2007年1月
http://www.city.hanno.saitama.jp/akebono/
この公園は、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンさんの『ムーミン童話』の世界を取り入れ、「自然との共生・自我と自由の尊重」という『ムーミン童話』に通ずる理念を掲げています。
(ちょっと形のちがう)ムーミン屋敷があるようである。
いつか行こう。
ku:nel の「ムーミンのひみつ。」特集結構よかった。ヤンソン島の写真がたまらない。というか今日、テレビでムーミン特集をやっているそうだが、テレビがないので見られない私がいる。
以下は何の関係もないメモ。
『ゾンビ映画大事典』
伊東美和
洋泉社、2003
持っていると(たとえ話など)何かに役立ちそうな予感がするのだが、今のところ用途が思いつかないでいる。
小林よしのり
幻冬舎、2001
なるほど、現在は幻冬舎から出ているのだな。
今こそ読み返すべき時ではないだろうか。
(今、という部分に特に理由づけはないが)。
W.G. ライカン (著), William G. Lycan (原著), 荒磯敏文(訳), 鈴木生郎(訳), 川口由起子(訳), 峯島宏次(訳)
勁草書房、2005
■ 感想
おもしろかった。
地味にギャグが多い件について。
なぜ私たちは、サンタクロースは実際にいたのだが、彼についての伝承はすべてひどく間違っている、とは言わないのだろうか。もちろん、私たちは、そう言う代わりに、サンタクロースは存在しないと言う(このことを知らなかった人がいたなら、申し訳ない)。
p91
二人の哲学者が、固有名の直接指示説をたたえる宴を催しているとしよう。二人は輪になって踊り、「名前は名指すだけ!」とうれしそうに何度も叫び合っている。
p151-152
■ あらすじ
教科書なのであらすじも何もない。基本的に目次の通りなのだが、一応大雑把なストーリーだけ確認しておく。
第1章で意味を指示から考える説が否定される。これによって指示と意味を別個に考えねばならなくなるから、順番に考えましょうということになる。
1部は指示の理論。ラッセル説とオルタナティブの紹介。
2部は意味の理論。真理条件説がメイン。
3部は語用論。これは2部のつづきでもある。「使用」という方向から意味を見るとどうなるかという話。
4部はおまけ。
■ 目次
- 第1章 意味と指示
- Ⅰ 指示の理論
- 第2章 確定記述
- 第3章 固有名:記述説
- 第4章 固有名:直接指示と因果-歴史説
- Ⅱ 意味の理論
- 第5章 伝統的な意味の理論
- 第6章 「使用」説
- 第7章 心理説:グライスのプログラム
- 第8章 検証主義
- 第9章 真理条件説:デイヴィドソンのプログラム
- 第10章 真理条件説:可能世界と内包的意味論
- Ⅲ 語用論と言語行為論
- 第11章 意味論的語用論
- 第12章 言語行為論と発語内の力
- 第13章 さまざまな含意関係
- Ⅳ 暗黒面
- 第14章 隠喩
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。
コンパクト性定理の証明が3章のクライマックス。論理式→論理式の集合ときて、ついに論理式の無限集合になった。むずかしい。一応ここだけは、証明を写経しておくことにする。
ようやっと3章が終わった。
■3.11 コンパクト性定理
- 3.11.1 コンパクト性定理とは
- 3.11.2 コンパクト性定理の証明・パートⅠ
- 3.11.3 コンパクト性定理の証明・パートⅡ
- 【定理20】コンパクト性定理(compactnesstheorem)
- 論理式の集合Tが充足可能である⇔Tのすべての有限部分集合が充足可能である。
以下ではこれを証明するよ。
■前置き
Tが有限集合のとき、上記が成り立つのは自明であることを示す。
- Tの有限部分集合のうち、最大のものがTになる。
- ならば「Tのすべての有限部分集合が充足可能である⇒Tが充足可能である」は明らか(T自身が「Tのすべての有限部分集合」に含まれる)。
- また「論理式の集合Tが充足可能である⇒Tのすべての有限部分集合が充足可能である。」も明らか(「Tのすべての有限部分集合」はTを充足する真理値割り当てのもとで、充足される)
またTが無限集合であっても、「論理式の集合Tが充足可能である⇒Tのすべての有限部分集合が充足可能である」は自明である(「Tのすべての有限部分集合」はTを充足する真理値割り当てのもとで、充足される)。
よって証明すべきことは、
「Tのすべての有限部分集合が充足可能である ⇒ 論理式の集合Tが充足可能である」
ということのみである。
また「すべての有限部分集合が充足可能である」は長いので、以下縮めて「有限充足可能(finitely sastisfiable)である」ということにする。
■証明方針
証明すべきことは、「Tのすべての有限部分集合が充足可能である⇒論理式の集合Tが充足可能である」
言い換えれば、
- 「論理式の無限集合Tについて」
- 「どのような有限部分集合をとってもそれぞれを充足する真理値割り当てが見つかる」ならば、
- 「T全体を充足するような真理値割り当てが存在する」
以下ではこれを以下のような手順で証明する。
- 有限充足可能な論理式の集合Tは、ある都合のよい性質を持つ集合△に拡大できることを示す。
- △を使うと簡単にTを充足する真理値割り当てをつくれることを示す。
■証明その1
- 1.有限充足可能な論理式の集合Tは、ある都合のよい性質を持つ集合△に拡大できることを示す。
論理式の集合Tが有限充足可能であると仮定する。
すべての論理式をA1, A2, A3, ..., Anのような形で順番に並べる。
論理式の無限集合{K0, K1, K2, ..., Kn}を以下のように定義する。
- Kの定義
- (1)K0=T
- (2)Kn∪{An+1}が有限充足可能なら、Kn+1=Kn∪{An+1}とする。
- Kn∪{An+1}が有限充足可能でないなら、Kn+1=Kn∪{¬An+1}とする。
この時、すべてのKnについて以下が成り立つことを証明しよう。
- 【補助定理20-1】
- どのKnも有限充足可能である。
【補助定理20-1の証明】
(1) Tについての仮定よりK0(T)は有限充足可能である。
