考えていたことについてならば権威をもって断定的に語りうるが、他人が考えていることや考えていた事柄については、間接的な証拠にもとづいてしか語ることができない。p28
「語ることができない」というのはどういう意味か。「慎重な人ならばそのような断定は避けるべきだ」という倫理的な主張や「避けることが多い」という頻度の主張なら理解できるが、われわれにはそのような語りを行なう言語的能力がないという意味なら、明白に間違っていると思われる。
「間接的な証拠にもとづいてしか語ることができないp28」「推測的にしか語れないp29」というのはどういう意味か? 見間違いの可能性などを考えれば、われわれの語りの内のほぼすべてがそうである。しかし疑いを持つ十分な理由がない場合には、可謬的な主張を断定的に語ることはおかしくない。フィクションの場合に、他人の内面に関する詳細な記述が多いのは事実だろうが、程度の違い、量の違いにすぎないように思われる。
たとえば、
わたしの目の前の人物は、蠅がまとわりついてきて不快だと思っている。
この文がフィクション以外の文章に表われたとしても、統語論的な規則に違反しているとは言えない。
さらに言えば、自分の読心能力に自信を持っている人ならば、フィクション以外の場面でも他人の内面についても詳細な記述をくわえようとするだろう。自称読心家は、話者と語り手の分離をすることなく、周囲の人間の内面の詳細について真剣に主張する。
自称読心家は愚かかもしれないが、統語論的規則を犯しているわけではない。
また、「物語の内容に照らせばだれもいないはずの視点から、延々と克明な記述が展開されることになる」ような語り(p30)も「語りえない文」であると言われているが、これも疑わしい。
この議論は、「われわれは直接目で見たものしか報告できない」という奇妙な前提に立っているように思われる。しかし後から密室の状況について報告を受け、特に疑う理由がなければ、密室の状況に関する記述を断定的に行なってもおかしくない。もしそれが「語りえない文」であり、フィクションのなかにしか登場しないのならば、自分が生まれた以前の事柄について述べる歴史家もフィクションを語っていることになってしまう。
通常考えられないほど他人の内面や状況について詳細な記述があるというのは、単に「話を盛り上げるための大げさな語り口」ではないだろうか。
■ c: 作者と語り手の名前の不一致
「作者と語り手の分離」を満たすものがフィクションであるとすれば、フィクション以外に、作者と語り手の名前の不一致が生じるものはないだろう。現実の話者と語り手が同一であるにもかかわらず、名前が異なるというのはまるで意味がわからないからである。
しかし「名前」はそもそも統語論的特徴なのだろうか。
仮にそれが統語論的特徴なら、問題にすべきなのは、単なる記号の列としての「名前」であり、指示された人物ではない。
つまり、作者と語り手が同性同名であった場合には、両者の名前は同じなのだから、この虚構記号は存在しないことになる。
p34周辺には「作品は解釈されたテキストである」という主張がでてくるが、仮にこの主張が正しいとしても、「解釈」や「文脈」は意味論や語用論に属するものであって、統語論的特徴ではない。
ただし、この要素を、フィクションの十分条件と見なすことについては異論はない。
■ ノンフィクションはフィクションか
ノンフィクションにも虚構記号は表われるという主張に対し、清塚は以下のように反論している。
キャロルがこの種の事例の具体例として想定しているいわゆる「ノンフィクション小説」は、本章で見てきた一連の虚構記号をふんだんに用いている。つまり、そこには過去を表さない過去形や、自由間接話法や、作者と語り手の名前の相違といった特徴がごく普通に登場する。そのかぎりで、これらの作品は、現実の作者その人によるストレートな事実報告とはみなしがたい非現実の語りによって構成されていると考えざるをえない。p45
