2007年1月
http://www.city.hanno.saitama.jp/akebono/
この公園は、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンさんの『ムーミン童話』の世界を取り入れ、「自然との共生・自我と自由の尊重」という『ムーミン童話』に通ずる理念を掲げています。
(ちょっと形のちがう)ムーミン屋敷があるようである。
いつか行こう。
ku:nel の「ムーミンのひみつ。」特集結構よかった。ヤンソン島の写真がたまらない。というか今日、テレビでムーミン特集をやっているそうだが、テレビがないので見られない私がいる。
以下は何の関係もないメモ。
『ゾンビ映画大事典』
伊東美和
洋泉社、2003
持っていると(たとえ話など)何かに役立ちそうな予感がするのだが、今のところ用途が思いつかないでいる。
小林よしのり
幻冬舎、2001
なるほど、現在は幻冬舎から出ているのだな。
今こそ読み返すべき時ではないだろうか。
(今、という部分に特に理由づけはないが)。
W.G. ライカン (著), William G. Lycan (原著), 荒磯敏文(訳), 鈴木生郎(訳), 川口由起子(訳), 峯島宏次(訳)
勁草書房、2005
■ 感想
おもしろかった。
地味にギャグが多い件について。
なぜ私たちは、サンタクロースは実際にいたのだが、彼についての伝承はすべてひどく間違っている、とは言わないのだろうか。もちろん、私たちは、そう言う代わりに、サンタクロースは存在しないと言う(このことを知らなかった人がいたなら、申し訳ない)。
p91
二人の哲学者が、固有名の直接指示説をたたえる宴を催しているとしよう。二人は輪になって踊り、「名前は名指すだけ!」とうれしそうに何度も叫び合っている。
p151-152
■ あらすじ
教科書なのであらすじも何もない。基本的に目次の通りなのだが、一応大雑把なストーリーだけ確認しておく。
第1章で意味を指示から考える説が否定される。これによって指示と意味を別個に考えねばならなくなるから、順番に考えましょうということになる。
1部は指示の理論。ラッセル説とオルタナティブの紹介。
2部は意味の理論。真理条件説がメイン。
3部は語用論。これは2部のつづきでもある。「使用」という方向から意味を見るとどうなるかという話。
4部はおまけ。
■ 目次
- 第1章 意味と指示
- Ⅰ 指示の理論
- 第2章 確定記述
- 第3章 固有名:記述説
- 第4章 固有名:直接指示と因果-歴史説
- Ⅱ 意味の理論
- 第5章 伝統的な意味の理論
- 第6章 「使用」説
- 第7章 心理説:グライスのプログラム
- 第8章 検証主義
- 第9章 真理条件説:デイヴィドソンのプログラム
- 第10章 真理条件説:可能世界と内包的意味論
- Ⅲ 語用論と言語行為論
- 第11章 意味論的語用論
- 第12章 言語行為論と発語内の力
- 第13章 さまざまな含意関係
- Ⅳ 暗黒面
- 第14章 隠喩
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。
コンパクト性定理の証明が3章のクライマックス。論理式→論理式の集合ときて、ついに論理式の無限集合になった。むずかしい。一応ここだけは、証明を写経しておくことにする。
ようやっと3章が終わった。
■3.11 コンパクト性定理
- 3.11.1 コンパクト性定理とは
- 3.11.2 コンパクト性定理の証明・パートⅠ
- 3.11.3 コンパクト性定理の証明・パートⅡ
- 【定理20】コンパクト性定理(compactnesstheorem)
- 論理式の集合Tが充足可能である⇔Tのすべての有限部分集合が充足可能である。
以下ではこれを証明するよ。
■前置き
Tが有限集合のとき、上記が成り立つのは自明であることを示す。
- Tの有限部分集合のうち、最大のものがTになる。
- ならば「Tのすべての有限部分集合が充足可能である⇒Tが充足可能である」は明らか(T自身が「Tのすべての有限部分集合」に含まれる)。
- また「論理式の集合Tが充足可能である⇒Tのすべての有限部分集合が充足可能である。」も明らか(「Tのすべての有限部分集合」はTを充足する真理値割り当てのもとで、充足される)
またTが無限集合であっても、「論理式の集合Tが充足可能である⇒Tのすべての有限部分集合が充足可能である」は自明である(「Tのすべての有限部分集合」はTを充足する真理値割り当てのもとで、充足される)。
よって証明すべきことは、
「Tのすべての有限部分集合が充足可能である ⇒ 論理式の集合Tが充足可能である」
ということのみである。
また「すべての有限部分集合が充足可能である」は長いので、以下縮めて「有限充足可能(finitely sastisfiable)である」ということにする。
■証明方針
証明すべきことは、「Tのすべての有限部分集合が充足可能である⇒論理式の集合Tが充足可能である」
言い換えれば、
- 「論理式の無限集合Tについて」
- 「どのような有限部分集合をとってもそれぞれを充足する真理値割り当てが見つかる」ならば、
- 「T全体を充足するような真理値割り当てが存在する」
以下ではこれを以下のような手順で証明する。
- 有限充足可能な論理式の集合Tは、ある都合のよい性質を持つ集合△に拡大できることを示す。
- △を使うと簡単にTを充足する真理値割り当てをつくれることを示す。
■証明その1
- 1.有限充足可能な論理式の集合Tは、ある都合のよい性質を持つ集合△に拡大できることを示す。
論理式の集合Tが有限充足可能であると仮定する。
すべての論理式をA1, A2, A3, ..., Anのような形で順番に並べる。
論理式の無限集合{K0, K1, K2, ..., Kn}を以下のように定義する。
- Kの定義
- (1)K0=T
- (2)Kn∪{An+1}が有限充足可能なら、Kn+1=Kn∪{An+1}とする。
- Kn∪{An+1}が有限充足可能でないなら、Kn+1=Kn∪{¬An+1}とする。
この時、すべてのKnについて以下が成り立つことを証明しよう。
- 【補助定理20-1】
- どのKnも有限充足可能である。
【補助定理20-1の証明】
(1) Tについての仮定よりK0(T)は有限充足可能である。
(2) Knが有限充足可能であると仮定する。このとき、
Kn+1(「Kn∪{An+1}」または「Kn∪{¬An+1}」)が有限充足可能である(☆)
と示せば、帰納法により補助定理20-1を証明することができる。
(3) (☆)の証明には、背理法を用いる。すなわち、(a)Knが有限充足可能であるのに、(b)Kn∪{An+1}が有限充足可能ではなく、(c)Kn∪{¬An+1}も有限充足可能ではないと仮定する。
(4) (b)より、Kn∪{An+1}の有限部分集合に充足可能でないものがあることになる。それはKnの有限部分集合Kn'に{An+1}を合わせた集合であるはずだ。なぜならば、{An+1}を含まないKnの有限部分集合は(a)より充足可能だからである。
(5) 従って、Kn'∪{An+1}が矛盾するようなKnの有限部分集合Kn'が存在する。
(6) 同様に(c)より、Kn''∪{¬An+1}が矛盾するようなKnの有限部分集合Kn''が存在する。
(7) (5)および(6)を変形すれば、「Kn'|=¬An+1」「Kn''|=An+1」を得られる。これは「Kn'∪Kn''」矛盾することを示している。
(8) しかし、Kn'∪Kn''はKnの部分集合なので、これは仮定(a)に反する。
(9) 仮定が誤りであったため、(☆)および補助定理20-1が証明された。■
以上より、論理式の無限集合{K0, K1, K2, ..., Kn}について、どのKnも有限充足可能であることが証明された。
ここでさらに{K0, K1, K2, ..., Kn}の合併集合を△とおく。△は以下のような性質を持つ。
- 【△の性質】
- (1)T⊆△
- (2)すべての論理式Aについて、Aか¬Aのいずれかが△に属す。
- (3)△は有限充足可能である。
このうち(3)だけは証明しておく。
- 【(3)の証明】
- △のどの有限部分集合△'も、それが含むAnのうち、番号が最大のものがあるはずである。その番号を仮にnとすると、△'はKnの部分集合である。補助定理20-1よりKnは有限充足可能であるから、Knの部分集合である△'も充足可能である。したがって△のどの有限部分集合も充足可能である。
■証明その2
- 2. △を使うと簡単にTを充足する真理値割り当てをつくれることを示す。
先に導入した△をもとにして、次のような原子式への真理値割り当てVをつくる。
- 【Vの定義】
- 原子式PiがVのもとで真である ⇔ Pi∈△
つまり、Vは△に含まれるすべての原子式だけに真を割り当てるような真理値割り当てである。このようなVについて以下が成り立つことを示す。
- 【補助定理 20-2】
- 任意の論理式Aについて、AがVのもとで真である ⇔ A∈△
これを示せば、Vは△に属するすべての式を充足することになる。T⊆△だから、Vは同時にTに属するすべての式を充足する。
【補助定理 20-2 の証明】 [Basis] Aが0個の結合子を含むとき、つまりAが原子式のとき、 AがVのもとで真である ⇔ A∈△ はVの定義より明らか。
[Induction step] (1) K個以下の結合子を含む論理式については、AがVのもとで真である ⇔ A∈△ が成り立っていると仮定する。
(2) このとき、K+1個の結合子を含む論理式についても、AがVのもとで真である ⇔ A∈△ が成り立っていることを言う。 Subcase 1. K+1個の結合子を含む論理式Aが¬Bという形のとき、 ¬BがVのもとで真である ⇔ K個の結合子を含む論理式BがVのもとで偽である ⇔ B∈△ ではない(帰納法の仮定より) ⇔ ¬B∈△ (△の性質(2)より) Subcase 2. K+1個の結合子を含む論理式AがB∧Cという形のとき、 B∧CがVのもとで真である ⇔ K個の結合子を含む論理式B, Cについて、BがVのもとで真であり、かつCがVのもとで真である ⇔ B∈△かつC∈△(帰納法の仮定より) このとき、B∧C∈△でないとすると、△の性質(2)より、¬B∧C∈△となる。 すると、{B, C, ¬B∧C}が△の部分集合となるが、この集合は矛盾している。これは△が有限充足可能であることに反する。 したがって B∈△かつC∈△ ⇔ B∧C∈△ である。 Subcase 3. AがB∨Cという形のとき、 B∨CがVのもとで真である ⇔ K個の結合子を含む論理式B, Cについて、BがVのもとで真であるか、またはCがVのもとで真である ⇔ B∈△あるいはC∈△(帰納法の仮定より) このとき、B∨C∈△でないとすると、△の性質(2)より、¬(B∨C)∈△となる。 ド・モルガンの法則より、¬(B∨C) は ¬B∧¬C と同値。 すると、{B, C, ¬B∧¬C)}が△の部分集合となるが、この集合は矛盾している。これは△が有限充足可能であることに反する。 したがって B∈△あるいはC∈△ ⇔ B∨C∈△ である。 Subcase 4. AがB→Cという形のとき、 B→CがVのもとで真である ⇔ K個の結合子を含む論理式B, Cについて、BがVのもとで偽であるか、またはCがVのもとで真である ⇔ B∈△でないか、あるいはC∈△ (帰納法の仮定より) ⇔ ¬B∈△、あるいはC∈△ (△の性質(2)より) このとき、B→C∈△でないとすると、△の性質(2)より、¬(B→C)∈△。 ¬B∈△、あるいはC∈△の場合、{¬B, ¬(B→C)}{C, ¬(B→C)}のいずれかが△の部分集合となる。しかし、これらはどちらも矛盾する。これは△が有限充足可能であることに反する。 したがって ¬B∈△、あるいはC∈△ ⇔ B∨C∈△ である。
(3) 以上より、すべての論理式Aについて、AがVのもとで真である ⇔ A∈△ が言えた。■
■ 証明終わり
上記により、次のことが言えた。
有限充足可能な論理式の集合Tは以下のような性質を持つ△に拡大できる。
- 【△の性質】
- (1)T⊆△
- (2)すべての論理式Aについて、Aか¬Aのいずれかが△に属す。
- (3)△は有限充足可能である。
また以下のようなVについて、補助定理 20-2が言える。
- 【Vの定義】
- 原子式PiがVのもとで真である ⇔ Pi∈△
- 【補助定理 20-2】
- 任意の論理式Aについて、AがVのもとで真である ⇔ A∈△
Vは△を充足するため、△の部分集合であるTも充足する。
従って、「Tのすべての有限部分集合が充足可能である⇒論理式の集合Tが充足可能である」を証明することができた。
- 【定理20】コンパクト性定理(compactnesstheorem)
- 論理式の集合Tが充足可能である⇔Tのすべての有限部分集合が充足可能である。
は証明された。■
■ 3.12 メタ言語と対象言語をめぐって
- 3.12.1 メタ言語と対象言語を区別しよう
- 3.12.2 意味論的に閉じた言語とパラドクス
- 3.12.3 タルスキによる言語の階層化とうそつきのパラドクスについての最近の考え方
- 対象言語(object language)
- 論理の研究のためにつくられた人工言語Lのことだよ。Lには「P、Q、R」などの原子式や「∧、∨、¬、→」などの結合子が含まれているよ。
- メタ言語(meta-language)
- 対象言語について話をするための言語だよ。本書では日本語や、「A、B」などの図式文字や、「⇔」などの便利な記号のことだよ。
この本では、対象言語とメタ言語を分けているから、両者を混同してはいけないよ。
- 意味論的に閉じた言語
- 対象言語としてもメタ言語としても使われる言語のこと。例えば日本語は意味論的に閉じた言語であるよ。意味論的に閉じた自己言語では、自己言及(self-reference)が可能になるよ。
- 自己言及はときに、意味論的パラドクス(semantic paradox)を生み出すよ。意味論的パラドクスの代表例は、うそつきのパラドクス(Liar paradox)だよ。
タルスキはうそつきのパラドクスを回避するために、意味論的に閉じた言語を考察の対象から外したよ。言語Lにおける真理の定義を別の言語ですることにしたよ。
こんな風な言語の階層化によってパラドクスは回避できたけど、最近はこれはやりすぎだったかもしれないと言われているよ。
(1)自己言及には無害なものも数多くあるよ。
(2)また、自己言及的な文を用いなくてもパラドクスをつくることができるよ。
つまり、パラドクスは文ではなく、文の使い方によって生み出されるってことだよ。
そこで最近の論理学者は意味論的に閉じた言語でパラドクスを回避する方法を模索しているよ。でも本書ではそこまでフォローできないよ。
某社のWeb検査を受けた。Web で受けられる試験。
これは楽でよい。実施も楽だろうから、ぜひ各社とも試験を Web 型にしてほしいものだ。せめて一次試験だけでも。
現在エントリー6件。
エントリーシート出すつもりのところがプラス1件。
だんだん自分でもわけがわからなくなってきたので、就職活動ノートをつくった。
追記:もう1件エントリーして7件になった。
東浩紀 『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』
講談社学術新書、2001
ラブクラフトのことを書いていたら思いだした。前から思っていたことを書いておく。
『動物化するポストモダン』の基本的なストーリーって、
ちょっと前の世代だとオタクと言えばシェアード・ワールドものだったけど、最近のオタクは「萌えー」とか言ってて、このふたつってちょっと違うよね。
というオタク世代論だと思うんだ。こういう基本的な事実認識があり、プラスアルファで、「この流れをもう少し広い世の中の潮流に結びつけてみるテスト」というのが『動物化するポストモダン』という本の内容。
シェアード・ワールドものというのは、要するに、同じ世界観を共有しながらいろんな人が作品をつくったり遊んだりしますよーってことだね。ラブクラフトに端を発するクトゥルーものしかり。トールキンの世界観でTRPGをする人しかり。そしてもちろんコミケ等で漫画の二次創作をする人もしかり。
ただし東は「シェアード・ワールドもの」という言い方はしていなかったと思う。『動物化するポストモダン』では、大塚英志を引きながらこれを「物語消費」と呼んでいる。しかし私は「シェアード・ワールド」という普通に使われている言葉の方が好きだ。
(参考: シェアード・ワールド - Wikipedia)
それはそれとして、この基本的なオタク世代論の部分って特に間違ったこと言ってないと思うのだが、おもしろいくらい誰もそのことに触れないね。「確かにちょっと違うよね。じゃあどうちがうのかなー。東はこう言ってるけど、私はこう思うな」とか、そういう方向に話が発展してもいいはずなのに、褒める人もけなす人もなぜか関係ない話ばかりだ。「大きな物語」がどうとか、そんなの言ってみればオマケであり、ただの「と言ってみるテスト」だろうと私は思うのだが、世人はそう思わないのだろうか。大雑把なポストモダン論などより、オタク世代論の方がよっぽどおもしろいと思うのだがどうなんだ、その辺。
もちろん、そういう読まれ方をしてしまう背景には書き方のまずさもあったのだろうが、堅実なファインディングの部分はほとんど触れられず、皮相で刺激的な飾りの部分だけがことさらに反応を集めたという点で、『動物化するポストモダン』は実に不幸な読まれ方をした本であることだよと思うことしきりである。
- 雑誌「ku:nel」vol. 23
マガジンハウス
「ムーミンのひみつ。」特集。
- 雑誌「ソシオロゴス」
ソシオロゴス編集委員会
第9 号、第10 号、第12 号、第18 号、第19 号、第22 号、第28 号
計7冊。バックナンバー半額セールをやっていた。
クトゥルー神話
〈史上最小のクトゥルー神話賞〉公募のお知らせ - 幻妖ブックブログ
http://blog.bk1.co.jp/genyo/archives/2007/01/post_797.php
募集中らしい。
学習研究社、2007
参考文献らしい。
旧版(『クトゥルー神話事典』)の Amazon レビューによると、村上龍もクトゥルー神話ものを書いているそうだ。へー、そうなのか。意外。
ところで、Amazon の内容紹介には↓こうある。
怪奇作家ラヴクラフトが創造した暗黒と戦慄のクトゥルー神話大系
これは不正確な言い方だと思う。時に誤解されているが、ラヴクラフトはクトゥルー神話体系を創造していない。
基本的には、ラブクラフトは色んな小説に同じ名前のガジェットをちりばめただけ。「狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズレッドが記した禁断の書『ネクロノミコン』」「クトゥルフ」「ナイアルラトホテップ」などの「名前」は、ラブクラフトの小説に共通して出てくるが、特にその背景については明らかにされていない。これらの名前の背後には一貫した「体系」があったかもしれないし、なかったかもしれない。たぶんなかったが、いずれにせよラブクラフト自身はそれを明らかにしていない。
クトゥルー神話というのは、「ラブクラフトの小説の背景には、一貫した世界観があるにちがいない」という仮定のもとで、これらのアイテムをつぎはぎして、オーガスト・ダーレスその他の弟子の人がつくったもの。いわば『磯野家の謎』みたいなものだ。
基本的にはこういう話なので、「怪奇作家ラヴクラフトが創造したクトゥルー神話大系」という言い方はアウトだろう。
しかし、ここからが微妙な話になる。
ラブクラフトはクトゥルー神話をつくってない。ではラブクラフト自身は、クトゥルー神話もののようなシェアード・ワールドものの制作にまったく参与してなかったのかというと、そうでもない。生前から、ラブクラフト的小説を他の人が書いたり、合作でラブクラフト的小説を書いたり、という交流は行われていた。つまり、「ラブクラフト的小説」のような定型はラブクラフト自身によってつくられ、この「ラブクラフト的小説」はラブクラフト以外の人にも書けるものだったわけだ。
そしてそこにはやっぱり、「狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズレッドが記した禁断の書『ネクロノミコン』」「クトゥルフ」「ナイアルラトホテップ」などといった「名前」が出てくる。ただし「クトゥルー神話」という名前と、一貫した体系は存在しなかった。
あるいはこういう話なのかもしれない。マクガフィンという言葉があるそうだ。
マクガフィンは、
作品の登場人物は非常に重要なものだと考えているにも関わらず、観客にはほとんど説明されなかったり、説明されたとしても価値が疑わしいような「なにか」のことである。
この説明だけだとよくわからないが、名前だけ出てきて内実が明らかでないものはマクガフィンでいいのかな。そういうことにしよう。
「狂えるアラブ人アブドゥル・アルハズレッドが記した禁断の書『ネクロノミコン』」「クトゥルー」「ナイアルラトホテップ」などといった名前は元々マクガフィンだったのに、ラブクラフトの死後、オーガスト・ダーレスらによって中身を与えられた。クトゥルー神話とは非マクガフィン化されたマクガフィンである、みたいな。
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。
しだいに証明問題がむずかしくなる。証明問題の解答はむずかしい。受験参考書のように、「これが書けていれば5点」など、採点の指示を与えてほしいものだ。
■ 3.9 真理関数という考え方:前
- 3.9.1 真理関数とは何か
- 3.9.2 真理関数は何通りあるか
- 真理関数(truth-function)
- 真理値の集合の直積から {1, 0} への関数のことだよ。
- 実現(realize), 表現(express)
- 真理関数を論理式によって表すこと。ひとつの真理関数を実現する論理式は複数ある。例えば、input が{1} output が{1} の真理関数は、P∧¬P, P, P→P などによって実現されるよ。
- 真理関数の一般的定義
- {1, 0}^n から {1, 0} への関数を n 変数の真理関数と呼ぶよ。
- ちなみに n 変数の真理関数は 2^2^n 個あるよ。
■ 3.9 真理関数という考え方:後
- 3.9.3 真理関数の表現定理