(2) Knが有限充足可能であると仮定する。このとき、
Kn+1(「Kn∪{An+1}」または「Kn∪{¬An+1}」)が有限充足可能である(☆)
と示せば、帰納法により補助定理20-1を証明することができる。
(3) (☆)の証明には、背理法を用いる。すなわち、(a)Knが有限充足可能であるのに、(b)Kn∪{An+1}が有限充足可能ではなく、(c)Kn∪{¬An+1}も有限充足可能ではないと仮定する。
(4) (b)より、Kn∪{An+1}の有限部分集合に充足可能でないものがあることになる。それはKnの有限部分集合Kn'に{An+1}を合わせた集合であるはずだ。なぜならば、{An+1}を含まないKnの有限部分集合は(a)より充足可能だからである。
(5) 従って、Kn'∪{An+1}が矛盾するようなKnの有限部分集合Kn'が存在する。
(6) 同様に(c)より、Kn''∪{¬An+1}が矛盾するようなKnの有限部分集合Kn''が存在する。
(7) (5)および(6)を変形すれば、「Kn'|=¬An+1」「Kn''|=An+1」を得られる。これは「Kn'∪Kn''」矛盾することを示している。
(8) しかし、Kn'∪Kn''はKnの部分集合なので、これは仮定(a)に反する。
(9) 仮定が誤りであったため、(☆)および補助定理20-1が証明された。■
以上より、論理式の無限集合{K0, K1, K2, ..., Kn}について、どのKnも有限充足可能であることが証明された。
ここでさらに{K0, K1, K2, ..., Kn}の合併集合を△とおく。△は以下のような性質を持つ。
- 【△の性質】
- (1)T⊆△
- (2)すべての論理式Aについて、Aか¬Aのいずれかが△に属す。
- (3)△は有限充足可能である。
このうち(3)だけは証明しておく。
- 【(3)の証明】
- △のどの有限部分集合△'も、それが含むAnのうち、番号が最大のものがあるはずである。その番号を仮にnとすると、△'はKnの部分集合である。補助定理20-1よりKnは有限充足可能であるから、Knの部分集合である△'も充足可能である。したがって△のどの有限部分集合も充足可能である。
■証明その2
- 2. △を使うと簡単にTを充足する真理値割り当てをつくれることを示す。
先に導入した△をもとにして、次のような原子式への真理値割り当てVをつくる。
- 【Vの定義】
- 原子式PiがVのもとで真である ⇔ Pi∈△
つまり、Vは△に含まれるすべての原子式だけに真を割り当てるような真理値割り当てである。このようなVについて以下が成り立つことを示す。
- 【補助定理 20-2】
- 任意の論理式Aについて、AがVのもとで真である ⇔ A∈△
これを示せば、Vは△に属するすべての式を充足することになる。T⊆△だから、Vは同時にTに属するすべての式を充足する。
【補助定理 20-2 の証明】 [Basis] Aが0個の結合子を含むとき、つまりAが原子式のとき、 AがVのもとで真である ⇔ A∈△ はVの定義より明らか。
[Induction step] (1) K個以下の結合子を含む論理式については、AがVのもとで真である ⇔ A∈△ が成り立っていると仮定する。
(2) このとき、K+1個の結合子を含む論理式についても、AがVのもとで真である ⇔ A∈△ が成り立っていることを言う。 Subcase 1. K+1個の結合子を含む論理式Aが¬Bという形のとき、 ¬BがVのもとで真である ⇔ K個の結合子を含む論理式BがVのもとで偽である ⇔ B∈△ ではない(帰納法の仮定より) ⇔ ¬B∈△ (△の性質(2)より) Subcase 2. K+1個の結合子を含む論理式AがB∧Cという形のとき、 B∧CがVのもとで真である ⇔ K個の結合子を含む論理式B, Cについて、BがVのもとで真であり、かつCがVのもとで真である ⇔ B∈△かつC∈△(帰納法の仮定より) このとき、B∧C∈△でないとすると、△の性質(2)より、¬B∧C∈△となる。 すると、{B, C, ¬B∧C}が△の部分集合となるが、この集合は矛盾している。これは△が有限充足可能であることに反する。 したがって B∈△かつC∈△ ⇔ B∧C∈△ である。 Subcase 3. AがB∨Cという形のとき、 B∨CがVのもとで真である ⇔ K個の結合子を含む論理式B, Cについて、BがVのもとで真であるか、またはCがVのもとで真である ⇔ B∈△あるいはC∈△(帰納法の仮定より) このとき、B∨C∈△でないとすると、△の性質(2)より、¬(B∨C)∈△となる。 ド・モルガンの法則より、¬(B∨C) は ¬B∧¬C と同値。 すると、{B, C, ¬B∧¬C)}が△の部分集合となるが、この集合は矛盾している。これは△が有限充足可能であることに反する。 したがって B∈△あるいはC∈△ ⇔ B∨C∈△ である。 Subcase 4. AがB→Cという形のとき、 B→CがVのもとで真である ⇔ K個の結合子を含む論理式B, Cについて、BがVのもとで偽であるか、またはCがVのもとで真である ⇔ B∈△でないか、あるいはC∈△ (帰納法の仮定より) ⇔ ¬B∈△、あるいはC∈△ (△の性質(2)より) このとき、B→C∈△でないとすると、△の性質(2)より、¬(B→C)∈△。 ¬B∈△、あるいはC∈△の場合、{¬B, ¬(B→C)}{C, ¬(B→C)}のいずれかが△の部分集合となる。しかし、これらはどちらも矛盾する。これは△が有限充足可能であることに反する。 したがって ¬B∈△、あるいはC∈△ ⇔ B∨C∈△ である。
(3) 以上より、すべての論理式Aについて、AがVのもとで真である ⇔ A∈△ が言えた。■
■ 証明終わり
上記により、次のことが言えた。
有限充足可能な論理式の集合Tは以下のような性質を持つ△に拡大できる。
- 【△の性質】
- (1)T⊆△
- (2)すべての論理式Aについて、Aか¬Aのいずれかが△に属す。
- (3)△は有限充足可能である。
また以下のようなVについて、補助定理 20-2が言える。
- 【Vの定義】
- 原子式PiがVのもとで真である ⇔ Pi∈△
- 【補助定理 20-2】
- 任意の論理式Aについて、AがVのもとで真である ⇔ A∈△
Vは△を充足するため、△の部分集合であるTも充足する。