この中で、唯一「名前の相違」だけは、フィクションであることの十分条件になっていると思われる。しかし作者と語り手の名前が異なるノンフィクションというのは想像しがたいのだが、どういう作品を想定しているのだろう。
一方「過去を表わさない過去形」や「自由間接話法」については、それらが「語られえない」という議論の方が疑わしい。
しかもノンフィクション小説に書かれていることは、通常直接の著者の語りと見なされているし、作者と語り手の分離は生じないのではないだろうか。
たとえば、トルーマン・カポーティの『詩神の声聞こゆ』に登場する「私」は普通カポーティ自身と見なされている。
外交官の訓示を聞きに行くのに、私はミセス・アイラ・ガーシュインと、元ボクサーでいま歌手のジェリー・ローズという角刈りの筋骨たくましい男と、一台のタクシーに同乗した。
三島の『仮面の告白』などとは違い、この「私」を著者自身と解することにためらいは無い。
「私」が登場しないタイプの三人称的ノンフィクションの場合でも、地の文は著者の意見と見なされるのが普通だろう。知りえないと思われる状況について詳細な記述があったとしても「著者自身が大げさな記述を行なっている」と見なされるだけではないだろうか。不正確な記述について著者自身に問いただすことがあってもおかしくはない。問いただすことに対して「野暮である」とか「何を大袈裟な」という反応は返ってくるかもしれないが、フィクションの語り手の責任を著者に問いただすようなカテゴリーミステイクは生じていない。
またわれわれが不用意な断定を「大めに見る」ことが多いとしても、それはわれわれが日常そこまで正確さを要求しないというだけのことにすぎない。フィクション概念とは何の関係も無いように思われる。
[補足と疑問]
清塚の言う「作者と語り手の分離」を狭く解釈した場合、清塚のあげている虚構記号は(論理和としても)まったく必要十分条件になっていないように思える。清塚のあげている要素の内、「過去形」と「体験話法」は単に語りを盛り上げるための技法であって、フィクションの場合以外にも表われるように思える。
ひょっとして著者は、「物語的語り口」それ自体を広い意味での「語り手と作者の分離」と見なしており、「物語的語り口全般」をフィクションと見なしているのだろうか?
しかし歴史書や日記はフィクションに含めないと書いてある(p4)。
おそらく、この点は「作品をおしなべてフィクションとして扱う」というウォルトン流の方針と一貫しているのだろう。ゆえに、後半にまとめて検討した方がいいように思われる。
■ 2章: フィクションの意味論
■ 存在に関する立場
- (A)xがフィクションである <=> xは指示しない名前しか含まない
- (B)xがフィクションである <=> xは指示しない名前も含む
- (C)フィクションであるかどうかと指示しない名前を含むかどうかは独立
本書の立場は(C)である。
(C)に関する清塚の議論
C-1: 非現実の対象を指示しても虚構的な発言とはかぎらない。
(虚構に関する発言と虚構的な発言の違い)。
C-2: 非存在を指示するわけではない虚構的な発言もある。
a) 実在の登場人物だけが登場する小説。
b) 非存在の出来事が一つもない小説。
著者によれば、ノンフィクションもフィクションなので、存在するもの・出来事しか指示しないフィクションもあるらしいが、この議論自体がかなり疑わしく思える。
ただし、ノンフィクションもフィクションであるという見解に対する議論はすでに扱ったのでここでは置いておく
■ 真偽に関する立場
虚偽説(虚構的言明は虚偽である)の否定。
省略
■ 3章
省略
■ 4章 フィクションの言語行為論
本章では虚構的言説を言語行為(発語内行為)として分析する立場が検討される。
著者はこれらの分析に対して否定的な立場を取っている。
著者は言語行為論的なフィクション論を寄生説と独自説の二つに分けているが、独自説を否定する議論だけで、議論はつきていると思われるので、その議論のみを扱う。
カリーやラマルクなどの論者によれば、虚構的言説は独自の発語内行為であり、以下のような意図を持って発話される。
