- 『物語の哲学』
野家啓一(著)
岩波現代文庫(岩波書店)、2005
これまで論じてきたように、文字化されたテクストとは異なり、音声による物語伝承の過程においては、「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。そこで行われているのは「同一性の反復」ではなく、「差異を伴った反復」あるいは「解釈学的反復」にほかならない。物語の伝承においては、絶えざる「同一性」の解体と更新とが進行しているのである。
(…)
「同一性」という形而上学的概念そのものが危機に晒されている以上、物語にその同一性を保証する「唯一の作者」や特権的な「作者の意図」を求めることは、はなから無意味な企てと知るべきであろう。
p75-76
先生! この人言ってることがヘンです!
(つっこみどころのある議論を見つけたのでうれしい)
「物語伝承の過程においては、「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。」。
伝承過程において、「違う」って言われてるのは「文字列」のことだよ。
しかし、二つの語りで語られた物語が「同じ」であるとされ、かつ「文字列」が異なるのなら、単に「物語の同一性と文字列の同一性は別だよ」と言えばいいだけの話だ。たとえば信号の色は「変わる」けど、だからと言って、信号機が別のものになったとは誰も言わない。それは、信号機の同一性が、色の同一性とは無関係だということを意味するだけだ。そして、そこで
信号の点滅においては、絶えざる「同一性」の解体と更新とが進行しているのである。
などと言うやつを見たら「はぁ?」と思うだろう。
野家っちはここで、それと同じことをやってるように見える。
別の方向から言えば、
「同一の物語」が寸分の違いなく反復され、語り伝えられることはまずありえない。
という言い方は、「文字列の同一性が物語にとって本質的」という、(おそらく印刷物を基準にした) 偏った物語観を前提にした上でのみ可能な発言だ。
- 言葉は違うけど、
- おんなじ話だ、
とわかっているなら、単に「同一の物語が反復して語られたよ」というだけ。そもそも、「文字列がちがう」とか「色が変化した」とわかるためには、物語の同一性や信号機の同一性が前提されてなければならない(「何かが変化した」と言えるからには、「何か」は同一のものでなければならない)。
この著者は、「文字列の同一性イコール物語の同一性だ」、というヘンな物語観を勝手に物語に押しつけた上で、「同一性が解体された!」「大変だ!」という一人芝居に興じている。しかし、それはどうなのか。
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