従って、「Tのすべての有限部分集合が充足可能である⇒論理式の集合Tが充足可能である」を証明することができた。
- 【定理20】コンパクト性定理(compactnesstheorem)
- 論理式の集合Tが充足可能である⇔Tのすべての有限部分集合が充足可能である。
は証明された。■
■ 3.12 メタ言語と対象言語をめぐって
- 3.12.1 メタ言語と対象言語を区別しよう
- 3.12.2 意味論的に閉じた言語とパラドクス
- 3.12.3 タルスキによる言語の階層化とうそつきのパラドクスについての最近の考え方
- 対象言語(object language)
- 論理の研究のためにつくられた人工言語Lのことだよ。Lには「P、Q、R」などの原子式や「∧、∨、¬、→」などの結合子が含まれているよ。
- メタ言語(meta-language)
- 対象言語について話をするための言語だよ。本書では日本語や、「A、B」などの図式文字や、「⇔」などの便利な記号のことだよ。
この本では、対象言語とメタ言語を分けているから、両者を混同してはいけないよ。
- 意味論的に閉じた言語
- 対象言語としてもメタ言語としても使われる言語のこと。例えば日本語は意味論的に閉じた言語であるよ。意味論的に閉じた自己言語では、自己言及(self-reference)が可能になるよ。
- 自己言及はときに、意味論的パラドクス(semantic paradox)を生み出すよ。意味論的パラドクスの代表例は、うそつきのパラドクス(Liar paradox)だよ。
タルスキはうそつきのパラドクスを回避するために、意味論的に閉じた言語を考察の対象から外したよ。言語Lにおける真理の定義を別の言語ですることにしたよ。
こんな風な言語の階層化によってパラドクスは回避できたけど、最近はこれはやりすぎだったかもしれないと言われているよ。
(1)自己言及には無害なものも数多くあるよ。
(2)また、自己言及的な文を用いなくてもパラドクスをつくることができるよ。
つまり、パラドクスは文ではなく、文の使い方によって生み出されるってことだよ。
そこで最近の論理学者は意味論的に閉じた言語でパラドクスを回避する方法を模索しているよ。でも本書ではそこまでフォローできないよ。
某社のWeb検査を受けた。Web で受けられる試験。
これは楽でよい。実施も楽だろうから、ぜひ各社とも試験を Web 型にしてほしいものだ。せめて一次試験だけでも。
現在エントリー6件。
エントリーシート出すつもりのところがプラス1件。
だんだん自分でもわけがわからなくなってきたので、就職活動ノートをつくった。
追記:もう1件エントリーして7件になった。
東浩紀 『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』
講談社学術新書、2001
ラブクラフトのことを書いていたら思いだした。前から思っていたことを書いておく。
『動物化するポストモダン』の基本的なストーリーって、
ちょっと前の世代だとオタクと言えばシェアード・ワールドものだったけど、最近のオタクは「萌えー」とか言ってて、このふたつってちょっと違うよね。
というオタク世代論だと思うんだ。こういう基本的な事実認識があり、プラスアルファで、「この流れをもう少し広い世の中の潮流に結びつけてみるテスト」というのが『動物化するポストモダン』という本の内容。
シェアード・ワールドものというのは、要するに、同じ世界観を共有しながらいろんな人が作品をつくったり遊んだりしますよーってことだね。ラブクラフトに端を発するクトゥルーものしかり。トールキンの世界観でTRPGをする人しかり。そしてもちろんコミケ等で漫画の二次創作をする人もしかり。
ただし東は「シェアード・ワールドもの」という言い方はしていなかったと思う。『動物化するポストモダン』では、大塚英志を引きながらこれを「物語消費」と呼んでいる。しかし私は「シェアード・ワールド」という普通に使われている言葉の方が好きだ。
(参考: シェアード・ワールド - Wikipedia)
それはそれとして、この基本的なオタク世代論の部分って特に間違ったこと言ってないと思うのだが、おもしろいくらい誰もそのことに触れないね。「確かにちょっと違うよね。じゃあどうちがうのかなー。東はこう言ってるけど、私はこう思うな」とか、そういう方向に話が発展してもいいはずなのに、褒める人もけなす人もなぜか関係ない話ばかりだ。「大きな物語」がどうとか、そんなの言ってみればオマケであり、ただの「と言ってみるテスト」だろうと私は思うのだが、世人はそう思わないのだろうか。大雑把なポストモダン論などより、オタク世代論の方がよっぽどおもしろいと思うのだがどうなんだ、その辺。
もちろん、そういう読まれ方をしてしまう背景には書き方のまずさもあったのだろうが、堅実なファインディングの部分はほとんど触れられず、皮相で刺激的な飾りの部分だけがことさらに反応を集めたという点で、『動物化するポストモダン』は実に不幸な読まれ方をした本であることだよと思うことしきりである。
- 雑誌「ku:nel」vol. 23
マガジンハウス
「ムーミンのひみつ。」特集。
- 雑誌「ソシオロゴス」
ソシオロゴス編集委員会
第9 号、第10 号、第12 号、第18 号、第19 号、第22 号、第28 号
計7冊。バックナンバー半額セールをやっていた。
クトゥルー神話
〈史上最小のクトゥルー神話賞〉公募のお知らせ - 幻妖ブックブログ
http://blog.bk1.co.jp/genyo/archives/2007/01/post_797.php
募集中らしい。
学習研究社、2007
参考文献らしい。
旧版(『クトゥルー神話事典』)の Amazon レビューによると、村上龍もクトゥルー神話ものを書いているそうだ。へー、そうなのか。意外。
ところで、Amazon の内容紹介には↓こうある。
怪奇作家ラヴクラフトが創造した暗黒と戦慄のクトゥルー神話大系
これは不正確な言い方だと思う。時に誤解されているが、ラヴクラフトはクトゥルー神話体系を創造していない。
