
上野修『スピノザ - 「無神論者」は宗教を肯定できるか』
シリーズ・哲学のエッセンス、日本放送出版協会
感想 ? :
「文法」という概念について考えたいなあと思っていたので読んだ。おもしろかったが文法概念についてわかったのかどうかは定かではない。
読んでるとき、偶然 id:shim ( http://d.hatena.ne.jp/shim/ ) に会ったので、前半の内容を解説してやった。shim は「敬虔の文法」を「プログラム」と言い換えて理解した。「プログラム」も悪くはないと思った。
「文法」について :
ちなみに文法概念とは私の理解では以下のようなものである。
小林秀雄「さまざまな意匠」には、「人は可能なことしか欲望できない。月に行くことを欲望することはできない」と書いてある。「月に行く」は今時可能なので欲望できるかもしれないが、『月を活け作りにすること』とか『月を太陽が木星すること』を欲望することはできない。「私は月を活け作りにしたい」とか「私は月を太陽が木星することをしたい」とか言われても、比喩的にとるのでなければ、そもそも意味がわからないし。文法的に不可能なことを欲望することはできない。
このように、欲望のような不定形(とされがちなもの)でさえ、文法的な「可能/不可能」によってあらかじめ制限されている。人が何を「欲望」できるかということは、「欲望」という概念の文法によってある程度は決定ずみである。
文法による制限は、物理的な制限とも倫理的な制限とも違った何か意味に関係のあるものである。
あらすじ:
前半:『神学・政治論』の神学ブロックについて。
スピノザの『神学・政治論』はヘンな本で、「聖書に書いてあることは嘘ばっかり」と言いつつ「でも聖書はあれでいいんだ」と言っている。
この矛盾について、「本当は聖書批判をしたかったのだが、弾圧を恐れたので後者の主張をつけたしたのだろう」と解釈する人もいる。でもそれはちがう。
当時聖書解釈の主流は、知識人の間でも、宗教者の間でも、「聖書はこの世界の真理を記した本だ」というものだった。宗教者は文字通りに聖書を信じようとするし、知識人は聖書の内容を比喩的に解釈することで、無理矢理聖書の内容を真理にしようとしていた。
しかしスピノザは、そうした聖書解釈を改めるべきだと言ったのだ(と本書は主張する)。つまり、聖書というのは、『敬虔』『信仰』するための文法を記した本だ。哲学的な真理について述べた本ではない。
だから『聖書』の記述は嘘ばかりでも別にかまわない。そもそも真理を書くことが目的ではないのだから。
後半:『神学・政治論』の政治ブロックについて。
『敬虔』の文法は隣人愛を含む。隣人愛とは「他人の権利を自分の権利と同じように守れ」。ここから国家の話になる。
スピノザ的には「ヘブライ神政国家」は共和国と同じ。なぜなら彼らの言う「神」は嘘の神なので、「神の命令に従おう」というのは「みんなの決めた決まりに従おう」という社会契約と同じになるから。
そんな感じでスピノザは共和国が信仰と全然矛盾しないことを証明した。でもそんなこと言われても誰も理解できなかった。
【目次】
- はじめに
- 第1章 『神学・政治論』は何をめぐっているのか オランダ共和国/デカルト主義者たちの不安/不敬虔という問題
- 第2章 敬虔の文法 解釈の狂気/真理条件から主張可能性条件へ/預言者の語り得たこと/普遍的信仰の教義/神学と哲学の分離──無関係の関係
- 第3章 文法とその外部 神学から政治論へ/最高権力の「最高」を構成する/敬虔の政治論的な文法/文法の外部/自由の擁護
- 第4章 『神学・政治論』の孤独 偽装された無神論?/三大詐欺師?/奇蹟と迷信/有徳の無神論者というパラドックス スピノザ小伝
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