2007年3月
3冊買った。
佐藤文広(著)
日本評論社、1994
これは良さそうな本だった。まさにこういう本を求めていたと言える。
J.L.オースティン(著), 丹治信春(訳), 守屋唱進(訳)
勁草書房、1984
「知覚」強化週間にしようかと思った。
大黒岳彦(著)
NTT出版、2006
出費が...。
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_139.html
語の意味を扱うには、意味の「一義性」を仮定するか、それとも意味の「多義性」を仮定するか、どっちかのやり方しかないのだろうか?と昨日書いた。今日関連する記述を別のところで見つけた。
勁草書房、1984
「本当real」という言葉について。
「黄色い」とか「馬」とか「歩く」といったことばと違って、それは単一の、特定できる、常に同じであるような、意味をもたない、という点で例外的である。(…)しかし、それは、多数の異なる意味をもっているわけでもない。p98
「本当」は一義的でも多義的でもない。
なぜか。
「本当」の対義語は、たとえば「おもちゃ」であったり、「絵」であったり、「模造品」であったり、「人工」であったりする。「本当のXである」というのは「おもちゃでない」とか「絵でない」とか「模造品でない」とか様々な場合に使われうる言い方だ。
これらすべてのケースに共通の特性が存在すると考えるのは間違いだ。
だからと言って、「本当」という語には、複数の意味があるというわけでもない。
じゃあなんなのか。
「本当の」ということばの機能は、何ものかの特徴づけに肯定的に寄与することにあるのではなく、本当でない可能なあり方を排除することにある―そして、こうしたあり方は、個々の特定のものについても多数あり、また、種類を異にするものに応じて極めて異なる場合が多いのである。個々の適用においては測りしれないほど多様でありながらも、一般的機能がこのように同一であることこそ、「本当の」ということばに、単一の「意味」もないし、かといって多義性、すなわち多くの異なった意味があるわけでもない、という、一見したところ厄介な特徴を与えているのである。p106
んー。
むずかしい。
とりあえず「本当」が、「本当でない可能なあり方を排除する」というのは、トートロジーだ。説明にはなっていない。
しかし、「本当real」が「否定主導語」(否定形の方が基礎的な語)だという分析は素晴らしいと思った。
- 「話し手の指示と意味論的指示」
S.クリプキ(著)、黒川英徳(訳)
in「現代思想」vol23-04
青土社、1995.4
「可能世界/固有名特集」
■あらすじ
(文体はイメージです)
ぼくクリプキちゃん!
こんにちはこんにちは!!
みんな大好きな確定記述と指示の話だよ!
ドネランは確定記述の「指示的用法」っていうのを発見したよね。
これってすっごく重要な議論だよね! 僕も超参考になっちゃった!
でもドネランは、この「指示的用法」が
ラッセルの確定記述の分析の批判になってると思ってるみたいだけど、
ドネランの説とラッセルの説は矛盾しないんじゃないかな?
だって、ラッセルの説は、真理条件を扱うものだよ。
ドネランの話は「指示先」の話だから、真理条件は関係ないよね。
つまり、これって、意味論じゃなくて言語行為論だってことだよね…!
でも、ドネランは自分の説が意味にかかわるって言ってるよ。
ラッセルの一元論じゃなくて、多元的な意味論をとるんだって!
言ってることがばらばらでぼくよくわかんなくなっちゃった><
もしラッセルとドネランが矛盾しないなら、
どっちを選んだらいいのかな?
あんまり自信ないけど><
「なるべく単純な理論を採用すべき」
って原則に従って、ラッセル説を採用したほうがいいんじゃないかな!
■感想
私には、確定記述の指示的用法というのは、「二つの指示方法の対立」に見える。
たとえば「指をさしながら」「あのシャンパンを飲んでいる男」と言う場合。この男が飲んでいるものが実はシャンパンではなく、この場では別の男だけがシャンパンを飲んでいたのだとしても、前者に対する指示が成功する。
私にはこれは「指をさした」という仮定があるから成立する話のように見える。なのに、あまり誰もそれを指摘しないのが不満だ。
クリプキの議論について。
気に入った哲学的テーゼに対する反例と推定されるものに出会った場合には、何らかのキー・タームがそのテーゼにおけるのとは異なる特殊な意味で使用されているのだ、と主張することが我々には常に可能である。その主張は正しいかもしれない。しかし、手段が容易であるということは次のような注意深い方針を採ることを忠告しているはずである。多義性が実際に存在すると想定せざるをえないのでなければ、そしてそのように想定することに、抗い難い理論的あるいは直観的根拠が本当にあるのでなければ、多義性を仮定してはならない、という忠告である。
p283
ドネランは確定記述に関する多元論を採っているけれど、多元論を採る必然性がないなら、一元論にしとくべきじゃないかという指摘。
「分析者が(行為者の直観に反する)ヘンな区別を勝手に持ち込んではならない」という風にとるならば、クリプキの指摘は正しいように思える。
しかし、「一義的に捉える」のと「勝手な区別を持ち込む」という二つの態度のほかに、別の態度もあるのではないかと私は思った。
ジョン・ノイバウアー(著), John Neubauer(原著), 原研二(訳)
ありな書房、1999
テーマはおもしろそうなのだが、内容はどうだろうか。
Michael J. Loux(編)
Cornell Univ Pr 1979
有名なアンソロジー。グーグルブックサーチで序文などが読めるようだ。
佐藤文広(著)
日本評論社、1994
- 『物語の哲学』
野家啓一(著)
岩波現代文庫(岩波書店)、2005
これまで論じてきたように、文字化されたテクストとは異なり、音声による物語伝承の過程においては、「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。そこで行われているのは「同一性の反復」ではなく、「差異を伴った反復」あるいは「解釈学的反復」にほかならない。物語の伝承においては、絶えざる「同一性」の解体と更新とが進行しているのである。
(…)
「同一性」という形而上学的概念そのものが危機に晒されている以上、物語にその同一性を保証する「唯一の作者」や特権的な「作者の意図」を求めることは、はなから無意味な企てと知るべきであろう。
p75-76
先生! この人言ってることがヘンです!
(つっこみどころのある議論を見つけたのでうれしい)
「物語伝承の過程においては、「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。」。
伝承過程において、「違う」って言われてるのは「文字列」のことだよ。
しかし、二つの語りで語られた物語が「同じ」であるとされ、かつ「文字列」が異なるのなら、単に「物語の同一性と文字列の同一性は別だよ」と言えばいいだけの話だ。たとえば信号の色は「変わる」けど、だからと言って、信号機が別のものになったとは誰も言わない。それは、信号機の同一性が、色の同一性とは無関係だということを意味するだけだ。そして、そこで
信号の点滅においては、絶えざる「同一性」の解体と更新とが進行しているのである。
などと言うやつを見たら「はぁ?」と思うだろう。
野家っちはここで、それと同じことをやってるように見える。
別の方向から言えば、
「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。
という言い方は、「文字列の同一性が物語にとって本質的」という、(おそらく印刷物を基準にした) 偏った物語観を前提にした上でのみ可能な発言だ。
- 言葉は違うけど、
- おんなじ話だ、
とわかっているなら、単に「同一の物語が反復して語られたよ」というだけ。そもそも、「文字列がちがう」とか「色が変化した」とわかるためには、物語の同一性や信号機の同一性が前提されてなければならない(「何かが変化した」と言えるからには、「何か」は同一のものでなければならない)。
この著者は、「文字列の同一性イコール物語の同一性だ」、というヘンな物語観を勝手に物語に押しつけた上で、「同一性が解体された!」「大変だ!」という一人芝居に興じている。しかし、それはどうなのか。
以下古本屋で三冊
- 『妖怪談義』
柳田國男(著)
講談社学術文庫(講談社)、1977
芥川龍之介(著)
第三書館; 増補新版版、2000
すごいよね、このシリーズ。『ザ・清輝―花田清輝全一冊』とか、一体どういうターゲットを狙っているのか。
- 『物語における読者』
ウンベルト・エーコ(著), Umberto Eco(原著), 篠原資明(訳)
青土社、2003
とっくに読んでいてもよいはずだが、未読。エーコはなぜだか苦手だ。
マーケットプレースで2冊。
- 『論理学概論』
近藤洋逸(著), 好並英司(著)
岩波書店、1964
坂原茂(著)
東京大学出版会、1985
講談社現代新書(講談社)、1988
■あらすじ
ホームズは同時代(19世紀後半)の論理学と科学論をよく知っており、自らの推理法が確率論的帰納法に基づくものであることを自覚していた。
■感想
名著であった。
ホームズと同時代の科学と言えば、ギンズブルクの徴候学的パラダイムというのが有名だが、ホームズをダーウィンの同時代人と見る内井説の方が説得的であると思った。*
* 『神話・寓意・徴候』。ちなみに私は読んでない。内田隆三『探偵小説の社会学』は読んだが、これを参照していた。
「不可能なものを除外していって残ったものが、いかにありそうもなくても(however improbable)真相なんだ」
というのは非常に有名な台詞だが、逆に考えればこれは、不可能なものを除外するまでは、「ありそうにない仮説」を除外しておいてよいということだ。
この「ありそうにないimprobable」の中に、確率論の響きを聞き取れるというのはおもしろい。
ひとつ疑問なのは、内井はホームズが、同時代の論理学者ジェボンズやデ・モーガンと同様に、確率論的な方法を「用いた」のだという。しかし、ありそうにない仮説を避けておくという確率論的な操作自体は、誰もが推論の際にやっていることではないだろうか。ホームズに統計学的発想があったにしろ、実際に統計を用いたわけではないのだから、むしろホームズはそのような推論の様式に「自覚的だった」というべきではないだろうか。
いずれにせよ確率論や19世紀の科学論に関心があれば、読んで損はない本だと思われる。
あと、デ・モーガンという人は知らないと思っていたが、よく考えるとこれは「ド・モルガン」先生のことだった。
フーコー・コレクション二冊購入。ちょこちょこ重要そうな論文が入っていることに気がついた。
「作者とは何か」とか「これはパイプではない」とか、入ってると知っていれば、とうに買っていたものを。
こういうのは「何が入っているか」が重要だと思うので、目次を掲げておく。
ミシェル・フーコー (著), 小林康夫(訳), 石田英敬(訳), 松浦寿輝(訳)
ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2006
目次
- ルーセルにおける言うことと見ること
- かくも残酷な知
- 侵犯への序言
- 言語の無限反復
- 夜明けの光を見張って
- 隔たり・アスペクト・起源
- 幻想の図書館
- アクタイオーンの散文
- 空間の言語
- 知を流す言葉
- J=P・リシャールのマラルメ
