
上遠野浩平『殺竜事件 - a case of dragonslayer』
講談社ノベルス
読んだのは少し前だが、佐藤論考をようやく読んだのでこれについても書いておく。先にあらすじを説明しないと感想が書きにくいので先にあらすじを書く。
あらすじ:(ネタバレを含む)
ジャンル的に言うと、ファンタジーミステリー。タイトル通り、竜が殺された謎を解く話。
竜をとても大事にしている村があった。そこはちょうど和平会談の場所になっていた。その村で竜が殺された。竜というのは、とてつもなくすごい力を持ったものなので、それを人が殺したとは考えられない。しかし竜の殺され方はどう見ても他殺だった。
村人は怒って、「謎を解かないと和平会談の場所は貸さない」と言った。そこで戦争調停士(という職業らしい)の主人公は竜殺しの謎を解かねばならなくなる。手がかりを求めるために、これまで竜に会った人たちに会い、話を聞きに行くことにした。
そんな感じで主人公一行が旅に出て、色んなところに行く。話を聞いてもあまり手がかりは得られないが、もののついでにお姫様を助けたり、幽霊と戦ったり、わりとふつうにファンタジーっぽい冒険をする。
あと、重要っぽい設定としては、「漂流物」というのがある。「漂流物」というのは別の世界から漂流してきたと言われる物のこと。実態は、ピストルとか扇風機とか、要するに「現実っぽい世界」から漂流してきたものである。
真相は以下の通り。
【ネタバレ -- ここから】
竜を殺したのは村人全員の共謀。一見竜を大事にしているように見えるその村は、実は竜を殺すためだけにつくられた村だった。何十年も前から準備をし、村人たちは代々竜を殺す計画を練っていた。
しかし、それだけで竜が殺せるはずはない。だから、たぶん、友人だと思っていた村人に殺されそうになった竜がショックのあまり、自殺を受け入れたんだろうと。そういうような感じの結論になる(後半はうろおぼえ)。
【ネタバレ -- ここまで】
感想:
アシモフの SF ミステリと対照させると見やすい。
かつて「SF ミステリ」とか「ファンタジーミステリ」といったものは不可能だと言われていた。だって読者の知らない新しい技術とか、新しい魔法を出してくればいくらでも不可能犯罪が可能になってしまうから。
それに対してアシモフは、「世界観がどうであれ、作品内に厳格なルールを設定し、フェアに謎を解決させれば SF ミステリは十分成り立つ」ということを証明した。つまりロボットが出てこようが、魔法が出てこようが、最初に作品内に厳格なルールを設定し、その枠内で謎解きをやれば、ミステリとして十分フェアな作品ができる、というわけだ。
だからアシモフは自分でつくった「ロボット工学の三原則」だけは(ほぼ)絶対に曲げない。ロボットの行動の謎は、おおよそ三原則の枠内で解けるようになっている。そして実際、アシモフの初期ロボット短編の多くは「三原則によってロボットの行動を読み解く」ストーリーになっていた。
私はアシモフのこういう姿勢は結構好きなんだ。三原則をあまりに厳格に追求することで、ついに「第零原則」なんていうとんでもないものまでひっぱりだしてくるところも含めて。言い換えれば、これは理詰めでいくやり方だ。理詰めを追求することで、最後には「理」まで反転させてしまうようなやり方だと思う。
もちろん、こういうやり方がすべてではない。万人がこれをやるべきだとも思わないが、この小説は↑のようなやり方と比べて、ちょっと失敗しているような気がした。
本書で、竜は「とにかくすごいもので人間には殺せない」という設定になっている。しかし制限とかルールはほとんどないので、これは無定義に近い。そのため私は読んでる最中、「竜が殺されたとか言われても、設定も何もわからないのに謎なんか解けるかー」と思った。
しかし、最後まで読むと、実は謎を解く鍵はほとんど序盤に出ている(←これもネタバレか?)。だから「フェア」と言えなくもない。
が、逆に言うと、中盤の展開はほとんど本筋の謎と関係がなくなっている。
思うに、ミステリーのおもしろさというのは、解答のほのめかしにあるんじゃないか。つまり、最初に不可解な謎が提示されて、それが段々真相をのぞかせたり、実は意外なところに答えがあったりする、そういう展開が読者をひっぱるものだと思うんだ。
でもこの小説の中盤の展開はミステリー的展開になっていない。むしろ中盤はふつうのファンタジー小説になっている。要するにミステリー的な展開を書くのに作者が慣れてないだけだと思うんだが。