- 3.9.4 どのような結合子の組み合わせが十全なのか
- 3.9.5 シェーファーの魔法の棒
- 定理17(表現定理 / 関数的完全性の定理)
- ¬, ∧, ∨ のみを結合してして含む論理式によって、n 変数の真理関数はすべて表せる。
- 十全(adequate) / 関数的に完全(functionally complete)
- これは結合子の集合に対して使う言葉だよ。その結合子集合で n 変数の真理関数はすべて表せるという意味だよ。
{¬, ∧}, {¬, ∨}, {¬, →} は十全だよ。
- シェーファーの棒(Sheffer stroke)
- A | B は ¬(A∧B) と同値だよ。これは"nand" と読むよ。シェーファーの棒とも呼ぶよ。この結合子は1つだけで十全だよ。
- シェーファー関数
- 1つで十全であるような真理関数のことだよ。
- 定理19
- 2変数のシェーファー関数は、| と ↓だけだよ。
■ 3.10 日本語の「ならば」と論理学の「→」
- 3.10.1 「→」に感じる違和感
- 3.10.2 「→」の定義の正当化
「→」は「ならば」の近似だけど、だいぶ違和感があるよ。
- 関連性(relevance)にかかわる違和感
- 日本語の「ならば」は前件と後件の間に内容上の関連性があるよ。「→」は真理値の組合せだけを問題にするよ。このような現象を関連性にかかわる違和感というよ。
しかし「→」は「ならば」の重要な特徴を反映しているよ。
- (1)逆は必ずしも真ならず
- 「A ならば B」が成り立つからといって、「B ならば A」が成り立つとはかぎらない。
- (2)推移性
- 「A ならば B でありしかも B ならば C であるならば、A ならば C である」がトートロジーだよ。
ルーマン・フォーラム プレゼンツ
【( ´∀`)著者さんと】長岡克行『ルーマン/社会の理論の革命』合評会【語ろう(°∀°)その5!】
http://socinfo.g.hatena.ne.jp/contractio/20070128/p1
行った。今日は自分の可能性にびっくりだった。
- 開始時間を間違えていた。13:30からだと思っていたのだが、13:00からだったらしい。13:15頃教室変更の連絡をいただく。
- 電車に乗り間違えた。急行に乗ってしまい、目当ての駅を通り過ぎる。あわてて各駅で1駅戻る。しかし、後から考えるとこの辺りまではまだ序の口だった。
- 降りた後、10分ほど周りを探すが、東京経済大学がさっぱり見つからない。地図にも載っていない。国分寺にあるはずなのになーと地図をよく見る。「あれ? 高円寺って書いてあるよ?」。なぜか国分寺に行くつもりで高円寺に行ってしまった。
- あわてて電車に乗り直す。しばらく乗っていると終点についた。「新宿ー新宿ー」。「なんで新宿にいるの?」。逆方向の電車に乗ったらしい。
- この時点で、もしかすると自分は無意識に何かを抑圧しているのではないかと疑いが芽生えはじめる。フロイトならきっとそう言うにちがいない。しかし無意識のことなど自分自身にわかるはずもないので、フロイトのことは忘れ、改めて国分寺に向かう。3時間ほど遅れてようやくついた。もう終わりかけだった。
今回は本当に自分のボケっぷりに驚いた。ラリってんのか?と不安になる。まったく自分が信用できなくなってきた。
今市子『百鬼夜行抄(15)』
朝日ソノラマ、2007
■ 感想
慣れてきてしまった感もあるが、相変わらず複雑なプロットを見事にまとめている。
『百鬼夜行抄』を読むたびに思うが、漫画というのは本当に叙述トリックがきれいに決まるメディアだ。改めて考えると『百鬼夜行抄』では時々、かなりアクロバティックな語りのトリックも使っているのだが、意識せずに読んでいるとそれを感じさせない。
私が覚えている例ではたとえば、「律(主人公)が出てきたと思わせておいて、実は開(おじさん)の若い頃だった」というのがあった。こういうのを小説でやるのは不可能ではないが、どうしても作者の手が透けて見える感じというか、作為的にトリックを仕掛けた風になりそうだ。その点、漫画はクールでいいなあ。説明に言葉を使わなくていいのが効いているのだろう。そこは映像でも同じだが、映像でこんな複雑なことをするとわけがわからなくなるだろうから、漫画という「読み返せ、かつ絵で構成できる」形態のメリットはすごくあるにちがいない。
そう言えばドラマ化するそうだが、ほとんど毎回登場する叙述トリックをどう再構成するのかが気になるところだ。幽玄な雰囲気はテレビで真似ようと思っても困難だろうから、むしろ語りのトリックの方を追求してドラマ化すればいいと思った。映像でうまく再構成できれば、おもしろくなるのではないか。テレビがないので観れないのだが、評判がよければ観てみたいなあ。
今回の巻について言うと、新ネタはそれほど見られなかったのでそこは残念だった。「幽霊を怖がっている側が実は幽霊だった」はもうこのシリーズの定番になっているし、「人物を本人の主観の姿で描く」も時々やっているネタだし。おもしろいからいいけど。
あと青嵐がほとんど出てこないのはどうなのか。
■ 知ったこと
なお、ペンネームの「蝸牛」は、幸田露伴の自宅の名称「蝸牛庵」に由来している。また、この「蝸牛庵」は飯嶋家の外観のモデルともなっている。
はじめて知った。
飯嶋蝸牛のモデルは泉鏡花説などもあったように思う。個人的には、外見は折口信夫に似ていると思う。
■ あらすじ
- 迎えにきて
幽霊画の話。
- 鬼の面
嫉妬の話。今回一番救いがなくて怖かった。
- 野に放たれて
生まれ変わりの話。
- 緋い糸
赤い糸が見える人の話。
- 黒天井
古い家の話。
■ 目次
- 迎えにきて
- 鬼の面
- 野に放たれて
- 緋い糸
- 黒天井
大野一雄 百歳の年 ガラ公演「百花繚乱」
―百歳の大野一雄に捧げるオマージュ―
於 神奈川県立青少年センター
http://www.kazuoohnodancestudio.com/japanese/perform_arc/hyakkaryouran/hyakkaryouran.shtml
行ってきた。大野一雄「の」舞台なのかと思って行ったのだが、大野一雄「を」記念した舞台だった。
私は本当に出不精なのだが、ごくまれにイベントに出かけるといつも、たまにはこういうのもいいなあと思う。今回も思った。
しかし、本当は行く前にメガネを買うべきだった。メガネがないからよく見えないんじゃないかと思ったが、やっぱりよく見えなかった。
はじめの方で思ったこと。ダンスは不思議だなあ。どうして人が動いているのを見ているだけで気持ちが良くなったり、おもしろかったするのだろう。しかし、よく考えると架空のキャラクターが生きたり死んだりするのを見ておもしろがるのも謎だし、音の組合せを聴いて気持ちがよくなるのも同じくらい謎だ。
途中から、だんだん集中力がなくなってきて、集中力を高める方法について考えていた。座禅かヨガか野口体操をはじめようかどうしようかなどなど。
かわいゆみこ(著)『猫の遊ぶ庭―気まぐれ者達の楽園』
心交社、1998
買った。某寮を舞台にした BL 小説。絵は今市子。
(これ、よく考えると今市子が描いた某寮の絵を見られるということであるな。それは結構レアなのではなかろうか)。
在寮時に読もうと思いつつ、読み損ねていた。Amazon で見ると結構ファンがいるようだ。そんな名作とはつゆ知らなかった。
追記:
調べたところこれは続編だったようだ。同じ小説のバージョン違いかと思った。
最初のやつはこちら↓。こっちは高いなあ。
『猫の遊ぶ庭』
あとソシオロゴスのバックナンバーを買ったがまだお金を払っていないので払ったらカウントする。
http://www.at-akada.org/blog/2007/01/post_52.html
前エントリに対する補足。書いた後2点補足事項を思いついた。
■ 偶然事の有り難さ
偶然事の有り難さ(←ダブルミーニング)について。
世の中には必然の出来事と偶然の出来事がある。しかし、必然の方は必然なのであるから、有り難さは0である。起こらないということがおおよそ有り得ないのであるから、有りやすさが無限大である。
一方偶然の出来事の方は、起こらなくてもよいことが起こったのだから、つねに多少は有り難い。それどころか、より有り難い(生起確率の低い)出来事であればあるほど、「偶然」と呼ばれやすい。あるいは、ダブルミーニングに頼らない言い方で言えば、偶然の出来事の方が「レア」である。
その出来事が有り難いレアな事柄であるのは、それが偶然だからなのである。事情がこのようになっているのであるから、偶然の出来事の方を - 偶然であるというそれ自身の資格によって - 有り難がってもいいではないか。それは可能であるし、実際そうする人もいる。
...というのが前エントリの趣旨であった。
■ 偶然と意図的
「偶然だが実現してしまったこと」は、私自身にはどうしようもない事柄である。つまり、偶然事はつねに向こうからやってくる異なものなのであるからして...
前エントリでこう書いた時、なんだか気持ち悪い感じがした。後で考えていたら理由がわかった。前エントリで私は「必然」「偶然」の関係を考えていたのだが、この部分には「意図的」と「偶然的」の関係が混ざっているからだ。
偶然は必然から区別される。一方、必然的でなくても「自分で選んだこと」はふつう偶然とは言わない。少なくとも日常語では言わない。人を殴っておいて「偶然だ」などと言うと、怒られることが多い。
つまり「偶然的」は「必然的」の対義語であると同時に、「意図的」の対義語でもあった。となると、「必然-偶然」の対と、「意図的-偶然的」の対の関係や如何にという具合に話は進む。
これは簡単かもしれない。「必然的なこと」も「自分で選んだこと」ではない。だから、まず「意図的なこと/意図的でないこと」が分かれ、さらに「意図的でないこと」の中で、「偶然的なこと/必然的なこと」が分かれる。リストにすると以下のようになる。
- 意図的なこと
- 意図的でないこと
- 必然的なこと
- 偶然的なこと
この分類の中で、人がしばしば意義を見いだすものは、「意図的でなく必然的なこと」だ。偶然の出来事に意義を見いだすとき、人はよく「これは偶然ではない。運命だ」などと言う。つまり、「意図的でなく偶然的なこと」を「意図的でなく必然的なこと」だとした上で、そこに意義を見いだすのである。
しかし、「意図的でなく偶然的なこと」も、意図的でないのは確かである。しかも上で書いたとおり、それがレアな出来事であるのは、必然だから(運命だから)ではなく、偶然だからなのである。
それならば「意図的でなく偶然的な」出来事の方を有り難がってもいいではないか。それは可能であるし、実際そうする人もいる。
...というのが前エントリの趣旨であった。
昔から「偶然を信仰する」という立場がありえるのではないかと思っていた。自分はそのような態度をとりたいとも思っていた。しかし肝心の「偶然を信仰する」ということの意味内容が自分自身にもよくわからなかった。そのため、ちっともうまくそのことを説明できず、あまり人には言わないようにしていた。
しかし今日突然その意味が多少整理できたので書き留めてみる。
まず、テツガク的には偶然とは「実際起こったが、起こらないこともありえた(必然的でない)」というのと「実際には起こらなかったが、起こることもありえた(不可能ではない)」の両方を意味するらしい。ただし日常的には、偶然といえばまず前者の「実際起こったが起こらないこともありえた」という方だ。私も前者の偶然について考えている。
よくある考え方では「ある出来事が起こったのが偶然ではない(必然である)」ことに意義を見いだす。例えば、「あの人と出会ったのは、とても偶然とは思えない(運命である)」「私の誕生日がナポレオンと同じなのは、とても偶然とは思えない(運命である)」などなど。
しかし、これとはちがった態度があってもいいのではないかと私は思う。ちがった態度というのは、「このことは偶然であるにもかかわらず、実際起こった。だから、そこに何らかの意義を見てもよかろう」という態度のこと。言い換えれば「この出来事は起こらなくてもよかったのに起こった。ならばここはひとつ、この出来事にこだわってみよう」という態度のこと。
偶然の出来事にこだわるという、この態度自体は別におかしくも何ともない。もちろん偶然の出来事にこだわる必要は(偶然だから)ないのだが、別にこだわってもおかしくはない。そして私は実際こういう考え方をすることがよくある(例: 偶然私はシャーロック・ホームズと誕生日が同じであるから、シャーロック・ホームズを読まねばなるまい)。
この考え方はそこまで珍しいものではない。例えば、日本語の「これも何かの縁でしょうから」という紋切り型はこの発想によく似ている。「縁」という語は「運命」に近いようだけど、そこまで強い概念ではなく、むしろ「これは偶然だけど、ともかくも実際起こったのだから...」というニュアンスを持つ。あと今気づいたが、この「実際起こったのだから」「折角だから」という発想は "Mottainai" にも似ている気がした。しかしその点は置いておこう。
次。「偶然起こった出来事にこだわってみる」という態度を信仰と呼ぶ理由について。これも信仰と呼ぶ必要はないのだが、「偶然だが実現してしまったこと」は、私自身にはどうしようもない事柄である。つまり、偶然事はつねに向こうからやってくる異なものなのであるからして、「神」や「奇跡」に似ていなくもない。従って偶然事にこだわることを信仰と呼んでみてもよいのではないか。
要するに、呼ばなくてもいいが、似ているから同じ言葉を使ってみようという程度の理由。
以上。偶然を信仰するとは要するに以上のような態度のことだった。今後これを洗練させ、偶然神学および偶然教を確立、やがては初代教祖の座につき、お金をがっぽり儲けたい。
つづき:
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。
だんだん難しくなってきた。対象が論理式から論理式の集合へとシフトしてきたのだが、頭がついていけない。今日は丁寧めに復習する。テキストで書くのが無理になってきたので早く TeX を覚えようと思った。
■ 3.7 論証の正しさとは何か
- 3.7.4「矛盾からは何でも出てくる」の怪
- 3.7.5 論理学の3つの顔は1つである
論証の妥当性、矛盾、形式的真理という論理学の3つの顔が同じであることを示すよ。
■ 妥当性とトートロジー
- 定理9
- 前提 A1, ..., An から結論 C を導く論証が妥当である ⇔ 論理式 (A1∧...∧An)→ C がトートロジーである。
- 証明
- 前提 A1, ..., An から結論 C を導く論証が妥当である
- ⇔ この論証には反例がない (妥当な論証とは反例のない論証である*)
- ⇔ A1, ..., An を同時に 1 とし、なおかつ C を 0 とするような真理値割り当ては存在しない(反例の定義より)
- ⇔ (A1∧...∧An) を 1 とし、なおかつ C を 0 とするような真理値割り当ては存在しない(結合詞∧の性質より)
- ⇔ (A1∧...∧An)→ C を 0 とするような真理値割り当ては存在しない(結合詞→の性質より)
- ⇔ (A1∧...∧An)→ C はトートロジーである(トートロジーとは真理値がつねに 1 である論理式のことである*)
■ 妥当性と論理的同値性
- 定理10
- A と B が論理的に同値 ⇔ 論証(A ⇒ B)と論証(B ⇒ A)がともに妥当。
- 証明
- A と B が論理的に同値
- ⇔ A と B の真理値がつねに一致する(論理的に同値とは真理値がつねに一致するということである*)
- ⇔ A ←→ B がトートロジー(結合詞 ←→ の性質より)
- ⇔ (A → B)∧(B → A)がトートロジー
- ⇔ A → B がトートロジー、かつ B → A がトートロジー(結合詞∧の性質より)
- ⇔ 論証(A ⇒ B)と論証(B ⇒ A)がともに妥当(先の定理9より)
■ 3.8 論理的帰結という関係
- 3.8.1 論理的帰結を定義する
- 3.8.2 論理的帰結関係について成り立つ定理
■ 論理的帰結の定義
- 論理的帰結とは
- 妥当な論証から導き出された結論のことだよ。
- 2重ターンスタイル(double turnstile)とは
- 論理的帰結を示す記号「|=」のことだよ。
- T |= C*1 ⇔ T に含まれている式と C を構成しているすべての原子式への真理値割り当てのうち、T に含まれるすべての式を同時に 1 とし、なおかつ C を 0 とするような真理値割り当ては存在しない。
- トートロジー
- |= C ⇔ C はトートロジーである。
- 矛盾
- T |= ⇔ T は矛盾している。
■ 定理
- 定理14
- (1)A |= A
- (2)もし T |= A ならば、 T, B |= A
- (3)もし T |= A 、A, K |= B ならば T, K |= B
- 単調性(monotonicity)、またはthinning
- (2)のことだよ。前提に余計なものを付け加えても論証の妥当性は変わらないよ。単調性を持たない論理のことを非単調論理(non-monotonic logics)というよ。
- cutting
- (3)のことだよ。
- cutting の特殊なやつ
- B が存在しないとき。
- T |= A、 A, K |= ならば T, K |=
- T, K が空集合のとき。
- |= A、 A |= B ならば |= B
- 定理15
- (4)A, ¬A |= B
- (5)T, ¬A |= ⇔ T |= A
- T, A |= ⇔ T |= ¬A
- (6)T |= A∧B ⇔ T |= A かつ T |= B
- (7)T, A∨B |= ⇔ T, A |= かつ T, B |=
- (8)T, A |= B ⇔ T |= A → B
- 定理16
- (a) T |= A ⇒ T |= A∨B
- (b)T |= A∨B、 A, K |= C、 B, K |= C ⇒ T, K |= C
- (c)A, T |= C、 B, T |= C ⇒ T, A∨B |= C
- *1: T は論理式の集合
ルーマン(という人)の「複雑性」概念について。
■ 前置き
その 1: http://www.at-akada.org/blog/2007/01/post_35.html
その 2: http://www.at-akada.org/blog/2007/01/_2_1.html
その 3: http://www.at-akada.org/blog/2007/01/_3.html
課題図書:
西阪仰「コミュニケーションのパラドクス」
(土方透編『ルーマン/来るべき知』勁草書房、1990)
西阪仰訳「複雑性」(『社会システムと時間論―社会学的啓蒙』)
■ 「複雑性」論文より
「複雑性」論文をコピーした。
考えれば考えるほど、複雑性が何なのかわからなくなってきた。とりわけ「なぜ環境はシステムより複雑なのか」がよくわからなくなってきた。
とりあえず参考になりそうな部分をメモ。
「なぜ環境はシステムより複雑なのか」に答えていると思われる箇所。
周界の複雑性は、システムの複雑性とどのようにでも関係づけられうるわけでもはない。なぜなら周界の複雑性はシステムの複雑性とは違ったふうに構成されているからである。つまり、周界複雑性は境界をもっていずに、そのかわりに、一方でシステム自体にとって関連のある規定可能なものと、他方でシステムには関連がないと想定できるようなその他の無規定の諸可能性とが地平により分割されることで、構造づけられているのである。したがって周界複雑性の場合、システムにとって関連のある諸々の出来事に対する選択性はシステムの場合よりもたしかに鋭いが、しかし同時に、全体秩序に対する要求はシステムの場合より弱いのでシステムより多くの可能性があるということにもなろう。
p236
よくわからない。環境は「一方でシステム自体にとって関連のある規定可能なものと、他方でシステムには関連がないと想定できるようなその他の無規定の諸可能性とが地平により分割されることで、構造づけられている」。つまり、環境は「規定されたもの」と「無規定なもの」という弱い構造しか持たない。
最後の一文の「全体秩序に対する要求が弱い」という箇所がこれと同じことを指しているのだとすると、最後の一文は、
「環境は弱い構造しか持たないのでシステムより複雑だ」
と言い換えられそうだ。
でもこれは変だ。一見納得しそうになるけど、よく考えるとおかしい。仮に要素の数が同じであれば、構造が弱い方が多くの可能性を含むと言えるのは確かだろう(語彙が同じであれば文法がない言語の方が、可能な文を多く含む)。でもシステムと環境の場合、要素の数は同じではないように思える。「環境は無規定なものを含むので複雑だ」って言ってくれればまだわかるのだが、そうは言ってないように見える。
「システム複雑性と環境複雑性の相互規定」を言うときに、西阪氏が依拠しているのは↓この辺か。
システムとの関係においてのみ、そのシステムの周界は、規定可能な複雑性を得るのである。
p236-237
もし複雑なるものの統一性を二変数関係とみなすならば、無制限の変域を限定するためにまた別の関係が必要となる。言い換えれば、複雑なるものは関係において見られるときにのみ規定可能な統一体なのである。つまり、システムは周界との関係においてのみ、周界はシステムとの関係においてのみ規定可能な統一体なのである。
p242
今日はこれだけ。
以下7冊は古書店。
平凡社、1961
平凡社、1963
河出書房新社、1963
河出書房新社、1963
一冊百円だった。教養身につけ放題。
大塚英志
角川書店、2004
バートランド・ラッセル(著), 市井 三郎(訳)
みすず書房
小学館、1997
これはおすすめ。非常にマニアックな一冊。
以下3冊は新品で買った。
ピーター ミルワード (著), Peter Milward (著), 小泉 博一 (訳)
中公新書、2001
今市子
朝日ソノラマ、2007
新刊が出ていた。聞いたところによると、テレビドラマ化するそうだ。
「ジャーロ」 vol. 26
光文社
山本七平『「空気」の研究』
文春文庫、1983
いわゆる「空気読め」の「空気」。
私は読めないので知らないのだが、空気を読ませようとする輩が多いところを見ると、空気にはさぞかし面白いことが書いてあるのだろう。などと韜晦してみせることもしばしばだが、正直に言うと空気について考えようとするたび、にわかに怨念が高まり、まったく素面では語れない。にっくき空気め! 空気め!