- 書くことの義務
- 物語の背後にあるもの
- 外の思考
- 彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった
- アリアドネーは縊死した
- 作者とは何か
ミシェル フーコー(著), 小林康夫(訳), 松浦寿輝(訳), 石田 英敬 (訳)
ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2006
目次
- 侍女たち
- 世界の散文
- 歴史の書き方について
- これはパイプではない
- 科学の考古学について
- 『ポール・ロワイヤルの文法』序文
- ジャン・イポリット1907-1968
- ミシェル・フーコー『言葉と物』英語版への序文
- 第七天使をめぐる七言
- 劇場としての哲学
- ニーチェ、系譜学、歴史
- 私の身体、この紙、この炉
以下は今後買うつもりがある本をメモしておく。
竹内外史(著)
講談社、2001
竹内外史大先生による集合論入門@ブルーバックス。
- 『哲学入門』
バートランド・ラッセル(著), Bertrand Russell(原著), 高村夏輝(訳)
ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2005
よっぽど買おうかと思ったが、どうせマーケットプレースにあるだろうと思って思いとどまった。
しかし、900円か...。意味がわからん。送料入れたら、定価超えるじゃないか。
デザインを変更した。といっても色を変えただけだが。
これまでは Movable Type のデフォルトのデザインを使っていた。なぜ変更したかというと、今日偶然発見した外山恒一氏のブログが MT のデフォルトのデザインを使用しており、このブログと同じ見た目だったから。外山氏がイヤだというわけじゃないが、見た目が同じだと気持ち悪いなあと思ったので、さっさと変えることにした。
- 『名探偵の掟』
東野圭吾(著)
講談社文庫(講談社)、1999
ホームズシリーズのレストレード警部や金田一少年シリーズの明智警視など、間違えた推理を披露する刑事の人が探偵ものには不可欠なわけだが、これはその「間違える刑事役」の人を主人公にした小説。わざと間違えた推理を披露したり、陰ながら探偵を真相に導いたりと、あの役はあの役で気苦労が多いらしい。
この小説では、密室殺人やアリバイトリックや童謡殺人など、毎回推理ものの定番の事件に巻き込まれつつ、探偵と刑事が時々読者の顔になって小説の展開にケチをつける。要するに推理小説のお約束をネタにしたパロディなのだが、このジャンルにそれほど詳しいわけでもない私にとっては、種々の「型」や様式に関する蘊蓄として楽しめた。
願わくば、もっと大がかりな展開が用意されていればよかったかなと思う。最後の章では、刑事役の「私」が探偵の推理ミスに気づきつつ、それをあえて見過ごす。本編はそれであっさり終わってしまうが、それがきっかけで「私」が「小説の登場人物であること」と「ひとりの人間であること」の狭間で葛藤しはじめたりすると、わけがわからなくていいんじゃないかと思った。
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_118.html
この部分が間違っているような。 「A と A ⇒ B とから B を導き出す推論規則」は MP(modus ponens)、日本語で除去規則と呼ばれるもので、三段論法とは関係ない気がする。
これは嘘だったかもしれない。
今日↓の本を読んでいたら、この本にも「MP は三段論法とも呼ばれる」と書いてあった。
しかし、MP と三段論法のつながりはよくわからない。どういうことだろう。
三段論法については以下を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AE%B5%E8%AB%96%E6%B3%95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AE%B5%E8%AB%96%E6%B3%95
伝統的論理学と三段論法について。
現代論理学は、経験的な学問ではない。現代論理学は、人工言語をつくり、その性質を調べる。その成果はたとえば、「かくかくのように言語を設定したら、しかじかの性質を持った」という形をとる。ここで、「しかじか」というのは、「かくかく」という言語に対する発見であって、自然言語に対する発見ではもちろんない。ただし論理学のユーザーが、日常言語に対する数学的モデルとして人工言語を使用することはある。言語学、言語哲学にとっての論理学の役割は、物理学にとっての数学の役割と同じ。しかし、物理数学が物理的事実を述べるものではないように、論理学自体は、経験的な事実を述べるものではない。すなわち、それは、われわれが日常用いる「論理」を対象とする学問ではない。
しかし一方、伝統的論理学はそうではないように思われる。「三段論法がいかなる形のときに妥当となるか」という伝統的論理学のテーゼは、「われわれが論証を行う方法」に関する経験的な事実と見なされうる。従って、現代論理学の成果と伝統的論理学の成果は、まったく性質を異にする。現代論理学が、あくまでも方法の精緻化にたずさわるものであった一方、三段論法の整備のような、伝統的論理学の仕事は、経験的事実の「発見」と見なされるべきものだ。それは論理学的・数学的というより、社会学的ないし言語学的(あるいは修辞学的)研究の成果だろう。
このように考えるとき、アリストテレスによる三段論法の分類は、その規模の大きさと明確な法則性からして、実に希有な仕事だ。現代の人文系学者の仕事で、これに匹敵しうるものがどれほどあっただろうか...。
...などということを考えていたのだが、伝統的論理学についてもう少し調べてみないと、あまり明確なことは言えないなあ。
とりあえず、伝統的論理学の問題は、アリストテレス以後、ほとんど誰も、それに匹敵する同じような性質の仕事を残せなかった点にある、ということは確かだろう。
最近本を読んでいておもしろかった一節を二つ。
イアン・ハッキング(著), 出口康夫(訳), 久米暁(訳)
岩波書店、2006
児童虐待はわれわれの文明の現状に関する興味深い事実を思い出させてくれる。われわれは、相対主義によって制圧されていると思われている。つまり、もはや安定した価値など存在しないと言われている。しかし、そんなことはない。試しに、児童虐待に賛成すると言ってみよ。多くの人たちの間で議論になっている同性愛の一形態であると言い逃れをすることなく、とことんまで極端を試みてみよ。児童虐待に賛成の立場に立つということはまったく道理に適わないということになるだけだ。
p301-302
当たり前と言えば当たり前なんだが、良いこと言うなあと思った。
E.ゴッフマン(著), 石黒毅(訳)
誠信書房、1974
アメリカの女子大生は、デートの相手になりそうな男子学生の前にいるときは、以前は自分の知性・技能・決意のほどを低目に見せたし、今でも明らかにそうしている。上調子だという国外にまで聞こえた評判とは反対に、これは彼女たちが徹底した自制心をもっていることを示しているものである。これらのパフォーマーたちは、男友達が彼女たちのすでに知っていることを退屈な仕方で説明するのを、黙って聞いているということである。
p44
ゴフマン先生の役に立つ女子大生情報。
体調がすぐれず、何もする気がしないので私物をさらしてみる。

最近使ってるノート。表紙を見られたら、恐い人だと誤解されてしまうかも...!

中身。絵が描いてあって使いづらい。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm253
いまいち体調がよくない...。
中古で三冊。
創元推理文庫(東京創元社)、1989
100円の本は買ってもいいよね?ね?と思いつつ。
樋口明雄(編著)
勁文社、1994
一人暮らしをはじめてから怖い話が読めなくなったのであった。
「超」怖い話 (はてなキーワード)
香山リカ(著)
ちくま文庫(筑摩書房)、1998
「可能世界意味論っておもしろそうだけどむずかしそう...」って最初から最後までそれだけを言い続けるラディカルな本。買うのは結構躊躇したんだが、安いし、ブックガイドとしては使える(かもしれない)ので買ってしまった。
- 『集合と位相』
鎌田正良(著)
近代科学社、1989
一章だけやった。この本は、初学者が独学で学ぶにはむいてない(むずかしすぎる)ということがわかった。解説が少ないし。
初学者が独学で学ぶのに適した集合論の教科書はどれですか。
このあたりだろうか。
http://markun.cs.shinshu-u.ac.jp/learn/index-j.html
信州大学工学部情報工学科基礎研究室による学習のページ?
解説と問題とテストつき。論理学も集合論もある。やっほう。すごくいいものを見つけた。
- 『世界制作の方法』
ネルソン・グットマン(著), 菅野盾樹(訳), 中村雅之(訳)
みすず書房、1987
- 『事実・虚構・予言』を読んだ直後だったので、1章を読んで、「何このぬるい論文」と驚く。
- エスキモーには雪を表す言葉がたくさんあって。とか言ってるし。(これは有名な「尾ひれのついた噂」)
↓検索したらおもしろかった。「20個ある」とか「40個ある」とか「4個」とか、おまえらちょうテキトー。
- 二章はちゃんとおもしろかったので安心した。(芸術)「様式」概念を扱った論考としては、大成功の部類に思える(私が読んだ中では)。
- 「何が芸術なのか」という問いと、「いつ芸術なのか」という問いをわけるのは、よい問題の立て方ではないのか。ちょっと前にうっかり語用論についてよく知らないのに「語用論みたいなー?」的なことを言ってしまったことがあったが、「いつ×なのか」って言えばよかった。
- 最近とあるブログで、「侮蔑語である語」と「(侮蔑語じゃないが)たまたまその場で侮蔑的に使われる語」があるよね的な話が、やっぱり「意味論的」か「語用論的」かと言い分けられているのをみた。それより「何」と「いつ」の方が簡単でよくね?と思った。「イスであるもの」とは別に、世の中には「(現在)イスとして使われている荷箱」もあるよね、というくらいの話だし。
- (でもきっとこういう些細な勘違いをふくらませるところから、われわれは (悪い意味での) <哲学> や <形而上学> や <本質主義> をはじめるのだとか何とか)
- この話に関連して思い出したが、以前イスとして使っていた木の台が壊れた後、「どうやって捨てたらよいか」がわからず放置してある。これは下手したら引っ越しするまでこのまま無駄な場所をとり続けるので、早く捨て方を調べて捨てようとかたく決意した。
- おもしろい部分はおもしろいのだが、おもしろくない部分がおもしろくないのは、
- 「世の中には様々な体系(バージョン)、または『世界』があって、すべては固有の価値をもっており」と言いながら、
- 「世界制作」「バージョン制作」の一般理論みたいになってるからではないか。
- 言い換えれば、複数形の"ways"を示すのに失敗してるからではないか。
- と、一瞬思ったが、それほど真面目に読んでないので、これはあくまでも「と言ってみるテスト」。
- 以下、再読時のためのメモ。
- グッドマンは、「世の中には様々な体系(バージョン)があって、それらはすべて固有の価値をもっており」と言う。
- こういうことを言う人にありがちな主張は、「それら個々の体系はお互いに還元不能なのであるから」だけど...
