2007年2月
黙々と発表準備を進めるわたし。時間がない。
今日は、ちょっぴりブレイクスルーがあったので記録しておく。
フィクションの問題は、真偽の問題ではなく知識の問題だと考えることで、ずっと問題がすっきりするように思われた。だが、まだ考え中なのでこれ以上は詳述しない。
Thomas G. Pavel(著)
Harvard Univ Pr; Reprint版, 1989
アマゾンがないと言ったので丸善に注文してみた。
- 『名探偵の掟』
東野圭吾(著)
講談社文庫(講談社)、1999
記録するためにアマゾンを見たら1円で売ってたのでそっちで買えばよかったと思った。
- 『緋色の研究』
コナン・ドイル(著), 延原謙(著)
新潮社文庫(新潮社)、1953
これも1円で売ってる(泣)。どこでも売ってそうな本は新品では買わなくてもいいということか。
ホームズ・シリーズは各社から出ているが、新潮社文庫版の表紙が一番かわいらしくてよいと私は思う。
日能研、1998
文章題はフィクションであるという結論にいたりつつある。
売り上げで見るA地下バー10年のあゆみ
BLACK RIOT は某大学の地下で運営されているバーであった。ついに 10 周年を迎えたそうであった。
おもに某大関係者むけ。
某社の大変めんどうなエントリーシートを提出した。疲れた。
- シモーヌ・ヴェーユ「神への愛のために学校の勉強を活用することについての省察」『シモーヌ・ヴェーユ著作集〈4〉神を待ちのぞむ―ある修道者への手紙』
シモーヌ・ヴェーユの論文「神への愛のために学校の勉強を活用することについての省察」が達成動詞の特徴に基づく議論であることについて、という示せると誰がうれしいのかまったくわからない論点。
これは、ちょっと前にクルターの『心の社会的構成―ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』の、「理解」に関する文法違反についての議論を読んでいて、はたと気がついた。その時は、「ヴェーユの論文も、文法違反じゃん」と思ったのだが、今は気が変わってむしろ達成動詞に関する議論として (無理矢理) 読もうと思ってる。
ヴェーユのこの論文 (というかエッセイ) は、タイトルがおもしろい、という理由で前から結構好きだった。知り合いの神父の生徒のために書いたものであるらしい。
ヴェーユはここで、学校の勉強における理解が受動的なものであることに基づき、美しい筆致で、信仰の受動性と勉強との近さを描き出している。要するに、勉強と信仰は似てるから信仰のために勉強を役立てろって内容。
きわめて貴重な善は探すべきものではなくて、待つべきものだ。というのは、人はそれらを自分の力で見つけることはできないし、それらを探しはじめると、偽りの善にとらえられて、その偽りを識別できないことになるからだ。
(…)
こう考えると、すべての学校の勉強は秘蹟に似ている。
学校のすべての勉強には願望をもって、真理を探さずに、真理を待つ独特のやり方がある。解答を探さずに、真理を待つ独特のやり方がある。解答を探さずに幾何の問題の所与に注意し、意味を探さずにギリシア語のテキストの言葉に注意し、書いているときには、ただ不十分な言葉だけをしりぞけて、正しい言葉がひとりでにペンの下に出て来るのを待つのだ。
p77
で、何に気づいたのかというと、この受動性が単純に達成動詞の特徴だということである。
だから、「到着する」「勝つ」「負ける」「見える」「出会う」……etc. についても同じ議論を構成できてしまう。
わかりやすいのは「勝つ」の場合。勝利についてだって、「勝利を探さずに、勝利を待つ独特のやり方がある…云々」という議論が構成できる。「負ける」でももちろん同様。「見える」については、例えば立体視のやつが見えるかどうかについて、「見えを探さずに、見えを待つ独特のやり方がある…云々」と言えてしまう。
そして以上が何を示唆するかというと、ここで勉強とアナロジーされている (ヴェーユの重要概念であるところの) 「恩寵」についても同じことが言えるという点。つまり、恩寵は達成動詞なのである。
気づいたときは、「えー、がっかりー」と思ったが、むしろポジティブに考え、達成動詞はすべて「恩寵に似たもの」なのだと思い込むことにした。「勝つ」も「負ける」も「到着する」も「出会う」も、すべて信仰に似たものなのであり、神への愛を学ぶのに役立つのである。
ついでに新宿で勉強の本を。
ソール・A.クリプキ(著), 八木沢敬(訳), 野家啓一(訳)
産業図書、1985
実は持ってなかった。可能世界を使った議論の模範例ということで、軽く見ておこうかなあと。
- 『言語と行為』
J.L.オースティン(著), 坂本百大(訳)
大修館書店、1978
実は持ってなかった。こっちも軽く見ておこうかなあと。
高原脩(著), 林礼子(著), 林宅男(著)
勁草書房、2002
サール説を何とかしないと発表がまとまらない気がしてきたので今さら教科書を。会話分析の項目もあるみたい。
ルーマン・フォーラム「来年修論を出す人」の会・第二回勉強会
(M1 会ではなくなったので勝手に改名した)
可能世界意味論初等講座をやった後、「でもこれは必要ないという結論がでました」というと、「いらない部分を載せるのはどうか」と言われる。そりゃそうだとわれながら思った。せっかく勉強したからアウトプットしたかったのだが、そんな理由で修論に載せてはいけないわな。よくよく考えると当たり前のことだが、こういうのは自分ではなかなか踏み切れないので、われに返る機会があってよかった。
「日本の古本屋」にて。
日本の古本屋は雑誌のバックナンバーが比較的見つけやすいと気づく。
- 雑誌「現代思想」vol.23-04
青土社、1995/4
「可能世界/固有名」
- 雑誌「ユリイカ」vol.21-09
青土社、1989/7
「G・K・チェスタトン ―ブラウン神父の世界観」
ウィリアム・エンプソン(著), William Empson(原著), 岩崎宗治(訳)
岩波文庫(岩波書店)、2006
数日前に買って、カウントし忘れていた。上は出たときに買ったけど、下を持ってなかった。
- 雑誌「STUDIO VOICE」vol.374
「「80's カルチャー」総括!」
80年代特集。
ぱらぱら見たが、いまいちな印象。なぜ今80年代なのかというテーマ設定が、ライター群に共有されていないように見える。資料・調査にも突出したものはなさげ。
ハスミン
蓮實重彦(著)
青土社、2006
- エンマ・ボヴァリーとリチャード・ニクソン
- 「『赤』の誘惑をめぐって」
2つの論考のみ目を通す。
なお、「フィクション」をめぐっては、来年二月に刊行予定の『「赤」の誘惑――フィクション論序説』(新潮社)により詳細な議論が展開されることになるだろう。
p365
予告篇だった YO!
