2007年3月
3冊買った。
佐藤文広(著)
日本評論社、1994
これは良さそうな本だった。まさにこういう本を求めていたと言える。
J.L.オースティン(著), 丹治信春(訳), 守屋唱進(訳)
勁草書房、1984
「知覚」強化週間にしようかと思った。
大黒岳彦(著)
NTT出版、2006
出費が...。
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_139.html
語の意味を扱うには、意味の「一義性」を仮定するか、それとも意味の「多義性」を仮定するか、どっちかのやり方しかないのだろうか?と昨日書いた。今日関連する記述を別のところで見つけた。
勁草書房、1984
「本当real」という言葉について。
「黄色い」とか「馬」とか「歩く」といったことばと違って、それは単一の、特定できる、常に同じであるような、意味をもたない、という点で例外的である。(…)しかし、それは、多数の異なる意味をもっているわけでもない。p98
「本当」は一義的でも多義的でもない。
なぜか。
「本当」の対義語は、たとえば「おもちゃ」であったり、「絵」であったり、「模造品」であったり、「人工」であったりする。「本当のXである」というのは「おもちゃでない」とか「絵でない」とか「模造品でない」とか様々な場合に使われうる言い方だ。
これらすべてのケースに共通の特性が存在すると考えるのは間違いだ。
だからと言って、「本当」という語には、複数の意味があるというわけでもない。
じゃあなんなのか。
「本当の」ということばの機能は、何ものかの特徴づけに肯定的に寄与することにあるのではなく、本当でない可能なあり方を排除することにある―そして、こうしたあり方は、個々の特定のものについても多数あり、また、種類を異にするものに応じて極めて異なる場合が多いのである。個々の適用においては測りしれないほど多様でありながらも、一般的機能がこのように同一であることこそ、「本当の」ということばに、単一の「意味」もないし、かといって多義性、すなわち多くの異なった意味があるわけでもない、という、一見したところ厄介な特徴を与えているのである。p106
んー。
むずかしい。
とりあえず「本当」が、「本当でない可能なあり方を排除する」というのは、トートロジーだ。説明にはなっていない。
しかし、「本当real」が「否定主導語」(否定形の方が基礎的な語)だという分析は素晴らしいと思った。
- 「話し手の指示と意味論的指示」
S.クリプキ(著)、黒川英徳(訳)
in「現代思想」vol23-04
青土社、1995.4
「可能世界/固有名特集」
■あらすじ
(文体はイメージです)
ぼくクリプキちゃん!
こんにちはこんにちは!!
みんな大好きな確定記述と指示の話だよ!
ドネランは確定記述の「指示的用法」っていうのを発見したよね。
これってすっごく重要な議論だよね! 僕も超参考になっちゃった!
でもドネランは、この「指示的用法」が
ラッセルの確定記述の分析の批判になってると思ってるみたいだけど、
ドネランの説とラッセルの説は矛盾しないんじゃないかな?
だって、ラッセルの説は、真理条件を扱うものだよ。
ドネランの話は「指示先」の話だから、真理条件は関係ないよね。
つまり、これって、意味論じゃなくて言語行為論だってことだよね…!
でも、ドネランは自分の説が意味にかかわるって言ってるよ。
ラッセルの一元論じゃなくて、多元的な意味論をとるんだって!
言ってることがばらばらでぼくよくわかんなくなっちゃった><
もしラッセルとドネランが矛盾しないなら、
どっちを選んだらいいのかな?
あんまり自信ないけど><
「なるべく単純な理論を採用すべき」
って原則に従って、ラッセル説を採用したほうがいいんじゃないかな!
■感想
私には、確定記述の指示的用法というのは、「二つの指示方法の対立」に見える。
たとえば「指をさしながら」「あのシャンパンを飲んでいる男」と言う場合。この男が飲んでいるものが実はシャンパンではなく、この場では別の男だけがシャンパンを飲んでいたのだとしても、前者に対する指示が成功する。
私にはこれは「指をさした」という仮定があるから成立する話のように見える。なのに、あまり誰もそれを指摘しないのが不満だ。
クリプキの議論について。
気に入った哲学的テーゼに対する反例と推定されるものに出会った場合には、何らかのキー・タームがそのテーゼにおけるのとは異なる特殊な意味で使用されているのだ、と主張することが我々には常に可能である。その主張は正しいかもしれない。しかし、手段が容易であるということは次のような注意深い方針を採ることを忠告しているはずである。多義性が実際に存在すると想定せざるをえないのでなければ、そしてそのように想定することに、抗い難い理論的あるいは直観的根拠が本当にあるのでなければ、多義性を仮定してはならない、という忠告である。
p283
ドネランは確定記述に関する多元論を採っているけれど、多元論を採る必然性がないなら、一元論にしとくべきじゃないかという指摘。
「分析者が(行為者の直観に反する)ヘンな区別を勝手に持ち込んではならない」という風にとるならば、クリプキの指摘は正しいように思える。
しかし、「一義的に捉える」のと「勝手な区別を持ち込む」という二つの態度のほかに、別の態度もあるのではないかと私は思った。
ジョン・ノイバウアー(著), John Neubauer(原著), 原研二(訳)
ありな書房、1999
テーマはおもしろそうなのだが、内容はどうだろうか。
Michael J. Loux(編)
Cornell Univ Pr 1979
有名なアンソロジー。グーグルブックサーチで序文などが読めるようだ。
佐藤文広(著)
日本評論社、1994
- 『物語の哲学』
野家啓一(著)
岩波現代文庫(岩波書店)、2005
これまで論じてきたように、文字化されたテクストとは異なり、音声による物語伝承の過程においては、「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。そこで行われているのは「同一性の反復」ではなく、「差異を伴った反復」あるいは「解釈学的反復」にほかならない。物語の伝承においては、絶えざる「同一性」の解体と更新とが進行しているのである。
(…)
「同一性」という形而上学的概念そのものが危機に晒されている以上、物語にその同一性を保証する「唯一の作者」や特権的な「作者の意図」を求めることは、はなから無意味な企てと知るべきであろう。
p75-76
先生! この人言ってることがヘンです!