- グッドマンは、「いや、還元はできるのだ」と言っていた。
- じゃあなぜ「固有の価値」があると言えるのか。
- この点についてグッドマンは何を言ってたっけ。どういうロジックになっていたか、そのうち確認しよう。
- グッドマンは、「世の中には様々な体系(バージョン)があって、それらはすべて固有の価値をもっており」と言う。
浅田直亮(著), 仲村みなみ(著)
彩流社、2005
東浩紀(著)
講談社学術新書(講談社)、2007
でてたので買った。
リチャード・ローティ (著), Richard Rorty (原著), 室井尚(訳), 加藤哲弘 (訳), 庁茂(訳), 吉岡洋(訳), 浜日出夫(訳)
御茶の水書房、1994
いくつかの章をパラパラと読む。
- 第7章「虚構的言説の問題なんてあるのだろうか?」
要約
想像してごらん 指示なんて存在しないと
想像しようとすれば簡単だよ
言語と世界の間に結びつきなんて無いんだ
保証された確言可能性があるだけさ
想像してごらんすべての人々が
言語ゲームを生きているんだと…
おもしろかった。もっと早く読めばよかった。指示の問題と虚構的言説の問題がどう絡み合っているのかというのは、非常にややこしいなあ。
というか、なぜ "Consequence of Pragmatism" というタイトルの本に「哲学の脱構築」という邦題をつけるのか。やりたい邦題だな(←今は後悔している)。
レゴブロックでクトゥルフ。最初ほんとに商品化されてるのかと思ってあせった。
デビット・リンチによる PS2 の CM。かっこいい。
また本を買いすぎた。後悔している。
ああ。
「読まなくてすむ本はないか」
「本は読みたいんだけど、最近読むのがおっくうだ」
「だから、買ってきて、さぁ読もうと思っても読まずにすむ本はないかなぁ」
安川一(編)
世界思想社、1991
- 『日常言語の論理学』
オールウド、アンダーソン、ダール(著)、公平珠躬(訳)、野屋啓一(訳)
産業図書、1996
マーケットプレースに安く出てた...orz
イアン・ハッキング(著), 出口康夫(訳), 久米暁(訳)
岩波書店、2006
結局買っちゃった。ずいぶんフランクな文体なんだな。
- 『四つの署名』
コナン・ドイル(著), 延原謙(訳)
新潮文庫(新潮社)、1953
ホームズはつまみぐいしかしてなかったので改めてはじから読んでいこうかと思って。
土屋勝(著)
カットシステム、2006
早くワードを卒業しようと思ってなかなか果たせずにいる。
- 劇団俳優座 LABO 21『地獄の神』
http://www6.ocn.ne.jp/~haiyuza/Pages/god.html
■ あらすじ
アメリカウィスコンシン州の片田舎で暮らす老夫婦が、ヘンな男を匿ったところ、その男を追うヘンなセールスマンがやってきて、謎の国家的陰謀に巻き込まれひどい目にあう。
■ 感想
経緯: zucasa 氏にチケットを譲り受けたため、新劇の公演を見に行くことになった。自分ではまず見に行く機会がなかっただろうから、よかった。
最初に悪いことを書く。
全体に漂う戦後民主主義的雰囲気 (?) というか、とにかく「社会が悪い」的世界観はかなり気に障った。具体的に言うと、パンフレットに書かれていた演出家の文章が「環境問題が悪化して地球はもう終わりだ。なぜ環境問題が悪化するかというと人々が環境より経済合理性を重視するからだ。しかしこんなことを書いている私もグローバリゼーションの恩恵を受け、おいしいコーヒーを飲んでるので云々」といった趣旨のものであり、かつそれとあいまって SE に原発批判ソングなどが流れていたことが私の心をだいぶなえさせた。
脚本自体はイヤな話だがおもしろかったと思う。上のあらすじだとどこがおもしろいのかわからないと思うが、次のような部分がおもしろかった。この劇では、最初から最後まで老夫婦が巻き込まれた陰謀がどんな陰謀だったのかは明かされない。匿われた男は何かに汚染されているらしく、「彼は保有者です」「汚染されています」と何度も言われる。あと彼がほかの人や植物に触れると、強力な静電気のような稲妻が走る。途中プルトニウムの話も出てくるが、核と関係があるわけでもなさそう。とりあえず汚染されているらしいことと、なにかの軍事作戦に利用されようとしていたことだけがわかる。
また「ロッキービュート」という地名が繰り返しほのめかされる。前半では、匿われた男が、ロッキービュートと聞くたびに、動揺して口止めしようとする。後半では、男を連れ戻しに来たセールスマンが「ロッキービュートへ行くぞ」と言う。ロッキービュートがどういう場所で、そこには何があるのかは最後までわからない。
要するに、陰謀の「陰謀っぽさ」をうろ覚えで再構成したような印象派的陰謀描写がおもしろかった。ちなみに、豆知識だが、こういうのを「マクガフィン」というのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3
マクガフィンという言葉はアルフレッド・ヒッチコックによって考案されたとされる。
「あの棚の上の荷物は何だ」と聞く。
もう一人が答えて「マクガフィンさ」
「何だそれは」
「スコットランドでライオンを捕まえる道具さ」
「スコットランドにはライオンはいないだろ」
「じゃ、あれはマクガフィンじゃないな」
ほか、アメリカの老夫婦の「アメリカの田舎の老夫婦っぽさ」などもそれっぽいのでおもしろかった。
前半の「社会は悪」的世界観を見て、「これは世の中をよく見てないし、想像力がまずしいのではないか」と思ったが、演劇はさすがに演劇なので、陰謀のそれっぽさや老夫婦のそれっぽい台詞などは世の中をよく見てる感じだった(「あー、こういう人いるわ!」)。しかし逆からみると、この戯曲のマクガフィン的陰謀描写は、「国家というのはなんだかわからない不条理なもので、理不尽な理由でひどい目にあわせてくるものだ」という世界観にもあっているのかと思った。つまり総合すると、会話などのレベルでは世の中をよく見ているが、国家のようなレベルの物事については、「なんだかわからないが、家族などの相互行為に干渉してきてひどい目にあわせてくるもの」といいうくらいの認識しか持っておらず、おお、これは要するにミクロ - マクロ断絶演劇だと私は思った。
Wikipedia を読む男参上。
「カラスは黒い」という命題はその対偶「黒くないものはカラスでない」と同値であるので、「カラスは黒い」事を証明するには「黒くないものはカラスでない」事を証明すれば良い。 そして「黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがない事をチェックすれば証明する事ができる。こうして、カラスを一羽も調べる事無く、「カラスは黒い」という事実が証明できてしまう。
こうした一見、素朴な直観に反する論法を指摘したのが「ヘンペルのカラス」である。 ときに「ヘンペルのカラス」は、それがまるで対偶論法の間違いを指摘した論法であるかのような誤った解説がなされる事があるが、本来はそうではない。
合理的・論理的でないのは人間の直観の方で、対偶論法にしろ「ヘンペルのカラス」にしろ数学的に何の問題もない論法である。 つまり正しくは、「ヘンペルのカラス」は人間の直観の危うさの方を指摘した論法なのだと言える。
これは、ちょっと変な説明かなあ。どこにひっかるかというと、帰納的判断と論理学の関係にまったく言及しないところに違和感がある。論理学というのは演繹的推論を扱ってきたものなので、帰納的判断の論理学というのは現在のところまともな形では存在しない。確かにヘンペルのカラスは対偶のおかしさを示すものではないが、本文で言われているような人間の直観の方がおかしいという話でもないだろう。それは、「対偶」のような論理学的操作と帰納的観察の関係が(今のところまだ)よくわからないというところに存する問題だと思う。
「ヘンペルのカラス」が直観に反してしまう理由の一つとして、「黒くないもの」の数が想像を絶して大きい事が挙げられる。 (「黒くないもの」は、宇宙全域にある黒くない全恒星、全原子を含むのでその数は莫大である)。 何らかの命題(例えば「カラスを黒い」)を示す際、個々の事例(カラス)を調べていくわけだが、命題の正しさの信頼度合は、調べた事例のパーセンテージが大きいほど上がって行く。(確証性の原理)。しかし「黒くないもの」を調べる場合は、「黒くないもの」の数は極端に大きく、「黒くないもの」をどんなに調べてもパーセンテージが低いままであるので、いつまで経っても「黒くないものはカラスでない」という命題の信頼性があがらない。 (黒くないものを調べ切るには、想像を絶する時間が必要になってしまう)。 この為「黒くないもの」を全部調べた気分に浸れず、「ヘンペルのカラス」が逆理に見えてしまうのである。
この説明は論理学と関係なくヘンだと思う。「黒いもの」を一個も調べずに「黒くないもの」をすべてピックアップするのはそもそも無理だろう。
最後の節にためになる指摘があった。
論理学におけるヘンペルの指摘とは本質的に無関係ではあるが、 アルビノのカラス(つまり「黒くない」カラス)は実在する。また、東南アジアに生息するカラスの多くは、腹が白い、全体に灰色であるなど、黒一色でない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%AF
「アドホックな仮説」の例。
一般に、ものを燃焼させれば煙が立ち上ることから、なにものかが燃焼中に放出されているのではないか、と見なしたのがフロギストン仮説である。この仮説に従えば、燃焼後の物体は質量が減少しているはずである。
(…)しかし、後にラボアジエによって精密な燃焼実験が行われ、燃焼すれば質量はむしろ増加する(現代科学の仮説では、燃焼とは酸化のことであり、当然ながら酸素が加われば質量も大きくなる)ことが分かった。
フロギストン仮説は否定されようとしたが、一部の科学者は仮説を偽であると認めず、新たな補足を加えた。この補足がアドホックな仮説と呼ばれる。それは、「フロギストンはマイナスの質量を持つから、フロギストンが燃焼中に出て行けば逆に質量は増加する」というものであった。
この話好きだなあ。「燃焼によって質量が増加する」って言われて「いや、フロギストンの質量はマイナスだから」って、どんだけアドホックなんだ。
http://www.members.tripod.com/~yoshino/socio/
「フィクションに対する態度~~A・シュッツの文学分析への一考察」など。
柏端達也(著)
勁草書房、2007
買おうかどうか悩み中。読むべき本が処理できなくなりつつあるので、基本的に新しい本は買わないようにしようと思っている。
イアン・ハッキング(著), 出口康夫(著), 久米暁(著)
岩波書店、2006
こっちはそのうち買うと思うが、とりあえずペンディング。
Lena Jayyusi(著)
Routledge Kegan & Paul, 1984
今この人の写真論*1を読んでいるのだが(これは非常におもしろい)、英語を読む遅さにわれながらびっくり。ぜんぜん終わらない。ので、この本まで読むのは無理だと思う。
最近立て続けに知り合いから荷物が三つ届いた。荷物を送ってくれた人々のうち、ひとりはアメリカに行き、ひとりは自衛隊に入隊することになっている。感慨深いというかなんというか、3月だなあといったところだ。最後のひとつは実家から食料とワイシャツを送ってきただけなんだけど。私は来年度もとくに立場は変わらないので、この3月に感じるところはないのだが、周りはいろいろ変わっていくなあと思った。
司氏に聞いた話。
明子という名前の人がいるのだが、由来は「諸葛亮孔明」らしい。孔明の「明」をとったそうだ。
宣言すれば引用になる(し、しなければ誰も気づかない)、という例。
- 『緋色の研究』
コナン・ドイル(著), 延原謙(訳)
新潮文庫(新潮社)、1953
前半はホームズとワトソンの出会いと犯人の逮捕まで。後半はホームズとほとんど関係ないモルモン教小説。むしろそっちがおもしろかった。
恥ずかしながら私は最近までこれがアンチモルモン小説だと知らなかったのだが、ユタ州では「ホームズは読んじゃいけません!」などと言われていたりするのだろうかと思った。
- 緋色の研究 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8B%E8%89%B2%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6
モルモン教への言及について解説あり。
