論理学小まとめ。


まとめと言ってもまだ終わってないわけだが、勉強していてわかったことで、今後も見解が変わらなさそうなことだけ書いておく。


論理学の構成。

古典論理は命題論理と述語論理からなる。そこにプラスアルファで、様相論理や直観論理や多値論理などの非古典論理学がつけくわわる。また、それぞれの論理について構文論と意味論がある。つまり、ふつうの古典論理は「命題論理/述語論理」×「構文論/意味論」で4つのジャンルからなる。

意味論は論理式の「意味」を扱う。ただしここで意味と言ってるのは、真理条件のこと。たとえば「P∧Q は P、Q がともに真のときのみ真」とかそういうことを扱うのが意味論。つまり、「左と右が両方真のときだけ真だよ」というのが、「∧」の意味であるわけだな。

一方、構文論は公理系をあつかう。公理系とは自動お絵かきプログラムのこと。公理系がするのは、あらかじめ決められた変形規則を使って、記号を並べることだけ。構文論では並べられた記号の意味はまったく考えないので、これは本当に絵を描くだけだ。しかもたいていの場合、架空のお絵かきプログラムだから、「このプログラムでこの絵は描けるのか」などと架空のソフトについて議論するわけわからん人たちみたいになる。


論理学の仕事。

論理学は人工言語をつくり、それについて調べる学問だ。

人工言語は日常の論理的推論や論証を「モデル」にしたものではあるが、日常言語からは完全に独立に定義されている。目的はちがうが、人工的に語彙と文法を与えられた言語という意味では、C言語とか PHP とか Ruby などのプログラミング言語みたいなもんだと思う。要するに、論理学者はその人工言語についてあれこれ調べることで、「C言語でうんぬんしてたら、ソートが少し速くなった」みたいなことをやってる。

言い換えれば論理学は論理そのものを扱っているわけではない。やってるのは論理に少し似た人工言語をつくったり調べたりすることだけ。人工言語を「モデル」として用いることで、日常の論理について考えることは、もちろんできる。でも、それはもう哲学やら言語学者やら何やらの仕事であって論理学者の仕事ではない。論理学の範囲は人工言語をつくってその性質を調べるところでおしまい。だから論理学は「論理」の学ではない。正確に言うと、論理をモデル化した人工言語の学だ。

したがって例えば、論理学の言語が日常言語に似ていないからまちがっているというのはおかしい。「似ていない」ことが問題になるのは、人工言語を日常論理に対するモデルとして使う文脈でのみありえることだ。人工言語自体は基本的に日常言語からは独立したものなので、他のことに使ってもまったくかまわない。ふつうの推論から恐ろしくかけ離れた言語をつくってもかまわないし、そのことによって論理学における定理の価値が下がるわけではない。「似ていないから使えない」というのはあくまでも論理学ユーザーの視点。論理学者がユーザーの視点に立ってものを言うことももちろんあるけど、例えば、証明の妥当性は、日常の論理に似ているかどうかとはまったく無関係に判断される。

だからして、論理学の定理が、日常の認識や判断について何か重要な意味を持っているかのように言うのもおかしい。重要な意味を持ちうるのは、「人工言語をモデルとして使うことで引き出された仮説」であって、論理学の定理それ自体ではない。C言語がどんな性質を持とうと、それによってC言語に無関係な人が影響を受けることはまずない、と思う。それと同じように、論理学の定理について、それが論理に関する新たな発見であるかのように言うのも基本的にはおかしい、と思う。

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