(つっこみどころのある議論を見つけたのでうれしい)
「物語伝承の過程においては、「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。」。
伝承過程において、「違う」って言われてるのは「文字列」のことだよ。
しかし、二つの語りで語られた物語が「同じ」であるとされ、かつ「文字列」が異なるのなら、単に「物語の同一性と文字列の同一性は別だよ」と言えばいいだけの話だ。たとえば信号の色は「変わる」けど、だからと言って、信号機が別のものになったとは誰も言わない。それは、信号機の同一性が、色の同一性とは無関係だということを意味するだけだ。そして、そこで
信号の点滅においては、絶えざる「同一性」の解体と更新とが進行しているのである。
などと言うやつを見たら「はぁ?」と思うだろう。
野家っちはここで、それと同じことをやってるように見える。
別の方向から言えば、
「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。
という言い方は、「文字列の同一性が物語にとって本質的」という、(おそらく印刷物を基準にした) 偏った物語観を前提にした上でのみ可能な発言だ。
- 言葉は違うけど、
- おんなじ話だ、
とわかっているなら、単に「同一の物語が反復して語られたよ」というだけ。そもそも、「文字列がちがう」とか「色が変化した」とわかるためには、物語の同一性や信号機の同一性が前提されてなければならない(「何かが変化した」と言えるからには、「何か」は同一のものでなければならない)。
この著者は、「文字列の同一性イコール物語の同一性だ」、というヘンな物語観を勝手に物語に押しつけた上で、「同一性が解体された!」「大変だ!」という一人芝居に興じている。しかし、それはどうなのか。
以下古本屋で三冊
- 『妖怪談義』
柳田國男(著)
講談社学術文庫(講談社)、1977
芥川龍之介(著)
第三書館; 増補新版版、2000
すごいよね、このシリーズ。『ザ・清輝―花田清輝全一冊』とか、一体どういうターゲットを狙っているのか。
- 『物語における読者』
ウンベルト・エーコ(著), Umberto Eco(原著), 篠原資明(訳)
青土社、2003
とっくに読んでいてもよいはずだが、未読。エーコはなぜだか苦手だ。
マーケットプレースで2冊。
- 『論理学概論』
近藤洋逸(著), 好並英司(著)
岩波書店、1964
坂原茂(著)
東京大学出版会、1985
講談社現代新書(講談社)、1988
■あらすじ
ホームズは同時代(19世紀後半)の論理学と科学論をよく知っており、自らの推理法が確率論的帰納法に基づくものであることを自覚していた。
■感想
名著であった。
ホームズと同時代の科学と言えば、ギンズブルクの徴候学的パラダイムというのが有名だが、ホームズをダーウィンの同時代人と見る内井説の方が説得的であると思った。*
* 『神話・寓意・徴候』。ちなみに私は読んでない。内田隆三『探偵小説の社会学』は読んだが、これを参照していた。
「不可能なものを除外していって残ったものが、いかにありそうもなくても(however improbable)真相なんだ」
というのは非常に有名な台詞だが、逆に考えればこれは、不可能なものを除外するまでは、「ありそうにない仮説」を除外しておいてよいということだ。
この「ありそうにないimprobable」の中に、確率論の響きを聞き取れるというのはおもしろい。
ひとつ疑問なのは、内井はホームズが、同時代の論理学者ジェボンズやデ・モーガンと同様に、確率論的な方法を「用いた」のだという。しかし、ありそうにない仮説を避けておくという確率論的な操作自体は、誰もが推論の際にやっていることではないだろうか。ホームズに統計学的発想があったにしろ、実際に統計を用いたわけではないのだから、むしろホームズはそのような推論の様式に「自覚的だった」というべきではないだろうか。
いずれにせよ確率論や19世紀の科学論に関心があれば、読んで損はない本だと思われる。
あと、デ・モーガンという人は知らないと思っていたが、よく考えるとこれは「ド・モルガン」先生のことだった。
フーコー・コレクション二冊購入。ちょこちょこ重要そうな論文が入っていることに気がついた。
「作者とは何か」とか「これはパイプではない」とか、入ってると知っていれば、とうに買っていたものを。
こういうのは「何が入っているか」が重要だと思うので、目次を掲げておく。
ミシェル・フーコー (著), 小林康夫(訳), 石田英敬(訳), 松浦寿輝(訳)
ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2006
目次
- ルーセルにおける言うことと見ること
- かくも残酷な知
- 侵犯への序言
- 言語の無限反復
- 夜明けの光を見張って
- 隔たり・アスペクト・起源
- 幻想の図書館
- アクタイオーンの散文
- 空間の言語
- 知を流す言葉
- J=P・リシャールのマラルメ
- 書くことの義務
- 物語の背後にあるもの
- 外の思考
- 彼は二つの単語の間を泳ぐ人だった
- アリアドネーは縊死した
- 作者とは何か
ミシェル フーコー(著), 小林康夫(訳), 松浦寿輝(訳), 石田 英敬 (訳)
ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2006
目次
- 侍女たち
- 世界の散文
- 歴史の書き方について
- これはパイプではない
- 科学の考古学について
- 『ポール・ロワイヤルの文法』序文
- ジャン・イポリット1907-1968
- ミシェル・フーコー『言葉と物』英語版への序文
- 第七天使をめぐる七言
- 劇場としての哲学
- ニーチェ、系譜学、歴史
- 私の身体、この紙、この炉
以下は今後買うつもりがある本をメモしておく。
竹内外史(著)
講談社、2001
竹内外史大先生による集合論入門@ブルーバックス。
- 『哲学入門』
バートランド・ラッセル(著), Bertrand Russell(原著), 高村夏輝(訳)
ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2005
よっぽど買おうかと思ったが、どうせマーケットプレースにあるだろうと思って思いとどまった。
しかし、900円か...。意味がわからん。送料入れたら、定価超えるじゃないか。
デザインを変更した。といっても色を変えただけだが。
これまでは Movable Type のデフォルトのデザインを使っていた。なぜ変更したかというと、今日偶然発見した外山恒一氏のブログが MT のデフォルトのデザインを使用しており、このブログと同じ見た目だったから。外山氏がイヤだというわけじゃないが、見た目が同じだと気持ち悪いなあと思ったので、さっさと変えることにした。
- 『名探偵の掟』
東野圭吾(著)
講談社文庫(講談社)、1999
ホームズシリーズのレストレード警部や金田一少年シリーズの明智警視など、間違えた推理を披露する刑事の人が探偵ものには不可欠なわけだが、これはその「間違える刑事役」の人を主人公にした小説。わざと間違えた推理を披露したり、陰ながら探偵を真相に導いたりと、あの役はあの役で気苦労が多いらしい。
この小説では、密室殺人やアリバイトリックや童謡殺人など、毎回推理ものの定番の事件に巻き込まれつつ、探偵と刑事が時々読者の顔になって小説の展開にケチをつける。要するに推理小説のお約束をネタにしたパロディなのだが、このジャンルにそれほど詳しいわけでもない私にとっては、種々の「型」や様式に関する蘊蓄として楽しめた。
願わくば、もっと大がかりな展開が用意されていればよかったかなと思う。最後の章では、刑事役の「私」が探偵の推理ミスに気づきつつ、それをあえて見過ごす。本編はそれであっさり終わってしまうが、それがきっかけで「私」が「小説の登場人物であること」と「ひとりの人間であること」の狭間で葛藤しはじめたりすると、わけがわからなくていいんじゃないかと思った。
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_118.html
この部分が間違っているような。 「A と A ⇒ B とから B を導き出す推論規則」は MP(modus ponens)、日本語で除去規則と呼ばれるもので、三段論法とは関係ない気がする。
これは嘘だったかもしれない。
今日↓の本を読んでいたら、この本にも「MP は三段論法とも呼ばれる」と書いてあった。
しかし、MP と三段論法のつながりはよくわからない。どういうことだろう。
三段論法については以下を参照。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AE%B5%E8%AB%96%E6%B3%95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%AE%B5%E8%AB%96%E6%B3%95
伝統的論理学と三段論法について。