- (1)受け手が、文面どおりの発語内行為が行われている、とごっこ遊び的に想像すること、
- (2)受け手がUの意図(1)を認識すること、
- (3)受け手がUの意図(1)を認識し、そのことにもとづいて、意図(1)のとおりのごっこ遊び的想像を行うこと
著者の反論
- 意図による分析ではフィクションを扱いづらい。
- なぜなら、多くのフィクションには間接的な形で受け手に情報を伝達しようという意図が伴っているからである。
著者は、カリーやラマルクと自身の対立点は、ノンフィクション(間接的情報伝達意図が伴うもの)をフィクションに含めるかどうかだと弁明するが、これはよくわからない(そもそも意図による区別は、後での議論でも否定しているのではないか)。
- まず、フィクションだろうと間接的な形で情報伝達意図を伴うことがある(経済小説のような場合)。
- しかし「間接的」「直接的」という区別ができているのであれば、それを明確にしていけばよいだけである。
たとえば、「間接的」な意図によって実現される情報伝達は、発語内行為というよりは発語媒介行為のように思われる。よって、虚構的言明は、上記の意図をもってなされる発語内行為であるが、それが発語媒介行為の意図をも伴うことがあると言えばよい。
■ 第5章 ごっこ遊びの理論
ウォルトンのごっこ遊びの理論に依拠する清塚によれば、フィクション作品は想像によって構成されるごっこ遊びmake-believeのゲームである。
想像とごっこ遊びについて簡単にまとめると、
- 想像は命題的な内容を持つことがある。
- 想像はその対象を持つことがある。 ex. 切り株を熊にみたてる。
- ごっこ遊びのゲームとは、与えられた小道具propを対象として、特定の想像に興じるゲームである。
- その際、ごっこ遊びのゲームにおいては、背景的規則(生成原理)が対象と想像を結びつける。
- また、ごっこ遊びのゲームにおいては、小道具が指定する公式の機能による公認の想像と非公認の想像がある。
- フィクション作品はごっこ遊びの小道具である。
■ 想像が命題的な内容を持つとはどういうことか?
命題的な想像とは、「想像する」という語が完結した文の形を目的語に持つ場合に言及されているような想像のことである。
ex. 「太郎は熊がダンスすることを想像する」
ここで想像は、命題的態度と呼ばれるもののバリエーションとなっている。
この命題的想像の概念がウォルトンの議論のひとつのポイントになっている。
この際、「想像」はなぜ命題的内容を持つと言われるのか?
清塚はあまり踏み込んでないが、何かが「命題的」であるということは、それほど自明ではないだろう。
以下、レジメ作成者がポイントだと思う点をあげておく。
【真偽】
「熊がダンスをする」のような文によって同定される命題は真偽を持つ。
「太郎は熊がダンスすることを想像する」のような場合でも、太郎の想像は真であったり偽であったりするように思われる。ゆえに想像は真偽を持つ。このことは、「命題的な内容を持つ」と言われることの一つの理由になるだろう。
【帰結】
「熊がダンスをする」のような文によって同定される命題は論理的帰結を持つ。
ex. 「熊がダンスをする」 -> 「何かがダンスをする」
一般に、q が p の論理的帰結であるとき、以下の p', q'についても q'はp'の論理的帰結であるように思われる。ゆえに想像は帰結を持つし、論理的帰結について閉じていると考えられる。これもまた想像が命題的な内容を持つと言われる理由になるだろう。
p': 「x が p を想像する」
q': 「x が q を想像する」
たとえば、太郎が熊がダンスをすることを想像しているとき、太郎は何かがダンスをすることを想像している。
後者の想像は太郎によって意識されてはいないかもしれない。しかし何かがダンスをすることを想像せずに、熊がダンスすることを想像することは不可能であるように思われる。
■ 評価
命題的想像という概念を持ち出すことによって何が可能になっているか?
