もの・言葉・思考―形而上学と論理

三上真司(著)

東信堂、2007


2007/06/09訂正:

以下に書いたことは間違いであるか、少なくとも誤解を招くものでした。すいません。http://www.at-akada.org/blog/2007/06/post_218.html

↑訂正記事



同一性記号と変項の扱いについて、明らかに間違ったことが書いてある箇所があったので書き記しておく。というか間違いを書いた後でほめようと思っていたのだが、間違いについて長々書いているうちに眠くなってしまったので、ほめるのは明日以降に延期する。

同一性は「もの」と「もの」との関係なのだろうか。もしそうならば、それはいかなる関係なのか。「もの」とそれ自身の関係なのか、それとも「もの」と別の「もの」の関係なのか。もし前者ならば、同一性を言い表す言明は必然的に真であり、しかもこのうえなくつまらない同語反復でしかない (a=a)。もし後者ならば、それは必然的に偽である。それ自身とは別のものと同じであるようなものはないからである (a≠b)。p123-124

論理学には同一性を「『もの』と『もの』の関係」として把握する傾向が内在している。もし通例通り同一性の記号が「もの」と「もの」の関係として把握されるならば、それは上述のパラドックスに帰着する。p124

これは、かなり怪しい表現。

同一性記号を「ものとものの関係」だと把握すれば、確かにパラドックスでも何でも起きるかもしれないが、それは単に同一性記号に関する理解が間違っているからだ。同一性記号は「ものとものの関係」については特に何も言ってない。

同一性記号が意味するのは、「二つの名前が同じものを指示する」ということだ。

戸田山本から同一性記号の定義を引いてみよう。ただし、メタ言語のイコールとごちゃごちゃになってややこしいので、ここでは同一性記号には半角の「=」を使う。メタ言語のイコールには全角の「=」を使う。またギリシャ文字は使いたくないので、漢字に置き換えておく。

任意の個体定項甲、乙について、VM(甲=乙)=1 ⇔ V(甲)=V(乙)

p203

これが意味するのは、『モデルMのもとで、論理式「甲=乙」が真となるのは、定項「甲」に割り当てられる個体と定項「乙」に割り当てられる個体が同じとき、かつそのときのみですよー』ということだ。

以上のように同一性はあくまでも「2つの記号と1つのもの」の話なので、1つのものについてつねに1つの名前だけを割り当てるようにすれば、「a=b」などの文は必要がなくなる。このあたりは著者の言うとおり。

ただし、同一性記号が無意味になるのは定項の場合にかぎる。名前がつねに一個だけだとしても、自由な変項に関する同一性記号は無意味ではない。

たとえば、以下のようなモデルを考えよう。

議論領域: {1, 2, 3}
個体定項
a: 1
b: 2
c: 3
述語
2x: x が偶数である。

このとき、論理式「2b∧∀x(2x→x=b))」は無意味ではない。

これは「偶数なのはbだけですよー」という意味だ。無意味どころか、同一性記号を使わないとこの文は表現できない。

もう少し細かく言ってみよう。x は変項だ。変「数」であるということは、「そこに入る数が様々に変わる」ということを意味している。これと同様に、変「項」であるということは、「そこに入る『項』(記号)が様々に変わる」ということを意味している。つまり、「∀x(2x→x=b)」は、「どんな記号を x に入れてみても、(2x→x=b) が成り立ちますよ」という風に読める。今記号は、a と b と c しかないから、「∀x(2x→x=b)」が意味するのは、「a, b, c を順番に x に入れてみなさい。2x が成り立つなら、その記号は b と同一ですよ」ということだ。

だから文全体は「bは偶数であり、かつすべての記号について、その記号の指示先が偶数ならば、その記号の指示先は b と同じですよ」という風に読める。これを短く言うと、「偶数なのはbだけですよー」となる。これはトートロジーでも矛盾でもない。モデルによって真偽がかわる文であり、この場合はたまたま真になっている。

著者はおそらく変項というものについてよくわかっていないのだと思う。それがはっきりとわかる箇所は以下。

ただし、「二人の人が『ウェイヴァリー』を書いたことはなかった」も「二人の人が『マーミオン』を書いたことはなかった」も他とは独立した内容なので、すでに使われている変項を重複して述べることはできない。それを回避するならば、「『ウェイヴァリー』の著者は、『マーミオン』の著者と同一人物である」は次のように表すことができる。

(4) ∃x(Px∧Qx)∧¬∃y∃z{(Py∧Pz)∧¬(y=z)}∧¬∃v∃w{(Qv∧Qw)∧¬(v=w)}

p141-142

著者はできないと言っているが、(4)は以下のように書いてもかまわないし、ふつうはこう書くと思う。

∃x(Px∧Qx)∧¬∃x∃y{(Px∧Py)∧¬(x=y)}∧¬∃x∃y{(Qx∧Qy)∧¬(x=y)}

なぜこう書いてかまわないかというと、誤解の可能性がないからだ。この文を日本語で読むと次のようになる。「(Px∧Qx) に入れると成り立つような記号があります。かつ {(Px∧Py)∧¬(x=y)} に入れると成り立つような二つの記号 x, y はありません。かつ {(Qx∧Qy)∧¬(x=y)} に入れると成り立つような二つの記号 x, y はありません」。

ややこしいから、三つに分けよう。

ア: ∃x(Px∧Qx)

イ: ¬∃x∃y{(Px∧Py)∧¬(x=y)}

ウ: ¬∃x∃y{(Qx∧Qy)∧¬(x=y)}

ここでア、イ、ウはそれぞれ別の量化子のスコープ内にある。

アの部分は一個の記号 x について述べているが、括弧が閉じることによって x の話はいったん終わっている。だからイとウでもう一回 x を使っても誤解の可能性はない。

一方、これと違いイのなかの x と y は区別されなければならない。ここでは、∃x∃y という二つの量化子のスコープが重なっている。これは x と y という二つの記号について述べているのだと考えなければならない。x と y は同じかもしれないし、べつかもしれないし、どっちかわかんないから二つの記号を使うのだ。

∃x∃y(Px∧Py) が真であるのは、二つの違うものが 'P(...)' を充たすときである。「二つの違うもの」の差異は、'x' と 'y' という違った記号を使用することですでに尽きているのだから、¬(x=y) をその後に付加するのは余計なだけである。p143-144

ここは明らかに間違っている。x, y は違うものかもしれないが、同じものであってもかまわないのだ。

さっき私があげたモデルで、2x が成り立つ記号はひとつしかないが、「∃x∃y(2x∧2y)」は真になる。なぜなら「2b∧2b」は真だからだ。ここでは x と y が同一であるか別であるかについて何も言われていないため、x=y の可能性を排除できない。

権威付けのために教科書を参照しておくと、x, y が同じものであってもいいということは例えば、戸田山本の p179 などにかなりはっきりと書いてある。

というかだね。「同一性記号が役に立つのは、量化子のスコープのなかでだ(自由な変項についてだ)」というのはむしろ「視線の重ね合わせ」という著者の主張に適合しやすいことだと思われるのだ。そのため、こういう基礎的なレベルで間違いをおかされるのは、本書の読者としては残念でならない。このあたりの話をからめさえすれば、同一性に関する議論はもっとずっと深められたはずであったと思う。

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