生来の敵とも言える空気のことが少しでもわかるならばぜひ読んでみたい。
以前名前にひかれて購入した『ぴかぴかすりこぎ団の騎士』が届いた。「エリザベス朝喜劇10選」というシリーズの一冊だったらしい。その名の通りエリザベス朝喜劇の戯曲だった。
一点目。「イデオロギー」という語を「応援歌」という語に置き換えてみたらどうだろう。どうだろうも何もないが。
- ドイツ応援歌
- ブルジョア応援歌
意味はそんなに変わらないのに、親しみやすくなる。
さしづめ「イデオローグ」は「応援団長」か。
- テクノクラートの応援団長
批判されてるんだかなんだかわからない。
二点目。
「すべての道はローマに通ず」のならば、ローマを経由してあらゆる地点がつながることになる。
つまりローマを経由すれば北京でもカルカッタでもどこへでも行けるのだから、「すべての道は北京に通ず」でも「すべての道はカルカッタに通ず」でも「すべての道は中目黒に通ず」でも、何でもいいのではないか。
ただしローマに至る道が一方通行だとか、ローマが壁で分割されている(ローマから他のところへはいけないようになっている)可能性も皆無ではない。
以下の2冊は古書店で。
T.A.シービオク(著), J.ユミカー=シービオク(著), 富山太佳夫(訳)
岩波書店、1994
名探偵ホームズの犯人探索術は,プラグマティズムの哲学者パースの思考方法と同一のものであった,と推論し,両者を比較検討.ドイルの推理小説の抜群の面白さに潜むパース哲学の隠れた一面を読みとき,記号論の本質を衝く.
「パースの思考方法と同一のものであった」って。それは言い過ぎではないですか。
C.S.ルーイス(著), 山形和美(訳)
評論社、1968
ナルニアの人。安かった。
以下は大学生協で。
- 『文学理論』
ジョナサン・カラー(著), 荒木 映子(訳), 富山太佳夫(訳)
岩波書店、2003
Amazon で評判がよかったので。
『ロリータ』
ウラジーミル・ナボコフ, Vladimir Nabokov, 若島 正
新潮文庫
ロリータ新訳版はもう文庫になったのか。
小島アジコ
宙出版
うーん、おもしろそうかも。
西田谷洋『認知物語論とは何か?』
ひつじ書房、2006
文学というものは、なにゆえに文学なのだろうか。文学という営みは人間的な行為である。人の持つ、イメージ、ストーリー、認識の構造がそこにはある。文学はただ単に「近代文学研究」が前提として捉えているような意味で存在しているのだろうか?本書は、認知科学、認知言語学の視点から、人間の認知活動として文学・物語を捉え直すラディカルな(根元的な)問題設定の試みである。
http://www.hituzi.co.jp/books/278.html
えい! えい!
だんだんブログが自分用の本メモになりつつある。
アソシエイトの皆様、
現在アソシエイト・セントラルのレポートの更新が遅れており、1月18日からのデータをご利用いただけない状態となっております。現在、対応中となっておりますので、今しばらくお待ちいただきますようお願い申し上げます。
Amazon アソシエイト・プログラム ブログ
http://affiliate-blog.amazon.co.jp/2007/01/post_5.html
アフィリエイトのレポートが 0 からピクリともしないのでメールで問い合わせたら、18日以来そもそもレポートがダメになっているそうな。ID 間違いを直したのがちょうど 18日*1なのでまったく結果がわからない。
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。
結構ハマってきた。
あまり進まなかったので今回は用語の整理が一瞬で終わった。細切れに書くとあとから参照しづらくてよくないが、あとでまたまとめることにしよう。
■3.7 論証の正しさとは何か
- 3.7.1 論証の妥当性を理解する鍵は反例にある
- 3.7.2 論証の妥当性を定義する
- 3.7.3 構成的両刀論法と場合分けによる証明
- 反例(counterexample)とは
- 論証の前提がすべて真になるが、結論は偽になる場合のことだお。
妥当な論証とは反例の存在しない論証のことだお。
"Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics"
Frank Sibley, John Benson, Betty Redfern, Jeremy Roxbee Cox
音楽作品の記述に関する議論が載っているらしい。
あとで買う。そのうち。
"Verbal Icon Studies in the Meaning of Poetry"
ついでにメモ。「意図への誤信」が入っている本。
増田聡『聴衆をつくる―音楽批評の解体文法』
さらにメモ。音楽批評論をもっとマメに読んだ方がいい気がした。
レオ・ブルース (著), Leo Bruce (原著), 小林晋(訳)
セイヤーズのピーター・ウィムジイ卿、クリスティのエルキュール・ポアロ、チェスタトンのブラウン神父のパロディである3人の探偵が出てくるらしい。おもしろそうかも。
- Thomas G. Pavel(1986) "Fictional Worlds", Harvard University Press
これは買わないとどうしようもないだろうと思った。買った。本当に届くのかどうか不安だ。
また二社エントリーした。書いておかないと絶対忘れるに違いないと思った。
とりあえず何も考えずにエントリーしてあとはひたすら言われた通りに試験受けたり面接受けたりしてればいいって、実は楽なんじゃないかということに気づいた。
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。3.5 はむずかしかった。
■3.5 真理表を理論的に反省する
- 3.5.1 真理値分析とは何をやることだったのか
- 3.5.2 真理値割り当て
- 真理表を書くとは
- 原子式への真理値の割り当てを複合的な論理式への真理値割り当てへと拡張するということ。
- 真理値割り当ての定義
- L の原子式からなる或る集合を F とする。F に対する真理値割り当て(truth assingment) V を次のような関数とする。
- V:F→{1, 0}
これは原子式の数を限定せず、任意の集合 F とした場合の定義。式は V が「F から {1, 0} への関数」であることを表す。
要するに F のどの要素にも 1 または 0 が割り当てられるということ。これは、二次関数 y=f(x) でどの x にも f(x) がひとつ割り当てられるのと同じこと*1。真理表においては、各行がそれぞれ異なる V に対応することになる。
- 付置関数(valuation function)
- V のことをこう呼ぶこともある。
- 真理値分析でやっていること
- F に含まれる原子式からスタートし、帰納的に定義される論理式のすべてからなる集合を ~F とする。真理値分析で行われるのは、F への真理値割り当て V を拡張し、~F に含まれる各論理式への「拡大版真理値割り当て ~V:~F→{1, 0}」をつくることである。
■ 付録 A-2 集合論についての基礎知識
- 2.1 集合とその表記法
- 2.2 集合のアイデンティティは何か
- 2.3 集合に対する演算
- 2.4 順序対とデカルト積
- 2.5 同値関係と同値類
集合の話が出てきてむずかしかったのでここを先にやった。
■ 3.6 矛盾とは何か
- 3.6.1 論理式の矛盾の集合を定義する
- 矛盾(inconsistent)
- 論理式の集合Γが矛盾している ⇔ Γのすべての論理式を同時に真にする真理値割り当てが存在しない。
- 充足可能(satisfiable)/整合的(consistent)
- 矛盾していないこと。
- *1: y=f(x) を F:x→f(x) と書いてもよい
私が本屋に行って発見したことを書く。
こんな本を発見した。買った。
蓮實重彦『表象の奈落―フィクションと思考の動体視力』
思ったより虚構論への言及が多そうなので買った。
虚構論著作一覧に追加する。
- 作者:吉田 戦車
- 出版社・メーカー:講談社
- 出版社・メーカー:講談社
- 出版社・メーカー:講談社
- 発売(予定)日:2007-01-12
- 定価:¥ 540
- Amazon内売上順位:54520
- 評価:3.5
文庫化してたので買った。
以下2冊もなんとなく買った。
- 作者:脇 明子
- 出版社・メーカー:岩波書店
- 出版社・メーカー:岩波書店
- 出版社・メーカー:岩波書店
- 発売(予定)日:2006-05
- 定価:¥ 735
- Amazon内売上順位:252146
- 評価:3.5
- 作者:岡本 薫
- 出版社・メーカー:岩波書店
- 出版社・メーカー:岩波書店
- 出版社・メーカー:岩波書店
- 発売(予定)日:2003-12-20
- 定価:¥ 777
- Amazon内売上順位:69311
- 評価:4.0
ところで、自分が月に何冊本を買うのか気になってきたので集計のため、来月 2/21 までの間、本を買ったら必ずここに書き込むことにする。しかしその 1 ヶ月のあいだに、人にはとても言えないような恥ずかしい本を買うこともあるかもしれない。その場合は冊数だけを書くことにしたい。
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。
3.5.1 まで進んだ(昨日)。
とにかく真理表をつくって真理値分析を行ってみる(といろんなことがわかる)、ということを学んだ。
■ 余談
James D. McCawley, "Everything That Linguists Have Always Wanted to Know About Logic but Were Ashamed to Ask"
巻末のブックガイドで紹介されている本。id:shim に教えてもらった。
タイトルの元ネタになっている本。
"Everything You Always Wanted to Know About Sex but Were Afraid to Ask"
ウディ・アレン監督の映画版。
"Everything You Always Wanted to Know About Sex"
映画の日本語版。
『ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう』
映画の邦題をふまえて邦訳すると『言語学者なら誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくい Logic のすべてについて教えましょう』。
直訳すると『言語学者がいつも Logic について知りたがっているすべてのこと。でもちょっと聞くのは恥ずかしい』。
恥じる言語学者がかわいい。
■ 用語の整理(3章途中まで)
3.4 までの用語を整理しておく。
■真理表
- 真理表(truth table)
- 結合詞で結ばれた命題とそれぞれの命題の真理値の関係を表す表のことだよ。人工言語 L では、結合詞の意味は真理表によって与えられるよ。
- 真理値(truth value)
- 真/偽(真理表では1,0)のことだよ。
- 2値原理
- 論理式はすべて真・偽いずれかの真理値を持つという原理のことだよ。二つ以上の真理値を持つ論理学は多値論理学(many-valued logic)というよ。
- 排他的選言(exclusive disjunction)/非排他的選言(non-exclusive disjunction)
- 排他的選言は「AまたはBをプレゼント」というときの「または」のこと。非排他的選言は「日本国籍を持つかまたは日本国籍を持つ者と結婚している者」というときの「または」のこと(両方の条件を満たしていてもよい)。
- 真理値分析
- 論理式の真理条件を分析すること。
- 真理条件(truth condition)
- 論理式がどんなときに真になるのか。
- 双条件法(biconditional)
- 「←→」のことだよ。英語では「A iff B」とも書く。「A, if and only if B」と読む。
■ トートロジー
- トートロジー(tautology)
- 原子式の真理値にかかわらず常に 1 となる式のことだよ。T で表すよ。
- 事実式(contingency)
- 原子式の真理値の取り方によって 1 にも 0 にもなる式のことだよ。
- 矛盾式(inconsistent wff.)
- 原子式の真理値にかかわらず常に 0 となる式のことだよ。逆さまの T で表すよ
- 充足可能式(satisfiable wff.)
- 1 になることができる式だよ。トートロジー + 事実式のことでもある。
■ 代表的なトートロジー
省略。
■ トートロジーとは
- 理性の真理/分析的真理
- 経験によって確かめる必要がなく、言葉の上だけで正しいことがわかってしまう真理のことだよ。必然的真理とも言うよ。
- 事実の真理/経験的真理
- 世界のたまたまの事情によって真になっている真理のことだよ。偶然的真理ともいうよ。
- 形式的真理/論理的真理
- 分析的真理のうちで、論理定項の意味だけによって真であるもののことだよ。論理定項以外の言葉の意味によって真理である命題は含まれないよ。
- トートロジーとは
- 形式的真理を論理学的に表現したものだよ。
- トートロジーはつねに真だけど、情報量が 0 だよ。
■論理的同値
- 論理的同値(logically equivalent)
- 原子式の真理値のいかなる組合せに対しても真理値が同じだってことだよ。
- 定理5
- 二つの論理式 A, B が論理的同値であるならば、A←→B はトートロジーであり、A←→B がトートロジーならば A, B は論理的同値である。
- 同値変形
- 論理的同値である別の式に変形すること。
- 置き換えの定理(replacement theorem)
- A, B が論理的同値ならばC[A], C[B] も論理的同値である。
- 強い置き換えの定理
- (A←→B)→(C[A]←→C[B]) はトートロジーである。
■ 同値変形の例
省略。
職場で教わった。よく眠れるそうなので、日課にしてみようか。フワフワした動きが気に入った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E4%BD%93%E6%93%8D
ルーマン(という人)の「複雑性」概念について。
■ 前置き
その 1: http://www.at-akada.org/blog/2007/01/post_35.html
その 2: http://www.at-akada.org/blog/2007/01/_2_1.html
課題図書:
西阪仰「コミュニケーションのパラドクス」
(土方透編『ルーマン/来るべき知』勁草書房、1990)
前回は適当なことを書きすぎたので反省した。いったん忘れて文献に立ち返ってみようと思った。
しかし「複雑性」論文をコピーしに行ったら、センター試験で学校に入れなかった。明日までセンター試験らしい*1。しょぼーん。
■『社会システム理論』(のごく一部)読解
仕方ないので『社会システム理論』「複雑性の問題」を読む。
6 段落までしか行っていないが、今日はもう寝るのでここまで。だんだんおもしろくなってきたところなので残念だ。
『社会システム理論』第1章6節「複雑性の問題*2」
邦訳p36-
■ [6-1]
- 複雑性の問題を取り上げる。
- 複雑性に関する成果を手がかりに、システム/環境-関係の分析を行う。
■ [6-2]
- 複雑性は、最近のシステム研究が経験する問題をもっとも強力に表現する観点。
- しかし定義されずに用いられている。
- そのせいで様々な研究を照合する可能性がさまたげられる。
- われわれは、複雑性を「要素概念」「関係概念」に基づいて定義する。
- この定義については社会学的啓蒙二巻の「複雑性」論文を参照。
- この定義のいいところは、
- 複雑性概念をシステム以外(環境、世界)にも適用できること。
- また、複雑性の概念をシステム概念なしで定義できること。
- このおかげでシステム理論の分析を別な観点から補強しうる。
- ただし、この時要素の規定がシステムに依拠することに注意しよう。
- 要素の規定がシステムに依拠するというこのテーゼは「『編成された複雑性』はシステム形成によってのみ成立する」というテーゼを含意する。
- というのも、「編成された複合性」は、システムの諸要素間の選択的な諸関係を含んだ複雑性のことだから。
- このおかげでシステム理論の分析を別な観点から補強しうる。
【コメント - ここから】
整理すると、
- 複雑性を「要素」と「関係」によって定義する。
- 複雑性自体は、どんな要素にも適用できる考え方である。
- 社会システムの場合は、「要素」と「システム」の規定が相互依存する。
- 「システムの諸要素間の選択的な諸関係を含んだ複雑性」を「編成された複雑性」と呼ぶ。
「システムの諸要素間の選択的な諸関係を含んだ複雑性」って何だろう。「諸要素間の選択的な諸関係」=構造かな? 多分そうだろう。
あと「複雑性」論文が参照されているので、『社会システム理論』の時点と「複雑性」論文の時点で、複雑性に関する基本的な考え方は変わってないと見なしてもよいだろう。
【コメント - ここまで】
■ [6-3]
- 要素/関係の差異から出発するなら次のことが帰結する。
- A) あるシステムにおいて結合されなければならない諸要素の数
- B) および、あるシステムにとってそのシステムの環境として結合されねばならない諸要素の数
- が増大すると
- ☆「それぞれの要素がそれ以外のすべての要素と関係する」ことは可能でなくなる。
- この☆(それぞれの要素が他の全ての要素と結びつくことが可能でない)という状況において、
- 「現に結合している諸要素の集合」を、「複雑的」と呼ぶ。
- ところでこの時、☆が帰結するのは、「ある要素が他の要素と結びつく能力の内在的な限定」のためである。
- 原因が「内在的な限定」であるがゆえに、要素が有する複雑性はシステムにとって自由に処理できない。
- 一方要素の複雑性によって要素の「統一体としての能力」が可能になる。
- そのかぎりにおいて複雑性は複雑性自体を前提とする事態である。
- すなわち、諸要素はシステム形成の高次の水準にとって統一体として機能するために、あらかじめ複雑的なものとして構成されていなければならない。
- しかし諸要素がすでに複雑的であるがゆえに、システムにおける諸要素の連結能力が限定される。
- その反面複雑性がシステム形成のより高次の水準で再生産される。
- 複雑性のこのような自己言及は、システムの自己言及として「内在化」される。
- そのかぎりにおいて複雑性は複雑性自体を前提とする事態である。
【コメント - ここから】
何言ってるのか全然わからんw。
- ☆の下で、結合した要素の集合を「複雑」と呼ぶ。
- ☆が帰結するのは要素の「内在的な限定」のせいである。
- 「内在的」っていうのは「要素に内在的」ということだろうか。
ここまではいいとする。しかし「複雑性は要素の集合に使う」って言ってるのに、どうしてそのすぐ後に「要素の複雑性」の話が出てくるのかがわからない。要素は要素の集合なのか?
仕方ないので原文にあたってみる(p46)。
"Menge von Elementen" は「要素の集合」ではなく「一定量の要素」でもよさそうだ。
- その場合
- 「要素の複雑性」とは「要素が他のいくつかの要素と結合している」ということ。
- しかし、要素が1個の単位たりえるのは、まさにこの結合のためである。
- だからこそ「複雑性は複雑性を前提する」と言える。
これならわかる。
複雑性のこのような自己言及は、システムの自己言及として「内在化」される。
ここはわからんが、まあいいや。
【コメント - ここまで】
■ [6-4]
- 1)複雑性は選択の強制を含意する。
- 2)選択の強制はコンティンジェンシーを含意する。
- 3)コンティンジェンシーはリスクを含意する。
- 1-3を解説する。
- 複雑的事態は、この事態を構成したり維持したりするための、諸要素間の諸関係を選択することに依拠している。
- 当の諸要素にとって、それ以外の関係づけが可能であるかもしれない。
- いずれにせよ関係の選択によって諸要素は、その関係の中の要素になる。
- 「それ以外の関係が可能」ということは、「コンティンジェンシー」と言う伝統的な用語で表現されてきた。
- 同時にこのことは、失敗の可能性(リスク)を意味する。
■ [6-5]
- 1) 選択の強制や選択の条件付けによって、よく似た単位から、きわめて多様なシステムが構築されうる。
- 2) 従って、世界の複雑性、種と類の複雑性、その中にあるシステムの複雑性はそれぞれ、「複雑性の縮減」ならびに「複雑性の縮減の選択的条件付け」によって可能になる。
- 3) こう考えた場合にのみ、「要素の持続がシステムの自己再生に適合しうる」ということが明らかになる。
【コメント - ここから】
「選択の強制や選択の条件付け」は「要素の関係の選択」のこと。
「要素の関係」=「構造」なのかな? たぶんそうだろう。
この場合、1 の部分を「構造の選択に応じてさまざまなシステムがある」と言い換えることができる。
「複雑性の縮減」=「選択」かな?
だとすると、2 は次のように言い換えられる。「構造の選択によってシステムが成立する。システムが成立しないと世界の複雑性も類と種の複雑性もないから、構造の選択こそが、以上のものを生み出している」
3 は意味がわからない。
こう考えた場合にのみ、「要素の持続がシステムの自己再生に適合しうる」ということが明らかになる。
なんだこれ?