佐藤俊樹「世界を開く魔法」(『ファウスト』vol.5)
講談社
説明。この号の『ファウスト』では上遠野浩平特集をやっていた。
これは『殺竜事件』を中心とする上遠野浩平論。
感想:
むずかしい。舞城王太郎の話はわかるが、上遠野浩平の話はよくわからない。ファウスト読者はついていけてるんだろうか。
ところで上遠野浩平と魔法の話は以下のように言ってくれればわかるのだが、こういう話なんだろうか。
- 魔法の出てくる話(ファンタジー)というのはわれわれの世界と違う異世界が舞台だよね。
- 「異」世界が舞台であるがゆえに、魔法の出てくる話は、「(魔法の出てくる)この世界って何?」とか「(魔法のない)この世界って何?」とか、「世界って何?」系の問題に向かいがちだよ。
- ましてや上遠野浩平の小説では「隣り合う世界」がよく出てくるのだから、そういう傾向が強いよね。
- そういった感じで、あくまで世界の内側から、世界の別様可能性を探っていくようなストーリーに可能性を感じるよ。
うーん、ちょっとちがうかもしれない。あらすじを書いていたら、何となく内容はわかった。
可能世界論とか持ち出すと、もっとすっきりできるような話のような気もする(むしろ私の解釈が可能世界論に近よりすぎなだけかもしれないが)。
あと、いわゆる「セカイ系」の「セカイ」に対抗して、「ワタシ」って言ってるのだと思うが、「ワタシ」ってちょっとかっこわるくないか?
しかしこれは一応虚構論になっているのだな。もっと早く読めばよかった。
あらすじ:
1.魔法の論理学
魔法というのは不可能を可能にするものだよね。でも魔法ものでは魔法に制限をつけるのが大事だよ(ex.『鋼の錬金術師』の等価交換)。だから魔法ものは「可能」と「不可能」をめぐる話だよ。
これはミステリーと似てる。ミステリーは不可能な犯罪を合理的に解く話。だからやっぱり可能とか不可能とかの話になる。
2.呪文と叙述
ところで、魔法とミステリーはもうひとつの点でも似てる。
魔法は「言葉」と関係があるけど、ミステリーで言葉といえば、「叙述トリック」だよ。
叙述トリックというのはとんでもないもので、これをやると何でもありになっちゃう。でも、とんでもないものでも、すぐお約束になっちゃうから難しいよね。
3.「物語」の正体
ところで、叙述トリックを徹底的にやりまくることで、お約束を打ち破ろうとしたのが、舞城王太郎の『九十九十九』だったよね。ここから叙述トリック代表ということで、『九十九十九』の話をしよう。
『九十九十九』は聖書に似てる。新約聖書というのは、旧約の謎解きだった。しかも答えである福音書は複数用意されている。聖書は迷宮入りした叙述トリックだよ。
聖書を信じるプロテスタントと同じように、『九十九十九』には、「どこかに答え(神の言葉)が隠されている」という信念が感じられるよ。一見破壊的な『九十九十九』だけど、その裏には、「物語の外の真理を見たい(でも見れない)」という感覚があるんじゃないかな。
4.底無しの抜け方
つまり『九十九十九』は、「すべてを破壊して物語の外に出よう」という話ではなく、「破壊しても破壊しても物語の外に出られないよー。わーん」という話なんだ。
この「外に出たい! 出られない!」というのは地方都市出身者ならではの感覚だね。
あとミステリらしいと言えなくもないよね。
5.「事件」の構造
ところで、2では叙述トリックと魔法を比較したけど、ここから魔法代表ということで、上遠野浩平の話をしよう。
叙述トリックは作品世界の外の語り手を登場させる。でも魔法は物語の中にとどまるよ。魔法はむしろ、物語の中に法則外の存在(物語の外)を導入するんだ。
そうやってより大きな世界の法則へと進んでいくのが魔法物だね。上遠野浩平は魔法ミステリを描いたけど、これの特徴は、ミステリの謎が事件の謎だけではなく、世界の謎につながっていくことだよ。
6.可能(できる)と不可能(できない)の反転
上遠野浩平の魔法ミステリについて考えるために『殺竜事件』の話をするよ。
竜というのは定義からして絶対殺せないものだった。それを殺すんだから、こいつはとてつもない不可能犯罪だね。
つまり物語自体の構造をゆるがすような事件が問題になっているんだ。だけど、叙述トリックのように物語の外に出たりはしないよ。いわば、『殺竜事件』は、外に出ないで物語のはしっこを歩いていくような話だよ。