ちなみに発売は3月末になったらしい。
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refBook=978-4-10-304351-5&Sza_id=MM
感想。
小説も哲学論文も関係なく、「赤」というテーマでテーマ論的に横断してしまうハスミンには、「テクスト」概念があればよかったのであって、「フィクション」の概念はまったく必要なかったのではないかと思った。タイトルも対象も、「フィクション」とか「フィクション論」になっているのに、フィクション概念が論考中で何の役割も果たしていない。
↓ハスミン先生はなんでわざわざフィクションを論じようと思ったのかと探していたら、こんなインタビューを見つけた。
http://www.flowerwild.net/2006/12/2006-12-04_102306.php
──どうして今、フィクションという主題で書こうと思われたのですか。
蓮實:ひとつには、いまいったように、まだまとめきれずにいる『「ボヴァリー夫人」論』を完成するにあたってフィクションというものを近代の散文の一形式としてどうしてもおさえておかなければいけないという意識がありました。それには、ミシェル・フーコーのいう「近代」における言語の露呈との関係で「近代小説」をとらえざるをえないということなのですが、現在のフロベール研究はそうした視点を重視してはおらず、かろうじて、局外者のジャック・ランシエールがその種の視点に立っている。言語の露呈とフィクションとの関係を結果としてうまくおさえられたかどうかはわかりませんが、多くの西欧の理論家たちがフィクションを論ずると、論ずる主体が無意識のうちにフィクション化していく。論ずる主体がフィクション化していくってことは、ほとんど自分の言葉を語ることができず、言葉に語らされることで主体が希薄化していくということです。アメリカの言語哲学者のほとんど全員がそれにあてはまっている。それと、いまは「可能世界論」的なフィクション論が盛んなんですが、そうした視点からフィクションを論じようとするひとの大半は、論じている作品が読めていないってことがはっきりとわかる。語っているひとたちは間違いなく存在しているにも関わらず、彼らの言説は対象を欠き、ほとんど存在していないかのような曖昧なものになっていく。ですから、「フィクション論者のフィクション化論」というような話になります(笑)。
「論じている作品が読めていないってことがはっきりとわかる。」
これ、論考のなかでも同じことを言っていた。
すでに見たように、彼らの大半は文学作品の「有名性」に依存しており、テクストを読むことに関しては、「素人」の域を出るものではないからである。
p288
ハスミンが「フィクション」を論じつつ、ここでは読まれる対象が「作品」、「テクスト」となっていることに注意しよう。
私は「フィクション」論のいいところ(の一部)は、すごい読みじゃなくてふつうの人の読みをあつかったところだと思う。「作品」とか「テクスト」という概念と違って、フィクションという概念のいいところは、それが文学的でも何でもない、すごくふつうの概念であるところだと思う。
それに対しハスミンの論考は、ハスミンがあくまでも作品とテクストの人であって、フィクションの人ではないということを劇的に示していて、おもしろいと思った。この辺の対照化はもうちょっとうまく言えそうだが、なかなかむずかしい。
マリー=ロール・ライアン(著), Marie‐Laure Ryan(原著), 岩松正洋(訳)
水声社、2006
前半は虚構論、後半は物語理論。後半の方がおもしろいと見た。しかし物語理論は後回しにする。
いくらか検討した結果、この著者はおそらく可能世界という概念があまりよくわかっていないのだという結論に達した。
簡単にメモ書きしておく。
一番あやしいのは認識に関する可能世界や、義務に関する可能世界や、物語の展開に関する可能世界などなどを同時に与えているところ。「物語は、義務に関する可能世界や認識に関する可能世界...などからなる」と言っているように見える。これはおかしい。これは「人間は、男と女、子供と老人、20歳以上と20歳未満、50歳以上と50歳未満、本州に住む人とそれ以外に住む人などなどからなる」という発言と同じくらいあやしげな表現。つまり、同時に使ってはいけないカテゴリーを同時に使っている。
可能世界意味論は、義務の分析にも、認識の分析にも、物語の展開に関する分析にも、それぞれ使えるものであるが、だからと言って、それらの可能世界を同時に与える必要はない。必要はないどころか、同時に与えてはいけないのだ。なぜなら、「認識の分析に使われる可能世界」、「義務の分析に使われる可能世界」などなどは全部まったく異なったものであり、それぞれまったく違ったフレームを持つのであるから。
この本自体はいい本だと思うけど、「可能世界」をタイトルに関した文学理論書でもこのくらいのもんであるということで私は安心したのだった。
ライアン本1章
マリー=ロール・ライアン(著), Marie‐Laure Ryan(原著), 岩松正洋(訳)
水声社、2006
- 1 虚構の中心移動
読み直し。様相論の基礎を勉強してから読み直すとやはりまったく印象がちがう。
とりあえず1章。
これホントは「可能世界」概念なくてもいいんじゃないだろうか。著者は「テクスト宇宙がたくさんの可能世界からなる」と言うが、それって要するに「テクスト宇宙」と「可能世界」という2つの概念が互いに独立したものだというだけの話だろう。もともと関係ない話がいろいろ混ざっているために、余計にややこしいことになっているように見える。
著者のあげる方針は、まとめると「可能世界概念はわりと役立つ」けど「可能世界を虚構性の分析【には】使わない」ということだろう。その辺がわからないと激しく混乱すると思われる。というか私が混乱していた。
1章でかかげられた方針は解きほぐすと以下のようになるはず。