基本的には、ラブクラフトは色んな小説に同じ名前のガジェットをちりばめただけ。「狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズレッドが記した禁断の書『ネクロノミコン』」「クトゥルフ」「ナイアルラトホテップ」などの「名前」は、ラブクラフトの小説に共通して出てくるが、特にその背景については明らかにされていない。これらの名前の背後には一貫した「体系」があったかもしれないし、なかったかもしれない。たぶんなかったが、いずれにせよラブクラフト自身はそれを明らかにしていない。
クトゥルー神話というのは、「ラブクラフトの小説の背景には、一貫した世界観があるにちがいない」という仮定のもとで、これらのアイテムをつぎはぎして、オーガスト・ダーレスその他の弟子の人がつくったもの。いわば『磯野家の謎』みたいなものだ。
基本的にはこういう話なので、「怪奇作家ラヴクラフトが創造したクトゥルー神話大系」という言い方はアウトだろう。
しかし、ここからが微妙な話になる。
ラブクラフトはクトゥルー神話をつくってない。ではラブクラフト自身は、クトゥルー神話もののようなシェアード・ワールドものの制作にまったく参与してなかったのかというと、そうでもない。生前から、ラブクラフト的小説を他の人が書いたり、合作でラブクラフト的小説を書いたり、という交流は行われていた。つまり、「ラブクラフト的小説」のような定型はラブクラフト自身によってつくられ、この「ラブクラフト的小説」はラブクラフト以外の人にも書けるものだったわけだ。
そしてそこにはやっぱり、「狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズレッドが記した禁断の書『ネクロノミコン』」「クトゥルフ」「ナイアルラトホテップ」などといった「名前」が出てくる。ただし「クトゥルー神話」という名前と、一貫した体系は存在しなかった。
あるいはこういう話なのかもしれない。マクガフィンという言葉があるそうだ。
マクガフィンは、
作品の登場人物は非常に重要なものだと考えているにも関わらず、観客にはほとんど説明されなかったり、説明されたとしても価値が疑わしいような「なにか」のことである。
この説明だけだとよくわからないが、名前だけ出てきて内実が明らかでないものはマクガフィンでいいのかな。そういうことにしよう。
「狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズレッドが記した禁断の書『ネクロノミコン』」「クトゥルー」「ナイアルラトホテップ」などといった名前は元々マクガフィンだったのに、ラブクラフトの死後、オーガスト・ダーレスらによって中身を与えられた。クトゥルー神話とは非マクガフィン化されたマクガフィンである、みたいな。
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。
しだいに証明問題がむずかしくなる。証明問題の解答はむずかしい。受験参考書のように、「これが書けていれば5点」など、採点の指示を与えてほしいものだ。
■ 3.9 真理関数という考え方:前
- 3.9.1 真理関数とは何か
- 3.9.2 真理関数は何通りあるか
- 真理関数(truth-function)
- 真理値の集合の直積から {1, 0} への関数のことだよ。
- 実現(realize), 表現(express)
- 真理関数を論理式によって表すこと。ひとつの真理関数を実現する論理式は複数ある。例えば、input が{1} output が{1} の真理関数は、P∧¬P, P, P→P などによって実現されるよ。
- 真理関数の一般的定義
- {1, 0}^n から {1, 0} への関数を n 変数の真理関数と呼ぶよ。
- ちなみに n 変数の真理関数は 2^2^n 個あるよ。
■ 3.9 真理関数という考え方:後
- 3.9.3 真理関数の表現定理
- 3.9.4 どのような結合子の組み合わせが十全なのか
- 3.9.5 シェーファーの魔法の棒
- 定理17(表現定理 / 関数的完全性の定理)
- ¬, ∧, ∨ のみを結合してして含む論理式によって、n 変数の真理関数はすべて表せる。
- 十全(adequate) / 関数的に完全(functionally complete)
- これは結合子の集合に対して使う言葉だよ。その結合子集合で n 変数の真理関数はすべて表せるという意味だよ。
{¬, ∧}, {¬, ∨}, {¬, →} は十全だよ。
- シェーファーの棒(Sheffer stroke)
- A | B は ¬(A∧B) と同値だよ。これは"nand" と読むよ。シェーファーの棒とも呼ぶよ。この結合子は1つだけで十全だよ。
- シェーファー関数
- 1つで十全であるような真理関数のことだよ。
- 定理19
- 2変数のシェーファー関数は、| と ↓だけだよ。
■ 3.10 日本語の「ならば」と論理学の「→」
- 3.10.1 「→」に感じる違和感
- 3.10.2 「→」の定義の正当化
「→」は「ならば」の近似だけど、だいぶ違和感があるよ。
- 関連性(relevance)にかかわる違和感
- 日本語の「ならば」は前件と後件の間に内容上の関連性があるよ。「→」は真理値の組合せだけを問題にするよ。このような現象を関連性にかかわる違和感というよ。
しかし「→」は「ならば」の重要な特徴を反映しているよ。
- (1)逆は必ずしも真ならず
- 「A ならば B」が成り立つからといって、「B ならば A」が成り立つとはかぎらない。
- (2)推移性
- 「A ならば B でありしかも B ならば C であるならば、A ならば C である」がトートロジーだよ。
ルーマン・フォーラム プレゼンツ
【( ´∀`)著者さんと】長岡克行『ルーマン/社会の理論の革命』合評会【語ろう(°∀°)その5!】
http://socinfo.g.hatena.ne.jp/contractio/20070128/p1
行った。今日は自分の可能性にびっくりだった。
- 開始時間を間違えていた。13:30からだと思っていたのだが、13:00からだったらしい。13:15頃教室変更の連絡をいただく。
- 電車に乗り間違えた。急行に乗ってしまい、目当ての駅を通り過ぎる。あわてて各駅で1駅戻る。しかし、後から考えるとこの辺りまではまだ序の口だった。
- 降りた後、10分ほど周りを探すが、東京経済大学がさっぱり見つからない。地図にも載っていない。国分寺にあるはずなのになーと地図をよく見る。「あれ? 高円寺って書いてあるよ?」。なぜか国分寺に行くつもりで高円寺に行ってしまった。