この作品はモルモン教の末日聖徒イエス・キリスト教会が一夫多妻制を放棄した1890年よりも前に書かれた。 モルモン教徒は完全に一夫多妻を捨てたわけではなく、現在も正確な数は不明だが3万人以上のモルモン教徒が一夫多妻を続けているといわれている。 本編中でのモルモン開拓者やブリガム・ヤングに関する記述は相当な誤解と偏見を含んでおり、現在もなお多くの部分では修正されていない。ジョセフ・スミス・ジュニアによって創設された当時のモルモン教には確かに過激な面があり、ブリガム・ヤングらの努力でそうした部分は是正されていったが、当時のヨーロッパにはまだ強い誤解が残っていたのである。
なんだか矛盾してるけど。二文目とほかの文は書いた人が違うのだろうなあ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E7%90%86%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6
論理式から論理式を導き出す推論規則には、たとえば論理式 A と A ⇒ B とから B を導き出す推論規則がある。これはいわゆる三段論法である。
この部分が間違っているような。 「A と A ⇒ B とから B を導き出す推論規則」は MP(modus ponens)、日本語で除去規則と呼ばれるもので、三段論法とは関係ない気がする。
もちろん Wikipedia の記述に文句をつけるくらいなら、自分で直せばいいわけだが、アカウント持ってないし、とりあえずメモしておく。
ついでだから、論理学トリビア。どんな教科書でも最初に載ってるような基礎的な内容だけど。
「トートロジー」というのは、論理学的な概念だと思われてそうだが、論理学でいう「トートロジー」と日常語(むしろ修辞学の概念?)のトートロジーはだいぶ意味がちがう。
論理学以外でトートロジーというと、あまりよい意味ではない。「きみの議論はトートロジーだ」って言われたら、たいてい馬鹿にされてるのだ。一方論理学的トートロジーには悪い意味はまったくない。むしろトートロジーこそ論理学固有の対象であり、妥当な推論はすべてトートロジーであるとされる。
この「妥当な推論はすべてトートロジー」というのは、最初ちょっと戸惑うが、原因は「ならば」の働きにある。
推論は「(前提1)、(前提2)、(前提3)、ならば(結論)」という形をとる。このとき、推論が妥当なら、前提が真のとき結論も真であり、推論全体は真になる。前提が間違ってるなら、ありえない前提のもとでの推論なので、推論全体はやはり真になる。というわけで、妥当な推論はつねに真になる(=トートロジー)。一方妥当でない推論は、前提がすべて正しくても結論が偽になることがある(反例をふくむ)ので、トートロジーではない。
追記:
別のところにも変なのを発見した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E8%A6%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%AB%96%E7%90%86
直観論理(ちょっかんろんり)あるいは直観主義論理(ちょっかんしゅぎろんり)とは、従来の論理学(古典論理)は全てのものの真偽が明確になる「神の論理」であるとして、もっと慎ましやかに人間の立場の論理学を考えようということで提唱されたものである。
慎ましやかは関係がないのではないか。もしかしたら私が知らないだけでブラウワーがこう言ってるのかもしれないが、ふつう教科書的には直観主義論理は以下のように説明される。
直観主義論理学は排中律を認めない。排中律、すなわち「すべての命題は真か偽かいずれかである」ということを認めるには、対象はすでに決定ずみだと考えなければならない。しかし、未来のことや無限について、これが認められるかどうかは怪しい。たとえば「明日は雨だ」が真か偽かいずれかだというのは、未来がすでに決定ずみだという前提に立たないかぎり認められない。同様に、無限につづく数、たとえば円周率について「円周率には7の7連続が含まれる」などの命題が真か偽かのどちらかだと考えるのは、「神の立場」に立たないかぎり不可能だ。少なくとも人間の認識を基礎におくかぎり、これらの命題は真とも偽ともいえない。そこで、真でも偽でもない命題の存在を認め、排中律を持たない新しい論理としてつくられたのが直観主義論理。
(特に直観的にわかりやすい内容でもないため、直観主義論理という名前がふさわしいかどうかは知らない)。
- マツゲックリ
松かさのかわりに睫毛が生えている。
- 『事実・虚構・予言』
N.グッドマン(著), 雨宮 民雄(訳)
勁草書房、1987
これ、タイトルには虚構と入ってるものの、フィクションとはほとんど関係ない。ちなみに『表象の奈落』を読むと、ハスミン先生もタイトルのせいで間違えてこの本を読んだことがわかって楽しい。間違えて読んだうえに、(「可能なもの」という概念に対する批判の書である本書を) 可能世界型の虚構論といっしょくたにして論じているのはどうかと思うが。
実際のテーマは反実仮想と帰納的判断。フィクションは単にタイトルの語呂合わせで出てきただけだと思われる(正確に言うと、「反実仮想」や「可能なもの」はフィクションと決して無関係ではないので、かすってはいるが、内容としてはホントにかすってるだけ)。
それはそれとして。グルーというのは、本書に出てくる有名な概念だ。
グルー(grue)とは、緑を意味する英語グリーン(green)と、青を意味する英語ブルー(blue)から作った言葉で、たとえば、「2050年までに初めて観察されたものについては緑(green)を指し、2050年以降に初めて観察されたものについては青(blue)を指す」と定義される(グルーは、緑と青の切れ目にどの時点をとるかで無数の定義がありうる)。
このようにグルーを定義すると、2050年までに緑色のエメラルドが観察されたという事実が、「すべてのエメラルドはグルーである」という仮説を支持することになってしまう (従って「2060年にすべてのエメラルドはブルーである」という仮説も支持されることになってしまう)。この種のヘンな述語を帰納的判断から排除するのは、実はとっても大変だよというのが本書の主なストーリー。
(結論としては、「ブルーが過去何度も使用されてきた概念であり、グルーはそうでない」という語の使用の歴史に訴えかけないかぎり、グルー型の推論を排除することができない)。
この本の議論自体はいいのだが、私は「グルー」が架空の概念であることが気になっている。この種の議論はなるべく架空でない例に基づくべきだと思う。
もちろん議論の趣旨は、「語の歴史が帰納的判断に影響する」というものだから、「(歴史を持たない) 架空の語が排除される」ということ自体は議論の筋にもあっているのだが。似たような概念で、実際に使われているものがあれば、もっとうまいこと説明できるんじゃないかなあと思うのだ。
というわけで、グルーに似た概念をずっと考えているのだがなかなかいいのが思いつかない。
一個だけ思いついたのは、「子午線上の」(子午線をどこに置くかは時期によって違う)。しかし、すべての時期における子午線が「同一」とされているわけでもないので、これもちょっとすっきりしない。ある言語では同一とされるのに、別の言語では時間によって異なる名前を持つものなどがいいと思うのだけど。
大変ベタな例だが、「金星」と「宵の明星」「明けの明星」は似てなくもないかな。「宵の明星」「明けの明星」を同一と思わない人々にとって、宵の明星に関する観察から、明けの明星に関する判断を引き出すことは不当な判断でしかない。その際、「金星」という語は、「朝は明の明星、夜は宵の明星を指す」と定義できるが、これは、グルー並に不自然な語に感じられるだろう。従って「金星」という概念を認めるかどうかで妥当な帰納的推論のあり方も変わってくることになる。
まだいい例がありそうだが、思いつかない。
余談だが、本書にたくさん出てくるグルーの変種たちのうち、私が一番好きなのは「エフェルビー(Eifferuby)」だ。これは、ある時点より前には「エッフェル塔」を、ある時点より後には「ルビー」を指す語。
エルジェ(著), 川口恵子(訳)
福音館書店、1983
唐突に思い立ち、表参道のタンタンショップまで買いに行ってみた。
三浦俊彦(著)
岩波新書(岩波書店)、2005
ヴィレッジバンガードにて。
- "デュオU&U"
中古。
ミクシのコミュで知ったが、今日はラブクラフトの没後七十年目の命日だそうだ。
イア!イア!と冥福を (邪神に) 祈っておこう。
矢野浩三郎(訳)
国書刊行会、1985
創元文庫版の全集だと評論が入ってないんだよね。「宇宙冒険小説に関するノート」「文学と超自然恐怖」が読みたい。
マーケットプレースで安めに出てたし、この機会に買ってみた。
ボルヘスはラブクラフトのことを、「E. A. ポーの無意識のパロディ」と呼んだ。美文と論理的構成によって異常な完成度の恐怖小説を構築しつつ、生来の B 級センスのため (?) 、過剰に大げさな描写に走り、「円錐型の宇宙人って、怖いっていうか、もはや馬鹿の領域にいってませんか?」と暴走しがちなラブクラフトがポーのパロディだってこと自体はその通りだと思うけれど。果たして無意識だったのかどうか。たとえば、『北斗の拳』は表面的には真面目でありつつ、大げさすぎてギャグになっているけれど、それが「無意識」ってことはないと思うのだ。本人達はさすがにある程度わかってやってるはずだろう。
しかし、その辺のバランスって本当にむずかしい。ラブクラフトは実際に怖いし、北斗の拳を読んで感動することもあるし、パロディになってたら怖くないとか真面目に読めないというわけでもない。過剰なものや過剰なひとに惹かれがちな私としては、パロディとして読めないもので、本当におもしろいものなんてあるのかな?などと考えてしまいがちだ。
...特に結論はない。
ナナオのカラーユニバーサルデザイン対応ワイドモニターが欲しい!
叫んでみただけ。
このタグのもとでは主に私が本屋で発見したことなどを書くが、今日は本屋には行っておらず、ネット上で発見した本のことを書く。
森岡浩之(著)
早川書房、2007
出たらしい。そういえば星界シリーズ全部読んだ気でいたが、短編集は1も読んでなかった。というか、私はフィクションを研究してる気でいたのだが、最近勉強ばっかでフィクションに触れてなかったのでよくない。
山影進(著)
書籍工房早山、2007
ホントはこういうのめっさ好きなんだけど、かなり先まで勉強する機会はないだろうなあと思う。卒業後の楽しみとしてとっておきたい。
- 『死の王』
室住信子(訳), タニス・リー(著)
早川書房、1986
世の中には、異世界を舞台にしたお話が好きな人とそうでない人がいるが、私は好きな方の人で、嫌いな人がなんで嫌いなのかがよくわからず、完全に想像の埒外にあるというタイプの人だ。
そういえば、E.M. フォースターの『小説の諸相』にはちらっとそのことについて触れられていたように思う。なんて書いてあったかな。嫌いな人は妖精がどうしたとか、そんな起こりもしない出来事につきあうのは面倒なのだとか、そこまで関心を持ちたくないのだとか書いてあったかな。忘れたけど。
カール・ポパーという名前を聞いて笑う人と笑わない人がいる。
私はこの名前、思い出すだけで吹き出しそうになるほどおもしろいと思うのだが、人に説明してもわかってもらえるときとわかってもらえない時がある。おもしろいと思うんだけどなー。だってポパーだってw ちょっwww 何その名前w 名前じゃなくて音かよ! ポパー! ポパー! て角笛かよw
という具合。
■大変面倒くさいエントリシートを書いたのに、講談社に書類落ちした。もっと受かりそうなところを受けないとダメだなと思った。
■バイト先の社で、正式に就職して来年以降もはたらかないかと誘いを受ける。「就職活動したくないので OK したいのはやまやまだが、それもどうかと思うので、もうちょっと就活してから考えるので待ってくれ」的な返事をする。うーん、考えねば。
■今日は某社の説明会に行き、筆記試験を受けた。SE と日本のソフト産業の未来について説明さる。
■帰ってきてから、別の某社にエントリーした。ここは結構真面目に就職したい職場なのだが、募集人数は決して多くないし、むずかしいかもしれないと思う。
■メディアワークスの募集要項を取り寄せた。が、よくみたら年齢制限にひっかかってた。自分はもう若くないのだということは知識としては知ってはいるが、知らされると結構ショックだ。ほんの3ヶ月くらいの差なんだけど。
Thomas G. Pavel(著)
Harvard Univ Pr, 1989
Amazon に頼んだが、どうも送られてこなさそうだったので丸善に注文した。すると Amazon からなぜか唐突に送られてきてしまい、あわてて丸善を取り消そうと思ったらこちらも発送準備に入ってるところだった。