現代論理学は、経験的な学問ではない。現代論理学は、人工言語をつくり、その性質を調べる。その成果はたとえば、「かくかくのように言語を設定したら、しかじかの性質を持った」という形をとる。ここで、「しかじか」というのは、「かくかく」という言語に対する発見であって、自然言語に対する発見ではもちろんない。ただし論理学のユーザーが、日常言語に対する数学的モデルとして人工言語を使用することはある。言語学、言語哲学にとっての論理学の役割は、物理学にとっての数学の役割と同じ。しかし、物理数学が物理的事実を述べるものではないように、論理学自体は、経験的な事実を述べるものではない。すなわち、それは、われわれが日常用いる「論理」を対象とする学問ではない。
しかし一方、伝統的論理学はそうではないように思われる。「三段論法がいかなる形のときに妥当となるか」という伝統的論理学のテーゼは、「われわれが論証を行う方法」に関する経験的な事実と見なされうる。従って、現代論理学の成果と伝統的論理学の成果は、まったく性質を異にする。現代論理学が、あくまでも方法の精緻化にたずさわるものであった一方、三段論法の整備のような、伝統的論理学の仕事は、経験的事実の「発見」と見なされるべきものだ。それは論理学的・数学的というより、社会学的ないし言語学的(あるいは修辞学的)研究の成果だろう。
このように考えるとき、アリストテレスによる三段論法の分類は、その規模の大きさと明確な法則性からして、実に希有な仕事だ。現代の人文系学者の仕事で、これに匹敵しうるものがどれほどあっただろうか...。
...などということを考えていたのだが、伝統的論理学についてもう少し調べてみないと、あまり明確なことは言えないなあ。
とりあえず、伝統的論理学の問題は、アリストテレス以後、ほとんど誰も、それに匹敵する同じような性質の仕事を残せなかった点にある、ということは確かだろう。
最近本を読んでいておもしろかった一節を二つ。
イアン・ハッキング(著), 出口康夫(訳), 久米暁(訳)
岩波書店、2006
児童虐待はわれわれの文明の現状に関する興味深い事実を思い出させてくれる。われわれは、相対主義によって制圧されていると思われている。つまり、もはや安定した価値など存在しないと言われている。しかし、そんなことはない。試しに、児童虐待に賛成すると言ってみよ。多くの人たちの間で議論になっている同性愛の一形態であると言い逃れをすることなく、とことんまで極端を試みてみよ。児童虐待に賛成の立場に立つということはまったく道理に適わないということになるだけだ。
p301-302
当たり前と言えば当たり前なんだが、良いこと言うなあと思った。
E.ゴッフマン(著), 石黒毅(訳)
誠信書房、1974
アメリカの女子大生は、デートの相手になりそうな男子学生の前にいるときは、以前は自分の知性・技能・決意のほどを低目に見せたし、今でも明らかにそうしている。上調子だという国外にまで聞こえた評判とは反対に、これは彼女たちが徹底した自制心をもっていることを示しているものである。これらのパフォーマーたちは、男友達が彼女たちのすでに知っていることを退屈な仕方で説明するのを、黙って聞いているということである。
p44
ゴフマン先生の役に立つ女子大生情報。
体調がすぐれず、何もする気がしないので私物をさらしてみる。

最近使ってるノート。表紙を見られたら、恐い人だと誤解されてしまうかも...!

中身。絵が描いてあって使いづらい。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm253
いまいち体調がよくない...。
中古で三冊。
創元推理文庫(東京創元社)、1989
100円の本は買ってもいいよね?ね?と思いつつ。
樋口明雄(編著)
勁文社、1994
一人暮らしをはじめてから怖い話が読めなくなったのであった。
「超」怖い話 (はてなキーワード)
香山リカ(著)
ちくま文庫(筑摩書房)、1998
「可能世界意味論っておもしろそうだけどむずかしそう...」って最初から最後までそれだけを言い続けるラディカルな本。買うのは結構躊躇したんだが、安いし、ブックガイドとしては使える(かもしれない)ので買ってしまった。
- 『集合と位相』
鎌田正良(著)
近代科学社、1989
一章だけやった。この本は、初学者が独学で学ぶにはむいてない(むずかしすぎる)ということがわかった。解説が少ないし。
初学者が独学で学ぶのに適した集合論の教科書はどれですか。
このあたりだろうか。
http://markun.cs.shinshu-u.ac.jp/learn/index-j.html
信州大学工学部情報工学科基礎研究室による学習のページ?