- あわてて電車に乗り直す。しばらく乗っていると終点についた。「新宿ー新宿ー」。「なんで新宿にいるの?」。逆方向の電車に乗ったらしい。
- この時点で、もしかすると自分は無意識に何かを抑圧しているのではないかと疑いが芽生えはじめる。フロイトならきっとそう言うにちがいない。しかし無意識のことなど自分自身にわかるはずもないので、フロイトのことは忘れ、改めて国分寺に向かう。3時間ほど遅れてようやくついた。もう終わりかけだった。
今回は本当に自分のボケっぷりに驚いた。ラリってんのか?と不安になる。まったく自分が信用できなくなってきた。
今市子『百鬼夜行抄(15)』
朝日ソノラマ、2007
■ 感想
慣れてきてしまった感もあるが、相変わらず複雑なプロットを見事にまとめている。
『百鬼夜行抄』を読むたびに思うが、漫画というのは本当に叙述トリックがきれいに決まるメディアだ。改めて考えると『百鬼夜行抄』では時々、かなりアクロバティックな語りのトリックも使っているのだが、意識せずに読んでいるとそれを感じさせない。
私が覚えている例ではたとえば、「律(主人公)が出てきたと思わせておいて、実は開(おじさん)の若い頃だった」というのがあった。こういうのを小説でやるのは不可能ではないが、どうしても作者の手が透けて見える感じというか、作為的にトリックを仕掛けた風になりそうだ。その点、漫画はクールでいいなあ。説明に言葉を使わなくていいのが効いているのだろう。そこは映像でも同じだが、映像でこんな複雑なことをするとわけがわからなくなるだろうから、漫画という「読み返せ、かつ絵で構成できる」形態のメリットはすごくあるにちがいない。
そう言えばドラマ化するそうだが、ほとんど毎回登場する叙述トリックをどう再構成するのかが気になるところだ。幽玄な雰囲気はテレビで真似ようと思っても困難だろうから、むしろ語りのトリックの方を追求してドラマ化すればいいと思った。映像でうまく再構成できれば、おもしろくなるのではないか。テレビがないので観れないのだが、評判がよければ観てみたいなあ。
今回の巻について言うと、新ネタはそれほど見られなかったのでそこは残念だった。「幽霊を怖がっている側が実は幽霊だった」はもうこのシリーズの定番になっているし、「人物を本人の主観の姿で描く」も時々やっているネタだし。おもしろいからいいけど。
あと青嵐がほとんど出てこないのはどうなのか。
■ 知ったこと
なお、ペンネームの「蝸牛」は、幸田露伴の自宅の名称「蝸牛庵」に由来している。また、この「蝸牛庵」は飯嶋家の外観のモデルともなっている。
はじめて知った。
飯嶋蝸牛のモデルは泉鏡花説などもあったように思う。個人的には、外見は折口信夫に似ていると思う。
■ あらすじ
- 迎えにきて
幽霊画の話。
- 鬼の面
嫉妬の話。今回一番救いがなくて怖かった。
- 野に放たれて
生まれ変わりの話。
- 緋い糸
赤い糸が見える人の話。
- 黒天井
古い家の話。
■ 目次
- 迎えにきて
- 鬼の面
- 野に放たれて
- 緋い糸
- 黒天井
大野一雄 百歳の年 ガラ公演「百花繚乱」
―百歳の大野一雄に捧げるオマージュ―
於 神奈川県立青少年センター
http://www.kazuoohnodancestudio.com/japanese/perform_arc/hyakkaryouran/hyakkaryouran.shtml
行ってきた。大野一雄「の」舞台なのかと思って行ったのだが、大野一雄「を」記念した舞台だった。
私は本当に出不精なのだが、ごくまれにイベントに出かけるといつも、たまにはこういうのもいいなあと思う。今回も思った。
しかし、本当は行く前にメガネを買うべきだった。メガネがないからよく見えないんじゃないかと思ったが、やっぱりよく見えなかった。
はじめの方で思ったこと。ダンスは不思議だなあ。どうして人が動いているのを見ているだけで気持ちが良くなったり、おもしろかったするのだろう。しかし、よく考えると架空のキャラクターが生きたり死んだりするのを見ておもしろがるのも謎だし、音の組合せを聴いて気持ちがよくなるのも同じくらい謎だ。
途中から、だんだん集中力がなくなってきて、集中力を高める方法について考えていた。座禅かヨガか野口体操をはじめようかどうしようかなどなど。
かわいゆみこ(著)『猫の遊ぶ庭―気まぐれ者達の楽園』
心交社、1998
買った。某寮を舞台にした BL 小説。絵は今市子。
(これ、よく考えると今市子が描いた某寮の絵を見られるということであるな。それは結構レアなのではなかろうか)。
在寮時に読もうと思いつつ、読み損ねていた。Amazon で見ると結構ファンがいるようだ。そんな名作とはつゆ知らなかった。
追記:
調べたところこれは続編だったようだ。同じ小説のバージョン違いかと思った。
最初のやつはこちら↓。こっちは高いなあ。
『猫の遊ぶ庭』
あとソシオロゴスのバックナンバーを買ったがまだお金を払っていないので払ったらカウントする。
http://www.at-akada.org/blog/2007/01/post_52.html
前エントリに対する補足。書いた後2点補足事項を思いついた。
■ 偶然事の有り難さ
偶然事の有り難さ(←ダブルミーニング)について。
世の中には必然の出来事と偶然の出来事がある。しかし、必然の方は必然なのであるから、有り難さは0である。起こらないということがおおよそ有り得ないのであるから、有りやすさが無限大である。
一方偶然の出来事の方は、起こらなくてもよいことが起こったのだから、つねに多少は有り難い。それどころか、より有り難い(生起確率の低い)出来事であればあるほど、「偶然」と呼ばれやすい。あるいは、ダブルミーニングに頼らない言い方で言えば、偶然の出来事の方が「レア」である。
その出来事が有り難いレアな事柄であるのは、それが偶然だからなのである。事情がこのようになっているのであるから、偶然の出来事の方を - 偶然であるというそれ自身の資格によって - 有り難がってもいいではないか。それは可能であるし、実際そうする人もいる。
...というのが前エントリの趣旨であった。
■ 偶然と意図的
「偶然だが実現してしまったこと」は、私自身にはどうしようもない事柄である。つまり、偶然事はつねに向こうからやってくる異なものなのであるからして...
