東京大学出版会、1985
■ 感想
この本がすごくおもしろかった。
今後「おすすめの美学書を一冊」と誰かに聞かれたら(そんな機会はまずないのだが)、これを薦めることにしたい。
もちろん今から見ると議論が古い部分もあり、細かいことを言い出せばいろいろ気になる点もある。だいたい目次が悪い。結論が「愛のトポスとしての作品」かよ! そんなこと言われても! などと思ってしまう。
しかし、現在でも十分通用する鋭い指摘が多かった。対象を真摯にとらえるってこういうことかと、いささか感動したりもした。
何より、博学な著者なので、論旨に納得できなくても基本的に読んでるだけで勉強になるのだった。
■ 見どころ
第五章「作品のア・プリオリとしての解釈学的意志」についてだけ触れる。この章は大変おもしろかった。
p177-178
(エルナニは死んだ【とのことです】というセリフをひいて)
この報せに接して、ドン・リュイ・ゴメスは喜びに我を忘れ、ドニャ・ソルは深い絶望に沈む。だが客席にいる我々観客の方は、劇中のこの二人とは全く別の反応を示す。すなわち、小姓の言葉をきくと直ちに我々は、エルナニが無事であることを殆ど確信し、そして小姓の告げた「宿乞いの巡礼者」こそエルナニに相違ない、と考えるのである。何故このようなことになるのか。これが我々の探求の出発点となる事実である。
要するに「らしい」というひとつの言葉が、読者に対する暗示となりえるという話。
考えてみると、この論点がおもしろかった理由は2点ほどあったと思う。
1)ここで扱われている現象は、同じ言葉が「作中内人物」と「読者」に対し、それぞれ異なった意味を持つというもの。
ひとつの出来事が「作品内世界」と「読者との関係」という二つの層に分岐していく、というのがおもしろい。別の言い方をすると、ここで「作品内世界」と「読者との関係」という二つの層が互いに直行するように考えられている。つまり両者の関係が多少なりとも問われているわけで、そういう発想はあまり見たことがなかったので新鮮だった。
ここにかぎらずこの本は、問題を複数の層へと丁寧に解きほぐしていくような議論が多く、いちいち示唆に富んでいた。
2)ここで扱われている現象は、読者に対する直接的な指示(インストラクション)の問題である。
文学作品(あるいは広く作品)というのは、ふつうの会話などにくらべて間接的なコミュニケーションだとされる。そのことが例えば「自律性」という言葉で表現される。実際これ自体は正しい指摘だと思うのだが、一方で上のような現象は確かに存在する。
作品は読者に暗示することも、指示を与えることも、反対に読者をわざと誤誘導することもある。しかし、自律性を強調することによって、これらの現象自体が無視されてしまいがちである。
この辺りの問題はきちんと考えたいなあと思う。
3)まとめると、「相互作用としての作品」あるいはかっこよく、「インターフェイスとしての作品」みたいな感じか。
著者はこの後、ポール・グライスの協調の原理を持ち出し、この現象を検討しはじめる。つまり、会話と比較しながら読者と作品の関係を扱っているのだが、これもまたおもしろい。
よく知らないが、グライス以後会話の研究はすっごく進んでるんじゃないかと思うんだ。よく知らないが、関連性理論とかそういうのがあるそうじゃないか。会話分析の成果も無視できないだろうし。
知りたいのは、文学系でこの辺りの成果を踏まえた人っているのかなってこと。おそらく文学理論の最先端の人たちは、そんなことにも関心を持っているのではないかと思うのだが、いかんせんなかなか情報が入ってこないのがつらい。たとえばアメリカで読者反応批評の末裔たちが会話分析に出会ったりとか、そんな愉快な展開があるといいなあと思うのだけど。
とりあえず↓の本でも読んで考えてみよう。
■ 名言
だが考えてみなければならない、作家の人生とは作品を創りつづけることではないのか。一つ一つの作品の創造の準拠する論理が「すべてをすぐに」であるのならば、作品創造にささげられた作家の人生は、瞬間ごとに「すべてをすぐに」と繰り返し言い続けること以外に、どのような可能性があるのか。(…)創造的な藝術家でありつづけようと思うならば、絶えず繰り返しの誘惑を乗り越えてゆかなければならない。それがおそらく、藝術家であることの第一の条件である。多少の才能があれば、一度だけ面白い作品を作ることなら出来るかもしれない。しかしそれでは不十分である。藝術家であるということは、何度もすぐれた作品を書くことであり、従って、創造のたびに何らかの意味でそれまでの自己を超えてゆくことである。
藝術家テラコワス!