- 認識・様相について。
- 可能世界は従来通り、様相(必然/可能)や認識の分析に使いましょう。
- エーコその他がやったように、小説内における可能性の分析や認識の分析に使うならば、可能世界の概念は有益なものです。
- 可能世界は従来通り、様相(必然/可能)や認識の分析に使いましょう。
- 虚構性について
- 可能世界=虚構世界ではありません。
- しかし、「現実に actual」が指標的 [indexical] な語だというルイスの指摘は、虚構性の分析に役立ちます。
- 虚構とは、「『現実に』の指示先が変わること」、すなわち「中心移動」です。
- 虚構に関する言説について
- ルイスらの言うとおり、虚構作品に関する言説の真理条件を定義するために可能世界を使ってもいいのかもしれません。
- 「可能世界概念を、虚構作品における認識・様相の分析に使う」
- 「虚構性を、中心移動によって定義する」
- 「虚構作品に関する命題の真理条件を可能世界概念によって分析する」
この3つは完全に独立した話なので、混ぜるのは混乱のもと。
ただしバラバラにでてくるなら、どれもまともな方針だと思う。
訳について。
基本的には読みやすいよい訳だ。
豆知識。訳者さんの裏の顔は『文藝ガーリッシュ』。
千野帽子(著)
河出書房新社、2006
ただし数学用語の訳はすこしあやしい。
「秩序づけられた三重対」
p39
原文は見てないが、これは数学用語の「順序3組」だと思われる。
今日はいっぱい論文をコピーして疲れた。
一度にひとつのことしかできないのは私の悪い癖なので勉強をはじめると、あせって勉強ばかりしてしまう。のはよくないので、ほかのことをしようと思ったのでこの本を読んだ。
安藤弘一(著)
ビジネス社、2006
面接やエントリーシートにおいては、ビジネスパーソンとしてのセンスとマインドを持っていることをアピールしなければならないと感じた。
また就職活動っぽい文体を即興で作り出す練習をすべきだと感じた。
私の長所は夢中になってひとつのことに打ち込める点です。学生時代は勉強のほかに youtube に打ち込み、毎朝必ず2時間以上 youtube の動画を見ていました。ところが、あるとき友人に視野を広く持つように指摘され、ひとつのことに集中するだけではいけないと気がつきました。
広い視野をもって物事を比較し、さまざまな選択肢を受け入れていくことは社会人にとってなくてはならない能力だと考えます。そこで友人の薦めにしたがい、youtube にくわえてニコニコ動画も頻繁にみるようになりました。youtube とニコニコ動画を比較検討して楽しむ機会をえたことは幸いでしたが、何よりも視野を広く持つことの大切さを知ることができたのが貴重な体験でした。これからも積極的に周りの意見をとりいれ、多様な選択肢を受け入れる度量をもつようつとめたいと考えます。
疲れたので一個だけ。
メモ。
- 『可能世界の心理』
ジェローム・S. ブルーナー(著), Jerome S. Bruner(原著), 田中一彦(訳)
みすず書房、1998
ブルーナーは1950年代から60年代にかけて起こった認知革命の火付け役として知られ、思考研究や乳児研究においても常に時代をリードしてきた。しかしその後立場を変え、認知科学の動向にむしろ批判的になる。本書はその新しい立脚点と眺望を示す論文集。ネルソン・グッドマンの「構築主義」を手がかりに、一個別科学を超え、ギアーツの人類学、バルトの文学批評、ヴィゴツキーの言語学などと手を携えた文化心理学へと深まった。文字通り、心理学に新しい地平を拓いた、意欲あふれる一冊。
サッチマン『プランと状況的行為』の参考文献にあがっていた。
以下は買った本。
R.C. ホルブ(著), 鈴木聡(訳)
勁草書房、1986
受容美学のその後の展開が紹介されているらしい。
メモしようと思ったら、マーケットプレイスに出てたので買った。
飯田「可能世界」
- 飯田隆「可能世界」
(『新・岩波講座 哲学 (7) - トポス・空間・時間』岩波書店、1985)
■ あらすじ
可能世界の概念とともに、「必然性」「偶然性」「現実性」「本質的」「偶有的」など、伝統的形而上学の概念が分析哲学に復活したのでびっくり。本稿ではこの可能世界概念の紹介と検討を行うよ。
可能世界は様相を説明するのに確かに役立つね。多くの哲学者は、「これはただの説明のためのおとぎ話で」と言いながらおとぎ話を説明に使ってしまう。
しかし、現実には存在しない可能世界が存在するということは矛盾ではないだろうか。
可能世界の概念を採用する哲学者たちは、この矛盾をどう解決するかによって、「可能主義」「現実主義」の二つに分かれるよ。
(1)可能主義
可能主義というのは、可能世界は存在するし、現実世界と同種のものであるという説だよ。代表的な論者はデヴィッド・ルイスだよ。
この説が出会う難点は次の通り。
可能主義は、ある個体がどの世界に属するかをどうやって決めるのか提示できていない。たとえば、この現実世界のなかに、たがいに物理的に触れ得ない複数の宇宙が存在することがありうる。SF でいう平行宇宙などがこれにあたる。可能世界はこのような複数の宇宙とどう違うのか。それを言わなければ、可能世界の存在を主張する説が、「現実世界に関する特殊な主張」に堕してしまうだろう。
(2)現実主義
現実主義というのは、可能世界は存在せず、現実世界だけが存在するという説だよ。現実主義者にとって可能世界はただのお話なのだから、現実世界に存在する部品だけによって可能世界を構成できると言わなければならないよ。
可能世界を構成する部品として、「文または文の集合」「命題や性質のような抽象的存在者」「現実世界の基本的構成要素の組み換えによって得られる配置」があげられてきた。
しかし全部失敗したよ。難点は、この方向でいくと、いくつかの可能世界を排除しなければならなくなること。また、説明すべき「可能性」の概念を使わずにこの種の話をすることが非常に困難だからだよ。