前エントリでこう書いた時、なんだか気持ち悪い感じがした。後で考えていたら理由がわかった。前エントリで私は「必然」「偶然」の関係を考えていたのだが、この部分には「意図的」と「偶然的」の関係が混ざっているからだ。
偶然は必然から区別される。一方、必然的でなくても「自分で選んだこと」はふつう偶然とは言わない。少なくとも日常語では言わない。人を殴っておいて「偶然だ」などと言うと、怒られることが多い。
つまり「偶然的」は「必然的」の対義語であると同時に、「意図的」の対義語でもあった。となると、「必然-偶然」の対と、「意図的-偶然的」の対の関係や如何にという具合に話は進む。
これは簡単かもしれない。「必然的なこと」も「自分で選んだこと」ではない。だから、まず「意図的なこと/意図的でないこと」が分かれ、さらに「意図的でないこと」の中で、「偶然的なこと/必然的なこと」が分かれる。リストにすると以下のようになる。
- 意図的なこと
- 意図的でないこと
- 必然的なこと
- 偶然的なこと
この分類の中で、人がしばしば意義を見いだすものは、「意図的でなく必然的なこと」だ。偶然の出来事に意義を見いだすとき、人はよく「これは偶然ではない。運命だ」などと言う。つまり、「意図的でなく偶然的なこと」を「意図的でなく必然的なこと」だとした上で、そこに意義を見いだすのである。
しかし、「意図的でなく偶然的なこと」も、意図的でないのは確かである。しかも上で書いたとおり、それがレアな出来事であるのは、必然だから(運命だから)ではなく、偶然だからなのである。
それならば「意図的でなく偶然的な」出来事の方を有り難がってもいいではないか。それは可能であるし、実際そうする人もいる。
...というのが前エントリの趣旨であった。
昔から「偶然を信仰する」という立場がありえるのではないかと思っていた。自分はそのような態度をとりたいとも思っていた。しかし肝心の「偶然を信仰する」ということの意味内容が自分自身にもよくわからなかった。そのため、ちっともうまくそのことを説明できず、あまり人には言わないようにしていた。
しかし今日突然その意味が多少整理できたので書き留めてみる。
まず、テツガク的には偶然とは「実際起こったが、起こらないこともありえた(必然的でない)」というのと「実際には起こらなかったが、起こることもありえた(不可能ではない)」の両方を意味するらしい。ただし日常的には、偶然といえばまず前者の「実際起こったが起こらないこともありえた」という方だ。私も前者の偶然について考えている。
よくある考え方では「ある出来事が起こったのが偶然ではない(必然である)」ことに意義を見いだす。例えば、「あの人と出会ったのは、とても偶然とは思えない(運命である)」「私の誕生日がナポレオンと同じなのは、とても偶然とは思えない(運命である)」などなど。
しかし、これとはちがった態度があってもいいのではないかと私は思う。ちがった態度というのは、「このことは偶然であるにもかかわらず、実際起こった。だから、そこに何らかの意義を見てもよかろう」という態度のこと。言い換えれば「この出来事は起こらなくてもよかったのに起こった。ならばここはひとつ、この出来事にこだわってみよう」という態度のこと。
偶然の出来事にこだわるという、この態度自体は別におかしくも何ともない。もちろん偶然の出来事にこだわる必要は(偶然だから)ないのだが、別にこだわってもおかしくはない。そして私は実際こういう考え方をすることがよくある(例: 偶然私はシャーロック・ホームズと誕生日が同じであるから、シャーロック・ホームズを読まねばなるまい)。
この考え方はそこまで珍しいものではない。例えば、日本語の「これも何かの縁でしょうから」という紋切り型はこの発想によく似ている。「縁」という語は「運命」に近いようだけど、そこまで強い概念ではなく、むしろ「これは偶然だけど、ともかくも実際起こったのだから...」というニュアンスを持つ。あと今気づいたが、この「実際起こったのだから」「折角だから」という発想は "Mottainai" にも似ている気がした。しかしその点は置いておこう。
次。「偶然起こった出来事にこだわってみる」という態度を信仰と呼ぶ理由について。これも信仰と呼ぶ必要はないのだが、「偶然だが実現してしまったこと」は、私自身にはどうしようもない事柄である。つまり、偶然事はつねに向こうからやってくる異なものなのであるからして、「神」や「奇跡」に似ていなくもない。従って偶然事にこだわることを信仰と呼んでみてもよいのではないか。
要するに、呼ばなくてもいいが、似ているから同じ言葉を使ってみようという程度の理由。
以上。偶然を信仰するとは要するに以上のような態度のことだった。今後これを洗練させ、偶然神学および偶然教を確立、やがては初代教祖の座につき、お金をがっぽり儲けたい。
つづき:
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。
だんだん難しくなってきた。対象が論理式から論理式の集合へとシフトしてきたのだが、頭がついていけない。今日は丁寧めに復習する。テキストで書くのが無理になってきたので早く TeX を覚えようと思った。
■ 3.7 論証の正しさとは何か
- 3.7.4「矛盾からは何でも出てくる」の怪
- 3.7.5 論理学の3つの顔は1つである
論証の妥当性、矛盾、形式的真理という論理学の3つの顔が同じであることを示すよ。
■ 妥当性とトートロジー
- 定理9
- 前提 A1, ..., An から結論 C を導く論証が妥当である ⇔ 論理式 (A1∧...∧An)→ C がトートロジーである。
- 証明
- 前提 A1, ..., An から結論 C を導く論証が妥当である
- ⇔ この論証には反例がない (妥当な論証とは反例のない論証である*)
- ⇔ A1, ..., An を同時に 1 とし、なおかつ C を 0 とするような真理値割り当ては存在しない(反例の定義より)
- ⇔ (A1∧...∧An) を 1 とし、なおかつ C を 0 とするような真理値割り当ては存在しない(結合詞∧の性質より)
- ⇔ (A1∧...∧An)→ C を 0 とするような真理値割り当ては存在しない(結合詞→の性質より)
- ⇔ (A1∧...∧An)→ C はトートロジーである(トートロジーとは真理値がつねに 1 である論理式のことである*)
■ 妥当性と論理的同値性
- 定理10
- A と B が論理的に同値 ⇔ 論証(A ⇒ B)と論証(B ⇒ A)がともに妥当。
- 証明
- A と B が論理的に同値
- ⇔ A と B の真理値がつねに一致する(論理的に同値とは真理値がつねに一致するということである*)
- ⇔ A ←→ B がトートロジー(結合詞 ←→ の性質より)
- ⇔ (A → B)∧(B → A)がトートロジー