- A「システムは【諸要素-の-関係-の-選択】によって成立する」
- B「要素の持続がシステムの自己再生に適合しうる」
なぜ A の場合そしてその場合のみ B が明らかになるのか。
【コメント - ここまで】
■ [6-6]
- したがってシステムにおける諸要素の複雑的連関に関する抽象的な議論が進展するためには、「進化論とシステム論の統一」が必要。
- 進化論について
- 諸要素の間にいかなる諸関係が実現されるのか、要素の複雑性自体から演繹的に導出することはできない。
- そうした諸関係がいかなるものであるのかは
- 1)システム形成のそれぞれの水準で
- 2)システム/環境 - 差異のいかんによって
- 3)この差異が進化の上で果たすしかるべき役割を実証することで
- 明らかになる。
- そうした諸関係がいかなるものであるのかは
- 諸要素の間にいかなる諸関係が実現されるのか、要素の複雑性自体から演繹的に導出することはできない。
- システム論(複雑性概念)について
- 一方、システム/環境 - 差異の問題は複雑性概念によって解明できる。
- システムにとって環境は自分よりも複雑的である。
- それゆえにシステム/環境 - 差異の創出と維持が問題になる。
- システムには、「必要な多様性」(アシュビー)が欠けている。
- 言い換えればシステムと環境の間の一対一対応はありえない。
- だからこそシステム/環境 - 差異の創出と維持がシステムの問題となる。
- a)システムの複雑性が環境のそれよりも劣っていることは、「選択の戦略」によって埋め合わされねばならない。
- b)システムが選択を強いられるのは、もとはといえばシステム自身の複雑性のせい。
- c)システムの諸要素の関係づけにおいて、どんな秩序づけが選ばれるのかは、環境 - 複雑性とシステム - 複雑性の差異による。
- d)このことのゆえに、システム諸要素の関係の秩序付けと、環境 - 複雑性とシステム - 複雑性の差異は分析的にしか類別できない。
- e)ところがこの二つの事態は同一の事態の二つの側面を形成している。
- f)というのも、諸要素の関係の秩序付けを選択することによってのみ、システムは複雑的になるのだからである。
- 一方、システム/環境 - 差異の問題は複雑性概念によって解明できる。
【コメント - ここから】
「進化論は構造の問題を扱う」という論点は『社会の社会』でもでてきた。
後半は「システム論は複雑性の問題を扱う」と言っているように見える。
しかし、まず「環境はシステムより複雑」というのがどういう意味だかよくわからない。
いわゆる「複雑性」の話は何となくわかったが、それが社会システムにおいて(意味の次元において)どうなるのかがよくわからない。なかなか経験的な話に落とし込めない(落とし込もうとすると例のオレ様解釈になる)。
a-f は重要そうだが意味がわからない。
- c) システムの諸要素の関係づけにおいて、どんな秩序づけが選ばれるのかは、環境-複雑性とシステム-複雑性の差異による。
お! これは、西阪氏の引用にあった私の疑問箇所と同じ内容だ。
文脈からして進化の話だなあ。
前後をいちいち言い換えてみよう。
- a)システムの複雑性が環境のそれよりも劣っていることは、「選択の戦略」によって埋め合わされねばならない。
- b)システムが選択を強いられるのは、もとはといえばシステム自身の複雑性のせい。
- c)システムの諸要素の関係づけにおいて、どんな秩序づけが選ばれるのかは、環境-複雑性とシステム-複雑性の差異による。
=> a) 複雑性の落差は「構造の選択」が埋め合わせるよ。
=> b) しかし「構造の選択」が必要なのは、システムが複雑だからだよね。
=> c) 「構造の秩序づけ」は複雑性の落差によるよ。
どういうことだろう?
- 「複雑性の落差」→「構造の選択」←「システムの複雑性」
- 「複雑性の落差」→「構造の秩序づけ」
c) は a) を言い換えただけだな。
- d) このことのゆえに、システム諸要素の関係の秩序付けと、環境-複雑性とシステム-複雑性の差異は分析的にしか類別できない。
=> d) だから「構造の秩序づけ」と「複雑性の落差」は分析的にしか類別できない。
「このことのゆえに」というのは、「構造の秩序づけが複雑性の落差に依存するから」ということか。両者が依存の関係にあるから切り離すことは本来できない、と。
- e) ところがこの二つの事態は同一の事態の二つの側面を形成している。
- f) というのも、諸要素の関係の秩序付けを選択することによってのみ、システムは複雑的になるのだからである。
=> e)「構造の秩序づけ」と「複雑性の落差」は同一の事態の裏表である。
=> f) なぜならば、構造の秩序づけこそがシステムの複雑性を生み出すのだからである。
ややこしくなってきた。
- 構造の秩序づけは複雑性の落差に依存する。
- ところで、構造の秩序づけはシステムの複雑性を生み出す。
- システムの複雑性がなければ複雑性の落差もない。
- 従って構造の秩序づけが複雑性の落差を生み出すとも言える。
- だから両者は同じ事態の裏表だよ。
なるほど。
これでようやく問題が何だったのかがわかってきた気がする。
↓こんな感じか?
- 「複雑性は観察図式である」
- 「構造は、システム - 複雑性と環境 - 複雑性の落差によって決まる」
- ルーマンはこの両方のことを言っているが、なんでこんなことが言えるのか?
【コメント - ここまで】
- *1: http://www.dnc.ac.jp/center_exam/19exam/kijitu.html
- *2: 邦訳では「複合性」となっているがここでは「複雑性」を採用
"DiY"(Do it yourself) は、なぜ、いつ頃から「日曜大工」の意味になったのだろうか。
調べ方が難しい。DiY で検索しても日曜大工関係の記事ばかりだし、DiY パンクで検索すると、パンク修理の記事が出てくる。
http://wwwz.fujitv.co.jp/takeshi/column/mouriyoshitaka/mouriyoshitaka01.html
- パンク・ロック - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF
W.G. ライカン, William G. Lycan, 荒磯 敏文, 鈴木 生郎, 川口 由起子, 峯島 宏次
論理学を学ぶかたわら私がこの本で英語圏の哲学を学ぶ。
↓あいかわらずこういうのがうれしい。
おそらく、よりよいアプローチは、制限付きの量化(Lycan 1984, Neale 1990)に訴えることだろう。"Everyone likes her(みんな彼女のことが好きだ)"のような言い方をするが、ここで意味していることは、この宇宙にいる人すべてではなく、文脈的に指定されるある社会的な集団のなかのすべての人のことである。また、「もう誰も、あのレストランには行かない」は人類すべてがそこに行かなくなったということを意味するのではない。ふつうは、(それがどんなものであるかはともかく)ある種の人は行かないということを意味するだろう*。
* 原注5) G. K. チェスタートンのブラウン神父探偵シリーズのひとつ「見えない人(The invisible Man)」は、完全にこの現象に依拠している。
p34-35
ブラウン神父キター。
ブラウン神父いわく、
「こんなことに気づいたことはありませんか。ひとはこちらの言ったことに、けっして答えてくれないのです。ひとはこちらが意味したことにたいして ― もしくは意味していると思ったことにたいして ― 答えるのです。かりに一人のご婦人が、田舎の別荘で別の婦人に、《どなたか一緒に滞在してるんですか?》と尋ねるとします。その婦人は《はい、執事が一人に、馬ていが三人、それから小間使いと……》などとは答えんでしょう。小間使いが部屋のなかにいたり、執事が椅子の後ろにいたとしてもね。彼女は、《誰も一緒に来てません》と言います。つまり、あなたが意味してるような者は誰もいませんよ、ということです。しかし、かりに医者が伝染病のことで《この家には誰がおりますか》と尋ねてきたら、そのときはこのご婦人も執事や小間使いや他の者のことを思い出します。言葉というのはすべてこのように使われております。質問に正しい答えが返ってくることはあっても、文字通りの答えは返ってきません」
(拙訳)
最近英語圏の哲学をチラチラ見ていると、こういう好もしい参照が多く、微妙にうれしい気持ちを味わっている。例えばサールがヴォネガットの『スローターハウス5』に言及していたり、ルイス・パヴェルがアシモフの『永遠の終り』に言及しているのを見て、おお!と思った。
他にも、言語哲学の文脈で『不思議の国のアリス』(のハンプティ・ダンプティ)に言及するのはほとんど定番になっているだろう。
「見えない人」はこれに収録されている。
実は私も以前「見えない人」を訳そうと思い、3分の2くらいまで訳したのだが、その後放置しっぱなしになっている。
せっかくだからここでタイトルに関する豆知識を披露しておく。
原題の "The invisible Man" は明らかに、ウェルズの『透明人間』(原題はやはり "The Invisible Man")の引用。その趣旨は、「"invisible man"(=見えない人)というのは、ウェルズが考えたような『透明な人』ではなく、こんな人なのではないかな?」ということだと思われる。しかし日本語の場合、そもそもウェルズの "The Invisible Man" を「透明人間」と訳すのが定番になっているため、この言葉遊びを翻訳するのは不可能となっている。ただしチェスタトン版 "The Invisible Man" を「透明人間」と訳した例も一応存在してはいたと思う。
三中信宏『系統樹思考の世界』
■ 感想
すっげえおもしろかった。
思うのだが、すぐれた理論とすぐれたハウツー本は紙一重である。「理論」という言い方や「ハウツー本」という言い方がよいのかどうかはわからないが。すぐれたハウツー本として読めないものはすぐれた理論ではないし、すぐれた理論として読めない本はすぐれたハウツー本ではないのかもしれないと思わないでもない。
例えばこの本は科学論としておもしろいし、これから進化学を学ぼうという学部生などにとって、きっと格好の入門書になるにちがいにないと思った。
もっとも、高校生物すら学んでいない私には、そんなことを判別できる能力など全然ないのだった。
■ 気になったこと
重箱の隅。
中世の形而上学で延々と論争が戦わされた「普遍論争」では、普遍(universal)としての「群」が実在すると主張する実念論者(realist)と、群ではなく個のみが存在すると主張する唯名論者(nominalist)が、それぞれ論陣を張りました。
p257
これは俗説ではなかったっけ。
奇遇にも、山内志朗『普遍論争』を借りたところだったので後でみてみよう。まさかこの二冊がつながるとは思わなかった。
■ あらすじ
進化学や歴史は、反復可能な事態を扱わないので科学ではないなどという人がいる。これはちがう。科学にはタイプを扱う科学とトークンを扱う科学がある。歴史学に典型的に見られるような物語的説明方法は、トークンを扱う科学の方法である。例えば天文学のような学であってもトークンを扱う場合は物語的説明方法をとる。
われわれは「分類」という思考方法にしばられがちであるが、系統樹はこれと違った方法である。文系であれ理系であれ、歴史を扱う学問は共通して系統樹を用いている。これらの学問は、比較によって適切な系統樹を選択し、物の系譜を推測する。
最適な系統樹を選ぶ、という問題は解決不可能である。系統樹の発見は発見的探索法(ヒューリスティックス)によるしかない。
あと生物体系学の歴史とか、系統樹より複雑なモデルであるネットワークとかジャングルについて。
■ 目次
- プロローグ 祖先からのイコン――躍動する「生命の樹」 11
- 第1節 あれは偶然のことだったのか…… 13
- 第2節 進化的思考――生物を遍く照らす光として 15
- 第3節 系統樹的思考――「樹」は知の世界をまたぐ 19
- 第4節 メビウスの輪――さて,これから彷徨いましょうか…… 28
- 第1章 「歴史」としての系統樹――科学の対象としての歴史の復権 33
- 第1節 歴史はしょせん闇の中なのか? 35
- 第2節 科学と科学哲学を隔てる壁,科学と科学を隔てる壁 48
- 第3節 アブダクション真実なき探索――歪んだガラスを覗きこむ 55
- 第4節 タイプとトークン――歴史の「物語」もまた経験的にテストされる 66
- 第2章 「言葉」としての系統樹――もの言うグラフ,唄うネットワーク 83
- 第1節 学問を分類する――図像学から見るルルスからデカルトまで 85
- 第2節 「古因学」――過去のできごととその因果を探る学 95
- 第3節 体系学的比較法その地下水脈の再発見――写本,言語,生物,遺物,民俗…… 104
- 第4節 「系統樹革命」――群思考と樹思考,類型思考と集団思考 113
- インテルメッツォ 系統樹をめぐるエピソード二題 131
- 第1節 高校生が描いた系統樹――あるサイエンス・スクールでの体験 133
- 第2節 系統樹をとりまく科学の状況――科学者は「真空」では生きられない 143
- 第3章 「推論」としての系統樹――推定・比較・検証 161
- 第1節 ベストの系統樹を推定する――樹形・祖先・類似性 163
- 第2節 グラフとしての系統樹――点・辺・根 168
- 第3節 アブダクション,再び――役に立つ論証ツールとして 176
- 第4節 シンプル・イズ・ベスト――「単純性」の美徳と悪徳 181
- 第5節 なぜその系統樹を選ぶのか――真実なき世界での科学的推論とは? 189
- 第4章 系統樹の根は広がり続ける 209
- 第1節 ある系統樹的転回――私的回顧 211
- 第2節 図形言語としての系統図 217
- 第3節 系統発生のモデル化に向けて 222
- 第4節 高次系統樹――ジャングル・ネットワーク・スーパーツリー 232
- エピローグ 万物は系統のもとに――クオ・ヴァディス? 251
- 第1節 系統樹の木の下で――消えるものと残るもの 253
- 第2節 形而上学アゲイン――「種」論争の教訓,そして内面的葛藤 257
- 第3節 系統樹リテラシーと「壁」の崩壊 261
- 第4節 大団円――おあとがよろしいようで…… 263
- あとがき 267
- さらに知りたい人のための極私的文献リスト [291-273]
- 索引 [295-293]
Web コミックスでマップス続編。
http://comics.yahoo.co.jp/magazine/blood/maxtupus01_0001.html
スペースオペラマンガの金字塔「マップス」、待望の新シリーズ連載開始!
あそこまで見事に完結した漫画に続編の余地があるのか?という気もするが、とにかく素晴らしいことだと思った。
このサイトはアフィリエイトサイトなので Amazon へのリンクには私のアフィリエイト ID がついている。これによってオレ様ががっぽり儲けようという愉快な策を練っていたわけだ。
しかし、まめに本を紹介しているわりには、一件も「クリック」すらされていないのはどうしたわけだろう...と思っていた。
もしかして何か根本的なところで間違えているのではないかと思ってよく見てみた。自分のアフィリエイト ID を間違えていた...orz。
ルーマン(という人)の「複雑性」概念について。
■ 前置き
その 1: http://www.at-akada.org/blog/2007/01/post_35.html
課題図書:
西阪仰「コミュニケーションのパラドクス」
(土方透編『ルーマン/来るべき知』勁草書房、1990)
id:contractio 様より、はてなブックマークで応援のメッセージをいただいております。がんばりたいと思います。
http://b.hatena.ne.jp/contractio/20070117#bookmark-3726361
■ オレ様解釈
まず「複雑性」に関するオレ様解釈を提示した後、文献がそれを支持してくれるかどうかテストする、という手順で話を進めることにする。
- オレ様解釈
- 環境が複雑であるとは、システムにとって無関連であることを意味する。言い換えれば、環境はシステムにとってひとしなみにノイズに見えるということである。
どういうことか。これを以下のオレ様経験則によって具体化する。
- オレ様経験則
- システムの話はゲームの話に置き換えるとわかりやすくなることが多い。
サッカーの例を考える。サッカーをしているとき、ゲーム外部の事情はひとしなみに同じようなものとしか扱えない。昨日婚約者に振られたとか、昨日結婚が決まったとか、今朝ご飯を食べてないとか食べたとか、グラウンドの隣に葬儀場があるとか、教育基本法が改正されそうだとか、そういった事情はすべてゲームにとって無関連である。こういう諸々の外的事象がシステム(ゲーム)の「環境」を形成している。
これら諸々の出来事はゲームにとってせいぜい「邪魔」か「有利」の二択を形成するにすぎない*1。言い換えれば環境はシステムにとってノイズであるにすぎない*2。
複雑性とはこのような「ひとしなみにノイズである」という事情を表現した概念である。「ひとしなみにノイズである」というのは日常語の感覚では「単純」と呼びそうだが、日常語ではないので仕方がない。とにかくこういうものを「複雑」と呼ぶことにする。
ゲームの話からシステムの話に戻すと、以下のようになる。経済的なやりとりをしているとき、経済と無関係な事情は、やはり「邪魔」か「有利」の二択でしか扱えない。法的なやりとりをしているとき、法と無関係な事情は、やはり「邪魔」か「有利」の二択でしか扱えない。
経済(法)にとって有利か不利かしかないだなんて、そんなの寂しいじゃないか!という人もいそうだが、ここで「扱えない」というのは、「そうじゃないと経済的(法的)なやりとりをしていることにならないでしょ」ということ。
ゲームをやめさえすればゲームの勝ち負けを考えないことは簡単だ。でも勝ち負けと無関連に動くなら、そもそもゲームをしていることにならないのだった。
■ 問題よ、もう一度
上記の解釈を文献でテストする前に、問題が何だったかを思い出すことにする。
まず、当時の自分のレジメを振り返ってみる。意外と読みやすいレジュメだったので当時の自分に感謝した次第。
当時の私は複雑性について、『社会システム理論』を参照しつつ、以下のようにまとめていた。これはオレ様解釈ではなく、公式の定義にならったもの。
複雑性について
- 複雑であるとは、
(1)すべての要素の組み合わせが同時に実現できず
(2)選択が余儀なくされる状態のこと
を意味する(Luhmann[1984:46=1993:37] -> 『社会システム理論(上)』)。
そこで、構造とは、選択の正・不正をチェックする審級のことである。
例:言語における文法
上のオレ様解釈が支持されるためには、第一に、オレ様解釈がこの(1)(2)の定義と同じであることを示さなければならない。その作業は後に回す。
ここで「構造」という新しい概念が出てきた。
「構造」とはゲームの一部であるための文法のようなもの。日本語の文法をまったく意識しなければ日本語を話していることにならないように、ゲームをするためには、何らかの文法に従わなければならない(これは二元コードの定義と似ているが、その理由は二元コードが構造のうちのひとつだから)。
当時の私は西阪論文(前半)におけるルーマン批判を以下のようにまとめていた。
(まとめたというか、引用を適宜省略しつつ番号で区切っただけだ)。
1)構造も構造として有意味であるかぎり選択されたものでなければならない。
2)そのかぎりで、構造もなにものかにより限定されていなければならないはずだ。
3)ここで、さらに上位の構造を想定しても(…)問題解決にはならない。(…)
4)そこで、ルーマンは、外部との関係、すなわちシステムの周りを取り囲む環境との関係を要請することになる。
5)システム構造の選択は、環境の複雑性(これはシステムの複雑性よりいつも大きい)との落差に方向づけられなければならないとされる。(…)
6)しかし、環境の複雑性といったとたん、先のシステム複雑性の場合と同様の問題が生じる。(…)環境の複雑性も、やはり限定され秩序だったものでなければならないからである。(…)
(...以下省略)
(西阪[1990:65-66])
これに対し、私がぶつけた疑問は以下の通りだった。
⇒4)5)は、ルーマンに帰してよい主張だろうか?