以上のように、可能主義、現実主義どちらも困難におちいる。可能世界によって様相概念が説明できるという仮定そのものがおかしかったのではないだろうか。
本稿の提案は、可能世界が様相の分析に役立ったことは認めつつ、可能世界による意味の理論を断念しようということだよ。様相概念が十分明確化されるならば、様相以外の概念によって様相を説明する必要は必ずしもないはずだよ。その実現は、今後の課題としたい。
■ コメント
著者自身も言うとおり、いくつかの論点は追加されているものの、↓の本の構成はほとんどこの論文と同じ。ただし本の方がどの論点もずっと丁寧なので、とてもためになった。のでこの論文を読んでから本を読むのがよいのではないかと思った。
飯田隆(著)
勁草書房、1995
- 佐々木健一「虚構と真」
(『新・岩波講座 哲学 (3) - 記号・論理・メタファー』)
■ あらすじ
虚構と真はとくに矛盾せず、実は相性がよいことを示す。
虚構の研究として分析哲学における虚構文の研究がある。ここではビアズレー、ウェイツ、サールのものを紹介する。これらはそれなりにおもしろいが、文を単位とするのは、虚構作品の研究としてはよろしくない。ので文をこえたレベルで考えてみよう。虚構作品の本質として「プロットの虚構性」「メタレベルの信」「中間の位相」ということをあげる。
1)虚構の作品において虚構なのは、登場人物およびその行動である。すなわちプロットの虚構性が作品を虚構たらしめるといえる。
2)次に、実話と虚構をわけるのは、テキストに対するメタレベルの信である。すなわち、テキストを読む以前の了解によって虚構かどうかが決まると言えよう。
3)しかしもっと内容に即して考えてみよう。プルーストの『失われた時をもとめて』には、パリと架空の田舎町コンブレーが出てくる。一方、架空の首都と実在の田舎町が出てくるような虚構作品というのは考えがたい。ここから振り返って考えるに、ある程度の時と場所まではわかるが、日付と番地までは特定されないというような中間の位相が虚構の本質なのである。
つぎに虚構作品における報告文について考えてみよう。小説内の報告文はふつうの報告文とは文体からして相当ちがっている。このちがいは結局小説内の報告文が、個性的な把握でありながら、その報告を事実そのものとして提示するということによっている。このような事態について考えるには「真」の概念を考え直す必要があろう。
真という語の語法に注目してみよう。「P」と発話することは、「P は真だ」を含意するが、含意するのと「P は真である」と言うのとはちがう。われわれが「P は真だ」と言うのは、「P」の真偽が曖昧である場合にかぎられる。すなわち「真」とは、「今まで信じられていなかったことを発見しておどろく」というできごと的なものであり、価値的なコミットなのである。
真をこのように考えるなら、それが虚構と矛盾することはない。個性的な把握を事実として提示するという虚構の特性は、存在を真として与えることなのである。
■ 感想
「真」概念の分析はおもしろいが、虚構と矛盾しないのなら、はじめから「真」概念はいらないのではないかと思った。
「中間の位相」は、言い方はちょっとひっかかるがおもしろい。確かに「架空の首都と実在の田舎町」という組み合わせはヘンだ。なぜヘンなのか、もう少し考えてみてもいいような。
エスノメソロジー系の本と言語哲学系の本を交互に読んでいくとなかなか楽しいことがわかった。とりわけ以下の2つの部分はきれいに対照を描いていておもしろい。
『プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性』
ルーシー・A. サッチマン(著), Lucy A. Suchman (原著), 佐伯胖(訳), 水川喜文(訳), 上野直樹(訳), 鈴木栄幸(訳)
産業図書、1999
表現の意味はいつも実際にいわれていることをこえているゆえに、表現の解釈はその慣習的な、あるいは定義的な意味やある前提の集まりだけではなく、語られないその使用状況にも依存している。(…)哲学者は、この事実を命題の真理条件にかかわる問題であると思い込んでいた。つまり、ある主張が真である条件は、常に背景に関係しており、そしてこの背景は文そのものの意味内容の一部を形成しているわけではないとしていたのである(Searle, 1979)。さらに、原理にかかわることとして言語哲学者を悩ませてきた同じ問題は、いま認知科学者にとっての実践的問題になっている。(…)背景の仮定を意味内容としての叙述に含めようという実際の試みは、しかしながら与えられた叙述の基礎にある仮定の定まった集合はないという事実に遭遇した。結果として、背景的仮定の精緻化は、基本的にその都度なされるものであり、また恣意的なものなのである。そして、原則として仮定のそれぞれの精緻化は、精緻化されるべきさらなる仮定を無限に導入するのである。
邦訳p59-60
背景の仮定を列挙するのは無理ですよ。
パースは、サインの意味がそれが指示する出来事や対象に依存しているだけではなく、サインが実際、指示対象の構成要素であることを"インデックス"という言葉で表した。それで、状況に埋め込まれた言語は、より一般的にはその使用状況に係留されているだけではなく、大いにその使用状況を構成しているのである。エスノメソドロジーはこの言語の構成的機能をさらに行為にまで一般化する。(…)「"文脈一般"なる概念が存在しないだけではなく、例外なくすべての"文脈"の使用はそれ自体本質的にインデックス的であるとしたならば、文脈的行為 (action-in-context) の分析可能性をもたらすのは、まさにこれらの実践なのである」(Garfinkel, 1967; p.10)
邦訳p61
言語(および行為)は文脈に依存するだけでなく、文脈を構成しますよ。