解説と問題とテストつき。論理学も集合論もある。やっほう。すごくいいものを見つけた。
- 『世界制作の方法』
ネルソン・グットマン(著), 菅野盾樹(訳), 中村雅之(訳)
みすず書房、1987
- 『事実・虚構・予言』を読んだ直後だったので、1章を読んで、「何このぬるい論文」と驚く。
- エスキモーには雪を表す言葉がたくさんあって。とか言ってるし。(これは有名な「尾ひれのついた噂」)
↓検索したらおもしろかった。「20個ある」とか「40個ある」とか「4個」とか、おまえらちょうテキトー。
- 二章はちゃんとおもしろかったので安心した。(芸術)「様式」概念を扱った論考としては、大成功の部類に思える(私が読んだ中では)。
- 「何が芸術なのか」という問いと、「いつ芸術なのか」という問いをわけるのは、よい問題の立て方ではないのか。ちょっと前にうっかり語用論についてよく知らないのに「語用論みたいなー?」的なことを言ってしまったことがあったが、「いつ×なのか」って言えばよかった。
- 最近とあるブログで、「侮蔑語である語」と「(侮蔑語じゃないが)たまたまその場で侮蔑的に使われる語」があるよね的な話が、やっぱり「意味論的」か「語用論的」かと言い分けられているのをみた。それより「何」と「いつ」の方が簡単でよくね?と思った。「イスであるもの」とは別に、世の中には「(現在)イスとして使われている荷箱」もあるよね、というくらいの話だし。
- (でもきっとこういう些細な勘違いをふくらませるところから、われわれは (悪い意味での) <哲学> や <形而上学> や <本質主義> をはじめるのだとか何とか)
- この話に関連して思い出したが、以前イスとして使っていた木の台が壊れた後、「どうやって捨てたらよいか」がわからず放置してある。これは下手したら引っ越しするまでこのまま無駄な場所をとり続けるので、早く捨て方を調べて捨てようとかたく決意した。
- おもしろい部分はおもしろいのだが、おもしろくない部分がおもしろくないのは、
- 「世の中には様々な体系(バージョン)、または『世界』があって、すべては固有の価値をもっており」と言いながら、
- 「世界制作」「バージョン制作」の一般理論みたいになってるからではないか。
- 言い換えれば、複数形の"ways"を示すのに失敗してるからではないか。
- と、一瞬思ったが、それほど真面目に読んでないので、これはあくまでも「と言ってみるテスト」。
- 以下、再読時のためのメモ。
- グッドマンは、「世の中には様々な体系(バージョン)があって、それらはすべて固有の価値をもっており」と言う。
- こういうことを言う人にありがちな主張は、「それら個々の体系はお互いに還元不能なのであるから」だけど...
- グッドマンは、「いや、還元はできるのだ」と言っていた。
- じゃあなぜ「固有の価値」があると言えるのか。
- この点についてグッドマンは何を言ってたっけ。どういうロジックになっていたか、そのうち確認しよう。
- グッドマンは、「世の中には様々な体系(バージョン)があって、それらはすべて固有の価値をもっており」と言う。
浅田直亮(著), 仲村みなみ(著)
彩流社、2005
東浩紀(著)
講談社学術新書(講談社)、2007
でてたので買った。
リチャード・ローティ (著), Richard Rorty (原著), 室井尚(訳), 加藤哲弘 (訳), 庁茂(訳), 吉岡洋(訳), 浜日出夫(訳)
御茶の水書房、1994
いくつかの章をパラパラと読む。
- 第7章「虚構的言説の問題なんてあるのだろうか?」
要約
想像してごらん 指示なんて存在しないと
想像しようとすれば簡単だよ
言語と世界の間に結びつきなんて無いんだ
保証された確言可能性があるだけさ
想像してごらんすべての人々が
言語ゲームを生きているんだと…
おもしろかった。もっと早く読めばよかった。指示の問題と虚構的言説の問題がどう絡み合っているのかというのは、非常にややこしいなあ。
というか、なぜ "Consequence of Pragmatism" というタイトルの本に「哲学の脱構築」という邦題をつけるのか。やりたい邦題だな(←今は後悔している)。
レゴブロックでクトゥルフ。最初ほんとに商品化されてるのかと思ってあせった。
デビット・リンチによる PS2 の CM。かっこいい。
また本を買いすぎた。後悔している。
ああ。
「読まなくてすむ本はないか」
「本は読みたいんだけど、最近読むのがおっくうだ」
「だから、買ってきて、さぁ読もうと思っても読まずにすむ本はないかなぁ」
安川一(編)
世界思想社、1991
- 『日常言語の論理学』
オールウド、アンダーソン、ダール(著)、公平珠躬(訳)、野屋啓一(訳)
産業図書、1996
マーケットプレースに安く出てた...orz
イアン・ハッキング(著), 出口康夫(訳), 久米暁(訳)
岩波書店、2006
結局買っちゃった。ずいぶんフランクな文体なんだな。
- 『四つの署名』
コナン・ドイル(著), 延原謙(訳)
新潮文庫(新潮社)、1953
ホームズはつまみぐいしかしてなかったので改めてはじから読んでいこうかと思って。
土屋勝(著)
カットシステム、2006
早くワードを卒業しようと思ってなかなか果たせずにいる。
- 劇団俳優座 LABO 21『地獄の神』
http://www6.ocn.ne.jp/~haiyuza/Pages/god.html
■ あらすじ