- ⇔ A → B がトートロジー、かつ B → A がトートロジー(結合詞∧の性質より)
- ⇔ 論証(A ⇒ B)と論証(B ⇒ A)がともに妥当(先の定理9より)
■ 3.8 論理的帰結という関係
- 3.8.1 論理的帰結を定義する
- 3.8.2 論理的帰結関係について成り立つ定理
■ 論理的帰結の定義
- 論理的帰結とは
- 妥当な論証から導き出された結論のことだよ。
- 2重ターンスタイル(double turnstile)とは
- 論理的帰結を示す記号「|=」のことだよ。
- T |= C*1 ⇔ T に含まれている式と C を構成しているすべての原子式への真理値割り当てのうち、T に含まれるすべての式を同時に 1 とし、なおかつ C を 0 とするような真理値割り当ては存在しない。
- トートロジー
- |= C ⇔ C はトートロジーである。
- 矛盾
- T |= ⇔ T は矛盾している。
■ 定理
- 定理14
- (1)A |= A
- (2)もし T |= A ならば、 T, B |= A
- (3)もし T |= A 、A, K |= B ならば T, K |= B
- 単調性(monotonicity)、またはthinning
- (2)のことだよ。前提に余計なものを付け加えても論証の妥当性は変わらないよ。単調性を持たない論理のことを非単調論理(non-monotonic logics)というよ。
- cutting
- (3)のことだよ。
- cutting の特殊なやつ
- B が存在しないとき。
- T |= A、 A, K |= ならば T, K |=
- T, K が空集合のとき。
- |= A、 A |= B ならば |= B
- 定理15
- (4)A, ¬A |= B
- (5)T, ¬A |= ⇔ T |= A
- T, A |= ⇔ T |= ¬A
- (6)T |= A∧B ⇔ T |= A かつ T |= B
- (7)T, A∨B |= ⇔ T, A |= かつ T, B |=
- (8)T, A |= B ⇔ T |= A → B
- 定理16
- (a) T |= A ⇒ T |= A∨B
- (b)T |= A∨B、 A, K |= C、 B, K |= C ⇒ T, K |= C
- (c)A, T |= C、 B, T |= C ⇒ T, A∨B |= C
- *1: T は論理式の集合
ルーマン(という人)の「複雑性」概念について。
■ 前置き
その 1: http://www.at-akada.org/blog/2007/01/post_35.html
その 2: http://www.at-akada.org/blog/2007/01/_2_1.html
その 3: http://www.at-akada.org/blog/2007/01/_3.html
課題図書:
西阪仰「コミュニケーションのパラドクス」
(土方透編『ルーマン/来るべき知』勁草書房、1990)
西阪仰訳「複雑性」(『社会システムと時間論―社会学的啓蒙』)
■ 「複雑性」論文より
「複雑性」論文をコピーした。
考えれば考えるほど、複雑性が何なのかわからなくなってきた。とりわけ「なぜ環境はシステムより複雑なのか」がよくわからなくなってきた。
とりあえず参考になりそうな部分をメモ。
「なぜ環境はシステムより複雑なのか」に答えていると思われる箇所。
周界の複雑性は、システムの複雑性とどのようにでも関係づけられうるわけでもはない。なぜなら周界の複雑性はシステムの複雑性とは違ったふうに構成されているからである。つまり、周界複雑性は境界をもっていずに、そのかわりに、一方でシステム自体にとって関連のある規定可能なものと、他方でシステムには関連がないと想定できるようなその他の無規定の諸可能性とが地平により分割されることで、構造づけられているのである。したがって周界複雑性の場合、システムにとって関連のある諸々の出来事に対する選択性はシステムの場合よりもたしかに鋭いが、しかし同時に、全体秩序に対する要求はシステムの場合より弱いのでシステムより多くの可能性があるということにもなろう。
p236
よくわからない。環境は「一方でシステム自体にとって関連のある規定可能なものと、他方でシステムには関連がないと想定できるようなその他の無規定の諸可能性とが地平により分割されることで、構造づけられている」。つまり、環境は「規定されたもの」と「無規定なもの」という弱い構造しか持たない。
最後の一文の「全体秩序に対する要求が弱い」という箇所がこれと同じことを指しているのだとすると、最後の一文は、
「環境は弱い構造しか持たないのでシステムより複雑だ」
と言い換えられそうだ。
でもこれは変だ。一見納得しそうになるけど、よく考えるとおかしい。仮に要素の数が同じであれば、構造が弱い方が多くの可能性を含むと言えるのは確かだろう(語彙が同じであれば文法がない言語の方が、可能な文を多く含む)。でもシステムと環境の場合、要素の数は同じではないように思える。「環境は無規定なものを含むので複雑だ」って言ってくれればまだわかるのだが、そうは言ってないように見える。
「システム複雑性と環境複雑性の相互規定」を言うときに、西阪氏が依拠しているのは↓この辺か。
システムとの関係においてのみ、そのシステムの周界は、規定可能な複雑性を得るのである。
p236-237
もし複雑なるものの統一性を二変数関係とみなすならば、無制限の変域を限定するためにまた別の関係が必要となる。言い換えれば、複雑なるものは関係において見られるときにのみ規定可能な統一体なのである。つまり、システムは周界との関係においてのみ、周界はシステムとの関係においてのみ規定可能な統一体なのである。
p242
今日はこれだけ。
以下7冊は古書店。
平凡社、1961
平凡社、1963
河出書房新社、1963
河出書房新社、1963
一冊百円だった。教養身につけ放題。
大塚英志
角川書店、2004
バートランド・ラッセル(著), 市井 三郎(訳)
みすず書房
小学館、1997
これはおすすめ。非常にマニアックな一冊。
以下3冊は新品で買った。
ピーター ミルワード (著), Peter Milward (著), 小泉 博一 (訳)
中公新書、2001
今市子
朝日ソノラマ、2007
新刊が出ていた。聞いたところによると、テレビドラマ化するそうだ。
「ジャーロ」 vol. 26
光文社
山本七平『「空気」の研究』
文春文庫、1983
いわゆる「空気読め」の「空気」。
私は読めないので知らないのだが、空気を読ませようとする輩が多いところを見ると、空気にはさぞかし面白いことが書いてあるのだろう。などと韜晦してみせることもしばしばだが、正直に言うと空気について考えようとするたび、にわかに怨念が高まり、まったく素面では語れない。にっくき空気め! 空気め!
