前から何度かセカイ系について書こうかと思いつつ、別に書かなくても (私も含め) 誰も困らないから放置気味であった。今日はなんとなく書くぞー。


Wikipedia を見てみたが、この定義はよくないんじゃないかと思った。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB


セカイ系の「セカイ」という言葉は、もちろん世界を意味する。セカイ系とは、主人公、もしくは主人公を含む仲間達の少数の行動が、途方もない数の人達が住む全世界の命運を大きく左右してしまうという点に特徴がある。その規模は、地球全域、異世界であるならば主人公のいる国をも超えた全世界、作品によっては全宇宙や、パラレルワールドさえ含む時空間全てと言うように非常にスケールの大きいものが対象である。これらの主人公らの人間関係・内面的葛藤・行動等が社会を経ずに世界に直接影響する一連の作品群が「セカイ系」と呼ばれるようになった。

「主人公、もしくは主人公を含む仲間達の少数の行動が、途方もない数の人達が住む全世界の命運を大きく左右してしまう」って、これじゃマジンガーZ もドラゴンボールも、セカイ系だ。かなりの数の少年漫画がセカイ系になってしまうだろう。このようにセカイ系を「少数が」「世界全体を」という風に規模で定義するのはうまくいかないんじゃないかと私は思う。後段ではさらに、勧善懲悪からの離脱という風に規定されるが、これもいまいちだと思う。

私はこの語に関して自分なりの定義を持っているのでそれを示す。


セカイ系とは以下の二つの条件を満たす作品のことである。

  • 「敵」「味方」「戦い」といった道具立てが、説明も理由付けもされない。
  • 「敵」「味方」「戦い」といった道具立てが、登場人物の心理の隠喩っぽく機能する。

「道具立て」や「設定」が隠喩になるという部分がポイント。説明されないのは隠喩として機能するための必要条件。

たとえばエヴァンゲリオンでは、なんで使徒が攻めてくるのかよくわからないし、最後までほとんど説明されない。しかし、それがなんとなく、シンジ君の心理の隠喩らしく読めるようになっている。エヴァンゲリオンはこの二点を満たすのでセカイ系。

少数の人が世界の命運を決定することが問題なのではなく、作品世界がそもそも主人公らの心理の隠喩にしかなっていないというのが重要な条件だ。

ついでに言えば、セカイ系について、そこにおける「組織」や「社会」のリアリティのなさがしばしば指摘されるが、これは隠喩とトレードオフの関係にあると思われる。アレゴリー小説における「真理さん」や「信仰さん」といった隠喩的登場人物が、リアルな心理を持たないように、隠喩であるところの作品背景はリアルなものにはなりえない。リアルだったら隠喩に見えなくなっちゃうから。背景はあくまでも書き割りでなければならないのだ。

成立史からいうと、こういうことが言えるんじゃないかとちょっとだけ思ってる。セカイ系の作品が登場する背景には、道具立てが紋切り型になっていく過程というのがあったのだと思われる。「敵」、「悪の組織」、「ロボット」といったものたちが、最初は「なぜこれこれの組織が出てきて、なぜ戦わねばならないか」という形で説明、理由付けとともに導入されていた (説得力のある説明になっていたかどうかはともかく、説明は必要だとされていた)。しかし、それがお約束になると、説明がだんだんおざなりになってくる。「悪の組織と巨大なロボットで戦う」という部分だけが自己目的化していく。

それに対して、「もっとリアルな悪の組織とロボットを出そう」というのは新しい作品を生み出す一個の方法であると思われる。しかし反対に、「いっそ書き割りにして、人物 (主に主人公) の方に主眼をおこう」というのがセカイ系の道でないかと私は思うのであった。

別の言い方をするとこうなる。よく昔の漫画とかで、うつうつとしてる主人公の背景画がサイケな絵になったりするじゃないか。あれは主人公の心理を絵で説明してるわけだが、あのサイケの部分をアニメだの漫画だのの規定のフォーマットに無理矢理押し込めたのがセカイ系だという風に考えたいのだな、私は。


Wikipedia のこの部分何を言ってるのかわからん。というか全体的にこの記事は日本語がおかしい。

環境問題に関心がなく、自然環境の多様性が減った事で唯一神が生まれやすい(例:キリスト教、イスラム教を生み出した文化圏は、自然が少ない乾燥地帯=古代文明が盛衰した跡に生じている)状態になった事はこのジャンルの隆盛と無縁ではないだろう。

セカイ系は一神教とどういう関係なの? セカイ系は一神教なのか? あとこの説明だとキリスト教徒やイスラム教徒やユダヤ教徒は環境問題に関心がないことになっているが、それもどうなのか。


これに対する反批判も載っているのだが、こちらもむずかしくて何を言ってるのかわからない。

上記の批判は一般的な「セカイ系批判」であるが、問題をいささか単純にしすぎている面もある。例えば新世紀エヴァンゲリオンを例にとっても、世界の危機の実質は少数の意志ではなく巨大組織間の対立として出現し、その解決も、最終話が碇シンジの例として定義づけられ、シンジと一般化された他者との和解として提示されているように、実際にはそれぞれの登場人物における解決がありうる。また例えば、主人公には全貌の見えない「機関」「情報統合思念体」といった組織間、組織内の対立が暗示される『涼宮ハルヒシリーズ』もまたしかりである。この涼宮ハルヒシリーズに至っては世界的危機そのものすら存在せず、セカイ系の手法を用いているといえないエピソードも多く見られる。これらの現象は他の多くの作品にも同様に観察可能である。

2、3回読んだらなんとなくわかった。セカイ系の典型例とされる作品においてもすべてが少数者の意志で決まるわけじゃないと言いたいわけだな。これは、批判してる割に「少数者の意志で決まる」という定義を受け入れているのがヘンだと思う。「上述の定義は、実際の作品に全然あてはまらない。べつの定義に変えよう」という方向に話がいかないのはなぜなんだ。


あと↓の本がセカイ系の作品に入っているのだが、本当? 本当なら読みたいのだが、嘘なら読みたくない。

無痛文明論

森岡正博(著)

トランスビュー、2003

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