- 「話し手の指示と意味論的指示」
S.クリプキ(著)、黒川英徳(訳)
in「現代思想」vol23-04
青土社、1995.4
「可能世界/固有名特集」
■あらすじ
(文体はイメージです)
ぼくクリプキちゃん!
こんにちはこんにちは!!
みんな大好きな確定記述と指示の話だよ!
ドネランは確定記述の「指示的用法」っていうのを発見したよね。
これってすっごく重要な議論だよね! 僕も超参考になっちゃった!
でもドネランは、この「指示的用法」が
ラッセルの確定記述の分析の批判になってると思ってるみたいだけど、
ドネランの説とラッセルの説は矛盾しないんじゃないかな?
だって、ラッセルの説は、真理条件を扱うものだよ。
ドネランの話は「指示先」の話だから、真理条件は関係ないよね。
つまり、これって、意味論じゃなくて言語行為論だってことだよね…!
でも、ドネランは自分の説が意味にかかわるって言ってるよ。
ラッセルの一元論じゃなくて、多元的な意味論をとるんだって!
言ってることがばらばらでぼくよくわかんなくなっちゃった><
もしラッセルとドネランが矛盾しないなら、
どっちを選んだらいいのかな?
あんまり自信ないけど><
「なるべく単純な理論を採用すべき」
って原則に従って、ラッセル説を採用したほうがいいんじゃないかな!
■感想
私には、確定記述の指示的用法というのは、「二つの指示方法の対立」に見える。
たとえば「指をさしながら」「あのシャンパンを飲んでいる男」と言う場合。この男が飲んでいるものが実はシャンパンではなく、この場では別の男だけがシャンパンを飲んでいたのだとしても、前者に対する指示が成功する。
私にはこれは「指をさした」という仮定があるから成立する話のように見える。なのに、あまり誰もそれを指摘しないのが不満だ。
クリプキの議論について。
気に入った哲学的テーゼに対する反例と推定されるものに出会った場合には、何らかのキー・タームがそのテーゼにおけるのとは異なる特殊な意味で使用されているのだ、と主張することが我々には常に可能である。その主張は正しいかもしれない。しかし、手段が容易であるということは次のような注意深い方針を採ることを忠告しているはずである。多義性が実際に存在すると想定せざるをえないのでなければ、そしてそのように想定することに、抗い難い理論的あるいは直観的根拠が本当にあるのでなければ、多義性を仮定してはならない、という忠告である。
p283
ドネランは確定記述に関する多元論を採っているけれど、多元論を採る必然性がないなら、一元論にしとくべきじゃないかという指摘。
「分析者が(行為者の直観に反する)ヘンな区別を勝手に持ち込んではならない」という風にとるならば、クリプキの指摘は正しいように思える。
しかし、「一義的に捉える」のと「勝手な区別を持ち込む」という二つの態度のほかに、別の態度もあるのではないかと私は思った。
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