魔法もののおもしろさっていうのは、こういう風に、世界の内側で、世界の「別様可能性」を問うところにあるよね。
7.世界とワタシ
↑のように、世界の内側で、世界のエッジに触れるような人を、「ワタシ」と呼ぼう。上遠野浩平の小説には、よくこの「ワタシ」が出てくるよ。
8.「現実」と「虚構」
(この節はよくわからない。ちょっと解釈しすぎかもしれない)
上遠野浩平の「ワタシ」は、村上春樹とも加藤典洋ともセカイ系とも違うよ。
(以下書いてないけど補足
【補足 -- ここから --】
可能世界に関する議論で、こういうのがあるよね。
「もし君が身長2メートル以上だったら...」ってな会話をわれわれはよくするよね。この時、この会話は「君が2メートル以上である可能世界」を仮定しているわけだ。ところで、この「君」は現実の君とは別の物を指すんだろうか。そんなはずないよね。もしそうだったら意味が通じなくなるよね。
ということは、個人(など固有名によって呼ばれるもの)は複数の可能世界に横断的に存在するものだということになるよね。
つまり、複数の世界が「私」とかそういう個人の存在によって結ばれているのだと言えなくもないよね。
【補足 -- ここまで --】)
「現実なんてすべて虚構だ」っていうのはおかしいと思うんだ。
これは「こっちが現実」「あっちが虚構」というのを前提にした発言だ。
でも本当はむしろ、こっちから見るとあっちが虚構だったり、あっちから見るとこっちが虚構だったり、複数の世界が並行に隣り合うものなんじゃないか。
そんな風に、「虚構から見た現実の私」がいたり、「現実から見た虚構の私」がいたり、私を通じてつながる隣り合う世界があって、現実と虚構の境界は折り重なっているんだ。
上遠野浩平はそういう世界を描いているよね。
ところで、これは色んな問題にあてはまる話だよね。
例えば「大きな物語(普遍的で万人が共有する物語)はない」なんてことを言う人がいる。でもこれは「大きな物語はない」っていう大きな物語をつくってるだけだ。
あるいは「客観的な真理なんてない」っていうのも客観的な真理だよね。
9.竜の殺し方
じゃあどういう語り方をすればいいんだろう。わからないけど、中心のない複数のない世界を考えるってことは、その語り方を考えるってことなんじゃないか。
東浩紀も前の『ファウスト』でそういうことを考えていたよね。でも彼のルーマン解釈はいただけない。彼の言い方だと、ルーマンがコミュニケーションの概念で現代社会を説明しようとしたみたいになっちゃう。
そうじゃなくて、ルーマンも本当は、↑のような問題を考えた人なんだ。
ルーマンは「コミュニケーションの意味は、他のコミュニケーションとのつながりによって決まる」って言った。
(書いてないけど補足。
【補足 -- ここから --】
例えばこんな例がある。電車で席を立ったとき、そこに老人が座れば席をゆずったことになる。老人が気づかなければ、席をゆずったことにはならないかもしれない。こんな風に、そのあとどんな出来事がつながっていくかで、その出来事の意味自体が変わっていくんだ。
【補足 -- ここまで --】)
これは、何が虚構で何が現実かってことが、後から変わってしまうかもしれないっていう怖い話なんだ。
今ある出来事に、将来どんな出来事がつながるのかわからない。もしかしたら、そのせいで「今日の虚構が明日の現実」になるかもしれない。
案外そういったこと自体が「中心のない複数の世界」について一番教えてくれるのかもしれないね。
10.隣りあうこと
人っていうのは、何が起こるかわからない世界から目をそむけるために、安定した現実を想定しがちだよね。
ところでルーマンは「私たちは現実をマスメディアから知る。マスメディアが信用できないってことさえマスメディアから知るんだ」みたいなことを言っている。
これは「現実はマスメディアのつくった嘘ばっかりだ」という発言とは違うよ。
もう何が現実で何がつくられたものだか、わけがわからないくらい、「つくられたものかもしれない」という可能性に触れているってことだ。
上遠野浩平の、何が現実で何が虚構かってことがずれていくような多数世界は、こういう感覚をよく描いているよね。
あと、これって要するに「人のしたことが他の人のしたことにつながっていく」ってことだから、何かいいよね。
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』 (2009/07/14 6:48)