馬場[2001:26-27] -> 『ルーマンの社会理論』
「そこでルーマンが提唱するのは、複雑性を特定の対象がそれ自体として有している属性としてではなく、対象の観察において普遍的に用いられる図式としての区別だと捉えることである。」
ここで引用された馬場氏の文は、「複雑性は観察図式だ」と言っている。要するに「環境がシステムより複雑」なのではなく、「システムにとって環境が複雑に見えるだけだ」と言っている。これは上記オレ様定義と特に矛盾しない。
一方西阪論文の問題箇所はどうもオレ様定義に抵触するように見えたらしい。
4)そこで、ルーマンは、外部との関係、すなわちシステムの周りを取り囲む環境との関係を要請することになる。
5)システム構造の選択は、環境の複雑性(これはシステムの複雑性よりいつも大きい)との落差に方向づけられなければならないとされる。(…)
「複雑性の落差が構造の選択を方向付ける」というのは確かに、上記オレ様解釈に照らし、よくわからない表現である。しかしもしかするとルーマンがどこかでこう言っているのかもしれない。だとすればどういうことなのか。当時の私はおそらく、そんなことを疑問としてあげたかったのではないか。
そして、ここで私があげた疑問が読書会で問題になった。
「西阪氏はルーマンの複雑性に関する論文を訳しているから、それと関係あるはずだ。それを読んでもう一回問題を定式化し直せ」という風に要望をいただいたのだった(確か)。
西阪氏訳の論文は↓に入っている。
■ オレ様解釈のテスト
次に上記オレ様解釈がルーマンの言っていることと合致するかどうかテストしなければならない。
これは結構大変な作業である。とりあえず今日はもう眠いので明日以降に引き継ぐこととしたい。
しりすぼみで大変申し訳ない。
夏休みに、「【ルーマン・フォーラム】むかしの論文検討会【夏休み企画】」(ルーマン・フォーラム)という読書会に参加した。
昨日ふと思い出したが、そこで「複雑性」という概念を問題にした後、放置したままになっている。まず何が問題だったのか思い出すところからはじめねばならないが、何とかしようという気がわいてきた。
→きっかけはこれに入っている西阪氏の論文だったはず。
→参考文献はこれに入ってる西阪氏訳の論文。
Wセミナー
公務員試験の教科書は良書が多いと思う件。
唐突に院試の勉強について書きたくなったので書いてみるテスト。おそらく院試に受かったことのある人はたいていこの分野について一家言あり、おすすめの教科書などあるのかもしれないが、私のおすすめは上のやつ。
『命題コレクション』などより遙かにおすすめ(一応両方読んだ上での感想)。なぜかというと大学の社会学の教官は教科書を書くのが下手なので(偏見)、公務員試験のテキストの方がはるかにわかりやすい。教科書でなんとなく全体像を勉強したい学部生などにとっても公務員試験のテキスト超おすすめ。
上の教科書をノートとりながら読んで↑こんな感じの択一問題集を解く。これが最強。
(ただし教科書ではもちろん「通説」しかわからない。きちんとやろうとすれば基本的に専門書をガンガン読むしかない。って当たり前か。あと院試は筆記ができても、論文がダメだと受からないという問題もある)
アンソニー・ギデンズ『社会学(第4版)』
而立書房
もっとちゃんとした本がいいヨーって人は、ギデンズ社会学になると思う。これも悪くないけど、基本的に公務員試験テキストの方がおすすめ。
経済学だったらこのシリーズが最高。「3時間でわかる」ってふざけたタイトルなのに、あまりにきちんとした内容なのでびっくりした。経済学の考え方を(あまり数学を使わずに)わかりやすく紹介してくれる本といえば『クルーグマン教授の経済入門』や稲葉振一郎氏の『経済学という教養』が良書だけど、このシリーズはそれら2冊の上を行くのではないかとさえひそかに思っている。
当津武彦(編)
世界思想社
美学は残念ながら公務員試験の科目になっていないので(冗談)、この本をひたすらノート取って読んだ。試験科目にしたことはない。
東京大学出版会、1984
『講座 美学』の1巻もいい。特に佐々木健一が書いている近世の項目は必読かと。「芸術(Art)という言葉はいつから今のような意味を持ったか」、「独創性が重んじられたのはいつ頃からか」など、基本的な疑問に答えてくれる(この手の疑問に答えてくれる本はとても少ない)。"designo"という語の系譜など、『社会の芸術』(ルーマン。私の卒論テーマだった本)と共通する論点も多い。
あとは『西洋思想大事典(観念の歴史事典)』(Amazon には索引しか売ってなかった)の美学関係の項目をかたっぱしから読む。当たり外れはあるが概しておもしろい。
最近のオタク系の作品にはメタものと可能世界ものが異様に多い。
実証できないが多い。2つだけ例をあげると『涼宮ハルヒの憂鬱』と『ひぐらしのなく頃に』。
そんなことを思うに付け、オタクって本当に反省好きだよなー、動物化してるんじゃなかったのかよ? あれっ動物化って無反省って意味ではないんだっけ? などと考えていた。
それはそれとしてメタメタにメタなメタフィクションをつくるためにそのこと自体をネタにすればいいと思った。
あらすじ:
最近のオタク系作品にメタものが多いのは、自己言及のパラドックスとかそれ系のクライシス(←?)を発生させ、世界(セカイ)を終わらせるための陰謀だった...。究極のメタ作品が制作され、世界が終わる前にはやく食い止めなければならない。...みたいな感じで、スラップスティックにバタバタする。オチはもちろん「究極のメタ作品とは、この作品自体のことだった」。ラストシーンでは、「もうメタはイヤだ!」と思ったみんなが泣きながら、読者や作者の出てこない物語を探す旅に出る。
ただの思いつきなので、途中経過はあまり考えていない。
今日はひさしぶりに迷子になった。
自転車をこぎながら、「何を食べようかなー何も食べたくないなー」とうろうろしていたら、いつのまにか見知らぬ街並みにいた。だいたいの場所は検討がついたが、戻る道がわからない。いきどまりにあたって引き返していたら、野良(?)猫にエサをやっていたお婆さんが「どこ行きたいの? 下北沢? 下北沢なら一本向こうの道をまっすぐ行って...」と道を教えてくれた。
その通りに進むと、確かに下北沢の近くらしい場所に出たが、そこからどう進めばよいのかよくわからなかった。適当な道へ進むと、間違っていたらしく、どんどん見知らぬ場所に出て行く。勘で道を選んで戻ろうとしたが、ますます目的地から遠くなり、だんだん収拾がつかなくなってきた。それでも道に迷っている感覚が新鮮だったので、かまわずつきすすんだ。自転車を漕いでいる内に、さっきのお婆さんは魔女か何かだったんじゃないかと思った。今でもまだ自分のなかで、野良猫にエサをやっているお婆さんというのは神秘的な存在だった。子供の頃読んでいた本の中では、そういうお婆さんは、周囲の大人に偏見の眼で見られている。主人公の子供たちははじめ、そんなお婆さんに恐怖を抱くけれど、本当のお婆さんは子供にはやさしい。そして物語の最後には子供たちに神秘的な力を見せてくれたり、正しい道へと導いてくれたりするのだった。
グルグル回っているうちにさっき迷いはじめた場所へもどった。今度は別の道へ進むと、ようやく下北沢の知っている場所に出た。サイゼリアでご飯を食べて家に帰った。
はじめて迷い込んだ下北沢の北東の地域は、立体感があって良い感じの街並みだったなと思った。
私が本屋で発見したことを書く。
瀬田貞二『幼い子の文学』
中公新書、1980
大学生協で発見。瀬田貞二と聞いただけで鼻血が出そうです。
マックス・ホルクハイマー、T.W.アドルノ『啓蒙の弁証法―哲学的断想』
岩波書店、2007
岩波文庫に入るらしい。つまり、この本もついに歴史になったということなわけで...。
美学者佐々木健一の著作一覧(不完全)。
随時改訂・追加予定。
■ 単著
- 『生物試験法』
講談社、1981
別人と見た。
筑摩書房、1982
- 『せりふの構造』
講談社学術文庫、1994
確かサントリー学芸賞受賞。
- 『作品の哲学』
東京大学出版会、1985
読んだ。
http://www.at-akada.org/blog/2007/01/post_21.html
- 『演出の時代』
春秋社、1994
勁草書房、1998
- 『美学辞典』
東京大学出版会、1995
読んだ。
勁草書房 、1998
岩波書店 、1999
中公新書、2001
あーこれは絶対買おう。
- 『美学への招待』
中公新書、2004
これも読まないわけにはいかないだろう。
■ 共著
■ 共著(売ってるやつ)
今道友信(編)
東京大学出版会、1982
「ミニアチュールの美学 : ものの大きさについて」
東京大学美学芸術学研究室編
「ボワローの「詩学」 : その実像を求めて」
勁草出版サービスセンター、1983
今道友信(編)
東京大学出版会、1984
「近世美学の展望」
今道友信(編)
東京大学出版会、1984
「芸術」
今道友信(編)
東京大学出版会、1984
「演劇」
大森荘蔵〔ほか〕(編)
岩波書店、1986
「虚構と真」
- 『翻訳』
市川 浩 (編集), 坂部 恵 (編集), 村上 陽一郎 (編集), 加藤 尚武 (編集), 坂本 賢三 (編集)
岩波書店、1990
「引用をめぐる三声のポリフォニー」
- 『モーツァルト』
海老沢敏(編)
岩波書店、1991
全4冊。シリーズ全体の編集に関わっているようだが、とりあえず1冊だけ。
今道友信(編)
音楽之友社、1997
「耳から知性への音楽 : デカルトにおける美と音楽の快」
東京書籍、2001
「「哲学者」たちの自然 : ルソー=ラモー論争をめぐって」
ロゴスドン編集部
ヌース出版、2004
「美と創造の藝術哲学」
- 『レトリック事典』
佐藤 信夫, 松尾 大, 佐々木 健一
大修館書店、2006
ほしいけど値段が。
末木文美士(著), 佐々木健一(著), 渡辺哲夫(著), 横森理香(著), 虎井まさ衛(著), 上野千鶴子(著)
春秋社、2006
「エロスと美、そして醜」
■ 共著(売ってないやつ)
- 『文學哲學論文集』
東京大學文學部研究報告 / 東京大學文學部研究報告刊行委員會[編]
東京大学文学部、1974
「デカルト『情念論』のテキスト形成過程に関する一試論」
- 『前カント的・非カント的美学の射程』
佐々木健一[ほか]著
科学研究費補助金(総合研究A)研究成果報告書
東京大学文学部、1985
- 『美の経験の意味と論理あるいは記述と還元』
研究代表者藤田一美, 佐々木健一
昭和63-平成2年度科学研究費補助金総合研究(A)研究成果報告書
藤田一美,佐々木健一, 1991
- 『美と藝術の価値論的基礎づけ』
研究代表者, 佐々木健一
平成5・6年度科学研究費補助金(総合研究(A))研究成果報告書
「目的性・合理性・価値 : P.グライスの価値論」
佐々木健一、1995
- 『美学における感性・身体・共同体』
第46回美学会全国大会におけるワークショップの論集
東京大学大学院人文社会系研究科美学藝術学研究室、1996
- 『作品概念の史的展開に関する研究』
研究代表者 佐々木健一
平成7・8・9年度科学研究費補助金(基盤研究A 1)研究成果報告書;
科学研究費補助金(基盤研究A 1)研究成果報告書
佐々木健一, 1998
- 『日本の近代美学(明治・大正期)』
研究代表者 佐々木健一
平成12年度~平成15年度科学研究費補助金基盤研究(A)(1)研究成果報告書
東京大学大学院人文社会系研究科、2004
- 『グローバリゼーション状況下における芸術の論理と倫理』
藤田一美 研究代表
科学研究費補助金(基盤研究A)研究成果報告書 ; 平成14年度-平成17年度
「アートワールドとコモン・センス : 歴史の形成とグローバリゼーション」
藤田一美, 2006
■ 翻訳のうち気になったもの。
グループμ (編集), 佐々木 健一 (翻訳), 樋口 桂子 (翻訳)
大修館書店、1981
- 『一般修辞学』
樋口 桂子 (翻訳), 佐々木 健一 (翻訳)
大修館書店、1995
- 『創造のレトリック』
M. ブラック (著), 佐々木 健一(訳)
勁草書房 、1986
まったく勉強できていないが、レトリック論は以前からずうっと気になっているジャンルのひとつ。文学研究と社会学の交点のひとつでもあるわけだし。
- 『絵画と現実』
ジルソン (著), 佐々木 健一(訳)
岩波書店、1985
- 『演劇と存在』
アンリ グイエ (著), 佐々木 健一 (翻訳)
未来社、1990
- 『テレビとビデオ』
イアン グレアム (著), 佐々木 健一 (翻訳)
福武書店、1991
■ 論文
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiTop#
↑で検索して出てきたやつのうち、別人らしきものは外した。新しい順。
- 対談 タイトルとは何か--詩・美術・近代 佐々木健一×建畠晢 (特集 タイトル論--名づけの不思議)
現代詩手帖 49(3),10~26,2006/3(ISSN 13425544) (思潮社 〔編〕/思潮社)
佐々木,健一; 建畠,晢
- ディドロにおける美の形而上学(上)『絵画論』第七章とその原点
精神科学 (44),29~49,2006(ISSN 02876604) (日本大学哲学研究室)
- 座談会 歌の力、物語の力--『源氏物語虚構論』と人文学
UP 33(9) (通号 383),7~24,2004/9(ISSN 09133291) (東京大学出版会)
鈴木,日出男; 佐々木,健一; 月村,辰雄
- ひなげしとエレクトラ
UP 32(12) (通号 374),10~15,2003/12(ISSN 09133291) (東京大学出版会)
- 脱統辞としての詩的なるもの : 島本融「シニフィアン、その眠りと覚醒」による考察(第五十三回美学会全国大会発表要旨)
美學 53(3),69,20021231(ISSN 05200962) (美学会)
- タイトルとメタファー--遠近法とことばの魔力 (特集 メタファー--古くて新しい認知パラダイムを探る)
言語 31(8) (通号 372),48~51,2002/7(ISSN 02871696) (大修館書店)
- 新世紀の展望と日本美学--国際美学会議を終えて
UP 31(3) (通号 353),8~12,2002/3(ISSN 09133291) (東京大学出版会)
- 第一五回国際美学会議報告
美學 52(3),90-98,20011231(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 星月夜のころ
図書 (623),17~23,2001/3(岩波書店)
- 座談会 身体表現--特集にちなむ (特集 美術と身体表現)
西洋美術研究 (5),4~13,2001(三元社 〔編〕/三元社)
高階,秀爾; 佐々木,健一; 小佐野,重利
- ディドロの生涯と思想--『絵画論』研究のための序説
美学芸術学研究 (通号 20),1~39,2001(ISSN 13426095) (東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室 編/東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室)
- ロレート詣で
UP 29(8) (通号 334),1~6,2000/8(ISSN 09133291) (東京大学出版会)
- 書き手としてのディドロ--『絵画論』研究のために
美学芸術学研究 (通号 19),1~40,2000(ISSN 13426095) (東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室 編/東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室)
- 空間の異文化--ピーター・ブルックの『ドン・ジョヴァンニ』
春秋 (通号 407),10~13,1999/04(ISSN 13436198) (春秋社 〔編〕/春秋社)
- 近代の命運としての相対主義 : ディドロ『ブガンヴィル航海記補遺』を読む
哲學雜誌 114(786),54-70,19990000(ISSN 03873366) (哲学会 編/有斐閣/財団法人学会誌刊行センター)
- ディドロのテクスト--『絵画論』研究のために
美学芸術学研究 (通号 17・18),1~32,1999(ISSN 13426095) (東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室 編/東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美学芸術学研究室)
- 岡田温司, 『ルネサンスの美人論』, 人文書院, 1997, 244 頁
美學 49(3),68,19981231(ISSN 05200962) (美学会)
- 『ディドロの美術論』上下 2 巻, Diderot On Art-I "The Salon of 1765 and Notes on Painting", 250pp., -II "The Salon of 1767", 344pp., Translated by John Goodman, Introduction by Thomas Crow, Yale University Press, 1995
美學 49(3),67,19981231(ISSN 05200962) (美学会)
- 泰山にのぼる
UP 27(7),7~11,1998/07(ISSN 09133291) (東京大学出版会)
- 赤羽研三著『言葉と意味を考える』
フランス哲学・思想研究 (通号 3),183~187,1998(ISSN 13431773) (「フランス哲学・思想研究」編集委員会 編/日仏哲学会)
- ディドロ『絵画論』の資料とテクスト構成について--特に最終章の意味を中心に (「美術に関する調査研究の助成」研究報告〔含 研究者別および主題別索引〕)
鹿島美術財団年報 (通号 15別冊),12~18,1997(鹿島美術財団 〔編〕/鹿島美術財団)
- キリスト者フランクの肖像
春秋 (通号 380),1~4,1996/07(ISSN 13436198) (春秋社 〔編〕/春秋社)
- 表題の美学 : その理論的価値について(美学会第四十六回全国大会報告)
美學 46(3),67,19951231(ISSN 05200962) (美学会)
- 藝術の価値原理 : 近世美学史の一断面
美學 44(2),1-11,19930930(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 映像の詩
文学 4(1),p75~77,1993/01(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- ミモザ幻想
文学 3(3),p75~77,1992/07(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- 翻訳原論 (日本文化における翻訳<特集>)
文学 3(1),p31~43,1992/01(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- 『第 11 回国際美学会議 1988. 研究報告書』, XIth International Congress in Aesthetics 1988 Proceedings, A Selection edited by Richard WOODFIELD, Nottingham Polytechnic Press, 1990, 6+245pp.
美學 41(4),76,19910331(ISSN 05200962) (美学会)
- V. ウーゴ編, 『ロージエと建築理論の諸次元』, Laugier e la dimensione teorica dell'architettura a cura di Vittorio UGO, Bari, Edizioni Dedalo, 1990, 237p.
美學 41(1),73,19900630(ISSN 05200962) (美学会)
- 作者の誕生 : そのアリバイをめぐる近世美学史
美學 40(3),1-11,19891231(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 17世紀フランスにおけるオペラの思想的背景
文学 57(10),p100~108,1989/10(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- 第十一回国際美学会議報告
美學 40(1),47-62,19890630(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 幸福としての共生 : 十八世紀フランス美学の基底
思想 776,23-43,19890000(ISSN 03862755) (岩波書店/財団法人学会誌刊行センター)
- 作者の誕生 : そのアリバイをめぐる近世美学史(美学会第三十九回全国大会報告)
美學 39(3),58,19881231(ISSN 05200962) (美学会)
- 戸口幸策, 『音の波間で』, 昭和六十二年, 音楽之友社, 二八六頁
美學 38(3),70-75,19871231(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- J. ハイト, 『フランス古典文学における理性の概念 1635-1690』, Jeanne Haight, The Concept of Reason in French Classical Literature 1635-1690, University of Toronto Press, 1982, 208p.
美學 38(2),76,19870930(ISSN 05200962) (美学会)
- 絵画の時代としての18世紀--思想史の一座標
思想 (通号 756),p54~81,1987/06(ISSN 03862755) (岩波書店)
- ロラン・モルチエ, 『独創性-啓蒙時代の新しい美的範疇』, Roland MORTIER, L'Originalite, une nouvelle categorie esthetique au siecle des lumieres, Geneve, Droz, 1982, 218p.
美學 37(1),63-68,19860630(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 限界の冒険--H.ピンタ-作「背信」について (演劇<特集>)
理想 (通号 629),p101~105,1985/10(ISSN 03873250) (理想社 〔編〕/理想社)
- 山崎正和, 『演技する精神』, 昭和五十八年, 中央公論社, 二八一頁
美學 35(1),68-72,19840630(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- ディドロ『絵画論』-訳と註解-(3)
東京大学文学部美学藝術学研究室紀要・研究 3,29,1984
- 記号と身体の宇宙誌--浅沼圭司著「象徴と記号」〔他7篇〕 (日本の知の冒険者たち・その101冊の本<特集>)
国文学 解釈と教材の研究 28(15),p50~65,1983/11(ISSN 04523016) (学灯社 〔編〕/学灯社)
- 人格と作品 : その非相称性について
美學 34(2),1-12,19830930(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 発見術としてのレトリック--フィギュ-ルと想像力
思想 (通号 706),p68~99,1983/04(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 「いわんや」の修辞学--同意と共感のメカニズム (レトリック<特集>)
理想 (通号 595),p104~115,1982/12(ISSN 03873250) (理想社 〔編〕/理想社)
- 芸術の基底--制作学から解釈学への回帰
思想 (通号 696),p13~32,1982/06(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-5完-沈黙とパロ-ル
思想 (通号 686),p74~97,1981/08(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 言語の造形と空間--修辞学と美学 (レトリック<特集>)
思想 (通号 682),p26~48,1981/04(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-4-モノロ-グからディアロ-グへ-下-
思想 (通号 678),p99~111,1980/12(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-4-モノロ-グからダィアロ-グへ-上-
思想 (通号 677),p69~85,1980/11(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-3-祝典の言葉
思想 (通号 675),p82~104,1980/09(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-2-劇作家の臨在
思想 (通号 670),p78~99,1980/04(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 台詞の類型と構造-1-モノロ-グの諸相
思想 (通号 668),p18~43,1980/02(ISSN 03862755) (岩波書店)
- かたちの計略--自然美について
思想 (通号 657),p27~44,1979/03(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 修辞学から美学へ--詩的なものと悲劇的なもの
思想 (通号 651),p102~119,1978/09(ISSN 03862755) (岩波書店)
- 寛容の美学--様式論的思考法の盛衰
文学 46(1),p68~89,1978/01(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- ボワロ-「詩学」読解-3-
埼玉大学紀要 (通号 14),p89~132,1978(ISSN 05813654) (埼玉大学教養学部 編/埼玉大学教養学部)
- 寛容の美学 : 様式論の思想史試論(大会報告)
美學 28(3),69,19771230(ISSN 05200962) (美学会)
- T. B. ジョーンズと B. d. B. ニコル, 「新古典期の劇評論」, Thora Burnley Jones & Bernard de Bear Nicol, Neo-classical Dramatic Criticism 1560∿1770, Cambridge University Press, 1976, vi+189p.
美學 28(2),77,19770930(ISSN 05200962) (美学会)
- ことばともの--文学の質料的基礎について
展望 (通号 222),p132~148,1977/06(筑摩書房)
- ボワロ-「詩学」読解-2-
埼玉大学紀要 (通号 13),p117~156,1977(ISSN 05813654) (埼玉大学教養学部 編/埼玉大学教養学部)
- 終りの美学--デウス・エクス・マキ-ナ考
文学 44(11),p1479~1494,1976/11(ISSN 03894029) (岩波書店 〔編〕/岩波書店)
- 模倣のめぐみ--芸術創造における模倣の役割
展望 (通号 213),p86~97,1976/09(筑摩書房)
- ボワロ-「詩学」読解-1-
埼玉大学紀要 (通号 12),p39~86,1976(ISSN 05813654) (埼玉大学教養学部 編/埼玉大学教養学部)
- 知覚と美 (美(夏季特集))
理想 (通号 483),70~82,1973/08/00(ISSN 03873250) (理想社 〔編〕/理想社)
- 作品とその影 : ジャン・アヌイの美学に拠りつつ
美學 23(3),25-39,19721230(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- 再現の美学(講演要旨)
美学 23(3),60~64,1972/12/00(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会)
- グルニエ, 『芸術とその諸問題』, Jean Grenier, L'Art et ses problemes, Edition Rencontre, Lausanne, 1970, 418p.
美學 22(2),48-54,19710930(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- デュフレンヌ『美学と哲学』, Mikel Dufrenne, Esthetique et Philosophie, Ed. Klincksieck, Collection d'esthetique I. Paris, 1967, 212p.
美學 20(1),59-64,19690630(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- ドメナック, 『悲劇的なるものの回帰』, Jean-Marie Domenach, Le retour du tragique-essai-Seuil, Paris, 1967, 301p.