生来の敵とも言える空気のことが少しでもわかるならばぜひ読んでみたい。
以前名前にひかれて購入した『ぴかぴかすりこぎ団の騎士』が届いた。「エリザベス朝喜劇10選」というシリーズの一冊だったらしい。その名の通りエリザベス朝喜劇の戯曲だった。
一点目。「イデオロギー」という語を「応援歌」という語に置き換えてみたらどうだろう。どうだろうも何もないが。
- ドイツ応援歌
- ブルジョア応援歌
意味はそんなに変わらないのに、親しみやすくなる。
さしづめ「イデオローグ」は「応援団長」か。
- テクノクラートの応援団長
批判されてるんだかなんだかわからない。
二点目。
「すべての道はローマに通ず」のならば、ローマを経由してあらゆる地点がつながることになる。
つまりローマを経由すれば北京でもカルカッタでもどこへでも行けるのだから、「すべての道は北京に通ず」でも「すべての道はカルカッタに通ず」でも「すべての道は中目黒に通ず」でも、何でもいいのではないか。
ただしローマに至る道が一方通行だとか、ローマが壁で分割されている(ローマから他のところへはいけないようになっている)可能性も皆無ではない。
以下の2冊は古書店で。
T.A.シービオク(著), J.ユミカー=シービオク(著), 富山太佳夫(訳)
岩波書店、1994
名探偵ホームズの犯人探索術は,プラグマティズムの哲学者パースの思考方法と同一のものであった,と推論し,両者を比較検討.ドイルの推理小説の抜群の面白さに潜むパース哲学の隠れた一面を読みとき,記号論の本質を衝く.
「パースの思考方法と同一のものであった」って。それは言い過ぎではないですか。
C.S.ルーイス(著), 山形和美(訳)
評論社、1968
ナルニアの人。安かった。
以下は大学生協で。
- 『文学理論』
ジョナサン・カラー(著), 荒木 映子(訳), 富山太佳夫(訳)
岩波書店、2003
Amazon で評判がよかったので。
『ロリータ』
ウラジーミル・ナボコフ, Vladimir Nabokov, 若島 正
新潮文庫
ロリータ新訳版はもう文庫になったのか。
小島アジコ
宙出版
うーん、おもしろそうかも。
西田谷洋『認知物語論とは何か?』
ひつじ書房、2006
文学というものは、なにゆえに文学なのだろうか。文学という営みは人間的な行為である。人の持つ、イメージ、ストーリー、認識の構造がそこにはある。文学はただ単に「近代文学研究」が前提として捉えているような意味で存在しているのだろうか?本書は、認知科学、認知言語学の視点から、人間の認知活動として文学・物語を捉え直すラディカルな(根元的な)問題設定の試みである。
http://www.hituzi.co.jp/books/278.html
えい! えい!
だんだんブログが自分用の本メモになりつつある。
アソシエイトの皆様、
現在アソシエイト・セントラルのレポートの更新が遅れており、1月18日からのデータをご利用いただけない状態となっております。現在、対応中となっておりますので、今しばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます。
Amazon アソシエイト・プログラム ブログ
http://affiliate-blog.amazon.co.jp/2007/01/post_5.html
アフィリエイトのレポートが 0 からピクリともしないのでメールで問い合わせたら、18日以来そもそもレポートがダメになっているそうな。ID 間違いを直したのがちょうど 18日*1なのでまったく結果がわからない。
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。
結構ハマってきた。
あまり進まなかったので今回は用語の整理が一瞬で終わった。細切れに書くとあとから参照しづらくてよくないが、あとでまたまとめることにしよう。
■3.7 論証の正しさとは何か
- 3.7.1 論証の妥当性を理解する鍵は反例にある
- 3.7.2 論証の妥当性を定義する
- 3.7.3 構成的両刀論法と場合分けによる証明
- 反例(counterexample)とは
- 論証の前提がすべて真になるが、結論は偽になる場合のことだお。
妥当な論証とは反例の存在しない論証のことだお。
"Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics"
Frank Sibley, John Benson, Betty Redfern, Jeremy Roxbee Cox
音楽作品の記述に関する議論が載っているらしい。
あとで買う。そのうち。
"Verbal Icon Studies in the Meaning of Poetry"
ついでにメモ。「意図への誤信」が入っている本。
増田聡『聴衆をつくる―音楽批評の解体文法』
さらにメモ。音楽批評論をもっとマメに読んだ方がいい気がした。
レオ・ブルース (著), Leo Bruce (原著), 小林晋(訳)
セイヤーズのピーター・ウィムジイ卿、クリスティのエルキュール・ポアロ、チェスタトンのブラウン神父のパロディである3人の探偵が出てくるらしい。おもしろそうかも。
- Thomas G. Pavel(1986) "Fictional Worlds", Harvard University Press
これは買わないとどうしようもないだろうと思った。買った。本当に届くのかどうか不安だ。
また二社エントリーした。書いておかないと絶対忘れるに違いないと思った。
とりあえず何も考えずにエントリーしてあとはひたすら言われた通りに試験受けたり面接受けたりしてればいいって、実は楽なんじゃないかということに気づいた。
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。3.5 はむずかしかった。
■3.5 真理表を理論的に反省する
- 3.5.1 真理値分析とは何をやることだったのか
- 3.5.2 真理値割り当て
- 真理表を書くとは
- 原子式への真理値の割り当てを複合的な論理式への真理値割り当てへと拡張するということ。
- 真理値割り当ての定義
- L の原子式からなる或る集合を F とする。F に対する真理値割り当て(truth assingment) V を次のような関数とする




