=>「作品世界」やフィクションの「内容」という困難な概念に、より詳細な規定を与えられる
=> 視覚的なフィクションについても内容を扱える
なお、「世界」も「内容」も「命題」と相性のよい概念である。
フィクションと呼ばれる作品は、一般に、「ストーリー」や「作品世界」と呼ばれるような一連の内容を持っているように思われる。
想像の命題的な内容に注目することによって、これを簡単に規定できる。
つまり、
鑑賞者が想像する内容の内で、作品が指定した「公認の想像」の命題的内容こそが、作品の内容である。
と言えばよい。
それ以外の方法で同じことを規定するのは難しい。
たとえば、「作者が意図した内容」に注目する場合、作品の内容を規定する叙述と、より間接的な意図の違いを規定するのが難しくなる。
テキストに注目した場合は、「文」と「内容」の関係を扱うのが困難であるし、作品世界についての単純な叙述と、それ以外の主張や命令や疑問などの違いを区別するのが難しい。
また視覚的作品を同じ方法で扱うことはほぼ不可能だろう。
逆に、この議論の中で、理論的負荷がかかっているのは、「公認の想像」と「非公認の想像」を分ける部分だと思われる。清塚やウォルトンは慣習を持ち出すことで説明を済ませているが、その詳細はあまり明らかにされていない。
■ 6章: 視覚的なフィクションをめぐって
■ フィクション/ノンフィクションの連続性を巡る議論
清塚は、フィクションとノンフィクションの連続性について以下のように主張する
- 清塚の依拠するフィクション概念は、ごっこ遊びの理論によって明確な規定を与えられている。
- ただしそこにフィクションとノンフィクションの区別は存在せず、作品のかなりの部分がフィクションとして説明される。
- 一方、フィクションとノンフィクションを区別すべきだという論者は、区別のための明確な説明を欠いている。
- 一貫した説明を与えようとすれば、フィクションを清塚のように扱うべきである。
しかし、フィクション / ノンフィクションの区別については、もう少し追求できると思うので、この区別を擁護する議論のバリエーションを2つ提出する。
■ 意図による議論
まず「信じつつ想像する」ことと「真偽に頓着せずに想像する」ことを区別しよう。
真偽に頓着せずに想像するとは、想像の真偽を気にせずに想像することである。
信じつつ想像するとは、「50年前、この場所は草原だったんだ」と言われて想像する場合のように、信じている命題を想像することである。歴史史料館にあるような人形による再現風景のような小道具は、「信じつつ想像する」ごっこ遊びのゲームを構成する。
さて、ある作品がノンフィクションであるとは、作品を構成する発話の意図が受け手に「信じつつ想像すること」だけを求める場合である。一方ある作品がフィクションであるとは、作品を構成する発話の意図が受け手に「真偽に頓着せずに想像すること」を求める場合もあるときである。
■ 作品の機能による議論
ウォルトンや清塚も、作品によって促される想像のなかには、作品の機能によって規定された「公認の想像」と「非公認の想像」があることを認めている。
作品がある想像を公認し、ある想像を公認しないというというケースを認めるなら、作品が「信じつつ想像する」ことを公認し、「真偽に頓着せずに想像する」ことを公認しないというケースもあってよいように思われる。ノンフィクションと呼ばれるような作品は、「信じつつ想像する」ごっこ遊びのゲームをその機能とする。
ある作品がノンフィクションであるとは、作品によって規定された「公認の想像」が「信じつつ想像する」ことだけであるときである。
■ 7章
省略
■ 本書への評価
感想的にちらほらと。
いくつかの議論は、受け入れがたい。特に「ノンフィクションもフィクションである」というあたりは何を言っているのかわからない。
しかし「語り手と作者の分離」という規定とごっこ遊びの理論を結びつけるあたりはうまく機能していると思った。統語論的特徴や意味論的特徴にこだわるのはやめて、「語り手と作者の分離」について、ごっこ遊びの理論との関係を直接詳細に論じておくべきではなかったのか?
ウォルトンの議論を全面的に受け入れるのはやめて、真偽とフィクションの関係についてもう少し踏み込むこともできたのではないか?という部分が残念。
「清塚邦彦『フィクションの哲学』(非公式)合評会」というのをやります。
内輪で数人で検討するだけですが、興味のある方はぜひ。
わたしもレジメを書く予定です。
清塚邦彦『フィクションの哲学』(非公式)合評会
日時 1月24日(日曜日)
13:00より
場所 東京大学本郷キャンパス
法文二号館2213
美学芸術学研究室
-> 前:「コニー、サイダー『形而上学レッスン(存在のなぞなぞ)』」
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