というわけで二冊手に入った。
本書は、文学理論系の人が可能世界意味論型の虚構論を扱った先駆だ。読んでみないとわからないのだが、内容については私はちょっと不安に感じている。
最近勉強していてわかったことだが、哲学系の虚構論の場合 (可能世界概念を用いた議論一般に言えることかもしれないが) 、この分析で果たして「何を言ったことになるのか」という部分がまず非常にむずかしかったりする。そんなわけで、よその分野の人がこの領域に触れる場合、失敗するとあららら...と大変なことにもなりがちであり、これを他山の石としたいものだ。
前回:
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_108.html
つづかないと書いたが、書いた後考えていると、やっぱり前回書いたことはちがっていたのではないかと思いだした。だから改めて訂正見解を書きたいのだが、コメント欄になぜか「おもしろくない」と書かれてしまったのでつづきが書きにくい。
今訂正見解を書くと、外圧に屈して意見を変えたかのようだ。しかし、外圧に屈する以前に、しむがこのコメントを書くことによって何が言いたいのかがさっぱり伝わってないことを断っておく。もちろん、おもしろくないものにおもしろくないと言って悪いことはないが、ほかの記事があの記事よりも格別おもしろいとも考えがたいので、わざわざあの記事についてだけそう言ってくるからには、何か特別なことが言いたいのだろうか。しかし、いったいどんなおもしろさを期待していたのか。「おもしろくない」というのは、私の説がよくないという意味なのか、個性という語の意味について考えることがおもしろくないと言いたいのか。前者だとすれば、意見が変わった以上、私は早く訂正記事を書くべきだ。一方後者だとすれば、個性に関する記事をさらに増やすことは (しむにとっては) 逆効果でしかないだろう。しかし、よくわからないので、その辺はとりあえず置いておくことにする。いずれにせよ意味がわからないのに何か悪意だけを感じるコメントには意気阻喪させられる。
書いた後、やっぱりちがうかなと思ったのは、「前景化されやすい」だけでは、個性という語の意味を捉えつくせてないかなという点だった。前景化されやすいというのは要するに「目立つ」というだけだが、目立つというのと個性的というのは、少しちがっているように思う。
代案もすでに出ている。「個性」という語が、「あなたらしさ」「その人らしさ」などの表現と互換的に使われることに着目してみた。ここで「個」というのはひょっとすると名前の代わりに使われているのではないだろうか。
「あなたらしさ」「その人らしさ」という表現が意味するのは、「あなた」であるものが共通して持つような「あなた性」「汝性」のことではない。「あなた性」ということであれば、モデムには話しかけづらいが、サボテンには幾分話しかけやすいということで、サボテンは「あなた性」をより多く持つと考えられる。しかし、「あなたらしさを大切にしなさい」などの言葉は、「二人称で話しかけやすい存在でありなさい」という意味ではないだろう。
ここではおそらく、本当は「赤田らしさ」「鈴木らしさ」「田中らしさ」...など、個人それぞれの「らしさ」について言いたいのだが、それを一般的にして「あなたらしさ」などと言っているだけだろう。つまり、「あなたらしさ」は、あなた一般についての「あなたらしさ」を言ってるのではなく、個物としての「あなた」であるものそれぞれについて「らしさ」を言っているのだと考えられる。
個性というのもこれと同じで、本当は「赤田性」「鈴木性」「田中性」...etc. について言及したいのだが、それを一般的にして「個」性と言っているのではないだろうか。かくのごとく考えるなら、「個性を表現しなさい」とは、「あなた (赤田、鈴木、田中 ...etc.) をあなたたらしめているところの本質属性をもっとアピールしなさい」という意味だ。ここで「赤田性」「鈴木性」「田中性」...etc. が単に「赤田である」「鈴木である」「田中である」...etc. を名詞化したものだとは考えにくい。「赤田である」という状態を表現すればいいなら、単に自己紹介をするだけで話はすむ。だが、個性の表現とは、そういう意味ではないだろう。従って、個性はおそらく本質主義的な概念であり、表現されるものはあくまでも当人の本質でなければならないはずだ。個性とは、「赤田、鈴木、田中 ...etc.」がそれを持つことによって、「赤田、鈴木、田中 ...etc.」たらしめられる本質的な性質のことだ。
前回よりさらに当たり前の結論が出たような気もするが、何となく納得がいったのでこれでよしとする。この後には、「何をもって個人それぞれの本質とすればよいか」であるとか、「そもそもそんな性質は存在するのか」といったよりむずかしい問題がひかえているが、今日はもう眠いので気にしないことにする。一応現時点で考えている解答としては、その人を特定するに十分であるような「目立つ要素」が暫定的に「個人を個人たらしめる本質」の代わりをつとめるのではないかと思わないでもない。
少なくともこれでこの語の意味がある程度わかった以上、今後エントリーシートなどで個性を表現することも決して不可能ではないはずだ。今後は、肝心の個性を表現するための方法について考えていきたいと思う。
個性という言葉について考えることがある。そんなことについてはまったく考えなくてもいいし、ブログに書かなくてもいいのだが、現実逃避気味に書いてみる。
「個性」という言葉は文字通りに解すならば、「個である」という性質を指すはずだ。ただし、「個である」という性質といっても、そこにはまだいくらか解釈の余地がある。「個性」というものを、その属性を持つことによって、普遍者が個物たらしめられるような要素であると考えるなら、いくらか形而上学的発想になる(この場合「個性」とは「このもの性」のような概念だと考えられる)。単に「個である」という述語を名詞化しただけだと考えるなら、特に形而上学の余地はない。
(ちなみに、これは私がたった今思いついた説だが、日本語の「性」による名詞化には、因果的な含みを持つものと持たないものがある。「攻撃性」というのはそれを持つことによって攻撃的になる属性のことであり、因果的な含みをもつ。一方、「夜行性」というのは、単に性質を名詞化しただけであって、因果的な含みはない。上の「個性」の二つの解釈はこの「性」の二つの用法に対応する)
しかし、いずれにせよ、人が「個性」という言葉を使っているとき、いちいち「個であること」という風に翻訳していくと、どうも意味がわからない。
たとえば「あの人は個性的だ」という。まずなぜ「個的」ではなく「個性的」なのかという点からしてむずかしいが、「理性をもつ」ことを「理性的」というから、もしかすると「個性をもつ」の形容詞化なのかもしれない。しかし、「あの人」と名指せる時点で、「個」であるのは当たり前なのだから、これでは意味が通らない。
「個性を表現する」という用法もよくわからない。「個性を表現する」というからには、「個である」ことを表現するのだろう。この際、「個」の反対概念は何なのだろう。「普遍ではなく、個だいうことを表現する」であるとか「一般的ではなく個だということを表現する」という意味にとるとかなりおかしい。多くの人は表現するまでもなく個に見えるし、「普遍に見える人」「一般的なカテゴリーに見える人」というのは私はまだ見たことがない。
ただし、先ほど、大航海の中世思想特集を読んで知ったのだが、中世には天使は「個」ではなく、「普遍」あるいは「種」として存在すると信じられていたらしい。この場合、「普遍として存在する」とは、「高度な完全性で存在する」という意味だそうだ。となると、「個性を表現する」というのは、「完全性の度合いが低いことを表現する」という意味かもしれない。例えば「よく忘れ物をする」とか「すぐかっとなる」ことを「人間らしい」というが、そのような意味で「(普遍たりえない)個ならではの部分を見せる」という意味である可能性もある。あまり信憑性はないが、考えうる説の一つとして一応提出しておく。
これについて個人的には、一応結論が出ている。この場合、おそらく反対概念は「普遍」ではなく、「同定不可能」とか「統一的でないこと(まとまりをもたないこと)」、「対象化できないこと」ではないかと思う。つまり、「個」とか「普遍」以前に、そもそもまとまりをもった対象として認識されないものがあったことに気がついたのだ。
砂浜をぼんやり見ているとき、私は、砂の一粒一粒については特に気を払ってない。それらの砂粒は十把一絡げに砂浜の一部として見えている。この際、砂粒はまとまりをもったものとして認識されていない。このような状態のことを「個性的でない」と表現するのではないかと私は考えた。つまり、個性を表現するとは、十把一絡げな群衆や光景の一部に見えないようにするという意味だ。
例えば、大勢のなかで一人だけ、真っ赤な帽子をかぶっていると、「あの赤い帽子の人」などという具合に同定されやすくなる。この場合、この帽子の人は個性を表現しているのだと考えられる。もっと長期的に考えた場合でも、「とても奇抜な性格だ」とか「身長が3メートル以上ある」というのは、職場で、教室で...etc. で、背景から浮き上がり、同定されやすくなる要素であるだろう。おそらく視覚的に同定しやすいだけではなく、人格にせよ何にせよなんらかの要素によって「背景にうもれない」「前景として対象化されやすい」という性質を指すのだと思われる。
結論が出てみると当たり前すぎて、なぜこんなことで悩んでいたのかわからないほどだが、そもそも「個」という語が誤解をまねくものであったのではないだろうか。「個」という語は普遍や一般の反対概念であるはずであり、このような状態を指す語なら、はじめから「個」は関係ないのではないかと思う。「識別しやすい」とか「同定しやすい」とか「まとまりを持ったものとして認識されやすい」とかもっとよい言葉がほかにあったはずだろう。今後、このような過ちを他の人々が犯さないようにするためにも、べつの言い方を推奨したい。個人的には、「対象化しやすい」「前景化しやすい」が言いやすくていいのではないかと思う。
つづかない。
ドラえもん長編映画『のび太の新魔界大冒険』
http://dora-magic.com/top/index.html
観に行きたい。ふと思ったが、SF におけるパラレルワールドというのは、様相論理の可能世界意味論や物理学の多世界説とちがい、なかなか出所がどこであるのかよくわからない概念であるな。タイムトラベルから派生した概念なのかな。
もしもボックスによる世界というのは、「もしも…だったら」という形式からして、様相論理の可能世界概念に近いようにも思う。だとすると、数学的真理が異なった世界などにはもしもボックスでも行きつけないのか。よくわからない。
旧魔界大冒険では、「魔法の世界」自体がもしもボックスによって生み出された世界であるにもかかわらず、魔法の世界をなかったことにすることはできないというのび太の心理的葛藤が描かれていた。しかし、よく考えてみると、もしもボックスによる世界すべての「実在」を認めるなら、魔法の世界においてドラえもんが壊れたままになった世界や、魔界の侵略が実現した世界などもすべて実在することになり、のび太が何をしても悲惨な結果を回避することは―多世界レベルで見ると―できないわけで...うんぬんかんぬんと思ったが、それ以上あまり考えが発展しなかった。
- 『妖精物語の国へ』
J.R.R. トールキン(著), John Ronald Reuel Tolkien (原著), 杉山洋子(訳)
ちくま文庫(筑摩書房)、2003
メインのエッセイ「妖精物語について」のみ。
見かけよりずっとむずかしい本だと思った。「魔法」「ファンタジー」「魅惑」などといったよく似た概念がいくつか出てくるが、どう関係するのかわかりにくい。
あまり詳しく述べられてないが、トールキンは、新たな対象を創造することについて、語の新たな組み合わせによって生み出すのだという。これはラッセルに近い説かもしれないと思う。
■ あらすじ
妖精物語の語源について。妖精物語は妖精が出てくる話のことではない。fairy の語源はむしろ「妖精の国 faerie」であり、妖精の国の方が妖精より大事だ。
妖精物語の起源について。妖精物語の起源が歴史にあるとか神話にあるとか言う人がいるが、実話と物語に同じモチーフが出てくるのは何ら重要ではない。物語には物語独自の文法の蓄積がある(本書では「スープ」と呼ばれる)。だから、そもそも歴史と物語の間で、「同じ」ということに問題がある。
妖精国の創造は、概念の新たな組み合わせによってなされる。たとえば「金」と「羊」から「金の羊」を得る。これを準創造と呼ぶ。これこそ妖精物語の起源である。