アメリカウィスコンシン州の片田舎で暮らす老夫婦が、ヘンな男を匿ったところ、その男を追うヘンなセールスマンがやってきて、謎の国家的陰謀に巻き込まれひどい目にあう。
■ 感想
経緯: zucasa 氏にチケットを譲り受けたため、新劇の公演を見に行くことになった。自分ではまず見に行く機会がなかっただろうから、よかった。
最初に悪いことを書く。
全体に漂う戦後民主主義的雰囲気 (?) というか、とにかく「社会が悪い」的世界観はかなり気に障った。具体的に言うと、パンフレットに書かれていた演出家の文章が「環境問題が悪化して地球はもう終わりだ。なぜ環境問題が悪化するかというと人々が環境より経済合理性を重視するからだ。しかしこんなことを書いている私もグローバリゼーションの恩恵を受け、おいしいコーヒーを飲んでるので云々」といった趣旨のものであり、かつそれとあいまって SE に原発批判ソングなどが流れていたことが私の心をだいぶなえさせた。
脚本自体はイヤな話だがおもしろかったと思う。上のあらすじだとどこがおもしろいのかわからないと思うが、次のような部分がおもしろかった。この劇では、最初から最後まで老夫婦が巻き込まれた陰謀がどんな陰謀だったのかは明かされない。匿われた男は何かに汚染されているらしく、「彼は保有者です」「汚染されています」と何度も言われる。あと彼がほかの人や植物に触れると、強力な静電気のような稲妻が走る。途中プルトニウムの話も出てくるが、核と関係があるわけでもなさそう。とりあえず汚染されているらしいことと、なにかの軍事作戦に利用されようとしていたことだけがわかる。
また「ロッキービュート」という地名が繰り返しほのめかされる。前半では、匿われた男が、ロッキービュートと聞くたびに、動揺して口止めしようとする。後半では、男を連れ戻しに来たセールスマンが「ロッキービュートへ行くぞ」と言う。ロッキービュートがどういう場所で、そこには何があるのかは最後までわからない。
要するに、陰謀の「陰謀っぽさ」をうろ覚えで再構成したような印象派的陰謀描写がおもしろかった。ちなみに、豆知識だが、こういうのを「マクガフィン」というのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%AC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3
マクガフィンという言葉はアルフレッド・ヒッチコックによって考案されたとされる。
「あの棚の上の荷物は何だ」と聞く。
もう一人が答えて「マクガフィンさ」
「何だそれは」
「スコットランドでライオンを捕まえる道具さ」
「スコットランドにはライオンはいないだろ」
「じゃ、あれはマクガフィンじゃないな」
ほか、アメリカの老夫婦の「アメリカの田舎の老夫婦っぽさ」などもそれっぽいのでおもしろかった。
前半の「社会は悪」的世界観を見て、「これは世の中をよく見てないし、想像力がまずしいのではないか」と思ったが、演劇はさすがに演劇なので、陰謀のそれっぽさや老夫婦のそれっぽい台詞などは世の中をよく見てる感じだった(「あー、こういう人いるわ!」)。しかし逆からみると、この戯曲のマクガフィン的陰謀描写は、「国家というのはなんだかわからない不条理なもので、理不尽な理由でひどい目にあわせてくるものだ」という世界観にもあっているのかと思った。つまり総合すると、会話などのレベルでは世の中をよく見ているが、国家のようなレベルの物事については、「なんだかわからないが、家族などの相互行為に干渉してきてひどい目にあわせてくるもの」といいうくらいの認識しか持っておらず、おお、これは要するにミクロ - マクロ断絶演劇だと私は思った。
Wikipedia を読む男参上。
「カラスは黒い」という命題はその対偶「黒くないものはカラスでない」と同値であるので、「カラスは黒い」事を証明するには「黒くないものはカラスでない」事を証明すれば良い。 そして「黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがない事をチェックすれば証明する事ができる。こうして、カラスを一羽も調べる事無く、「カラスは黒い」という事実が証明できてしまう。
こうした一見、素朴な直観に反する論法を指摘したのが「ヘンペルのカラス」である。 ときに「ヘンペルのカラス」は、それがまるで対偶論法の間違いを指摘した論法であるかのような誤った解説がなされる事があるが、本来はそうではない。
合理的・論理的でないのは人間の直観の方で、対偶論法にしろ「ヘンペルのカラス」にしろ数学的に何の問題もない論法である。 つまり正しくは、「ヘンペルのカラス」は人間の直観の危うさの方を指摘した論法なのだと言える。
これは、ちょっと変な説明かなあ。どこにひっかるかというと、帰納的判断と論理学の関係にまったく言及しないところに違和感がある。論理学というのは演繹的推論を扱ってきたものなので、帰納的判断の論理学というのは現在のところまともな形では存在しない。確かにヘンペルのカラスは対偶のおかしさを示すものではないが、本文で言われているような人間の直観の方がおかしいという話でもないだろう。それは、「対偶」のような論理学的操作と帰納的観察の関係が(今のところまだ)よくわからないというところに存する問題だと思う。