美學 19(4),50-55,19690330(ISSN 05200962) (美学会 編/美学会/美学会)
- "怒り"と"混迷"の沖縄--2・4ゼネスト回避
エコノミスト 47(7),36~41,1969/02/18(ISSN 00130621) (毎日新聞社 〔編〕/毎日新聞社)
- デカルトにおける快の理論(大会報告)
美學 19(3),40,19681230(ISSN 05200962) (美学会)
■ 履歴
- 2007/02/09 共著・論文を追加
ミクシの美学コミュニティであがっていた書籍のうち、読んだことのないもの、持ってないものをリストアップしてみる。
- 今道友信『美について』
講談社学術新書
正直いって「美」について知りたいとか「美」について考えたいと思ったことはほとんどないのだけど。私が美学専攻でないのはきっとそのせいだろう。
- 神林 恒道 (編集), 太田 喬夫 (編集)『芸術における近代―美的コンセンサスは得られるか』
ミネルヴァ書房、1999
- 谷川渥『美学の逆説』
ちくま学芸文庫
- ジャン・ラコスト『芸術哲学入門』
文庫クセジュ
これはもしかすると持っていたかもしれない。
- 渡邊二郎『芸術の哲学』
ちくま学芸文庫
- 渡邊二郎『構造と解釈』
ちくま学芸文庫
付随して発見したもの。
マックス・ベンゼ (著), Max Bense (原著), 草深 幸司 (翻訳)
勁草書房
おもしろそうな気もするが、どうなのか。
ハインリヒ・ヴェルフリン (著), Heinrich Wolfflin (原著), 海津 忠雄 (翻訳)
慶應義塾大学出版会
高いなあ。
フランシス・ボーモント(著)、大井邦雄(訳)
ぴかぴかすりこぎ団!
タイトルがあまりに気になった。ユーズド価格400円だったのでうっかり買ってみた。
(うっかり Amazon にならってユーズドと逝ってしまったが本って「use」するものなんだろうか)
ついでに小説の書き方本をいくつか買ってみる。
小説について考えたかったら下手な文学理論より小説の書き方本を読むのがよい、というのが私の持論である。
もっとも、上手い小説ハウツー本を探すのは、上手な文学理論を探すのと同様むずかしいのだけど。
小説書き方本の見分け方はひとつあって、「物事を多面的に見よう」とか「感性を大切にしよう」って書いてある本はダメである。それ書き方じゃないしな*1。
具体的なアドバイスが書いてあれば書いてあるほど良い本であることが多い。
これはおもしろかった。「一人称の小説はダメである」「本当にすぐれた小説はすべて三人称かつ複数の視点で書かれている」という意見が述べられており、びっくりした。
でもまじめに書き方本を書こうと思ったら、まず「どんな小説を書くか」を限定するのは有効なんだろう。この本はそういう方針で成功しているように見えた。関係ないが、すごい表紙だ。
そういう意味ではジャンル小説の書き方本の方がおもしろいんじゃないかと思うのだ。
野田昌宏『スペース・オペラの書き方 - 宇宙SF冒険大活劇への試み』
早川文庫
買った。実態は書き方本じゃないらしいが、著者が著者だけに資料として。
H.R.F.キーティング, H.R.F. Keating , 長野 きよみ『ミステリの書き方』
早川文庫
これは良さそうなのだが、品切れでマーケットプレイス価格も高い。何とかして入手したいが、図書館にはないかもしれない。
野崎六助『ミステリの書き方12講』
青弓社
これは本屋で探せばいいや。
アメリカ探偵作家クラブ (著), Mystery Writers of America (著), L. トリート (編集), 大出 健 (翻訳)
講談社文庫、1998
これは資料になりそうだなあ。
浦賀和宏『上手なミステリの書き方教えます』
講談社ノベルス
よく見たら小説だった。
すがやみつる、横山えいじ『マンガでわかる小説入門』
斬新なコンセプト。
- *1: もっとも小説を書くのとそれを職業にするのは別のことなので、職業にしたい場合心構えこそが大切なのかもしれないが。しかしこの例はそもそも心構えとしてもダメだし
勉強もしなければならない。グループウェアのことも考えねばならない。将来のことも考えねばならない。
おそらく三つ目を最優先すべきであろうが、明らかに一番考えていない。
とりあえず、リクナビと毎日就職ナビと Find Job! に登録してみた。当たり前だが、すでにエントリーが終わっているところも結構あるようだ。福音館に出そうと思ってたのに終わっていた...orz。
追記:
いきおいで2つエントリーし、2つプレエントリーしてみた。エントリーするだけなら簡単だということがわかった。
『ゼロの使い魔』を大プッシュしてくる Amazon たん。
今回のおすすめ内容:
- ゼロの使い魔〈4〉誓約の水精霊
- ゼロの使い魔 (5) トリスタニアの休日
- ゼロの使い魔〈3〉始祖の祈祷書
- ゼロの使い魔(7)
- ALL YOU NEED IS KILL
- ゼロの使い魔〈8〉望郷の小夜曲(セレナーデ)
- ゼロの使い魔〈9〉双月の舞踏会
- とらドラ!
ヤマグチノボルって昔ヘクサゴンというサイトをやってた(訂正: まだあった)人だよね。高校生の頃愛読していたよ。桑島由一氏ともどもブレイクしてよかったなあ。
↓これはファウストに東浩紀が書いてたゲーム的リアリズム論考に出てくる奴だね。『よくわかる現代魔法』は一巻だけ読んであまりピンとこなかったんだがどうなんだろう*1。
- *1: 魔法 + プログラミングというネタは絶対もっとおもしろくなるはずだろうと思った
グループウェア資料集。随時改訂追加予定。
勉強もしないといけない。グループウェア(的なツール群)のことも考えないといけない。
こんなに読めるカーという話だが。どれか一冊といえばやはり西垣通先生が書いておられる↓だろうか。
『組織とグループウェア―ポスト・リストラクチャリングの知識創造』
URL
本
- 石井裕『グループウェアのデザイン』
- 石井裕『CSCWとグループウェア―協創メディアとしてのコンピュータ』
- 垂水浩幸『グループウェアとその応用―ネットワークとマルチメディアトラック』
- 宇井徹雄『意思決定支援とグループウェア』
- JoAnne Woodcock, 松葉素子『グループウェアとネットワーク環境―LAN、WAN、インターネット、イントラネットを使った共同作業環境』
- ロバート・ジョハンセン, 会津泉『グループウエア―ビジネスチームによる新しいコンピュータ利用』
- 田中 二郎, 神田 陽治『インタフェース大作戦―グループウェアとビジュアルインタフェース』
- 国藤進『知的グループウェアによるナレッジマネジメント』
- ダグラス・C. エンゲルバート, 西垣通, 三宅なほみ, 岡田啓司, テリー・ウィノグラード, 石井裕, 金井壽宏『組織とグループウェア―ポスト・リストラクチャリングの知識創造』
- 清水則之, 村瀬一郎『グループウェア―情報共有時代の先進的組織づくり』
- 渡辺保史『グループウエアで会社を変える』
- 松下 温, 勝山 恒男, 山上 俊彦, 岡田 謙一, 西村 孝『知的触発に向かう情報社会―グループウェア維新』
自分の記述につっこんでみるテスト。
http://www.at-akada.org/blog/2007/01/post_21.html
要するに「らしい」というひとつの言葉が、読者に対する暗示となりえるという話。
何のためらいもなく「読者」と書いてしまったが、演劇だっつうの(もちろん戯曲の読者はいるわけだけど)。演劇が好きなひとは私を怒るといいと思った。個人的には結構やりがちなミスである。
作品の「受け手」をジャンルと関係なく指示できる語がほしい...。候補はいくつかあるがどれも気に入らない。
「受け手」「受容者」は、「受け」がすでに特定の作品観にコミットしているようでイヤだ。「鑑賞者」は無駄に小難しいし、小説などには使いづらい気がする。反対に「読者」は好きなのだが、文学にしか使えないし...。
自分の関心をきちんと人に説明しなければならないとつねづね思っているので、about を書いてみた。
id:shim の思いつき。
今日は shim と論理学の勉強をする予定だったのだが、私が寝坊したために shim が家に襲来。
「よーしパパ人工無脳つくっちゃうぞー」と思って買った以下の本が見つかり、馬鹿にされる。
それはそれとして shim のアイデア。
豆知識を喋る人工無脳。話しかけられた言葉の中に特定の単語を見つけると、それに関する豆知識を語る。
ex. 「google と言えばさー、」
「英語って言えばさー」
仕組み上は可能そうだ。
Wladyslaw Tatarkiewicz "History of Aesthetics"
(タタルキェヴィチ『美学史』全三巻)
佐々木健一で思い出した。佐々木氏はよくこの本を元ネタにしている。そしてこの本を元ネタにした論述はたいていおもしろい。
以前から、買おうか買うまいか悩んでいる。ユーズド価格75,998円テラタカス。買ってもどうせ読めないしなー。
"Twentieth Century Philosophy, 1900-50"
今発見したが、この本は安い。買ってみてもいいが、基本的に本を買いすぎなのでとりあえずカートに入れて放置。かくしてカートの中身ばかりが増えていく...。
タタルキェヴィチの翻訳はこの本だけという罠。
(そう言えば確認したことがないが、そもそもこのタタルキェヴィチは美学史のタタルキェヴィチと同一人物なのだろうか)
戸田山和久『論理学をつくる』
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。
第1章から第2章までの用語を整理するよ。
■論理学の対象
論理学の対象は以下の三つだよ。
- 論理的帰結/論証の妥当性
- 矛盾
- 形式的真理
- 形式的真理とは
- 「~は…であるかないかいずれかである」のような、形式だけで真理であることが自明な命題のことだよ。
上記の三つは実は同じところに通じるよ。
■論証の正しさ
論証の正しさと命題の正しさを区別しよう。
- 真(true) / 偽(false)とは
- 命題が正しいかどうかについては真 / 偽という語を使おう。
- 妥当(valid) / 非妥当(invalid)とは
- 論証が正しいかどうかについては妥当 / 非妥当という語を使おう。
論理学が扱うのは論証の妥当 / 非妥当の方だよ。
妥当性は論理の形式に関わるよ。
- 論理形式とは
- 論理定項だけを残し、他を一般化したもの。
- 論理定項(logical constant)とは
- 接続詞(「または」など)、量化詞(「すべて」など)、否定詞(「でない」など)など論理に関わる語のことだよ。論理定項とそれ以外の区別は一概に言えないよ。
■人工言語 L
自然言語の場合、論理形式と文法形式が一致しないことがある。人工言語を使うことにしよう。
- 単純命題とは
- 肯定文の単文の命題だよ。
- 複合命題とは
- 単純命題を組み合わせた命題だよ。
ただし何が単純命題であるかは論証によって異なるよ。
- 原子式(atomic formula)とは
- 単純命題を記号化したものだよ。
- 論理結合詞(logical connective)とは
- ∧、∨、¬、→のことだよ。
∧、∨、¬、→。これらの結合詞は真理関数的だよ。
- 真理関数的とは(truth-functional)
- 要素の真偽が決まれば、その結合詞で結ばれた全体の真偽も決まるようなタイプの結合詞のことだよ。この本では真理関数的な結合詞のみを使うよ。
■人工言語 L の定義
- 語彙
- (1)原子式
- ⇒P, Q, R または P1, P2, P3
- (2)結合詞
- (3)補助記号
- ⇒(,)
- 文法
- (1) 原子式は論理式だよ。
- (2) A, B が論理式のとき、(A∧B)(A∨B)(A→B)(¬A)は論理式だよ。
- (3) (1)(2)によって論理式とされるものだけを論理式とするよ。
このような定義を帰納的定義(inductive definition)または回帰的定義(recursive definition)というよ。
- 形成の木(formation tree)とは
- 論理式がどのように作られたかを示す図のことだよ。
- 変数記号(variable)とは
- 上の文法定義では A, B という記号を使った。これらはいろいろなものを一括して指し示すための記号で変数記号というよ。人工言語 L について自然言語で話すための記号だよ。
- このような記号をメタ論理的変項(meta-logical variable)または図式文字(schematic letter)というよ。
■帰納的証明
- 式の長さについての帰納法による証明
- 人工言語 L の文法を帰納的に定義したから、帰納的証明が可能になったよ。論理学で使う帰納的証明を「式の長さについての帰納法による証明」と呼ぶよ。
- Unique Readability Theoram
- 論理式が一通りにしか読めないということの証明のことだよ。
■いくつかの用語
- 部分論理式(subformula)
- 論理式 A の形成の木に現れる A 以外の論理式のこと。
- 主結合詞(main connective)
- 形成の木の最後に導入された結合詞のこと。
- 主部分論理式(main subformula)
- 主結合詞が結ぶ部分論理式のこと。
- 選言肢(disjunct)
- A∨B の A と B のこと。
- 連言肢(conjunct)
- A∧B の A と B のこと。
- 前件(antecedent)
- A→B の A のこと。
- 後件(consequent)
- A→B の B のこと。
- リテラル(literal)
- P, Q, ¬P, ¬Q のこと。
- 正リテラル(positive literal)
- P, Q のこと。
- 負リテラル(negative literal)
- ¬P, ¬Q のこと。
東京大学出版会、1985
■ 感想
この本がすごくおもしろかった。
今後「おすすめの美学書を一冊」と誰かに聞かれたら(そんな機会はまずないのだが)、これを薦めることにしたい。
もちろん今から見ると議論が古い部分もあり、細かいことを言い出せばいろいろ気になる点もある。だいたい目次が悪い。結論が「愛のトポスとしての作品」かよ! そんなこと言われても! などと思ってしまう。
しかし、現在でも十分通用する鋭い指摘が多かった。対象を真摯にとらえるってこういうことかと、いささか感動したりもした。
何より、博学な著者なので、論旨に納得できなくても基本的に読んでるだけで勉強になるのだった。
■ 見どころ
第五章「作品のア・プリオリとしての解釈学的意志」についてだけ触れる。この章は大変おもしろかった。
p177-178
(エルナニは死んだ【とのことです】というセリフをひいて)
この報せに接して、ドン・リュイ・ゴメスは喜びに我を忘れ、ドニャ・ソルは深い絶望に沈む。だが客席にいる我々観客の方は、劇中のこの二人とは全く別の反応を示す。すなわち、小姓の言葉をきくと直ちに我々は、エルナニが無事であることを殆ど確信し、そして小姓の告げた「宿乞いの巡礼者」こそエルナニに相違ない、と考えるのである。何故このようなことになるのか。これが我々の探求の出発点となる事実である。
要するに「らしい」というひとつの言葉が、読者に対する暗示となりえるという話。
考えてみると、この論点がおもしろかった理由は2点ほどあったと思う。
1)ここで扱われている現象は、同じ言葉が「作中内人物」と「読者」に対し、それぞれ異なった意味を持つというもの。
ひとつの出来事が「作品内世界」と「読者との関係」という二つの層に分岐していく、というのがおもしろい。別の言い方をすると、ここで「作品内世界」と「読者との関係」という二つの層が互いに直行するように考えられている。つまり両者の関係が多少なりとも問われているわけで、そういう発想はあまり見たことがなかったので新鮮だった。
ここにかぎらずこの本は、問題を複数の層へと丁寧に解きほぐしていくような議論が多く、いちいち示唆に富んでいた。
2)ここで扱われている現象は、読者に対する直接的な指示(インストラクション)の問題である。
文学作品(あるいは広く作品)というのは、ふつうの会話などにくらべて間接的なコミュニケーションだとされる。そのことが例えば「自律性」という言葉で表現される。実際これ自体は正しい指摘だと思うのだが、一方で上のような現象は確かに存在する。
作品は読者に暗示することも、指示を与えることも、反対に読者をわざと誤誘導することもある。しかし、自律性を強調することによって、これらの現象自体が無視されてしまいがちである。
この辺りの問題はきちんと考えたいなあと思う。
3)まとめると、「相互作用としての作品」あるいはかっこよく、「インターフェイスとしての作品」みたいな感じか。
著者はこの後、ポール・グライスの協調の原理を持ち出し、この現象を検討しはじめる。つまり、会話と比較しながら読者と作品の関係を扱っているのだが、これもまたおもしろい。
よく知らないが、グライス以後会話の研究はすっごく進んでるんじゃないかと思うんだ。よく知らないが、関連性理論とかそういうのがあるそうじゃないか。会話分析の成果も無視できないだろうし。
知りたいのは、文学系でこの辺りの成果を踏まえた人っているのかなってこと。おそらく文学理論の最先端の人たちは、そんなことにも関心を持っているのではないかと思うのだが、いかんせんなかなか情報が入ってこないのがつらい。たとえばアメリカで読者反応批評の末裔たちが会話分析に出会ったりとか、そんな愉快な展開があるといいなあと思うのだけど。
とりあえず↓の本でも読んで考えてみよう。
■ 名言
だが考えてみなければならない、作家の人生とは作品を創りつづけることではないのか。一つ一つの作品の創造の準拠する論理が「すべてをすぐに」であるのならば、作品創造にささげられた作家の人生は、瞬間ごとに「すべてをすぐに」と繰り返し言い続けること以外に、どのような可能性があるのか。(…)創造的な藝術家でありつづけようと思うならば、絶えず繰り返しの誘惑を乗り越えてゆかなければならない。それがおそらく、藝術家であることの第一の条件である。多少の才能があれば、一度だけ面白い作品を作ることなら出来るかもしれない。しかしそれでは不十分である。藝術家であるということは、何度もすぐれた作品を書くことであり、従って、創造のたびに何らかの意味でそれまでの自己を超えてゆくことである。
藝術家テラコワス!
