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[][]論理文法

論理文法って何かしらー。とりあえず引用だけしておく。

コンチェルトの例が何だかわからん。


心の社会的構成―ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点

ジェフ クルター (著), Jeff Coulter (原著), 西阪 仰 (訳)

新曜社、1998


その1

心にかかわるふるまいの諸概念・諸述語が論じられることになるわけだが、その分析にあたり、まずは日常的な情況においてことばが、どのようにしかるべきしかたで使用されているかを、丹念に調べることから出発しなければならない。それぞれの概念は一定範囲の他の諸概念とは有意味な・理解可能なしかたで結びつくのに、別の諸概念とはそのように結びつくことがない。様々な概念について、それぞれの概念がどの概念とどう結びつくのかを示すこと、これが論理文法分析の目標である。論理文法は、「弁別的」とか「必要にして十分」とか「本質的」といった諸特徴の一覧表にしたがって、名〔もしくは概念〕を対象に結びつける、というものではない。それは、むしろ、

「〔その当の (クルターによる挿入)〕概念に様々な概念を関係づける。ある人がある概念(たとえば、本とか鳥という概念、ことばの意味という概念、なにかを知っているというのはどういうことかということ)を習得しているといえるためには、その人はその概念を、他の諸概念と関係づけながら使用することができなければならない。つまり、その当の概念と有意味な結びつきがあるのはどの概念で、そのような結びつきがないのはどの概念か、をその人は知っていなければならない。それだけではない。当の概念と有意味に結びついている諸概念は様々である。そして、その様々な諸概念をそれぞれどのようなコンテクストで使用するべきかは、その諸概念がどのような種類の概念と一緒に使用されるかに応じて、そのつど異なってくる。それがどういうふうであるかも、その人は知っていなければならない」*。

* Stanley Cavell, 'The Claim to Rationality: Knowledge and the Basis of Morality', Unpublished Doctral Dissertation(Harvard University, 1961-2)

引用者(赤田)註: 改訂されて↓これになったらしい。

ASIN:019513107X

p11


その2

たとえば、「本」という概念を把握するためには(本とは何かを知るためには)、その概念が、たとえば、「神」「背」「読書」「繕う」「文字」といった諸概念と、それぞれ違ったしかたで、またそのつどのコンテクストに応じて、どのように関係し合うか、を知らなければならない。「破る」という概念を把握するばあいには、こんどはその概念が「本」「約束」「平和」のいずれと関係づけられるかに応じて、それぞれどのような事態を表すことになるか、を知らなければならない。

p12


その3

多くのばあい、概念的誤謬とは、概念どうしを誤ったしかたで結びつけることにほかならず、またそこからさらに、どのような事態が表されるかについて誤った推論をおこなうことにほかならない。もちろん、それぞれの概念についてどの範囲での使用なら理にかなっているとみなされるかには、いつも一定の幅がある。しかしたほう、この幅はやはり規範的に限定されているのである。この点について、カヴェルが簡単な例を示してくれている。「もしかりに、こんなことを言い出す者がいたとしたらどうだろうか。あの人はヴァイオリンのパートだけしか弾かなかったのだから、まだブラームスのコンチェルトを全部演奏しきっていない、と。そのときわたしたちは、この者の『コンチェルトの演奏』という概念はちょっと奇異だ、などとは思わない。むしろ端的に、こいつはそのような概念をもっていないと思うだろう」**。

** Ibid., p244 カヴェルは、変則的な言語使用のうまい例をいくつか挙げている。通常の表現がどのような事態を表わすかは、規範に依存している。この規範に反して言語がもちいられると、いかに奇妙なことになるか。これを、カヴェルは巧みな例で示している。

日常言語は、規範的に組織されているのであって、決定論的なしかたでコントロールされてはいない。じっさい、もし望むなら、あるいは無知のゆえに、わたしたちはそれを濫用したり誤用したりできる。ところで、ある概念が誤用されているのかどうかを判断するとき、もちろんちょっと見ただけですぐわかるばあいもあるけれども、実際にそれがどのような情況でもちいられているのかを注意深く丹念に分析しなければならないことも、しばしばある。このことは、ごく標準的な表現のばあいにもいえる。つまり、カテゴリーや表現がどのような情況で使用されるかということ、このことは、カテゴリー・表現の論理文法の一部なのである。

p12-13


その4

〔概念の〕擬似的革新には二とおりある。(i)概念を構成することが、それ以前から使用されている概念の論理文法を侵害しているばあい。(ii)概念を構成するとき、その概念構成の前提としてもちいられている概念が、新たな「革新的」主張と真っ向から矛盾する内容をもつばあい。

p19


その5

分析家たちは、わたしたちの心的概念の論理文法(この種の概念の使用機会ならびに使用様式)を明らかにしようとするとき、たいてい、ありきたりの社会状況から例を拾ってくる。

p71


その6

ところで、この解明作業にさいして、かれらは、たいてい、以前から哲学者たちが概念の「論理文法」と呼び慣わしてきたものについて、論じている。つまり、動機というカテゴリーが理にかなったしかたで適用できるための、ア・プリオリな条件について、論じている。

p110

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コメント (5)

玉垂葵:

>コンチェルトの例@クルター本

あー、これわたしも初めて読んだときなんだろうって思いました。

言わんとしてることは分かりそうなんですが。つまり、コンチェルトっていうのは、それぞれが各パートしか弾かずにそれぞれの演奏を合わせることでひとつの曲になる、というものを指しているのだから、ヴァイオリン(ひとつのパート)しか弾いてないことから曲を演奏しきってないと判断することはコンチェルトの定義上ありえない。だからそう言う人は、コンチェルトが何か知らない(=そういう概念を持ってない)のだろう、と。

でも、何が分からないかというと、こういう発言を聞いても「コンチェルトという概念を持ってない」というほどは強く思わなさそうな気がしたのでした。

例えば、「曲を演奏しきる」ということが、真にその曲を理解するという意味で言われていたとすると、あるコンチェルトをより完全に理解したいという(やや無謀な)希望を表現するための発言だったのかな、とか、もし言われたのがわたしなら想像しそうです。

atakada:

私は細かいことが気になる人の発言かと思いました。「お湯をわかす」はおかしい、水をわかしてお湯にするのだ、みたいな。
その場合、この人は「コンチェルトの演奏」という言い方はおかしいと思っているのだから、「コンチェルトの演奏」という概念自体持っていない。という意味かとも思ったのですが、よくわかりません。
結局、カヴェルを読んでみるしかないのかも。博論は改訂されて↓の本になったらしいです。改訂後もまだこの例が残っていればいいんですけど。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/019513107X

玉垂葵:

なるほど。うーん……。

そういえば、上の本、いずれは読まないといけないと思っていたのをお陰で思い出しました。ご教示どうもです。

Hello
Preved Acuna Matata!

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2007年2月 3日 18:40に投稿されたエントリ

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