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[][]メモ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E7%90%86%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6

論理式から論理式を導き出す推論規則には、たとえば論理式 A と A ⇒ B とから B を導き出す推論規則がある。これはいわゆる三段論法である。

この部分が間違っているような。 「A と A ⇒ B とから B を導き出す推論規則」は MP(modus ponens)、日本語で除去規則と呼ばれるもので、三段論法とは関係ない気がする。

もちろん Wikipedia の記述に文句をつけるくらいなら、自分で直せばいいわけだが、アカウント持ってないし、とりあえずメモしておく。


ついでだから、論理学トリビア。どんな教科書でも最初に載ってるような基礎的な内容だけど。

「トートロジー」というのは、論理学的な概念だと思われてそうだが、論理学でいう「トートロジー」と日常語(むしろ修辞学の概念?)のトートロジーはだいぶ意味がちがう。

論理学以外でトートロジーというと、あまりよい意味ではない。「きみの議論はトートロジーだ」って言われたら、たいてい馬鹿にされてるのだ。一方論理学的トートロジーには悪い意味はまったくない。むしろトートロジーこそ論理学固有の対象であり、妥当な推論はすべてトートロジーであるとされる。

この「妥当な推論はすべてトートロジー」というのは、最初ちょっと戸惑うが、原因は「ならば」の働きにある。

推論は「(前提1)、(前提2)、(前提3)、ならば(結論)」という形をとる。このとき、推論が妥当なら、前提が真のとき結論も真であり、推論全体は真になる。前提が間違ってるなら、ありえない前提のもとでの推論なので、推論全体はやはり真になる。というわけで、妥当な推論はつねに真になる(=トートロジー)。一方妥当でない推論は、前提がすべて正しくても結論が偽になることがある(反例をふくむ)ので、トートロジーではない。


追記:

別のところにも変なのを発見した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E8%A6%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%AB%96%E7%90%86

直観論理(ちょっかんろんり)あるいは直観主義論理(ちょっかんしゅぎろんり)とは、従来の論理学(古典論理)は全てのものの真偽が明確になる「神の論理」であるとして、もっと慎ましやかに人間の立場の論理学を考えようということで提唱されたものである。

慎ましやかは関係がないのではないか。もしかしたら私が知らないだけでブラウワーがこう言ってるのかもしれないが、ふつう教科書的には直観主義論理は以下のように説明される。

直観主義論理学は排中律を認めない。排中律、すなわち「すべての命題は真か偽かいずれかである」ということを認めるには、対象はすでに決定ずみだと考えなければならない。しかし、未来のことや無限について、これが認められるかどうかは怪しい。たとえば「明日は雨だ」が真か偽かいずれかだというのは、未来がすでに決定ずみだという前提に立たないかぎり認められない。同様に、無限につづく数、たとえば円周率について「円周率には7の7連続が含まれる」などの命題が真か偽かのどちらかだと考えるのは、「神の立場」に立たないかぎり不可能だ。少なくとも人間の認識を基礎におくかぎり、これらの命題は真とも偽ともいえない。そこで、真でも偽でもない命題の存在を認め、排中律を持たない新しい論理としてつくられたのが直観主義論理。

(特に直観的にわかりやすい内容でもないため、直観主義論理という名前がふさわしいかどうかは知らない)。

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2007年3月16日 21:34に投稿されたエントリ

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