- シモーヌ・ヴェーユ「神への愛のために学校の勉強を活用することについての省察」『シモーヌ・ヴェーユ著作集〈4〉神を待ちのぞむ―ある修道者への手紙』
シモーヌ・ヴェーユの論文「神への愛のために学校の勉強を活用することについての省察」が達成動詞の特徴に基づく議論であることについて、という示せると誰がうれしいのかまったくわからない論点。
これは、ちょっと前にクルターの『心の社会的構成―ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』の、「理解」に関する文法違反についての議論を読んでいて、はたと気がついた。その時は、「ヴェーユの論文も、文法違反じゃん」と思ったのだが、今は気が変わってむしろ達成動詞に関する議論として (無理矢理) 読もうと思ってる。
ヴェーユのこの論文 (というかエッセイ) は、タイトルがおもしろい、という理由で前から結構好きだった。知り合いの神父の生徒のために書いたものであるらしい。
ヴェーユはここで、学校の勉強における理解が受動的なものであることに基づき、美しい筆致で、信仰の受動性と勉強との近さを描き出している。要するに、勉強と信仰は似てるから信仰のために勉強を役立てろって内容。
きわめて貴重な善は探すべきものではなくて、待つべきものだ。というのは、人はそれらを自分の力で見つけることはできないし、それらを探しはじめると、偽りの善にとらえられて、その偽りを識別できないことになるからだ。
(…)
こう考えると、すべての学校の勉強は秘蹟に似ている。
学校のすべての勉強には願望をもって、真理を探さずに、真理を待つ独特のやり方がある。解答を探さずに、真理を待つ独特のやり方がある。解答を探さずに幾何の問題の所与に注意し、意味を探さずにギリシア語のテキストの言葉に注意し、書いているときには、ただ不十分な言葉だけをしりぞけて、正しい言葉がひとりでにペンの下に出て来るのを待つのだ。
p77
で、何に気づいたのかというと、この受動性が単純に達成動詞の特徴だということである。
だから、「到着する」「勝つ」「負ける」「見える」「出会う」……etc. についても同じ議論を構成できてしまう。
わかりやすいのは「勝つ」の場合。勝利についてだって、「勝利を探さずに、勝利を待つ独特のやり方がある…云々」という議論が構成できる。「負ける」でももちろん同様。「見える」については、例えば立体視のやつが見えるかどうかについて、「見えを探さずに、見えを待つ独特のやり方がある…云々」と言えてしまう。
そして以上が何を示唆するかというと、ここで勉強とアナロジーされている (ヴェーユの重要概念であるところの) 「恩寵」についても同じことが言えるという点。つまり、恩寵は達成動詞なのである。
気づいたときは、「えー、がっかりー」と思ったが、むしろポジティブに考え、達成動詞はすべて「恩寵に似たもの」なのだと思い込むことにした。「勝つ」も「負ける」も「到着する」も「出会う」も、すべて信仰に似たものなのであり、神への愛を学ぶのに役立つのである。
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