意図の形式を一組の必要十分な観察データで正確に定義できるような、文脈と独立した何らかの行動の意図を認定するための論理の公式は存在しないし、また特定の文脈の固有事実を行動の記述に結びつけるような認識アルゴリズムなるものもない(Coulter, 1983; pp. 162-163 を見よ)。
行為の解釈のための普遍的ルールが存在しないとすると、エスノメソドロジーのプログラムは、特定の状況におけるドキュメンタリー的方法の使用を研究し、また記述することである。
邦訳 p63
だから、むしろ特定の状況から出発し、そこにおける方法を記述しましょう。
一方、この本いわく、
飯田隆(著)
勁草書房、1995
モンターギュの例がひとつの典型とみなせるが、自然言語に対する論理学者・哲学者の態度は、一九六〇年代から一九七〇年代にかけて大きく変わった。それにはいくつかの要因が挙げられるが、そのひとつは、様相論理の意味論をはじめとする、標準的論理以外のさまざまな論理に関する研究が、一九六〇年代以降いっせいに開花したことである。これらの研究は、形式意味論、もっと限定して言えば、モデル論と呼ばれる分野に属する。形式的取り扱いを拒否すると考えられていた自然言語の特徴、とくに文脈依存性が、非標準的論理の意味論において開発された手法のもとで手なずけることができることの発見は、なかでも重要である。この成功に気を良くして、自然言語の「論理的欠陥」の現れとして、これまでの論理学では意識的に排除されてきた特徴を、形式的に扱おうとする試みがさまざまになされた。たとえば、非形式論理学の必要性の根拠としてライルが挙げた表現のほとんどすえてが、こうした形式的取り扱いの対象となった*。そして、こうした発展のいわば頂点にあるのが、モンターギュ文法である。
* Cf. N.U.Salmon, Reference and Essence. pp.26f.
p173-174
(強調はわたし)
EM のひとたちは、「文脈の形式化は無理」だが、「形式化できなくても別に困らん」という言ってるように見える。他方、ある種の哲学者(および言語学者)が、形式論理を拡張して文脈的要素を扱おうとするのは、「文脈を形式的にあつかえないと困る」とおそらく思っているからなのだろう。
いうなれば、「特定の状況から出発し、そこにおける雑多な論理と方法をとらえようとする人々」と、「形式論理の拡張によって個別の状況にせまろうとする人々」となるのか。両者の中間にライル(と、たぶんウィトゲンシュタイン)がいるというのもなかなかおもしろいことである。
どちらの人々についても初学者以上の者ではない私には、これ以上あまり何も言えないのが歯がゆいところだが。後者に関して素朴に疑問なのは、「拡張しすぎると結局日常言語になるのでは?」というか「日常言語になるまで拡張しないのならば、結局、出てきた論理を個別の状況とどう関係づけるのかという問題が生じるのではないか?」という点。この点については結局勉強するしかないのだろうけど、とりあえずメモしておく。
本を買いすぎる男参上。
以下は近所の新刊書店にて購入。
『エンターテイメント映画の文法―ヒットを約束する脚本からカメラワークまで』
純丘曜彰(著)
フィルムアート社、2005
研究の必要上、この手の本はもっと読むべきだと感じているのだが、どうしても後回しになってしまう。願わくば3月までに理論的な部分の結構をまとめ、4月からはネタ探しに奔走できるようにしたいのだが。
以下五冊は古書店にて。
西垣通(著)
筑摩書房、1990
立松弘孝(訳)
みすず書房、1965
- 『情報』
川合慧(編)
東京大学出版会、2006
ミルン(著)、三輪滋、神宮輝夫(訳)
あかね書房、1964
- 『ふしぎな足音 - 少年少女世界推理文学全集 No.5』
チェスタートン(著)、前川康男(訳)
あかね書房、1964
チェスタートンの方はアマゾンになかった。
小笠原正仁(著)
明石書店、2001
これも古本屋で買った。
5日くらい前に CD をツタヤに返さないといけなかったらしいが、忘れていた。結構なお金を払わされたのだが、これはどう考えても無駄な出費だったので反省。
図書館でもよく返し忘れるので、なんとかせねばならない。これからものをレンタルしたときは、じぶんにメールをして、返すまで未読箱に入れておくことにする(←ライフハック)。
W(ダブルユー) "Robo Kiss"
意味もなく貼っておくが、この曲が好きだ。
「すきすきす キスはわかるわ/すきすきす ロボットだっても」のとことか。
ロボットがでてくれば何でも好きなんじゃないかという気もしないでもない。
たとえば、以前も貼ったが、榊原郁恵の "ROBOT" という曲が本当に好きだ。
http://www.youtube.com/watch?v=lnEOveMAsWc
(なぜか18禁になっているので youtube のアカウントがないとみれない)
アシモフは、ロボットものの小説には2種類あると言った。ひとつはロボットが人間に復讐する「脅威としてのロボット」だ。フランケンシュタインや、チャペックの『R.U.R』など、ロボットの恐怖を描いた、古典的なロボットものの多くがこれにあたる。もうひとつは人間に忠実なロボットの哀歌である「哀れなものとしてのロボット」だ。ロボット版忠犬ハチ公といってもいい。悲しきヒーローである鉄腕アトムなんかはこっちなんじゃないかと思う。
榊原郁恵の曲は後者だ。そして私は哀れなものとしてのロボットストーリーが致命的に好きなのだと思う。アイドルが自分を忠実すぎる哀れなロボットになぞらえて歌う、というこの曲の倒錯した部分も含めて好きだ。しかし、「このこころーもてあしーもおもうままにうごくわー」と、うら若きアイドルたちが水着でロボットダンスを踊るこのビデオの倒錯っぷりは尋常じゃあない。頭がくるくるするやばさだ。
書いてから気づいたが、前半のレンタル CD の話とロボットはなにも関係がなかったな。
John Woods(著)
Walter De Gruyter Inc, 1974
買った?