■ あらすじ
序:
序では作品について一般的に論じるよ。
一章:
世の中は自然と行為と作品の領域にわかれる。作品の特徴は「内部世界性」と「自律性」だよ。
二章:
最近「作品」概念はケチをつけられがちである。しかし彼らの主張を考慮しても上の定義はさほど変わらないよ。
第一部:
第一部では作品の構造を論じるよ。
三章:
演劇でいう「三統一の理論」をネタに、作品の「統一性」を論じるよ。作品の統一性は関心の統一性だよ。
四章:
(この章はよくわからない)
演劇でいう「デウス・エクス・マーキナ」をネタに、作品の「完結性」を論じるよ。ドラマの展開を考える上ではアリストテレスの「はじめ-中-終わり」概念が重要。これは作品の本質に属するよ。
五章:
作品と受け手の関係を問うよ。作品解釈について考えるときは、一般的意志と個別的意志をわけた方がよいよ。
六章:
作品と外部の物事の関係を問うよ。作品は外在的な物事をどんどん関連させていくよ。
第二部:
第二部では作品と作者について論じるよ。
七章:
作品と作者の関係を問うよ。基本的に作品は作者から独立したもの。作品に対する責任は、親が子供に感じる責任に似ているよ。
八章:
作品と人格は似ているが、違うよ。人格は創造的な主体だが、作品は完結した客体だよ。人生を作品にすることは傲慢だよ。
九章:
作品は作者を疎外するよ。そして最後には作品が作者の人格を構成するよ。まるで愛みたいだね。
■【目次】
- 序論 作品の哲学
- 第一章 作品存在とその哲学
- 1課題とその過去
- 2自然・行為・作品
- 3作品と人工品
- 第二章 現代藝術と作品の危機
- 1 開いた作品
- 2 作品概念の動揺(1)-パフォーマンスと作品
- 3 作品概念の動揺(2)-テクストと作品
- 4 作品概念の動揺(3)-オブジェと作品
- 本書の鳥瞰
- 第一章 作品存在とその哲学
- 第一部 作品の構造論
- 第三章 作品の構造論
- 序 統一性の理論
- 1 三統一の規則
- 2 時の統一
- 3 場所の統一
- 4 筋の統一
- 5 関心の統一
- 6 二つの作品概念
- 第四章 完結の技法としてのデウス・エクス・マーキナ
- 1 作品の完結性
- 2 デウス・エクス・マーキナの分類
- 3 エウリピデスにおけるデウス・エクス・マーキナ
- 4 終末論的成就としてのデウス・エクス・マーキナ
- 5 ばねとしてのデウス・エクス・マーキナ
- 結び デウス・エクス・マーキナによる終わりの類型とアリストテレス
- 第五章 作品のア・プリオリとしての解釈学的意志
- 1 メタ制作学としての作品の哲学
- 2 具体例と問題の所在
- 3 協力と関与性
- 4 意図と公理のレベル
- 5 公理系としての行動の論理
- 6 約束事と定理のレベル
- 7 制作学から解釈学へ
- 第六章 求心性と遠心性
- 1 開いた構造論
- 2 内と外の弁証法
- 3 暗示と引用
- 4 作品の歴史性と作者の責任
- 第三章 作品の構造論
- 第二部 作品の人間学
- 第七章 作者の権利
- 1 作者による作品支配
- 2 作者の意図
- 3 改作の権利
- 4 作品の歴史性と作者の責任
- 第八章 人格と作品
- 1 人と作品の相称的印象
- 2 二つの古典的理論
- a 表現説と因果律
- b 構成説と弁証法
- c 主体に対する行為と作品
- 3 作品を人格と見る体験
- 4 人格を作品とする意志
- a 自伝の試み
- b ダンディズム
- c 完成のための自殺
- 5 人格・行為・作品
- 第九章 作品とその影
- 1 創造行為の倫理学
- 2 『アンチゴーヌ』と作者の二重疎外(1) - 作者と観客
- 3 『アンチゴーヌ』と作者の二重疎外(2) - 作品と作者
- 4 『ベケット』と仮の道徳 - 美的なるものの批判
- 5 創造の類比 - 一つの弁証法的論理
- 6 芸術家の名誉 - 愛の受容
- 第七章 作者の権利
- 結び 愛のトポスとしての作品
- あとがき
■男ごころ「らしさ」を超えて(6)他人見下す「仮想的有能感」
http://www.yomiuri.co.jp/feature/otokogokoro/fe_ot_07011001.htm?from=yoltop
偶然見た記事。
「電池を交換したが、カメラが動かない」という問い合わせに、担当者が「電池のプラスとマイナスの入れ方は間違っていませんよね」と確認した途端、男性がキレた。
20年以上もクレーム対応を続け、それを著書「社長をだせ!」にまとめた川田茂雄さんは「バカにされたと感じて、突然キレるのは男性に多い。会社では偉くなくても、消費者として企業に対するときは、強くなれる。そんな人たちのはけ口にもなっているんです」。
クレーム対応のことを書いた本らしい。おもしろそうだ。

「全てを見る」って。
いったい何を見せられるのかと思ってしまう。
このブログでは Movable Type というものを使っている。でも Movable Type じゃなくて tDiaryにすればよかったんじゃないかとひそかに思わないでもない。
それはそれとして、Movable Type だとリストやら何やらのタグを書くのが面倒なので、mt-sukeroku というプラグインを導入した。これは wiki やはてなの記法を Movagle Type で使えるようにしてくれるもの。
読んでいる人にはわからないだろうが、お陰ではてな記法が使えるようになり、私は大変便利である。
amazon も↓これでいける。
ASIN:4091790062:detail
テスト。
ASIN:4091790062:image
ASIN:4469212237:detail
- 作者:ロビン ウーフィット
- 出版社・メーカー:大修館書店
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- 発売(予定)日:1998-09
- 定価:¥ 2,625
- Amazon内売上順位:132657
ASIN:4756127150:image
戸田山和久『論理学をつくる』
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。とりあえず読みはじめたところ、冒頭にいきなり素晴らしい記述があった。
日本語には連濁という現象がある。例えば、「小屋(こや)」という語の頭に修飾語をつけて、例えば「山小屋」にすると、「やまごや」という具合に下の語が濁る。(…)しかし、「きつね」+「そば」は「きつねぞば」にならないし、「ファミコン」+「通信」は「ふぁみこんづうしんにならない」(吉田戦車氏の指摘による)。
これは...! 『ゴッドボンボン』ではないか。
※参考
『ゴッドボンボン』p55
私は以前からこのネタが大好きだったので、戸田山和久氏もこの四コマが好きだと知ることができて大変うれしい。論理学をはじめて本当によかった。
また、必要なときに『ゴッドボンボン』を引用することができたので大変うれしい。スキャナーを買って本当によかった。
戸田山氏はつづけてこう言った。
我々は連濁するかしないかを判定するに当たって、何らかの規則に従っているらしい。そして初めてのケースにもその規則をあてはめているに違いない。しかも、この規則は、日本語の話し手であればおおむね共有しているはずだ。しかし、自分が従っているその規則をきちんと取り出して述べることのできる人はいるだろうか。
吉田戦車が天才であるゆえんは、このように、暗黙の規則を見事に取り出してみせる点にあるのだと思う。
例えば、
- アリは群生する
- 蜂は群生する
ならば「妻」が群生してもいいはずだ。
(火星妻は、アリや蜂のように群生する。『火星ルンバ』参照)
「妻」と「群生」を結びつける飛躍は単純にすごいなと思う。
こんな風に、吉田戦車の発想はよく「どうしてこの語とこの語は結びつかないのか」というところに向かう。哲学者のする概念分析に近く思えることもある。
川崎ぶら、吉田戦車『たのもしき日本語』
この本は言語分析家、概念分析家としての吉田戦車がかいま見られる本だった。
「モテる」の用法を分析する吉田。
吉田●動詞ではなく、状態を表している形容動詞的な語だから活用法が違うのかも知らんな。「昨日9時から10時半までモテた」などとはあまり言わないし、ツッパリが因縁つける際に「モテてんじゃねーよ」などとは言わないのさ。
慧眼だと思う。確かこういうのをアスペクト分析とか言うんだった気がする。
検索していたらこんなサイトを発見した。
調査の頁にこんな記述があった。
動詞は内在アスペクトによって
- 状態(state)
- 動作(activity)
- 達成(achievement)
- 完成(accomplishment)
の四種類のいずれかに分類されます。
「昨日9時から10時半まで~した」という言い方が可能なのは、動作動詞?だろうか。「モテる」は状態動詞なのでこういう言い方はしない、ということなのだと思う。
ところでまったく関係ないが、この調査は「北海道方言の「動詞+ラサル」についての調査」らしい。
そう言えば中学生の頃、古文の「自発」の助動詞を学んだとき、先生が、北海道弁の「~らさる」が自発の助動詞なのだと教えてくれた。
例:「ウニいくらでも食べささる」
「こんなの社会学じゃねー」と言われないか内心ビクビクしているのだが、そういうつっこみはなかった(思いついても言わないという話もあるが)。
誤解されるので、批評という言葉を使うのをやめたと言うと、「気にしすぎ」と言われた。その通りなのだが、話題がそこに集中してしまったのは残念である。内容に突っ込まれたかったのだが、そもそも内容があまりないという問題もある。
教官様に質問してみた。
「例の「システム」論文の要点は『システムって言葉を使うには正当化が必要』って話だったのですか? それとも『場面を無視した記述をするな』って話だったのですか?」
「両方。社会学者が場面を無視した記述をするときに使う言葉が『システム』とか『社会』だからあれを書いた」
虚構論著作一覧。
随時追加。
○ 文学
- 中村三春(1994)『フィクションの機構』、ひつじ書房
- Marie-Laure Ryan(1991)"Possible Worlds, Artificial Intelligence, and Narrative Theory", Indiana University Press
=マリー=ロール・ライアン(2006)岩松正洋訳『可能世界・人工知能・物語理論』、水声社
- Thomas G. Pavel(1986) "Fictional Worlds", Harvard University Press
- 蓮實重彦(2006)『表象の奈落―フィクションと思考の動体視力』
、青土社
○ 美学
- 西村清和(1993)『フィクションの美学』、勁草書房
○ 哲学
- Frege, Gottlob(1892)'On Sense and Reference'("Philosophical Writings of Gottlob Frege", ed. G. P. Geach and M. Black,Blackwell)
=フレーゲ、ゴットロープ(1986)「意義と意味について」(土屋俊、坂本百大編『現代哲学基本論文集』、 勁草書房)
- Russell, Bertrand(1919)"Introduction to Mathematical Philosophy", Routledge
=ラッセル、バートランド(1954)平野智治『数理哲学序説』、岩波書店
- 三浦俊彦(1995)『虚構世界の存在論』、勁草書房
- Goodman, Nelson(1965)"Fact, Fiction, and Forecast", Fourth Edition, Harvard University Press,
=(1983)ネルソン・グッドマン、雨宮民雄訳『事実・虚構・予言』、勁草書房、1987)
- Searle, John R.(1975)'The Logical Status of Fictional Discourse'("Expression and Meaning", Cambridge U.P., 1979)
=サール、ジョン・R(2006)「フィクションの論理的身分」(『表現と意味』、誠信書房)
はてなブックマークのホッテントリになっていた。
かわいそうな名前をつけられた動物の話。
この「ニセ○○○○」というのは動植物名としてはわりと多く用いられているもので、動物図鑑などをめくるとそこかしこにニセ○○○○を見つけることができる。適当に列挙してみると――、ニセモクズガニ、ニセクワガタカミキリ、ニセフジナマコ、ニセイガグリウミウシ、といった調子である。なにが悲しくて、ナマコやウミウシごときのニセモノにならなくてはいけないのか。彼らは、いずれも生まれたときからニセモノ人生を決定付けられている。どう頑張ってみても、彼らは決してホンモノにはなれないのだ。これを悲劇と言わずして何と言おう。
それを言うならば哲学史に名を残した思想家であるにもかかわらず、偽者扱いされている偽ディオニシウス・アレオパギタや偽ロンギヌスもだいぶかわいそうだと思った。
思ったのだが、Wikipedia - 偽ディオニシウス・アレオパギタ によると、
『ディオニシオス文書』(Corpus Aeropagiticum)といわれる一連の文書の著者と同定されている。この著作はもともと自らを『使徒行伝』に現れるアテネの「アレオパゴスのディオニシオス」と名乗っていたが、中世以降その成立年代が特定され、「偽」という名前をつけて呼ばれるようになった。
つまり偽ディオニシウス・アレオパギタは自業自得だそうだ。
偽ロンギヌスはどうなのか。
その後これはヴァティカン蔵のより古い稿本によって“Διονυσίου ’ή Λογγίνου” (「ディオニュシウスないしはロンギヌスの」) の誤読と判明、著者は結局不明となったままであるが、ロンギヌスの名があまりにも流布してしまったため、現在でも「偽ロンギヌス」Pseudo Longinusの著として通用しているものである。prof.Fの西洋建築史講義
無実らしい。
どうも逃避気分が盛り上がっていけない。
とりあえず書いてみることで、現状を見つめ直そう。この行為自体逃避である可能性もあるが。
私は来週発表を行わなければならないのである。修論に関する発表を行い、教官様や院生の皆様方にきちんとしたプレゼンを行わなければならない。後数日しかないので、一刻も早く完成させないといけない。
プレゼンすべきことは。
修論のテーマを「フィクション」にする。テーマへの関心を説明し、「それなりにおもしろそうなテーマだ」と思ってもらえるように煽る。
先行研究の紹介。フィクションについてこれまで研究してきたのは分析哲学の人たちである。とりあえず彼らが議論していることを紹介する。現状では「紹介」以上の議論を行うのはむずかしいので、「へーそんな議論があるのか」とおもしろがってもらえればそれでいい。
研究が可能であることを示す。方法論の提示。フィクションは「システム」である。と言いたいが、方法論の議論に深入りするのは考えもの。
「作品」「テクスト」など類似概念とフィクション概念の違い。同時にこれが立場の表明にもなる。話の流れとしては、「作品論の人」「テクスト論の人」の対立を紹介。「→どっちもおかしい」「→そこでフィクションですよ」と行くとスマートに説明できそうである。とりあえずこの部分を発表の中心にする。
フィクション概念のアクチュアリティ。おまけとして説明するかもしれない。日和るかもしれない。『涼宮ハルヒ』を引用する。「虚構世界の概念をきちんと確立しないと角川スニーカー文庫さえまともに読めないんですよ」。教官様は同意してくれるかもしれないが、他の人にバカだと思われるかもしれない。
私が本屋で発見したことを書く。
ジル・ドゥルーズ著、小泉義之訳
『意味の論理学』上
『意味の論理学』下
『アンチ・オイディプス』につづき、ジル・ドゥルーズさんの『意味の論理学』が河出文庫で出たようだ。よく知らないけど、ルイス・キャロルの話とフッサールの「意味」概念の話をしている本だとか何とか聞いたような。
しかも小泉義之訳。私この人嫌いじゃないけど。断言口調でやたらとオリジナルな文献解釈を口にするスタイルを見ていると、翻訳?という気もする。
今から図書館に行く。
哲学者の虚構論(昔の)
- -フレーゲ、ゴットロープ「意義と意味について」 (in 土屋俊、坂本百大編『現代哲学基本論文集』) 勁草書房
- -ラッセル、バートランド『数理哲学序説』 岩波文庫
哲学者の虚構論(最近の)
- -Lewis, David 'Truth in Fiction'("Philosophical Papers I", Oxford U.P., 1983)
- -サール、ジョン・R『表現と意味』 誠信書房、2006
- -三浦俊彦「虚構」(『事典 哲学の木』講談社、2002)
その他
- -遠藤知巳「言語・複数性・境界」(『思想』940、岩波書店、2002)
- -「メディアそして/あるいはリアリティ」(『思想』、岩波書店、2003)
- -佐藤俊樹「「社会システム」は何でありうるか」(『理論と方法』15(1))
- -「言説、権力、社会、そして言葉」(『年報社会学論』15)
- -
ガーフィンケル「カラートラブル」(好井裕明『エスノメソドロジーの現実』世界思想社,1992)

上遠野浩平『殺竜事件 - a case of dragonslayer』
講談社ノベルス
読んだのは少し前だが、佐藤論考をようやく読んだのでこれについても書いておく。先にあらすじを説明しないと感想が書きにくいので先にあらすじを書く。
あらすじ:(ネタバレを含む)
ジャンル的に言うと、ファンタジーミステリー。タイトル通り、竜が殺された謎を解く話。
竜をとても大事にしている村があった。そこはちょうど和平会談の場所になっていた。その村で竜が殺された。竜というのは、とてつもなくすごい力を持ったものなので、それを人が殺したとは考えられない。しかし竜の殺され方はどう見ても他殺だった。
村人は怒って、「謎を解かないと和平会談の場所は貸さない」と言った。そこで戦争調停士(という職業らしい)の主人公は竜殺しの謎を解かねばならなくなる。手がかりを求めるために、これまで竜に会った人たちに会い、話を聞きに行くことにした。
そんな感じで主人公一行が旅に出て、色んなところに行く。話を聞いてもあまり手がかりは得られないが、もののついでにお姫様を助けたり、幽霊と戦ったり、わりとふつうにファンタジーっぽい冒険をする。
あと、重要っぽい設定としては、「漂流物」というのがある。「漂流物」というのは別の世界から漂流してきたと言われる物のこと。実態は、ピストルとか扇風機とか、要するに「現実っぽい世界」から漂流してきたものである。
真相は以下の通り。
【ネタバレ -- ここから】
竜を殺したのは村人全員の共謀。一見竜を大事にしているように見えるその村は、実は竜を殺すためだけにつくられた村だった。何十年も前から準備をし、村人たちは代々竜を殺す計画を練っていた。
しかし、それだけで竜が殺せるはずはない。だから、たぶん、友人だと思っていた村人に殺されそうになった竜がショックのあまり、自殺を受け入れたんだろうと。そういうような感じの結論になる(後半はうろおぼえ)。
【ネタバレ -- ここまで】
感想:
アシモフの SF ミステリと対照させると見やすい。
かつて「SF ミステリ」とか「ファンタジーミステリ」といったものは不可能だと言われていた。だって読者の知らない新しい技術とか、新しい魔法を出してくればいくらでも不可能犯罪が可能になってしまうから。
それに対してアシモフは、「世界観がどうであれ、作品内に厳格なルールを設定し、フェアに謎を解決させれば SF ミステリは十分成り立つ」ということを証明した。つまりロボットが出てこようが、魔法が出てこようが、最初に作品内に厳格なルールを設定し、その枠内で謎解きをやれば、ミステリとして十分フェアな作品ができる、というわけだ。
だからアシモフは自分でつくった「ロボット工学の三原則」だけは(ほぼ)絶対に曲げない。ロボットの行動の謎は、おおよそ三原則の枠内で解けるようになっている。そして実際、アシモフの初期ロボット短編の多くは「三原則によってロボットの行動を読み解く」ストーリーになっていた。
私はアシモフのこういう姿勢は結構好きなんだ。三原則をあまりに厳格に追求することで、ついに「第零原則」なんていうとんでもないものまでひっぱりだしてくるところも含めて。言い換えれば、これは理詰めでいくやり方だ。理詰めを追求することで、最後には「理」まで反転させてしまうようなやり方だと思う。
もちろん、こういうやり方がすべてではない。万人がこれをやるべきだとも思わないが、この小説は↑のようなやり方と比べて、ちょっと失敗しているような気がした。
本書で、竜は「とにかくすごいもので人間には殺せない」という設定になっている。しかし制限とかルールはほとんどないので、これは無定義に近い。そのため私は読んでる最中、「竜が殺されたとか言われても、設定も何もわからないのに謎なんか解けるかー」と思った。
しかし、最後まで読むと、実は謎を解く鍵はほとんど序盤に出ている(←これもネタバレか?)。だから「フェア」と言えなくもない。
が、逆に言うと、中盤の展開はほとんど本筋の謎と関係がなくなっている。
思うに、ミステリーのおもしろさというのは、解答のほのめかしにあるんじゃないか。つまり、最初に不可解な謎が提示されて、それが段々真相をのぞかせたり、実は意外なところに答えがあったりする、そういう展開が読者をひっぱるものだと思うんだ。
でもこの小説の中盤の展開はミステリー的展開になっていない。むしろ中盤はふつうのファンタジー小説になっている。要するにミステリー的な展開を書くのに作者が慣れてないだけだと思うんだが。

佐藤俊樹「世界を開く魔法」(『ファウスト』vol.5)
講談社
説明。この号の『ファウスト』では上遠野浩平特集をやっていた。
これは『殺竜事件』を中心とする上遠野浩平論。
感想:
むずかしい。舞城王太郎の話はわかるが、上遠野浩平の話はよくわからない。ファウスト読者はついていけてるんだろうか。
ところで上遠野浩平と魔法の話は以下のように言ってくれればわかるのだが、こういう話なんだろうか。
- 魔法の出てくる話(ファンタジー)というのはわれわれの世界と違う異世界が舞台だよね。
- 「異」世界が舞台であるがゆえに、魔法の出てくる話は、「(魔法の出てくる)この世界って何?」とか「(魔法のない)この世界って何?」とか、「世界って何?」系の問題に向かいがちだよ。
- ましてや上遠野浩平の小説では「隣り合う世界」がよく出てくるのだから、そういう傾向が強いよね。
- そういった感じで、あくまで世界の内側から、世界の別様可能性を探っていくようなストーリーに可能性を感じるよ。
うーん、ちょっとちがうかもしれない。あらすじを書いていたら、何となく内容はわかった。
可能世界論とか持ち出すと、もっとすっきりできるような話のような気もする(むしろ私の解釈が可能世界論に近よりすぎなだけかもしれないが)。
あと、いわゆる「セカイ系」の「セカイ」に対抗して、「ワタシ」って言ってるのだと思うが、「ワタシ」ってちょっとかっこわるくないか?