「ヘンペルのカラス」が直観に反してしまう理由の一つとして、「黒くないもの」の数が想像を絶して大きい事が挙げられる。 (「黒くないもの」は、宇宙全域にある黒くない全恒星、全原子を含むのでその数は莫大である)。 何らかの命題(例えば「カラスを黒い」)を示す際、個々の事例(カラス)を調べていくわけだが、命題の正しさの信頼度合は、調べた事例のパーセンテージが大きいほど上がって行く。(確証性の原理)。しかし「黒くないもの」を調べる場合は、「黒くないもの」の数は極端に大きく、「黒くないもの」をどんなに調べてもパーセンテージが低いままであるので、いつまで経っても「黒くないものはカラスでない」という命題の信頼性があがらない。 (黒くないものを調べ切るには、想像を絶する時間が必要になってしまう)。 この為「黒くないもの」を全部調べた気分に浸れず、「ヘンペルのカラス」が逆理に見えてしまうのである。
この説明は論理学と関係なくヘンだと思う。「黒いもの」を一個も調べずに「黒くないもの」をすべてピックアップするのはそもそも無理だろう。
最後の節にためになる指摘があった。
論理学におけるヘンペルの指摘とは本質的に無関係ではあるが、 アルビノのカラス(つまり「黒くない」カラス)は実在する。また、東南アジアに生息するカラスの多くは、腹が白い、全体に灰色であるなど、黒一色でない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%AF
「アドホックな仮説」の例。
一般に、ものを燃焼させれば煙が立ち上ることから、なにものかが燃焼中に放出されているのではないか、と見なしたのがフロギストン仮説である。この仮説に従えば、燃焼後の物体は質量が減少しているはずである。
(…)しかし、後にラボアジエによって精密な燃焼実験が行われ、燃焼すれば質量はむしろ増加する(現代科学の仮説では、燃焼とは酸化のことであり、当然ながら酸素が加われば質量も大きくなる)ことが分かった。
フロギストン仮説は否定されようとしたが、一部の科学者は仮説を偽であると認めず、新たな補足を加えた。この補足がアドホックな仮説と呼ばれる。それは、「フロギストンはマイナスの質量を持つから、フロギストンが燃焼中に出て行けば逆に質量は増加する」というものであった。
この話好きだなあ。「燃焼によって質量が増加する」って言われて「いや、フロギストンの質量はマイナスだから」って、どんだけアドホックなんだ。
http://www.members.tripod.com/~yoshino/socio/
「フィクションに対する態度~~A・シュッツの文学分析への一考察」など。
柏端達也(著)
勁草書房、2007
買おうかどうか悩み中。読むべき本が処理できなくなりつつあるので、基本的に新しい本は買わないようにしようと思っている。
イアン・ハッキング(著), 出口康夫(著), 久米暁(著)
岩波書店、2006
こっちはそのうち買うと思うが、とりあえずペンディング。
Lena Jayyusi(著)
Routledge Kegan & Paul, 1984
今この人の写真論*1を読んでいるのだが(これは非常におもしろい)、英語を読む遅さにわれながらびっくり。ぜんぜん終わらない。ので、この本まで読むのは無理だと思う。
最近立て続けに知り合いから荷物が三つ届いた。荷物を送ってくれた人々のうち、ひとりはアメリカに行き、ひとりは自衛隊に入隊することになっている。感慨深いというかなんというか、3月だなあといったところだ。最後のひとつは実家から食料とワイシャツを送ってきただけなんだけど。私は来年度もとくに立場は変わらないので、この3月に感じるところはないのだが、周りはいろいろ変わっていくなあと思った。
司氏に聞いた話。
明子という名前の人がいるのだが、由来は「諸葛亮孔明」らしい。孔明の「明」をとったそうだ。
宣言すれば引用になる(し、しなければ誰も気づかない)、という例。
- 『緋色の研究』
コナン・ドイル(著), 延原謙(訳)
新潮文庫(新潮社)、1953
前半はホームズとワトソンの出会いと犯人の逮捕まで。後半はホームズとほとんど関係ないモルモン教小説。むしろそっちがおもしろかった。
恥ずかしながら私は最近までこれがアンチモルモン小説だと知らなかったのだが、ユタ州では「ホームズは読んじゃいけません!」などと言われていたりするのだろうかと思った。
- 緋色の研究 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8B%E8%89%B2%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6
モルモン教への言及について解説あり。
この作品はモルモン教の末日聖徒イエス・キリスト教会が一夫多妻制を放棄した1890年よりも前に書かれた。 モルモン教徒は完全に一夫多妻を捨てたわけではなく、現在も正確な数は不明だが3万人以上のモルモン教徒が一夫多妻を続けているといわれている。 本編中でのモルモン開拓者やブリガム・ヤングに関する記述は相当な誤解と偏見を含んでおり、現在もなお多くの部分では修正されていない。ジョセフ・スミス・ジュニアによって創設された当時のモルモン教には確かに過激な面があり、ブリガム・ヤングらの努力でそうした部分は是正されていったが、当時のヨーロッパにはまだ強い誤解が残っていたのである。
なんだか矛盾してるけど。二文目とほかの文は書いた人が違うのだろうなあ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E7%90%86%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6