紀伊国屋のサイトで。届くかどうかわからない系。
"Verbal Icon Studies in the Meaning of Poetry"
William K. Wimsatt(著)
Univ Pr of Kentucky, 1967
マーケットプレイスで購入。「意図への誤信」が入ってる本。
いわゆるニュークリ(ニュークリティシズム)系。
今、コピーしにいきます
メモ。じぶん用。
○は図書館にあるもの。
追記:
図書館しまってた...。
- 西阪仰「普遍的語用論の周縁」○
『ハーバーマスと現代』
新評論, 1987
- 「参与フレームの身体的組織化」○
『社会学評論』43(1)
1992
- 「現代思想」○
1995/4
「可能世界/固有名」特集
- 「信念のパズル」○
Saul Kripke 著 ; 信原 幸弘 訳解説
「現代思想」
1989/03
「他者とは何か--コミュニケーションと意味」特集
- 飯田隆『虚構世界の存在論』書評○
「科学哲学」vol.29
理想社、1996
- "The Possible and the actual : readings in the metaphysics of modality"
ed. Loux, Michael J.
Cornell University Press, 1979
- "Reference and modality"○
ed. Linsky, Leonard
Oxford University Press, 1971
- 戸田山和久「ウィトゲンシュタイン的科学論」○
新田義弘編
岩波書店、1994
- 安川一「"ヴィジュアル"の"わかりづらさ"――ヴィジュアル表現の社会学へ(上)――」○
『言語』27(8): 10-16.
大修館書店、1998
- 安川一「"わかりやすさ"の陥穽――ヴィジュアル表現の社会学へ(中)――」○
『言語』27(9): 10-15.
大修館書店、1998
- 安川一「ヴィジュアル文化の読み解き方――ヴィジュアル表現の社会学へ(下)――」○
『言語』27(10): 10-15.
大修館書店、1998c
- 安川一「マンガの情景――ヴィジュアルの循環――」○
『メディアの現在形』
香内三郎(著), 広瀬英彦(著), 安川一(著), 林利隆(著), 真鍋一史(著), 花田達朗(著), 小玉美意子(著), 山本武利(著), 吉見俊哉(著), 田村穣生(著), 古賀豊(著)
新曜社、1993
- 前田泰樹「行為の記述・動機の帰属・実践の編成」○
『社会学評論』56(3)
2005
本を買いすぎる男参上!