子供について。子供が特に妖精物語を好むというのはただの嘘だ。最近では妖精物語に人気がないから、それを子供に押しつけようとしてるだけにちがいない。
ファンタジーについて。創造は概念の組み合わせによってなされる。「ファンタジー」とは、それに現実らしい一貫性を与える技を指す。ファンタジーは、準創造の成果を用いて「第二世界」をつくる。ファンタジーはもっとも準創造的な文学形式である。また、ファンタジーの目的は、魅惑を与えることにある。魅惑とは、とても満ち足りた気持ちを与えるような第二世界をつくる力のことだ。
ファンタジーが理性的でないなどという人がいるが、それは間違っている。ファンタジーは概念の秩序にいたずらをしかけるが、それはむしろ秩序を認識することである。人間と動物の区別ができなければ、人がカエルと結婚する話はおもしろくもなんともない。
ファンタジーの効用のひとつは「回復」である。それはものを見る力を回復させる。ファンタジーは、ふつうの語の持つ不思議な力を改めて認識させる。
効用のもうひとつは「逃避」である。逃避はダメだなどという人は、逃避という言葉の意味をはきちがえている。イヤなものや恐ろしいものから逃げて何がいけないというのかわからん。人が持つ願いはファンタジーの創造の源である。
効用のもうひとつは「慰め」である。ファンタジーはハッピーエンドによって、独特の喜びを与える。
準創造は、現実らしき第二世界をつくる。よくできた第二世界にはリアリティがあるが、第一世界とちがい、独特の喜びに満ちあふれている。しかし、この喜びがかつて現実のものとなったことがあった。キリストの物語は、現実になった妖精物語である。福音書は、歴史と一体になった伝説であり、ハッピーエンドの喜びを現実化したのであった。
河出書房新社、2006
今、ぱらぱら見てたら、異世界ファンタジーを最初に書いたのはウィリアム・モリスじゃないかと中村融氏が書いていた。ほー、と思った。
- 雑誌「大航海」vol.62
河出書房、2007
「中世哲学復興」
DANCE MAGAZINE 別冊こと「大航海」。今月は、中世哲学特集。
パースの論文も載ってるよ。
自分用。
- Jayyusi, L"The Reflexive Nexus:Photo-practice and Natural History"
Continuum: The Australian Journal of Media & Culture, 6-2, 1991
ジェユッシ、L「反省的ネクサス: 写真-実践と自然史」
『実践エスノメソドロジー入門』より。
↓HTML で入手可。
http://wwwmcc.murdoch.edu.au/ReadingRoom/6.2/Jayyusi.html
個人的には PDF 版がほしいなあ。自分でつくるか。
野本和幸(著)
法政大学出版局、1997
野本和幸(著)
岩波書店、1988
たぶん読んだ方がいいのだが、ちょっと後回し。
- 吉野ヒロ子「犯人は告白する : 推理小説の社会学」
ソシオロジカル・ペーパーズ、vol.6, 1997
- 吉野ヒロ子「テクストのエスノメソドロジー : D・スミスとA・マクホールを中心に」
早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第1分冊, 哲学・東洋哲学・心理学・社会学・教育学, vol.43, 1997
- 吉野ヒロ子「<修士論文概要> 虚構のリアリティ : アルフレッド・シュッツの文学分析への一考察」
早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第1分冊, 哲学・東洋哲学・心理学・社会学・教育学, vol.41, 1995
前から何度かセカイ系について書こうかと思いつつ、別に書かなくても (私も含め) 誰も困らないから放置気味であった。今日はなんとなく書くぞー。
Wikipedia を見てみたが、この定義はよくないんじゃないかと思った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB
セカイ系の「セカイ」という言葉は、もちろん世界を意味する。セカイ系とは、主人公、もしくは主人公を含む仲間達の少数の行動が、途方もない数の人達が住む全世界の命運を大きく左右してしまうという点に特徴がある。その規模は、地球全域、異世界であるならば主人公のいる国をも超えた全世界、作品によっては全宇宙や、パラレルワールドさえ含む時空間全てと言うように非常にスケールの大きいものが対象である。これらの主人公らの人間関係・内面的葛藤・行動等が社会を経ずに世界に直接影響する一連の作品群が「セカイ系」と呼ばれるようになった。
「主人公、もしくは主人公を含む仲間達の少数の行動が、途方もない数の人達が住む全世界の命運を大きく左右してしまう」って、これじゃマジンガーZ もドラゴンボールも、セカイ系だ。かなりの数の少年漫画がセカイ系になってしまうだろう。このようにセカイ系を「少数が」「世界全体を」という風に規模で定義するのはうまくいかないんじゃないかと私は思う。後段ではさらに、勧善懲悪からの離脱という風に規定されるが、これもいまいちだと思う。
私はこの語に関して自分なりの定義を持っているのでそれを示す。
セカイ系とは以下の二つの条件を満たす作品のことである。
- 「敵」「味方」「戦い」といった道具立てが、説明も理由付けもされない。
- 「敵」「味方」「戦い」といった道具立てが、登場人物の心理の隠喩っぽく機能する。
「道具立て」や「設定」が隠喩になるという部分がポイント。説明されないのは隠喩として機能するための必要条件。
たとえばエヴァンゲリオンでは、なんで使徒が攻めてくるのかよくわからないし、最後までほとんど説明されない。しかし、それがなんとなく、シンジ君の心理の隠喩らしく読めるようになっている。エヴァンゲリオンはこの二点を満たすのでセカイ系。
少数の人が世界の命運を決定することが問題なのではなく、作品世界がそもそも主人公らの心理の隠喩にしかなっていないというのが重要な条件だ。
ついでに言えば、セカイ系について、そこにおける「組織」や「社会」のリアリティのなさがしばしば指摘されるが、これは隠喩とトレードオフの関係にあると思われる。アレゴリー小説における「真理さん」や「信仰さん」といった隠喩的登場人物が、リアルな心理を持たないように、隠喩であるところの作品背景はリアルなものにはなりえない。リアルだったら隠喩に見えなくなっちゃうから。背景はあくまでも書き割りでなければならないのだ。
成立史からいうと、こういうことが言えるんじゃないかとちょっとだけ思ってる。セカイ系の作品が登場する背景には、道具立てが紋切り型になっていく過程というのがあったのだと思われる。「敵」、「悪の組織」、「ロボット」といったものたちが、最初は「なぜこれこれの組織が出てきて、なぜ戦わねばならないか」という形で説明、理由付けとともに導入されていた (説得力のある説明になっていたかどうかはともかく、説明は必要だとされていた)。しかし、それがお約束になると、説明がだんだんおざなりになってくる。「悪の組織と巨大なロボットで戦う」という部分だけが自己目的化していく。
それに対して、「もっとリアルな悪の組織とロボットを出そう」というのは新しい作品を生み出す一個の方法であると思われる。しかし反対に、「いっそ書き割りにして、人物 (主に主人公) の方に主眼をおこう」というのがセカイ系の道でないかと私は思うのであった。
別の言い方をするとこうなる。よく昔の漫画とかで、うつうつとしてる主人公の背景画がサイケな絵になったりするじゃないか。あれは主人公の心理を絵で説明してるわけだが、あのサイケの部分をアニメだの漫画だのの規定のフォーマットに無理矢理押し込めたのがセカイ系だという風に考えたいのだな、私は。
Wikipedia のこの部分何を言ってるのかわからん。というか全体的にこの記事は日本語がおかしい。
環境問題に関心がなく、自然環境の多様性が減った事で唯一神が生まれやすい(例:キリスト教、イスラム教を生み出した文化圏は、自然が少ない乾燥地帯=古代文明が盛衰した跡に生じている)状態になった事はこのジャンルの隆盛と無縁ではないだろう。
セカイ系は一神教とどういう関係なの? セカイ系は一神教なのか? あとこの説明だとキリスト教徒やイスラム教徒やユダヤ教徒は環境問題に関心がないことになっているが、それもどうなのか。
これに対する反批判も載っているのだが、こちらもむずかしくて何を言ってるのかわからない。
上記の批判は一般的な「セカイ系批判」であるが、問題をいささか単純にしすぎている面もある。例えば新世紀エヴァンゲリオンを例にとっても、世界の危機の実質は少数の意志ではなく巨大組織間の対立として出現し、その解決も、最終話が碇シンジの例として定義づけられ、シンジと一般化された他者との和解として提示されているように、実際にはそれぞれの登場人物における解決がありうる。また例えば、主人公には全貌の見えない「機関」「情報統合思念体」といった組織間、組織内の対立が暗示される『涼宮ハルヒシリーズ』もまたしかりである。この涼宮ハルヒシリーズに至っては世界的危機そのものすら存在せず、セカイ系の手法を用いているといえないエピソードも多く見られる。これらの現象は他の多くの作品にも同様に観察可能である。
2、3回読んだらなんとなくわかった。セカイ系の典型例とされる作品においてもすべてが少数者の意志で決まるわけじゃないと言いたいわけだな。これは、批判してる割に「少数者の意志で決まる」という定義を受け入れているのがヘンだと思う。「上述の定義は、実際の作品に全然あてはまらない。べつの定義に変えよう」という方向に話がいかないのはなぜなんだ。
あと↓の本がセカイ系の作品に入っているのだが、本当? 本当なら読みたいのだが、嘘なら読みたくない。
- 『無痛文明論』
森岡正博(著)
トランスビュー、2003
三上真司(著)
東信堂、2007
■ あらすじ
ざっくりと整理すると以下のような二分法になっていると思われる。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
「視線の共有が成り立つとき」~「狭義のもの」~「実体論」~「固有名が固有名として機能する」(クリプキらの固有名の直接指示説が正しい)~「de re 的」~「存在は前提されており、存在を問う命題は無意味」
↑
↓
「視線の共有が成り立たないとき」~「広義のもの」~「束理論」~「固有名が記述に還元される」(ラッセルの確定記述説が正しい)~「de dicto 的」~「存在は前提されておらず、存在に関する命題が有意義」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
話者も聞き手も場面を共有しており、指示先の共有が前提できる場合(対象を「あれ」と指し示せる場合など)、名前は対象を直接指示する。しかし、「対象の共有が疑い得ない」場合はそう多くはない。むしろほとんどすべての場合について、対象の共有を疑うことができるのであって、「同じものについて話しているのかどうか」が怪しくなるやいなや、ラッセル説が正しくなる。それでも、固有名の直接指示が成り立つように見えるのは、「同じものについて話している」かのように人々がふるまうから。つまり対象の共有はごっこ遊び make-believe として成り立っている。そこでは、疑いはいつでも潜在的に可能であるが、普段は潜在している。
■ 感想
著者は、分析哲学に関心のある現象学畑の人? 実はよく知らない。
内容は、大変啓発的であり、勉強になる。とりわけ、直接指示の根拠に「ふりmake-believe」が効いてくるというのは、個人的には非常にためになる指摘であった。ラッセルの確定記述説の再評価にも説得力があったと思う。
本書の体裁は、形而上学とか、存在についての話だということになっているが、メインのテーマはむしろ「指示」についてであるように思う。その意味では、「話し手の指示」や指示の因果説などの論点にもっとつっこんでほしかった気もする。特に指示の因果説との対決は、ぜひ見てみたかった。そこでこそ著者の主張が明確になったのでは?と個人的には思わないでもない。
■ 目次
- プロローグ
- I ものとは何か?
- 1 狭義の「もの」と広義の「もの」
- 2 「実体論」vs「束理論」:元来のヴァージョン
- 3 「実体論」vs「束理論」:今日的ヴァージョン
- 4 思考の空間と「もの」の名前
- II 存在とは何か?
- 1 非存在のパラドクス
- 2 名前から存在へ
- 3 第一階述語 vs 第二階述語
- III 同一性とは何か?
- 1 同一性のパラドクス
- 2 同一性と内包性
- IV 私が思考するとき、何が生じているのか?
