ハスミン
蓮實重彦(著)
青土社、2006
- エンマ・ボヴァリーとリチャード・ニクソン
- 「『赤』の誘惑をめぐって」
2つの論考のみ目を通す。
なお、「フィクション」をめぐっては、来年二月に刊行予定の『「赤」の誘惑――フィクション論序説』(新潮社)により詳細な議論が展開されることになるだろう。
p365
予告篇だった YO!
ちなみに発売は3月末になったらしい。
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refBook=978-4-10-304351-5&Sza_id=MM
感想。
小説も哲学論文も関係なく、「赤」というテーマでテーマ論的に横断してしまうハスミンには、「テクスト」概念があればよかったのであって、「フィクション」の概念はまったく必要なかったのではないかと思った。タイトルも対象も、「フィクション」とか「フィクション論」になっているのに、フィクション概念が論考中で何の役割も果たしていない。
↓ハスミン先生はなんでわざわざフィクションを論じようと思ったのかと探していたら、こんなインタビューを見つけた。
http://www.flowerwild.net/2006/12/2006-12-04_102306.php
──どうして今、フィクションという主題で書こうと思われたのですか。
蓮實:ひとつには、いまいったように、まだまとめきれずにいる『「ボヴァリー夫人」論』を完成するにあたってフィクションというものを近代の散文の一形式としてどうしてもおさえておかなければいけないという意識がありました。それには、ミシェル・フーコーのいう「近代」における言語の露呈との関係で「近代小説」をとらえざるをえないということなのですが、現在のフロベール研究はそうした視点を重視してはおらず、かろうじて、局外者のジャック・ランシエールがその種の視点に立っている。言語の露呈とフィクションとの関係を結果としてうまくおさえられたかどうかはわかりませんが、多くの西欧の理論家たちがフィクションを論ずると、論ずる主体が無意識のうちにフィクション化していく。論ずる主体がフィクション化していくってことは、ほとんど自分の言葉を語ることができず、言葉に語らされることで主体が希薄化していくということです。アメリカの言語哲学者のほとんど全員がそれにあてはまっている。それと、いまは「可能世界論」的なフィクション論が盛んなんですが、そうした視点からフィクションを論じようとするひとの大半は、論じている作品が読めていないってことがはっきりとわかる。語っているひとたちは間違いなく存在しているにも関わらず、彼らの言説は対象を欠き、ほとんど存在していないかのような曖昧なものになっていく。ですから、「フィクション論者のフィクション化論」というような話になります(笑)。
「論じている作品が読めていないってことがはっきりとわかる。」
これ、論考のなかでも同じことを言っていた。
すでに見たように、彼らの大半は文学作品の「有名性」に依存しており、テクストを読むことに関しては、「素人」の域を出るものではないからである。
p288
ハスミンが「フィクション」を論じつつ、ここでは読まれる対象が「作品」、「テクスト」となっていることに注意しよう。
私は「フィクション」論のいいところ(の一部)は、すごい読みじゃなくてふつうの人の読みをあつかったところだと思う。「作品」とか「テクスト」という概念と違って、フィクションという概念のいいところは、それが文学的でも何でもない、すごくふつうの概念であるところだと思う。
それに対しハスミンの論考は、ハスミンがあくまでも作品とテクストの人であって、フィクションの人ではないということを劇的に示していて、おもしろいと思った。この辺の対照化はもうちょっとうまく言えそうだが、なかなかむずかしい。
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』 (2008/04/ 7 4:59)