古本屋にて。
- 雑誌「現代思想」vol.18-3
1990/3、青土社
「ロボット - 思考なき知性」
- 雑誌「現代思想」vol.22-12
1994/10、青土社
「天使というメディア」
鈴村和成
洋泉社、1991
単行本扱いになっているようだが、見た目は雑誌だった。
■ de re
「de re 様相 (でれようそう)」と「ツンデレ」を絡めて何か (一発ネタ的なギャグが) 言えないかと思ったが、念のために検索したらすでに言われていたので残念だった。
でもせっかくだから復習ついでに書いておく(←おぼえたばかりの言葉を使いたくてしかたがない男参上)。
述語「T(x)」を「x がツンデレである」とする。
「∀x□T(x)」は「すべての x について、ツンデレであることが必然である」。
「□∀xT(x)」は「すべての x がツンデレであることが必然である」。
前者の場合、必然は「ツンデレ」という「性質」にかかっているので、これを de re (事柄についての) 様相と呼ぶ。後者の場合、必然は「x がツンデレである」という「文」にかかっているので、これを de dicto (語られたことについての) 様相と呼ぶ。
可能世界論の文脈ではこの二者がそれぞれ、以下のように言い換えられる。
「この世界に存在するすべての x は、この世界から到達可能なすべての世界において、ツンデレである」
「すべての到達可能な世界において、すべての x はツンデレである」
問題を引き起こしやすいのは、前者のような de re 型の文。ここでは、「この世界に存在する個体が」「ほかの世界において」、ツンデレという性質を持つかどうかが問題になっている。そのため「ひとつの個体が複数の世界に属しうるか」という貫世界的同定の可否が争点になる。当然ながら、貫世界的同定を認めるかどうかによって文の真偽も変わる。
ちなみに、三浦『虚構世界の存在論』では、「虚構のキャラクターが複数の世界にまたがって存在しうる」という説を「de re 説」、「複数の世界に応じて、複数の虚構キャラクターが存在する」という説を「de dicto 説」と呼んでいた。
だから、ツンデレが複数の世界にまたがって存在するならば、「ツンデレが de re 的に存在する」(べ、べつにアンタのために貫世界的に存在するんじゃないんだからね!)。
■ カリスマ
「カリスマ店員」、「カリスマ保険員」などの用法にならって、めざましい活躍をし、ほかの同業者のあこがれであるような独裁者のことを「カリスマ独裁者」と呼んだら(本末転倒気味で)いいのではないだろうか。同様に、全世界の教祖の憧れの対象である教祖のことを「カリスマ教祖」と呼ぶことにしたい。たとえば、釈迦やキリストはカリスマ教祖である。
- 『文学的芸術作品』
ローマン・インガルデン(著), 滝内槙雄(訳), 細井雄介(訳)
勁草書房、1998
いずれ必要になりそうだったので買った。Amazon マーケットプレイスにて購入。
以下3冊は古本屋で買った。
- 雑誌「ku:nel」vol.11
2005、マガジンハウス
「ミシンで、だだだ。」
- 雑誌「大航海」vol.48
2003、新書館
「会社とは何か?」
- 雑誌「デザインの現場」vol.16
1999、美術出版社
「文字を組む。」
よく見ると「大航海」には、"DANCE MAGAZINE 別冊" と書いてある。そういう位置づけだったのか。
あとこれも最近知った知識だが、クウネル系の雑誌のことを「ほっこり系」というらしい。2ch にスレもたってた。そのスレによるとワンカップ大関がほっこり系らしい。
ちらっと見ただけだから違うかもしれないけど、
ワンカップ大関のCMもほっこりテイストになってたような。
空いたワンカップに何かの道具か花かいれて、横で縫い物してるみたいな。
カップ酒ブームとは言ってもなあ。パンダや鹿の絵柄のならともかく。
いや、あの質実なデザインだからいいのか。
もうわけわからんなw
ワンカップ大関がほっこり系でいいなら、私も積極的にほっこり系を名乗っていこうと思った。
三浦俊彦『可能世界の哲学』
三浦俊彦(著)
NHK ブックス (日本放送出版協会)、1997
* 目次
- 序 「何でもあり」の世界観~可能世界へようこそ
- 第1章 可能世界に何ができるのか
- 第1節 哲学と様相
- 第2節 様相と量化
- 第3節 「もしもかりに...」
- 第4節 法則と因果
- 第5節 意味と外延
- 第6節 虚構と価値判断
- 第2章 可能世界のネットワーク
- 第7節 飽和する世界
- 第8節 到達できる世界、できない世界
- 第9節 現われては消える個体
- 第10節 諸世界を貫く個体
- 第11節 名指される個体
- 第3章 可能世界とは何なのか
- 第12節 クリプキ型とルイス型
- 第13節 可能主義―有りうるものは有る
- 第14節 様相主義―悪循環の患い
- 第15節 自然主義―神の心か、時空点か
- 第16節 現実主義の限界
- 第17節 虚構主義―実用という真理
- 第4章 可能世界は本当に有るのか
- 第18節 カミソリを研ぎすませ
- 第19節 帰納法を正当化せよ
- 第20節 ニヒリズムを回避せよ
- 第21節 平行宇宙を分離せよ
- 第22節 世界の個数を決定せよ
- 第5章 自然科学と可能世界
- 第23節 なぜ、量子の揺らぎが
- 第24節 なぜ、この宇宙に生命が
- 第25節 なぜ、「この宇宙」なのか
- 第26節 なぜ、あなたは存在するのか
- 第6章 可能世界の外側
- 第27節 不可能世界?
- 第28節 哲学的必然性?
- 第29節 無限個の論理空間?
- 第30節 混沌の中の意識?