■ あらすじ
序:
序では作品について一般的に論じるよ。
一章:
世の中は自然と行為と作品の領域にわかれる。作品の特徴は「内部世界性」と「自律性」だよ。
二章:
最近「作品」概念はケチをつけられがちである。しかし彼らの主張を考慮しても上の定義はさほど変わらないよ。
第一部:
第一部では作品の構造を論じるよ。
三章:
演劇でいう「三統一の理論」をネタに、作品の「統一性」を論じるよ。作品の統一性は関心の統一性だよ。
四章:
(この章はよくわからない)
演劇でいう「デウス・エクス・マーキナ」をネタに、作品の「完結性」を論じるよ。ドラマの展開を考える上ではアリストテレスの「はじめ-中-終わり」概念が重要。これは作品の本質に属するよ。
五章:
作品と受け手の関係を問うよ。作品解釈について考えるときは、一般的意志と個別的意志をわけた方がよいよ。
六章:
作品と外部の物事の関係を問うよ。作品は外在的な物事をどんどん関連させていくよ。
第二部:
第二部では作品と作者について論じるよ。
七章:
作品と作者の関係を問うよ。基本的に作品は作者から独立したもの。作品に対する責任は、親が子供に感じる責任に似ているよ。
八章:
作品と人格は似ているが、違うよ。人格は創造的な主体だが、作品は完結した客体だよ。人生を作品にすることは傲慢だよ。
九章:
作品は作者を疎外するよ。そして最後には作品が作者の人格を構成するよ。まるで愛みたいだね。
■【目次】
- 序論 作品の哲学
- 第一章 作品存在とその哲学
- 1課題とその過去
- 2自然・行為・作品
- 3作品と人工品
- 第二章 現代藝術と作品の危機
- 1 開いた作品
- 2 作品概念の動揺(1)-パフォーマンスと作品
- 3 作品概念の動揺(2)-テクストと作品
- 4 作品概念の動揺(3)-オブジェと作品
- 本書の鳥瞰
- 第一章 作品存在とその哲学
- 第一部 作品の構造論
- 第三章 作品の構造論
- 序 統一性の理論
- 1 三統一の規則
- 2 時の統一
- 3 場所の統一
- 4 筋の統一
- 5 関心の統一
- 6 二つの作品概念
- 第四章 完結の技法としてのデウス・エクス・マーキナ
- 1 作品の完結性
- 2 デウス・エクス・マーキナの分類
- 3 エウリピデスにおけるデウス・エクス・マーキナ
- 4 終末論的成就としてのデウス・エクス・マーキナ
- 5 ばねとしてのデウス・エクス・マーキナ
- 結び デウス・エクス・マーキナによる終わりの類型とアリストテレス
- 第五章 作品のア・プリオリとしての解釈学的意志
- 1 メタ制作学としての作品の哲学
- 2 具体例と問題の所在
- 3 協力と関与性
- 4 意図と公理のレベル
- 5 公理系としての行動の論理
- 6 約束事と定理のレベル
- 7 制作学から解釈学へ
- 第六章 求心性と遠心性
- 1 開いた構造論
- 2 内と外の弁証法
- 3 暗示と引用
- 4 作品の歴史性と作者の責任
- 第三章 作品の構造論
- 第二部 作品の人間学
- 第七章 作者の権利
- 1 作者による作品支配
- 2 作者の意図
- 3 改作の権利
- 4 作品の歴史性と作者の責任
- 第八章 人格と作品
- 1 人と作品の相称的印象
- 2 二つの古典的理論
- a 表現説と因果律
- b 構成説と弁証法
- c 主体に対する行為と作品
- 3 作品を人格と見る体験
- 4 人格を作品とする意志
- a 自伝の試み
- b ダンディズム
- c 完成のための自殺
- 5 人格・行為・作品
- 第九章 作品とその影
- 1 創造行為の倫理学
- 2 『アンチゴーヌ』と作者の二重疎外(1) - 作者と観客
- 3 『アンチゴーヌ』と作者の二重疎外(2) - 作品と作者
- 4 『ベケット』と仮の道徳 - 美的なるものの批判
- 5 創造の類比 - 一つの弁証法的論理
- 6 芸術家の名誉 - 愛の受容
- 第七章 作者の権利
- 結び 愛のトポスとしての作品
- あとがき