- 1 私は考える
- 2 「私は……」
昨日某社にエントリ成功。
気軽に書いたら楽だったが、気軽に書きすぎたかも知らん。
そのちょっと前に新潮社の締め切りがあったが、それは逃した。
三上真司(著)
東信堂、2007
2007/06/09訂正:
以下に書いたことは間違いであるか、少なくとも誤解を招くものでした。すいません。http://www.at-akada.org/blog/2007/06/post_218.html
↑訂正記事
同一性記号と変項の扱いについて、明らかに間違ったことが書いてある箇所があったので書き記しておく。というか間違いを書いた後でほめようと思っていたのだが、間違いについて長々書いているうちに眠くなってしまったので、ほめるのは明日以降に延期する。
同一性は「もの」と「もの」との関係なのだろうか。もしそうならば、それはいかなる関係なのか。「もの」とそれ自身の関係なのか、それとも「もの」と別の「もの」の関係なのか。もし前者ならば、同一性を言い表す言明は必然的に真であり、しかもこのうえなくつまらない同語反復でしかない (a=a)。もし後者ならば、それは必然的に偽である。それ自身とは別のものと同じであるようなものはないからである (a≠b)。p123-124
論理学には同一性を「『もの』と『もの』の関係」として把握する傾向が内在している。もし通例通り同一性の記号が「もの」と「もの」の関係として把握されるならば、それは上述のパラドックスに帰着する。p124
これは、かなり怪しい表現。
同一性記号を「ものとものの関係」だと把握すれば、確かにパラドックスでも何でも起きるかもしれないが、それは単に同一性記号に関する理解が間違っているからだ。同一性記号は「ものとものの関係」については特に何も言ってない。
同一性記号が意味するのは、「二つの名前が同じものを指示する」ということだ。
戸田山本から同一性記号の定義を引いてみよう。ただし、メタ言語のイコールとごちゃごちゃになってややこしいので、ここでは同一性記号には半角の「=」を使う。メタ言語のイコールには全角の「=」を使う。またギリシャ文字は使いたくないので、漢字に置き換えておく。
任意の個体定項甲、乙について、VM(甲=乙)=1 ⇔ V(甲)=V(乙)
p203
これが意味するのは、『モデルMのもとで、論理式「甲=乙」が真となるのは、定項「甲」に割り当てられる個体と定項「乙」に割り当てられる個体が同じとき、かつそのときのみですよー』ということだ。
以上のように同一性はあくまでも「2つの記号と1つのもの」の話なので、1つのものについてつねに1つの名前だけを割り当てるようにすれば、「a=b」などの文は必要がなくなる。このあたりは著者の言うとおり。
ただし、同一性記号が無意味になるのは定項の場合にかぎる。名前がつねに一個だけだとしても、自由な変項に関する同一性記号は無意味ではない。
たとえば、以下のようなモデルを考えよう。
議論領域: {1, 2, 3}
個体定項
a: 1
b: 2
c: 3
述語
2x: x が偶数である。
このとき、論理式「2b∧∀x(2x→x=b))」は無意味ではない。
これは「偶数なのはbだけですよー」という意味だ。無意味どころか、同一性記号を使わないとこの文は表現できない。
もう少し細かく言ってみよう。x は変項だ。変「数」であるということは、「そこに入る数が様々に変わる」ということを意味している。これと同様に、変「項」であるということは、「そこに入る『項』(記号)が様々に変わる」ということを意味している。つまり、「∀x(2x→x=b)」は、「どんな記号を x に入れてみても、(2x→x=b) が成り立ちますよ」という風に読める。今記号は、a と b と c しかないから、「∀x(2x→x=b)」が意味するのは、「a, b, c を順番に x に入れてみなさい。2x が成り立つなら、その記号は b と同一ですよ」ということだ。
だから文全体は「bは偶数であり、かつすべての記号について、その記号の指示先が偶数ならば、その記号の指示先は b と同じですよ」という風に読める。これを短く言うと、「偶数なのはbだけですよー」となる。これはトートロジーでも矛盾でもない。モデルによって真偽がかわる文であり、この場合はたまたま真になっている。
著者はおそらく変項というものについてよくわかっていないのだと思う。それがはっきりとわかる箇所は以下。
ただし、「二人の人が『ウェイヴァリー』を書いたことはなかった」も「二人の人が『マーミオン』を書いたことはなかった」も他とは独立した内容なので、すでに使われている変項を重複して述べることはできない。それを回避するならば、「『ウェイヴァリー』の著者は、『マーミオン』の著者と同一人物である」は次のように表すことができる。
(4) ∃x(Px∧Qx)∧¬∃y∃z{(Py∧Pz)∧¬(y=z)}∧¬∃v∃w{(Qv∧Qw)∧¬(v=w)}p141-142
著者はできないと言っているが、(4)は以下のように書いてもかまわないし、ふつうはこう書くと思う。
∃x(Px∧Qx)∧¬∃x∃y{(Px∧Py)∧¬(x=y)}∧¬∃x∃y{(Qx∧Qy)∧¬(x=y)}
なぜこう書いてかまわないかというと、誤解の可能性がないからだ。この文を日本語で読むと次のようになる。「(Px∧Qx) に入れると成り立つような記号があります。かつ {(Px∧Py)∧¬(x=y)} に入れると成り立つような二つの記号 x, y はありません。かつ {(Qx∧Qy)∧¬(x=y)} に入れると成り立つような二つの記号 x, y はありません」。
ややこしいから、三つに分けよう。
ア: ∃x(Px∧Qx)
イ: ¬∃x∃y{(Px∧Py)∧¬(x=y)}
ウ: ¬∃x∃y{(Qx∧Qy)∧¬(x=y)}
ここでア、イ、ウはそれぞれ別の量化子のスコープ内にある。
アの部分は一個の記号 x について述べているが、括弧が閉じることによって x の話はいったん終わっている。だからイとウでもう一回 x を使っても誤解の可能性はない。
一方、これと違いイのなかの x と y は区別されなければならない。ここでは、∃x∃y という二つの量化子のスコープが重なっている。これは x と y という二つの記号について述べているのだと考えなければならない。x と y は同じかもしれないし、べつかもしれないし、どっちかわかんないから二つの記号を使うのだ。
∃x∃y(Px∧Py) が真であるのは、二つの違うものが 'P(...)' を充たすときである。「二つの違うもの」の差異は、'x' と 'y' という違った記号を使用することですでに尽きているのだから、¬(x=y) をその後に付加するのは余計なだけである。p143-144
ここは明らかに間違っている。x, y は違うものかもしれないが、同じものであってもかまわないのだ。
さっき私があげたモデルで、2x が成り立つ記号はひとつしかないが、「∃x∃y(2x∧2y)」は真になる。なぜなら「2b∧2b」は真だからだ。ここでは x と y が同一であるか別であるかについて何も言われていないため、x=y の可能性を排除できない。
権威付けのために教科書を参照しておくと、x, y が同じものであってもいいということは例えば、戸田山本の p179 などにかなりはっきりと書いてある。
というかだね。「同一性記号が役に立つのは、量化子のスコープのなかでだ(自由な変項についてだ)」というのはむしろ「視線の重ね合わせ」という著者の主張に適合しやすいことだと思われるのだ。そのため、こういう基礎的なレベルで間違いをおかされるのは、本書の読者としては残念でならない。このあたりの話をからめさえすれば、同一性に関する議論はもっとずっと深められたはずであったと思う。
相変わらず本を買いすぎ。
以下ヴェーバー二冊は新品。
- 『職業としての政治』
マックス・ヴェーバー (著), Max Weber (原著), 脇圭平(訳)
岩波文庫(岩波書店)、1980
- 『職業としての学問』
マックス・ウェーバー(著), Max Weber(原著), 尾高邦雄(訳)
岩波文庫(岩波書店)、1980
某社の就職試験で、「職業としての……」という作文があった。「職業としての」という言葉にはどういう含意があるのかなと思って購入してみた。『学問』の方のみ読んだが、おもしろかった。
以下四冊は古書店にて。
- 『記号論理学』
清水義夫(著)
東京大学出版会、1984
論理学の教科書というのは、命題論理、述語論理までは確実に載せなければならないが、それ以上のレベルで何を載せるのかは著者によって異なる。その辺が教科書制作者の腕の見せ所なのだと最近気づいた。この本はブール代数が詳しいようだ。
- 『集合と位相』
鎌田正良(著)
近代科学社、1989
H.R.F. キーティング(編)
早川書房、1990
クリスティーって好きそうでどうも苦手なんだけど、克服しようかと思って。
- 『家畜人ヤプー』
沼正三(著)
角川文庫(角川書店)、1972
ウィーアーザ家畜人。
『職業としての政治』を読んでいたら思い出した。昔考えたこと。
「暴力反対」というのは一貫させるのがむずかしい立場だ。厳密な意味で「暴力反対」という立場にたつ人は、実際はほとんどいないのではないかと思う。
まず前提の確認。「暴力反対」という主張がなされた場合、それは二通りに解釈できる。ひとつは個別の暴力に反対する場合であり、もうひとつは暴力一般に反対する場合だ。
前者のように個別の暴力に反対する場合、実際の主張は「おまえの暴力に反対」であったり「aさんの暴力に反対」であったりする。これはもちろん、暴力というもの一般に反対しているわけではない。単に目の前の (あるいは話にのぼった) ローカルな行為に反対しているわけだから、この種の主張を「暴力反対」と呼ぶべきではない。これは暴力反対ではなく、個別の出来事や行為に対する反対だろう。
次に、暴力一般に反対することについて。
暴力に反対するのがむずかしいのは、暴力を利用せずに暴力を止めることがむずかしいからだ。
暴力抑止のための暴力の存在を認めるならば、暴力反対という立場ではない。たとえば一見「暴力反対」に近いことを言っていても、警察制度を是認する人は暴力には反対していない。違法な暴力行使を止めるために、合法的な暴力を行使することを認めるのなら、それは暴力一般への反対ではなく、「違法な暴力反対」という立場だ。もちろん「違法な暴力反対」という立場を省略して「暴力反対」と呼ぶことにしても良いのだが、「違法な暴力反対」という主張は、ある点では積極的に暴力に賛成しているため、これを「暴力反対」と呼ぶのは誤解のもとでしかない。
実際のところ、暴力反対をとなえる人のほとんどは、個別の行為に反対しているか、「違法な暴力反対」であるか、「反道徳的な暴力反対」であるか、「暴力を見せられることに反対」であるのだと思う。これらの立場はすべて暴力反対ではない。むしろある種の暴力を積極的に認めようという立場だ。
地上では現に暴力が発生しつづけるため、この点をなんとかしてクリアしなければ暴力反対という一貫した立場をとることはできない。暴力に反対するために必要なものは、「暴力を抑止できる暴力以外の方法」だ。さらにこの方法をもって、警察制度、軍隊制度その他を置き換えていくプランを用意することで、はじめて暴力反対という立場にたつことができる。
暴力以外の暴力抑止力として、考えうる一個の方法は、「口で説得する」とか「パフォーマンスで説得する」というものだろう。実際、キリストからキング牧師まで、反暴力的な主張をする人の多くは弁舌の達人だ。「どのような相手と対峙しても説得できる」という自信さえあれば、少なくとも、エゴイスト的には暴力反対の立場をとることができる。その場合、警察その他の組織がなくても、その人自身はなんら困らない。また自分が困らないのだから、「他人も何とかできるはずだ」という希望もわくだろう。強い説得能力は、暴力反対の道へ踏み出す根拠となりうるものだ。
しかし、これだけではまだ足りない。一人が暴力に対処できるだけならば、それは警察制度その他の代替物としてはまったく不足である。国家レベル、世界レベルで暴力を廃絶するために必要なのは、この説得の方法を皆に装備させることだ。そのため、説得能力の保持者は、その能力をみがくと同時に、それを教育する方法についても考えなければならない。最低限「説得能力の伝達が可能であるし、その方法を準備するつもりだ」ということまで考えていなければ、説得による暴力の廃絶という立場をとることはできないだろう。「強力な説得能力」と「その教育プラン」の提唱までいけば、暴力反対は一貫した立場であると思う。
さらに、最近もう一つの方法に気がついた。それは東浩紀が最近言っている「環境管理型権力」というやつだ。もしも、割れた窓ガラスを直したり、壁を緑に塗ったりすることで暴力を抑止できるなら、暴力の廃絶は不可能ではない。しかもこれは都市計画や建築の整備によって実現できるため、個人のパーソナリティや能力に依存しがちな説得能力の場合よりも有望であるかもしれない。環境の整備によって暴力が、少なくとも交通事故レベルまで減少するならば、警察制度はなくてもかまわないだろう。