しかしこれは一応虚構論になっているのだな。もっと早く読めばよかった。
あらすじ:
1.魔法の論理学
魔法というのは不可能を可能にするものだよね。でも魔法ものでは魔法に制限をつけるのが大事だよ(ex.『鋼の錬金術師』の等価交換)。だから魔法ものは「可能」と「不可能」をめぐる話だよ。
これはミステリーと似てる。ミステリーは不可能な犯罪を合理的に解く話。だからやっぱり可能とか不可能とかの話になる。
2.呪文と叙述
ところで、魔法とミステリーはもうひとつの点でも似てる。
魔法は「言葉」と関係があるけど、ミステリーで言葉といえば、「叙述トリック」だよ。
叙述トリックというのはとんでもないもので、これをやると何でもありになっちゃう。でも、とんでもないものでも、すぐお約束になっちゃうから難しいよね。
3.「物語」の正体
ところで、叙述トリックを徹底的にやりまくることで、お約束を打ち破ろうとしたのが、舞城王太郎の『九十九十九』だったよね。ここから叙述トリック代表ということで、『九十九十九』の話をしよう。
『九十九十九』は聖書に似てる。新約聖書というのは、旧約の謎解きだった。しかも答えである福音書は複数用意されている。聖書は迷宮入りした叙述トリックだよ。
聖書を信じるプロテスタントと同じように、『九十九十九』には、「どこかに答え(神の言葉)が隠されている」という信念が感じられるよ。一見破壊的な『九十九十九』だけど、その裏には、「物語の外の真理を見たい(でも見れない)」という感覚があるんじゃないかな。
4.底無しの抜け方
つまり『九十九十九』は、「すべてを破壊して物語の外に出よう」という話ではなく、「破壊しても破壊しても物語の外に出られないよー。わーん」という話なんだ。
この「外に出たい! 出られない!」というのは地方都市出身者ならではの感覚だね。
あとミステリらしいと言えなくもないよね。
5.「事件」の構造
ところで、2では叙述トリックと魔法を比較したけど、ここから魔法代表ということで、上遠野浩平の話をしよう。
叙述トリックは作品世界の外の語り手を登場させる。でも魔法は物語の中にとどまるよ。魔法はむしろ、物語の中に法則外の存在(物語の外)を導入するんだ。
そうやってより大きな世界の法則へと進んでいくのが魔法物だね。上遠野浩平は魔法ミステリを描いたけど、これの特徴は、ミステリの謎が事件の謎だけではなく、世界の謎につながっていくことだよ。
6.可能(できる)と不可能(できない)の反転
上遠野浩平の魔法ミステリについて考えるために『殺竜事件』の話をするよ。
竜というのは定義からして絶対殺せないものだった。それを殺すんだから、こいつはとてつもない不可能犯罪だね。
つまり物語自体の構造をゆるがすような事件が問題になっているんだ。だけど、叙述トリックのように物語の外に出たりはしないよ。いわば、『殺竜事件』は、外に出ないで物語のはしっこを歩いていくような話だよ。
魔法もののおもしろさっていうのは、こういう風に、世界の内側で、世界の「別様可能性」を問うところにあるよね。
7.世界とワタシ
↑のように、世界の内側で、世界のエッジに触れるような人を、「ワタシ」と呼ぼう。上遠野浩平の小説には、よくこの「ワタシ」が出てくるよ。
8.「現実」と「虚構」
(この節はよくわからない。ちょっと解釈しすぎかもしれない)
上遠野浩平の「ワタシ」は、村上春樹とも加藤典洋ともセカイ系とも違うよ。
(以下書いてないけど補足
【補足 -- ここから --】
可能世界に関する議論で、こういうのがあるよね。
「もし君が身長2メートル以上だったら...」ってな会話をわれわれはよくするよね。この時、この会話は「君が2メートル以上である可能世界」を仮定しているわけだ。ところで、この「君」は現実の君とは別の物を指すんだろうか。そんなはずないよね。もしそうだったら意味が通じなくなるよね。
ということは、個人(など固有名によって呼ばれるもの)は複数の可能世界に横断的に存在するものだということになるよね。
つまり、複数の世界が「私」とかそういう個人の存在によって結ばれているのだと言えなくもないよね。
【補足 -- ここまで --】)
「現実なんてすべて虚構だ」っていうのはおかしいと思うんだ。
これは「こっちが現実」「あっちが虚構」というのを前提にした発言だ。
でも本当はむしろ、こっちから見るとあっちが虚構だったり、あっちから見るとこっちが虚構だったり、複数の世界が並行に隣り合うものなんじゃないか。
そんな風に、「虚構から見た現実の私」がいたり、「現実から見た虚構の私」がいたり、私を通じてつながる隣り合う世界があって、現実と虚構の境界は折り重なっているんだ。
上遠野浩平はそういう世界を描いているよね。
ところで、これは色んな問題にあてはまる話だよね。
例えば「大きな物語(普遍的で万人が共有する物語)はない」なんてことを言う人がいる。でもこれは「大きな物語はない」っていう大きな物語をつくってるだけだ。
あるいは「客観的な真理なんてない」っていうのも客観的な真理だよね。
9.竜の殺し方
じゃあどういう語り方をすればいいんだろう。わからないけど、中心のない複数のない世界を考えるってことは、その語り方を考えるってことなんじゃないか。
東浩紀も前の『ファウスト』でそういうことを考えていたよね。でも彼のルーマン解釈はいただけない。彼の言い方だと、ルーマンがコミュニケーションの概念で現代社会を説明しようとしたみたいになっちゃう。
そうじゃなくて、ルーマンも本当は、↑のような問題を考えた人なんだ。
ルーマンは「コミュニケーションの意味は、他のコミュニケーションとのつながりによって決まる」って言った。
(書いてないけど補足。
【補足 -- ここから --】
例えばこんな例がある。電車で席を立ったとき、そこに老人が座れば席をゆずったことになる。老人が気づかなければ、席をゆずったことにはならないかもしれない。こんな風に、そのあとどんな出来事がつながっていくかで、その出来事の意味自体が変わっていくんだ。
【補足 -- ここまで --】)
これは、何が虚構で何が現実かってことが、後から変わってしまうかもしれないっていう怖い話なんだ。
今ある出来事に、将来どんな出来事がつながるのかわからない。もしかしたら、そのせいで「今日の虚構が明日の現実」になるかもしれない。
案外そういったこと自体が「中心のない複数の世界」について一番教えてくれるのかもしれないね。
10.隣りあうこと
人っていうのは、何が起こるかわからない世界から目をそむけるために、安定した現実を想定しがちだよね。
ところでルーマンは「私たちは現実をマスメディアから知る。マスメディアが信用できないってことさえマスメディアから知るんだ」みたいなことを言っている。
これは「現実はマスメディアのつくった嘘ばっかりだ」という発言とは違うよ。
もう何が現実で何がつくられたものだか、わけがわからないくらい、「つくられたものかもしれない」という可能性に触れているってことだ。
上遠野浩平の、何が現実で何が虚構かってことがずれていくような多数世界は、こういう感覚をよく描いているよね。
あと、これって要するに「人のしたことが他の人のしたことにつながっていく」ってことだから、何かいいよね。
横溝正史『犬神家の一族』
角川文庫
誰でもあることかもしれないが、私はわりと「自分が読んでそうなものは読んでおかなければならない」と思うことが多い。例えば私は『スタートレック』を観たことがないが、自分は『スタートレック』を好きそうな感じを人に与えているんじゃないかと思うので、早く見るべきだと思っている。
横溝正史も、読んだことがなかったのだが、読んでそうな感じがするんじゃないかと思ったので読んだ。映画化してちょっと流行ってるらしいし。読んでそうなのに読んでないと恥ずかしいから。
感想:
エンタテインメントしていていいなと思う。
クーンツの『ベストセラー小説の書き方』* によると、推理小説で大事なのは、「早く事件が起こること」らしい。はじまって早々第一の殺人が起こる『犬神家の一族』はその点ぬかりない。
田舎の名家の三兄弟を襲う殺人事件とか、不気味な仮面の男スケキヨとか、小道具もばっちりだ。
* 10 冊には入れなかったが、この『ベストセラー小説の書き方』は去年読んだ本のなかでは非常におもしろかった部類に入る。日本人の著者(例えば高橋源一郎)なら絶対書かないような極端でわかりやすいアドバイスが満載されている。
あらすじ
名探偵金田一耕助が「犬神家の相続問題が大変だ」という依頼を受け、はるばる長野(だったっけ?)まで来た。来たけど依頼人はあっさり殺される。
犬神家の相続問題はこんな感じ。
地方の名家犬神家の爺さんが死に、遺言が公開される。
遺言は居候の珠世をやたらと優遇するものだった。犬神家の三兄弟のうち、珠代と結婚したものが一番遺産をもらえる。誰も結婚しなければ、珠代だけが遺産をもらう、とか何とか。不気味なのは、三兄弟が殺された場合について、やけに詳細に書かれていること。三人全員が死んだ場合、珠代と、謎の男「青沼静馬」だけが得するようになっている。
それで案の定犬神家の三兄弟が殺されていく。三兄弟というのは、佐清(スケキヨ)、佐武(スケタケ)、佐智(スケトモ)。長男があの有名なゴムのマスクをかぶったスケキヨ。
詳しくは↓イメージ検索でもどうぞ。
http://images.google.com/images?rls=ja&q=%E4%BD%90%E6%B8%85
スケキヨはラバーフェチ、ではなく、戦争で顔を怪我したのでマスクをかぶってる。「マスク」という時点で想像がつくように、「スケキヨ偽者説」なども出て、事態は混迷をきわめる。
まああとはネタバレになるので省略。トリックがどうのというよりは、おどろおどろしい雰囲気を楽しむものだと思う。

上野修『スピノザ - 「無神論者」は宗教を肯定できるか』
シリーズ・哲学のエッセンス、日本放送出版協会
感想 ? :
「文法」という概念について考えたいなあと思っていたので読んだ。おもしろかったが文法概念についてわかったのかどうかは定かではない。
読んでるとき、偶然 id:shim ( http://d.hatena.ne.jp/shim/ ) に会ったので、前半の内容を解説してやった。shim は「敬虔の文法」を「プログラム」と言い換えて理解した。「プログラム」も悪くはないと思った。
「文法」について :
ちなみに文法概念とは私の理解では以下のようなものである。
小林秀雄「さまざまな意匠」には、「人は可能なことしか欲望できない。月に行くことを欲望することはできない」と書いてある。「月に行く」は今時可能なので欲望できるかもしれないが、『月を活け作りにすること』とか『月を太陽が木星すること』を欲望することはできない。「私は月を活け作りにしたい」とか「私は月を太陽が木星することをしたい」とか言われても、比喩的にとるのでなければ、そもそも意味がわからないし。文法的に不可能なことを欲望することはできない。
このように、欲望のような不定形(とされがちなもの)でさえ、文法的な「可能/不可能」によってあらかじめ制限されている。人が何を「欲望」できるかということは、「欲望」という概念の文法によってある程度は決定ずみである。
文法による制限は、物理的な制限とも倫理的な制限とも違った何か意味に関係のあるものである。
あらすじ:
前半:『神学・政治論』の神学ブロックについて。
スピノザの『神学・政治論』はヘンな本で、「聖書に書いてあることは嘘ばっかり」と言いつつ「でも聖書はあれでいいんだ」と言っている。
この矛盾について、「本当は聖書批判をしたかったのだが、弾圧を恐れたので後者の主張をつけたしたのだろう」と解釈する人もいる。でもそれはちがう。
当時聖書解釈の主流は、知識人の間でも、宗教者の間でも、「聖書はこの世界の真理を記した本だ」というものだった。宗教者は文字通りに聖書を信じようとするし、知識人は聖書の内容を比喩的に解釈することで、無理矢理聖書の内容を真理にしようとしていた。
しかしスピノザは、そうした聖書解釈を改めるべきだと言ったのだ(と本書は主張する)。つまり、聖書というのは、『敬虔』『信仰』するための文法を記した本だ。哲学的な真理について述べた本ではない。
だから『聖書』の記述は嘘ばかりでも別にかまわない。そもそも真理を書くことが目的ではないのだから。
後半:『神学・政治論』の政治ブロックについて。
『敬虔』の文法は隣人愛を含む。隣人愛とは「他人の権利を自分の権利と同じように守れ」。ここから国家の話になる。
スピノザ的には「ヘブライ神政国家」は共和国と同じ。なぜなら彼らの言う「神」は嘘の神なので、「神の命令に従おう」というのは「みんなの決めた決まりに従おう」という社会契約と同じになるから。
そんな感じでスピノザは共和国が信仰と全然矛盾しないことを証明した。でもそんなこと言われても誰も理解できなかった。
【目次】
- はじめに
- 第1章 『神学・政治論』は何をめぐっているのか オランダ共和国/デカルト主義者たちの不安/不敬虔という問題
- 第2章 敬虔の文法 解釈の狂気/真理条件から主張可能性条件へ/預言者の語り得たこと/普遍的信仰の教義/神学と哲学の分離──無関係の関係
- 第3章 文法とその外部 神学から政治論へ/最高権力の「最高」を構成する/敬虔の政治論的な文法/文法の外部/自由の擁護
- 第4章 『神学・政治論』の孤独 偽装された無神論?/三大詐欺師?/奇蹟と迷信/有徳の無神論者というパラドックス スピノザ小伝

安岡章太郎『カーライルの家』
講談社
安岡章太郎まさかの新刊。何歳だ? 小島信夫に対抗したのか。
安岡章太郎は好きなのだが、只今ライトノベル縛り励行中なので、買ったものかどうか悩む。あと私の好きな安岡章太郎は、歴史私小説(としかいいようのない種類の何か)を書き始める以前の安岡章太郎なのだが。
しかし買わないとすぐ無くなりそうだ。
年老いた著述家は( ボケのせいで ? )ときどきものすごい文章を書くのでそこら辺を見たい気もする。
あわせて読みたい:
小島信夫『残光』
ライトノベルしか読んじゃダメなので読んでないが、やばそう。

ドニ・ディドロ『運命論者ジャックとその主人』
白水社
まさかの新訳。佐々木健一訳『絵画について』も岩波文庫で出たし。今ディドロが熱い!! ( ←そこまでではない )。
『ジャック』はやばい。どれくらいやばいかというと、途中でディドロが出てきて、「おれ作者だから」的なこと言って、山賊を消したりする。『ドクタースランプ』とか、往年のジャンプのギャグ漫画みたいだ。あとひねくれもののジャックがいいキャラ。
あわせて読みたい :
ディドロ『絵画について』

『虚構世界の存在論』
三浦 俊彦 (著)
勁草書房
一言でいうと、英米の哲学を援用し、虚構の論理的位相を問うた本。
1章では作品概念の検討を行う。作品の同一性を外延によって規定する立場と現象的感覚的特徴によって規定する立場の二つが検討される(要するに著者よりで作品を考えるのか、読者よりで考えるかの違い)。本書では後者が選択される。
2章では虚構世界における完全性の問題を扱う。完全性の問題とは、「虚構世界とは『シャーロック・ホームズの髪の毛の本数は偶数であるか奇数であるか』といった隅々の事象まで決定された世界なのか、それとも空白部を含む世界なのか」という問題。不完全説は取り下げられ、「一つの作品に虚構世界が複数ある」という説が一応もっともらしいものとされる。しかし著者は虚構世界を単数にしておきたいらしい。
3章では虚構世界における矛盾の問題を扱う。矛盾の問題とは、「虚構世界が『Aかつ非A』のような強い矛盾を含むと、強い矛盾の下ではあらゆる命題が真となってしまう」問題のこと。ブラッドベリの『雷の音』(いわゆる「タイム・パラドックス」を含む小説)が例にあげられる。著者は、強い矛盾を回避するために、小説の解釈を改めるのがよいとしている。ここまでは良いとしても、ここの結論部は首肯しがたい。「強い矛盾を回避するための解釈」として著者が持ち出してきたのはすべて集団幻覚だったというもの。誰も思いつかないような解釈を持ち出して矛盾を回避することに何の意味があるのか...。
4章では虚構的対象(キャラクター)の存在について諸説が検討される。書き下ろしでもあり、一応本書の目玉となる部分か。勉強になる。
5章は結論。これまでの展開を踏まえ、「虚構世界実在論」が主張される。
【目次】
- 第1章虚構作品とは何なのか
- 1作品の変貌と同一性
- 2外延と現象
- 3発見と規定
- 4作品の可能態
- 第2章虚構世界とは何なのか:不完全性
- 1余剰情報と不確定性
- 2不確定性への三つのアプローチ
- 3排中律と二値性
- 4発見、選定、創造
- 5D・ルイスの集合説
- 6外挿原理と曖昧さ
- 7固体の追跡
- 第2章虚構世界とは何なのか:矛盾
- 1矛盾に依拠するも物語
- 2二種類の矛盾
- 3合併の方法
- 4解釈の存在論
- 5論理的非閉鎖と最小離脱
- 6論理的メタファー
- 72055年に何が起こったか
- 第4章虚構的対象とは何なのか諸説概観
- 1記述理論(ラッセル)
- 2擬装主張説(サール)
- 3還元主義(ライル)
- 4マイノング主義(パーソンズ)
- 5理論的実体説(ヴァン・イワーゲン)
- 6種類説(ウォルターストーフ)
- 7寓意説(プランティンガ*)
- 8代入的量化説(ウッズ)
- 9状況説(ハインツ)
- 10 de re可能多世界説(クリプキ)
- 11 物理主義(クリプキ、カプラン、ドネラン)
- 12 de dicto可能多世界説(ルイス)
- 13 de dicto超世界説
- 14 メイクビリーブ説(ウォルトン)
- 15 de re心眼理論(ハウエル)
- 16 限界仮説と唯一仮説(スタルネイカー)
- 17 虚構論の判定軸
- 第5章虚構理論とは何なのか
- 1現象主義と一世界説
- 2
メイクビリーブとしての世界観
定義は「昨年はじめて読んだ本」。新刊、旧刊は問わないものとする。順不同、優劣はなし。ちなみに昨年はライトノベル縛りを自分に課したところなので、ライトノベルが多くなっている。
選ぶのに苦労した。読書生活が1年ですっぱりと区切れるわけではないので、どれが昨年読んだものだったのか意外と覚えていないものだ。
M川が以前、「ベストを選ぶときは、読んだ本を全部書いてからにしてほしい」と言っていたが、読書手帳をまめにつけてないかぎり無理だなあと思った。
基準としては、「おもしろかった」よりも「その本のことをよく考えた」「影響を受けた」を重視した。
毎年思うのだが、私は本当に新刊を読んでいない。時代に背を向けているようでイヤなので、新刊を読むことを来年の目標としたい。
(時代に背を向けていたら『涼宮ハルヒ』は読まないと思うが)

1)『NHKにようこそ !』
滝本 竜彦 (著)
角川文庫
1)について。
非常に太宰治らしい太宰治。自虐私小説部分もよいけど、フィクションらしいフィクションであり、救いのある「お話」である岬ちゃんのエピソードをきちんと書けるところが才能だと思う。しかしその辺の「自虐リアリズム」と「救いのあるフィクション」のミックス具合がなんとも太宰治的だ。

2)『虚構世界の存在論』
三浦 俊彦 (著)
勁草書房
2)について。
マリー=ロール・ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』でもいいけど、まだ読み終わってないのでこちらを選んだ。この本がおもしろいというより、今年の後半は虚構理論について考えることが多かったので、その文脈で1冊あげる。この本自体についていえば、三章の結論部以外はいい本だ。ただし、かなりの奇書である。手法(論理学)と対象(文学)の結合の仕方も奇妙なら、出てくる結論もいろんな意味で奇妙だ。『ドグラマグラ』を越える一冊と言えるかもしれない。

3)『銀河パトロール隊 - レンズマン・シリーズ 1』
E.E. スミス (著), E.E. “Doc”Smith (原著), 小隅 黎 (翻訳)
創元 SF 文庫
3)について。
表面的な欠陥はいっぱいある。大体「マッチョなヒーローが悪い宇宙人を倒す話」だという時点で真面目に読んでられない人も多いだろう。しかし「とにかくおもしろい」という一点でレンズマンシリーズにかなう作品はほとんどないだろうと思う。「とにかくおもしろい」「先が気になって仕方がない」というのは暴力的なほどに有無を言わさない力で、とても確かなものなので好きだ。
4)『鋼鉄都市』
アイザック・アシモフ (著), 福島 正実 (翻訳)
ハヤカワ SF 文庫
4)について。
『ファウンデーションの彼方へ』をあげたいところだが、あれは1冊だけ読んでも仕方のないものなので、1冊としての完成度が高いこちらを選んだ。SF ミステリの傑作だが、何よりもまず「ダニール萌え~」と言いたい。ロボットの人らしさを描きながら、最初に設定したロボット三原則だけは絶対に歪めないところがアシモフの天才だと思う。
5)『新ナポレオン奇譚 - チェスタトン著作集 10』
G.K.チェスタトン (著), 高橋 康也 (翻訳), 成田 久美子 (翻訳)
春秋社
5)ついて。
本当なら「ナショナリズムを考える5冊」などに毎回あがってもいい名作だと思う。あらすじは、ノッティングヒルを含むロンドンの各市街が市街愛にめざめ、市街のために剣をとって戦うという話。東京で言えば、経堂や東松原や笹塚の人々が、「経堂愛」、「東松原愛」、「笹塚愛」等々に目覚め、市街のために剣をとるという話だ。原題の『ノッティングヒルのナポレオン』は、東京で翻訳すれば、『自由が丘の織田信長』『駒場東大前の始皇帝』のようなニュアンスか。要するに目茶苦茶なタイトルの目茶苦茶な小説だ。

6)『新本格魔法少女りすか』
西尾 維新 (著)
講談社ノベルス
6)について。
西尾維新は「ジャンプ漫画のおもしろさをそのまま小説に書ける」ことを証明した。個人的には、それだけで文学史にのこしてよい偉業だと思う。

7)『涼宮ハルヒの憂鬱』
谷川 流 (著), いとう のいぢ (イラスト)
角川スニーカー文庫
7)について。
「最近のライトベルってこういう感じなんだー」「メタで世界(セカイ)な感じなんだー」という衝撃を感じた1冊。この作品自体について言えば、著者はふつうにとても頭のよい人なんだろうなあと思った。

8)『星界の紋章〈1〉帝国の王女』
森岡 浩之 (著)
ハヤカワ JA 文庫
8)について。
『星界の紋章』はふつうにとてもおもしろい物語で、そこが正当に評価されているので、あまり言うことはない。昔『ホビットの冒険』を読んだときに感じたような、「おもしろいなあ。この世界のことをもっともっと知りたいなあ」といった種類の感情を喚起する。「ほにゃらら家のほにゃらら侯爵」みたいなベルばら的世界観さえ乗り越えれば、たいていの人は楽しめると思う。

9)『ディアスポラ』
グレッグ・イーガン (著), 山岸 真 (翻訳)
ハヤカワ SF 文庫
9)について。
SF の王道。科学に関する描写がとてもむずかしいという点さえ乗り越えれば。
10)『微笑みの伝道師 - 倉戸と蜂須の奇怪探偵通信』
アーカイブ騎士団
http://www.at-akada.org/archive/
「その1冊のことをよく考えた」という定義でいくと、一番考えたのは自分で書いたものに決まってるわけで。
自画自賛をしたいわけでもないのだが、この1冊をのぞくと昨年を振り返っている気がしないのであげておく。
おめでとうございます。日付が変わりまして。
つくったはいいものの、公開のタイミングがいまいちつかめなかったが、新年を期に公開することにしました。
アフィリエイトサイトです。







































































