エスノメソロジー系の本と言語哲学系の本を交互に読んでいくとなかなか楽しいことがわかった。とりわけ以下の2つの部分はきれいに対照を描いていておもしろい。
『プランと状況的行為―人間‐機械コミュニケーションの可能性』
ルーシー・A. サッチマン(著), Lucy A. Suchman (原著), 佐伯胖(訳), 水川喜文(訳), 上野直樹(訳), 鈴木栄幸(訳)
産業図書、1999
表現の意味はいつも実際にいわれていることをこえているゆえに、表現の解釈はその慣習的な、あるいは定義的な意味やある前提の集まりだけではなく、語られないその使用状況にも依存している。(…)哲学者は、この事実を命題の真理条件にかかわる問題であると思い込んでいた。つまり、ある主張が真である条件は、常に背景に関係しており、そしてこの背景は文そのものの意味内容の一部を形成しているわけではないとしていたのである(Searle, 1979)。さらに、原理にかかわることとして言語哲学者を悩ませてきた同じ問題は、いま認知科学者にとっての実践的問題になっている。(…)背景の仮定を意味内容としての叙述に含めようという実際の試みは、しかしながら与えられた叙述の基礎にある仮定の定まった集合はないという事実に遭遇した。結果として、背景的仮定の精緻化は、基本的にその都度なされるものであり、また恣意的なものなのである。そして、原則として仮定のそれぞれの精緻化は、精緻化されるべきさらなる仮定を無限に導入するのである。
邦訳p59-60
背景の仮定を列挙するのは無理ですよ。
パースは、サインの意味がそれが指示する出来事や対象に依存しているだけではなく、サインが実際、指示対象の構成要素であることを"インデックス"という言葉で表した。それで、状況に埋め込まれた言語は、より一般的にはその使用状況に係留されているだけではなく、大いにその使用状況を構成しているのである。エスノメソドロジーはこの言語の構成的機能をさらに行為にまで一般化する。(…)「"文脈一般"なる概念が存在しないだけではなく、例外なくすべての"文脈"の使用はそれ自体本質的にインデックス的であるとしたならば、文脈的行為 (action-in-context) の分析可能性をもたらすのは、まさにこれらの実践なのである」(Garfinkel, 1967; p.10)
邦訳p61
言語(および行為)は文脈に依存するだけでなく、文脈を構成しますよ。
意図の形式を一組の必要十分な観察データで正確に定義できるような、文脈と独立した何らかの行動の意図を認定するための論理の公式は存在しないし、また特定の文脈の固有事実を行動の記述に結びつけるような認識アルゴリズムなるものもない(Coulter, 1983; pp. 162-163 を見よ)。
行為の解釈のための普遍的ルールが存在しないとすると、エスノメソドロジーのプログラムは、特定の状況におけるドキュメンタリー的方法の使用を研究し、また記述することである。
邦訳 p63
だから、むしろ特定の状況から出発し、そこにおける方法を記述しましょう。
一方、この本いわく、
飯田隆(著)
勁草書房、1995
モンターギュの例がひとつの典型とみなせるが、自然言語に対する論理学者・哲学者の態度は、一九六〇年代から一九七〇年代にかけて大きく変わった。それにはいくつかの要因が挙げられるが、そのひとつは、様相論理の意味論をはじめとする、標準的論理以外のさまざまな論理に関する研究が、一九六〇年代以降いっせいに開花したことである。これらの研究は、形式意味論、もっと限定して言えば、モデル論と呼ばれる分野に属する。形式的取り扱いを拒否すると考えられていた自然言語の特徴、とくに文脈依存性が、非標準的論理の意味論において開発された手法のもとで手なずけることができることの発見は、なかでも重要である。この成功に気を良くして、自然言語の「論理的欠陥」の現れとして、これまでの論理学では意識的に排除されてきた特徴を、形式的に扱おうとする試みがさまざまになされた。たとえば、非形式論理学の必要性の根拠としてライルが挙げた表現のほとんどすえてが、こうした形式的取り扱いの対象となった*。そして、こうした発展のいわば頂点にあるのが、モンターギュ文法である。
* Cf. N.U.Salmon, Reference and Essence. pp.26f.
p173-174
(強調はわたし)
EM のひとたちは、「文脈の形式化は無理」だが、「形式化できなくても別に困らん」という言ってるように見える。他方、ある種の哲学者(および言語学者)が、形式論理を拡張して文脈的要素を扱おうとするのは、「文脈を形式的にあつかえないと困る」とおそらく思っているからなのだろう。
いうなれば、「特定の状況から出発し、そこにおける雑多な論理と方法をとらえようとする人々」と、「形式論理の拡張によって個別の状況にせまろうとする人々」となるのか。両者の中間にライル(と、たぶんウィトゲンシュタイン)がいるというのもなかなかおもしろいことである。
どちらの人々についても初学者以上の者ではない私には、これ以上あまり何も言えないのが歯がゆいところだが。後者に関して素朴に疑問なのは、「拡張しすぎると結局日常言語になるのでは?」というか「日常言語になるまで拡張しないのならば、結局、出てきた論理を個別の状況とどう関係づけるのかという問題が生じるのではないか?」という点。この点については結局勉強するしかないのだろうけど、とりあえずメモしておく。
コメント(2)
コメントする
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 文脈とか
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.at-akada.org/mt/mt-tb.cgi/124


Hi
』 (2008/01/26 9:30)Inside Line: We test everything from the locking differential to the iPod input on the updated Toyota FJ Cruiser to see how it will fare in the 21st century.
toyota fj cruiser
Bye
Hello
』 (2008/02/ 4 3:30)Fast Easy Payday Loan No Fax Payday Loans Up To $1000 Wired To Your Bank Account In 1 Hour.
payday loan online
Bye