本当に実現できるものなのかどうか私は知らないが、環境管理型権力という発想自体は、暴力反対と相性のいいものであると思う。「環境管理によって暴力をなくすことができる」と考えるなら、これは一貫した暴力反対の立場と呼べる。
■ ver. 1
(1)国王はその国で一番えらい。(前提)
(2)国王でないフランス人が存在する。(前提)
(3)存在するものは存在しないものよりもえらい。(前提)
――――――――――――――――――――
(4)フランス国王が存在しないと仮定する。
(5)(2)および(4)よりフランス国王よりえらいフランス人が存在する。
(6)(1)より、フランス国王はフランスで一番えらい。
(7)(5)と(6)は矛盾する。ゆえに仮定が誤りであった。
(8)フランス国王は存在する。
■ ver. 2
(1)国王はえらい。(前提)
(2)存在しない者はえらくない。(前提)
――――――――――――――――――――
(3)フランス国王が存在しないと仮定する。
(4)(2)より、フランス国王はえらくない。
(5)(1)より、フランス国王はえらい。
(6)(4)と(5)は矛盾する。ゆえに仮定が誤りであった。
(7)フランス国王は存在する。
■ 解説
よくある神の存在証明のパロディ。
「(4)存在するものは存在しないものよりもえらい」。これは存在するものと存在しないものとの間に関係を置いている。
「(2)存在しない者はえらくない。」。これは「ない」のスコープの問題を引き起こす。「『存在しない者がえらい』ということはない」と解釈されるならば特に問題はない(その場合、「フランス国王はえらい」も「フランス国王はえらくない」も導き出せなくなる)。「存在しない者について、それはえらくない」と解釈されるならば、存在しないものについての命題となる。
「どうして存在しないものについて何かを言おうとすると話がおかしくなるのか」という問題についてはもう少し考えてみないとよくわからない。
ウィトゲンシュタイン(著), 藤本隆志(訳)
大修館書店、1976
マーケットプレイスにて購入。ほとんど定価と変わらず。
というかだね。論理哲学論考の訳があれだけたくさん出ていて、哲学探究の訳がこれしかないというのはまったく納得がいかないのだがなぜなのか。
飯田隆(著)
講談社、2005
- 『中村宏図画事件 カタログ』
カタログって、そのときしか買えないからほしくなるけど、買っても後からあまり見ないよね。
新宿のジュンク堂がスペースを拡大したそうなので行った。ひさしぶりに書店の漫画コーナーを見てたらほしいものがいろいろあった。うっかり買いすぎた。
小学館、2006
五巻が出てたのに気づいてなかった。
- 『夢幻紳士 逢魔篇』
高橋葉介(著)
早川書房、2006
4半世紀にわたって怪奇幻想漫画界をリードしてきた著者のライフワーク・シリーズ。
何も間違ったことは言ってないしその通りだと思うけど、「怪奇幻想漫画界」ってずいぶん狭そうな世界だなあ。と思った。
諸星大二郎(著)
朝日ソノラマ、1996
マーケットプレースで見たら100円台で売ってた。けっ。
kashmir(著)
芳文社、2006
宮台真司(著), 石原英樹(著), 大塚明子(著)
ちくま文庫(筑摩書房)、2007
フロベール(著), 鈴木健郎(訳)
岩波文庫(岩波書店)、1955
復刊してた。
ノースロップ・フライ(著)、渡辺美智子(訳)
アマゾンでは品切れになってるけど、大書店には意外と売ってる。むかしの本がそのままの装丁そのまま売ってる系出版物なので安い。
だまし絵とか幻想画とか寓意画とか60年代アングラの香りとか、私は好きなので楽しめた。あと機関車がたまらん。円筒が機関車みたいになったヘンなオブジェーがぐわーって感じで好きだった。
初期の高橋葉介の絵を思わせる部分がちょっとあったので、実はこの辺に元ネタが?などと思ったが全然関係ないかもしらん。
M川と行った。バーミヤンでだらだらご飯を食べた後展覧会を見て、それから新宿に行った。
しゃべったこと。
ニコニコ動画は何に似てるか。あのコメントはギリシア悲劇のコロスや、コメディのラフトリックのような鑑賞者の代弁者を、鑑賞者自身がつとめるというものである。
三角関係について。漫画や小説における三角関係がいかに重要かという熱弁を聞く。最近のおすすめは『さくらんぼシンドローム 』だとか。「数学史における三角形と、文学や漫画における三角関係の流れにはあまり関係がなさそうだ」ということに最近気がついたらしい。
美術館にひさしぶりに行って思いついたこと。たまに人から「自分はコンセプチュアルアートがあまり好きではなく」みたいなことを言われることがある。しかし、よくよくその「好きではない」ものについて聞いてみると、「それはコンセプチュアルアートではないのではないか」ということがしばしばある。このことについて考えいていた結果、人はあまりピンとこなかった美術作品が「コンセプチュアルアート」に見えるのだということに気がついた。たぶんここで「コンセプチュアルアート」という言葉は「なんか新しかったのかもしれないけど、観念的な、頭で考えたような作品」という程度の意味で使われている。そして、彼らにはなぜそれが「コンセプチュアル」に見えるのかというと、「好きな人が好きな部分」がよくわからず、手法とか描かれている対象の新しさしか見えないから。
たとえば17世紀のオランダの画家が、リンゴの絵とか描き始める。好きな人は、「このリンゴの、筆触が、ぐわーとなっててたまらん...やべー...」という魅力を喚起する部分しか見えないので、全然コンセプチュアルだとは思わない。むしろ「リンゴのかっこよさ」という感覚的な部分を追求した絵なので、全然コンセプチュアルからほど遠い。一方当時の人でピンとこなかった人には、「これまでリンゴの絵がなかったところでリンゴの絵を描いたのが新しかったんだろうけど、それは単なる思いつきでやってみたにすぎず...コンセプチュアル・アートきらい」という風に見える。これと同じように、カンディンスキーが四角の絵とか描き始めると、好きな人は「あー、この四角がぐわーとなって、すげーおもしれー」と思う。これも好きな人にとっては「四角のかっこよさ」とか「平面構成のかっこよさ」をガンガン追求してるようにしか見えないので、全然コンセプチュアルなようには見えない。しかしピンとこなかった人は、「これまで四角の絵がなかったところで四角の絵を描いたのが新しかったんだろうけど、それは単なる思いつきでやってみたにすぎず...コンセプチュアル・アートきらい」という風に見える。ポロックがドリップやっても、好きな人は「ドリップたまんねー」と思うが、ピンとこなかった人はそれがなんか「コンセプチュアルなもの」に見える。
これは理論的な議論で、ピンとこなかった話が「抽象的な議論」に見えるのと相同的な現象であると思う。たとえば「自由」という概念が生き生きしたものに見える人は、「自由」に関する議論がまったく「抽象的」な話には見えない。「存在」という概念が生き生きしたものに思える人は、「存在」に関する議論がまったく「抽象的」なものに見えない。これは「真理」でも「正義」でもなんでも一緒で、好きな人はそれが「抽象的」だとはまったく考えてない。むしろすげー具体的で実感に富んだ熱い議論をしているように見えている。一方ピンとこなかった人は、単にむずかしい熟語が飛び交っているという部分しかわからないので、「抽象的な話」をしているとしか思えない。
それと同じように、魅力がわからない美術作品は、「なんかコンセプチュアルなもの」に見えるのだ。この思いつきには結構自信があるので、皆さんも『コンセプチュアルアートきらい』って言ってる人がいたら確かめてみてください。
名古屋大学出版会
私が『論理学をつくる』で論理学の勉強をする。発表が終わったのですかさず残っていた部分を終わらせた。めでたく全部おわった。
12章前半は少し前にやったが、記録してなかった。前半をやってしばらくたっていたので、内容を忘れていた。話がむずかしいうえに半分くらい忘れているので、あんまり理解できていない。
第12章 古典論理にもまだ学ぶことがたくさん残っている
■ 12.1 完全武装した述語論理の言語 FOL
- 12.1.1 言語 FOL
- 12.1.2 FOL のセマンティクス
- 12.1.3 述語論理の公理系
■ 12.2 AFOL の完全性とそこから得られるいくつかの結果
- 12.2.1 述語論理の完全性証明
- 12.2.2 コンパクト性定理とレーヴェンハイム・スコーレムの定理
■ 12.3 第1階の理論
■ 12.4 モデル同士の同型性
- 12.4.1 互いによく似たモデルとそうでないモデル
- 12.4.2 同型なモデル
- 12.4.3 理論の範疇性とノン・スタンダードなモデル
■ 12.5 第2階の論理
- 12.5.1 FOL では表現できない命題がある?
- 12.5.2 第2階の論理のセマンティクス
- 12.5.3 第2階のペアノ算術
- 12.5.4 第2階の論理の特質
ルーマン・フォーラム宗論構想発表会
■教訓
形式はきちんとふまえよう。目的/先行研究の紹介/批判/代替案という形におさめないとまず評価の対象にしづらいよ。レトリカルにごまかさず、形式にのっとった上で「なんか新味」を出すのが大事だよ。ということをおもに言われたのだと思った。
確かに、「どうやったら社会学に見えるか(どうやってごまかすか)」よりは、そっちの方が大切かもしれないと感じ入った。
■反省と展望
- ある文字列をフィクション(小説)だと同定すること。
- 同定されたものを、フィクションとして扱うこと(フィクションの読者になること)。
この2つはまったく別のことだ(読む段階ではふつう同定は終了している。また、同定された小説を「フィクションとして」以外のやり方で扱うこともできる)。
と言いたかったが、なんだかもごもごしてしまい、いまいちうまく説明できなかった。原稿を書いている段階で、きちんと整理できてなかったのが悪かった。
しかし、これは日本語に対応する表現がないので、言い分けるのがむずかしい。「フィクションというジャンルに属するテクスト」と「フィクションすること」?
むしろ以下のようにわけるべきか。
- 1)文字列
↓a)同定
- 2)「誰某の小説」として同定されたもの
↓b)利用
- 3)フィクションという営みに参与する
「テクスト」や「フィクション」という概念は、実はこの3つのレベルをごちゃまぜにしている可能性がある。その辺を整理するだけで、ある種の議論を解きほぐせそうな予感はちょっとする。
それぞれのレベルについて言えば、「a)同定」を扱うことは、それほどむずかしくない。基本的には「様々なやり方をもって同定することができます」という話だと思う。
むずかしいのはむしろ「b)利用」の方だ。これを「限定された範囲でのみ通用する知識として利用する」ことだとしたいのだが、うまくいくかどうかはわからない。「限定された範囲」を「可能世界」とは違ったものとして示せれば、それなりによい気はする。あとこれは、ひょっとしたら「場面の範囲はどこまでなのか」という話とパラレルになるかもしれないと軽く思った。
■今後
今後の道としては...。
- ケンダル・ウォルトン『メイクビリーブとしてのミメーシス』を読む。
これについて、障害は「英語である」という以外には特にない。気は進まないが、読まないわけにはいかないっぽい。
- フィクション論を網羅的に読む。
まだ読んでないやつがいろいろあるので読む。
- 「命題or記述or知識」を利用することについて考えてみる。
ウィトゲンシュタインやグッドマンをまじめに読む。議論の運びとしては一番参考になりそうな気もする。
- 現象学的美学/受容美学系の議論を読む。
この辺は「一からやる」ことにならざるをえない。しかし、やっとくと守備範囲がひろがって後からうれしいかもしれない。
- ゴフマンを読む。
直接には関係ない。が、「場面の扱い方」と「テクストの扱い方」は実はパラレルな問題なのではないかという気がちょっとしている。あと、ゴフマンを読んでると社会学っぽいのでよい。
- 物語理論を読む。
重なってくる範囲と重なってこない範囲があるので取捨選択がむずかしい。
いっぱいあって大変だなあ。絞るべきなんだろうが、絞るのもむずかしいなあ。
昨日買った。
ジェラール・ジュネット(著), G´erard Genette(原著), 和泉涼一(訳), 尾河直哉 (訳)
水声社、1994
ディっクション!(←くしゃみ)
- 『知識の哲学』
戸田山和久(著)
産業図書、2002
知識!(←くしゃみ)
トルストイ(著), 木村浩(著)
新潮文庫(新潮社)、1972
あんなカレーに、な。(←超絶○詩)
というか、これの冒頭の一文(「幸福な家庭はどこも一緒だが、不幸な家庭はいろいろだ」みたいなやつ)が、虚構論では有名なのだが、有名な例だからといって扱うのはばかばかしいのでやめた。


















