論理式から論理式を導き出す推論規則には、たとえば論理式 A と A ⇒ B とから B を導き出す推論規則がある。これはいわゆる三段論法である。
この部分が間違っているような。 「A と A ⇒ B とから B を導き出す推論規則」は MP(modus ponens)、日本語で除去規則と呼ばれるもので、三段論法とは関係ない気がする。
もちろん Wikipedia の記述に文句をつけるくらいなら、自分で直せばいいわけだが、アカウント持ってないし、とりあえずメモしておく。
ついでだから、論理学トリビア。どんな教科書でも最初に載ってるような基礎的な内容だけど。
「トートロジー」というのは、論理学的な概念だと思われてそうだが、論理学でいう「トートロジー」と日常語(むしろ修辞学の概念?)のトートロジーはだいぶ意味がちがう。
論理学以外でトートロジーというと、あまりよい意味ではない。「きみの議論はトートロジーだ」って言われたら、たいてい馬鹿にされてるのだ。一方論理学的トートロジーには悪い意味はまったくない。むしろトートロジーこそ論理学固有の対象であり、妥当な推論はすべてトートロジーであるとされる。
この「妥当な推論はすべてトートロジー」というのは、最初ちょっと戸惑うが、原因は「ならば」の働きにある。
推論は「(前提1)、(前提2)、(前提3)、ならば(結論)」という形をとる。このとき、推論が妥当なら、前提が真のとき結論も真であり、推論全体は真になる。前提が間違ってるなら、ありえない前提のもとでの推論なので、推論全体はやはり真になる。というわけで、妥当な推論はつねに真になる(=トートロジー)。一方妥当でない推論は、前提がすべて正しくても結論が偽になることがある(反例をふくむ)ので、トートロジーではない。
追記:
別のところにも変なのを発見した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E8%A6%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%AB%96%E7%90%86
直観論理(ちょっかんろんり)あるいは直観主義論理(ちょっかんしゅぎろんり)とは、従来の論理学(古典論理)は全てのものの真偽が明確になる「神の論理」であるとして、もっと慎ましやかに人間の立場の論理学を考えようということで提唱されたものである。
慎ましやかは関係がないのではないか。もしかしたら私が知らないだけでブラウワーがこう言ってるのかもしれないが、ふつう教科書的には直観主義論理は以下のように説明される。
直観主義論理学は排中律を認めない。排中律、すなわち「すべての命題は真か偽かいずれかである」ということを認めるには、対象はすでに決定ずみだと考えなければならない。しかし、未来のことや無限について、これが認められるかどうかは怪しい。たとえば「明日は雨だ」が真か偽かいずれかだというのは、未来がすでに決定ずみだという前提に立たないかぎり認められない。同様に、無限につづく数、たとえば円周率について「円周率には7の7連続が含まれる」などの命題が真か偽かのどちらかだと考えるのは、「神の立場」に立たないかぎり不可能だ。少なくとも人間の認識を基礎におくかぎり、これらの命題は真とも偽ともいえない。そこで、真でも偽でもない命題の存在を認め、排中律を持たない新しい論理としてつくられたのが直観主義論理。
(特に直観的にわかりやすい内容でもないため、直観主義論理という名前がふさわしいかどうかは知らない)。
- マツゲックリ
松かさのかわりに睫毛が生えている。
- 『事実・虚構・予言』
N.グッドマン(著), 雨宮 民雄(訳)
勁草書房、1987
これ、タイトルには虚構と入ってるものの、フィクションとはほとんど関係ない。ちなみに『表象の奈落』を読むと、ハスミン先生もタイトルのせいで間違えてこの本を読んだことがわかって楽しい。間違えて読んだうえに、(「可能なもの」という概念に対する批判の書である本書を) 可能世界型の虚構論といっしょくたにして論じているのはどうかと思うが。
実際のテーマは反実仮想と帰納的判断。フィクションは単にタイトルの語呂合わせで出てきただけだと思われる(正確に言うと、「反実仮想」や「可能なもの」はフィクションと決して無関係ではないので、かすってはいるが、内容としてはホントにかすってるだけ)。
それはそれとして。グルーというのは、本書に出てくる有名な概念だ。
グルー(grue)とは、緑を意味する英語グリーン(green)と、青を意味する英語ブルー(blue)から作った言葉で、たとえば、「2050年までに初めて観察されたものについては緑(green)を指し、2050年以降に初めて観察されたものについては青(blue)を指す」と定義される(グルーは、緑と青の切れ目にどの時点をとるかで無数の定義がありうる)。
このようにグルーを定義すると、2050年までに緑色のエメラルドが観察されたという事実が、「すべてのエメラルドはグルーである」という仮説を支持することになってしまう (従って「2060年にすべてのエメラルドはブルーである」という仮説も支持されることになってしまう)。この種のヘンな述語を帰納的判断から排除するのは、実はとっても大変だよというのが本書の主なストーリー。
(結論としては、「ブルーが過去何度も使用されてきた概念であり、グルーはそうでない」という語の使用の歴史に訴えかけないかぎり、グルー
