- 付 可能世界ブックガイド
- あとがき
■ あらすじ
「必然」とか「可能」といったことを様相と呼ぶよ。必然とか可能を扱う論理学のジャンルが様相論理だよ。哲学は昔から、必然性とか可能性に関心を抱いてきたけどいまだにどう扱ってよいのかよくわからないんだよ。
でも可能世界を持ち出すと、様相を量化(「すべてのX」とか「あるX」とか)と同じ仕方で扱えるようになるよ。「Pが必然」とは「すべての可能世界でPが成り立つ」という意味だよ。「Pが可能」とは「Pが成り立つ世界が存在する」という意味だよ。量化は論理学では昔からおなじみのものなので、こんな風に変換できるとすごくうれしい。ほかにも、可能世界の概念はいろんな議論を整理するのに役立つ。反実仮想の分析にも使えるし、命題や法則や性質の定義にも使える。
「必然的に可能である」とか「可能的に必然である」とか二重の様相をどう扱うかというのは昔から難問だったよ。でも、可能世界と複数の世界の到達関係を持ち込むとそれもすっきり整理できるよ。到達関係がどうなっているかに応じて、様相論理には5つの公理系があるよ。
可能世界というものがそもそも何なのか、というのは難しい問題で結論が出ていないよ。可能世界は本当にあるっていう人もいるし、ただのお話だよという人もいるよ。どの立場にもそれなりに難しい点があるよ。可能世界は本当にあるという主張は一見とっぴなようだけど、意外と反論するのがむずかしい説だよ。
可能世界がおもしろいのは、すべての恣意性をそれで説明できることだよ。たとえば人間原理というのがあるよね。「複数の物理法則その他が少しでもちがっていれば人間は生まれ得なかった。にもかかわらず、どうしてこの宇宙では人間のような生命体が生まれたのか」といった感じの説だね。可能世界を使うとこれにあっさり答えられるよ。「もちろん、宇宙のあり方はほかであってもよかった。実際に、それらすべての可能な宇宙が実現しているのだ。ただしその中で、人間を含む宇宙の中でだけ、人間原理のような疑問が生まれるのだ」。こんな感じで「私はなぜ私なのか」などの疑問にもあっさり答えていきたいなあと思うよ。
* 感想
可能世界論は、いろいろ形而上学的に突き抜けていておもしろい。この本の後半もめちゃくちゃなことになっていてすげーと思った。
しかし、可能世界というのは結局、それを使って演算するとうれしいという意味で、虚数とか負数みたいなものなのかと思った。なので、「可能世界は実在するのか」という問いが、「マイナスの数は実在するのか」「複素平面は実在するのか」というのと同じような不毛な問いに見えて仕方がない。
可能世界は「リンゴがそこにある」というのと同じ形で存在するわけではない。可能世界は定義上、手にとってさわったり、みることができるようなものではない。なのにわざわざ「可能世界は物理的に実在する」という変な言い方をすることによって、あたかもそれが、リンゴのような(触れることができるような)形で存在するかのように思わせるのは、文法違反ではないかもしれないが、かなりずるい言い方だと思う。
たとえば、「虚数は物理的に実在する」といわれれば、多くの人は「え?」と思うだろう。だからといって「虚数が存在しない」わけでもない。虚数を使った計算や証明に特におかしいところがあるわけではない。単に「物理的に実在する」という言葉をそういう対象には使わないというだけだ。
「可能世界は物理的に実在する」のような言い方が可能になるのは、「物理的に実在する」という言葉の使い方を勝手に変えてしまっているからだと思う。「可能世界は本当にあるのか」という問題は、そういう言葉のトリックで成り立っている議論ではないか。
まったく別の話だが、人間原理に可能世界で答える議論はおもしろいと思った。「どうしてこの世界はこのようであるのか(ほかであってもよかったのに)」という形で、恣意性に神秘を見いだす人に対して、「もちろんほかであってもよかったし、実際すべての可能性が実現しているのだ」と答えるのは、何かがひどい切り返しですばらしい。
変なファイラーを使ってるせいか、時々ファイルが壊れて削除できなくなることがある。解決方法はもうわかっていて、コマンドで削除を試みてみて、それでも削除できないときは、アドミニストレータでログインして、無理やり削除するしかない。
今日もやっぱりそんなことがあって、デスクトップにあったファイルが削除できなくなったので、例の黒い窓を開いて、「del」とか何とか打っていた。そしたらコマンドを打ち間違え、あれあれ? ファイルが消えていくよ...。ゲと思って、あわててドス窓閉じた。調べてみると、デスクトップが空になり、スタートメニューも空っぽになってしまった。それ以外はなんともなさそうだったので、スタートメニューだけなんとかして、しばらく後に再起動した。しかし、どうもシステム系のファイルが削除されてしまったらしく、再起動できない。パソコンが起動できない、イコール生命活動を絶たれたも同然なので、あわてて Windows XP を探したが、見つからない。
しかたなく結構本腰を入れて探したが、やはり見つからない。ほかにもやることがあったのだが、それらの用事もパソコンがないとどうしようもないのでとにかく探した。この段階で、「XP を探す」が至上命題になったので、泣きながら二時間くらいかけて部屋を片付けた。よくある「神様、私何か悪いことしましたか」的な、泣きそうな窮地だった。必要なものをひたすら探す、というのは、どこまでやれば解決するかもわからず、終了まで何の目安もなく、少しも先行きが見えないという点で、非常に精神に悪いことだと思った。ないないないないと喚いているうちに、なんとか見つけたが、その後どうしたらいいのかわからなかったので資料を探しに出かけた。
『[わかったブック 2] 根本的解決!どうして起こる?パソコンのエラー』
唯野司(著)
技術評論社、2004
この本を買った。試行錯誤した挙句、CD から起動し、XP を再インストールした。はじめての再インストールはヴァレンタインデー♪、みたいな。ファイルが消えなかったのは救いだったが、時間はかかるし、ネットの設定を一からやりなおし、ドライバは入れ直し、で恐ろしく面倒だった。忘れていたが、あとで ATOK を入れなおさないといけないし。一応書いておくが、上の本は非常に役に立った。
一応今は解決し、こうしてネットにもつなげられているのだが、どうも画面の様子がおかしい。ブラウザの表示が異常に大きい。アイコンが大きくなっているように見えるし、ページの表示もいつもより明らかに大きい。ミクシが画面からどーんとはみだしている。秀丸エディタの表示も大きくなっているようだ。XP のフォルダやシステム関係の表示はふつうなので、解像度をあげると XP がちいさくなりすぎる。DPI を変えたら全体的に小さくなって、いくらかましにはなったが、やっぱり XP とほかのアプリケーションのバランスがおかしい。メッセージボックスなどだけが小さくなって、ページの描画は大きいままだ。
以上の症状について誰か何か知ってたら教えてください。具体的にいうと、特定のアプリケーションの解像度だけをあげたい。あるいは解像度はかわらなくても表示を小さくしたい。実家に帰ったときおみやげで買ったチョコがあまってるのであげますから。
























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