- 佐々木健一「虚構と真」
(『新・岩波講座 哲学 (3) - 記号・論理・メタファー』)
■ あらすじ
虚構と真はとくに矛盾せず、実は相性がよいことを示す。
虚構の研究として分析哲学における虚構文の研究がある。ここではビアズレー、ウェイツ、サールのものを紹介する。これらはそれなりにおもしろいが、文を単位とするのは、虚構作品の研究としてはよろしくない。ので文をこえたレベルで考えてみよう。虚構作品の本質として「プロットの虚構性」「メタレベルの信」「中間の位相」ということをあげる。
1)虚構の作品において虚構なのは、登場人物およびその行動である。すなわちプロットの虚構性が作品を虚構たらしめるといえる。
2)次に、実話と虚構をわけるのは、テキストに対するメタレベルの信である。すなわち、テキストを読む以前の了解によって虚構かどうかが決まると言えよう。
3)しかしもっと内容に即して考えてみよう。プルーストの『失われた時をもとめて』には、パリと架空の田舎町コンブレーが出てくる。一方、架空の首都と実在の田舎町が出てくるような虚構作品というのは考えがたい。ここから振り返って考えるに、ある程度の時と場所まではわかるが、日付と番地までは特定されないというような中間の位相が虚構の本質なのである。
つぎに虚構作品における報告文について考えてみよう。小説内の報告文はふつうの報告文とは文体からして相当ちがっている。このちがいは結局小説内の報告文が、個性的な把握でありながら、その報告を事実そのものとして提示するということによっている。このような事態について考えるには「真」の概念を考え直す必要があろう。
真という語の語法に注目してみよう。「P」と発話することは、「P は真だ」を含意するが、含意するのと「P は真である」と言うのとはちがう。われわれが「P は真だ」と言うのは、「P」の真偽が曖昧である場合にかぎられる。すなわち「真」とは、「今まで信じられていなかったことを発見しておどろく」というできごと的なものであり、価値的なコミットなのである。
真をこのように考えるなら、それが虚構と矛盾することはない。個性的な把握を事実として提示するという虚構の特性は、存在を真として与えることなのである。
■ 感想
「真」概念の分析はおもしろいが、虚構と矛盾しないのなら、はじめから「真」概念はいらないのではないかと思った。
「中間の位相」は、言い方はちょっとひっかかるがおもしろい。確かに「架空の首都と実在の田舎町」という組み合わせはヘンだ。なぜヘンなのか、もう少し考えてみてもいいような。
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