http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_139.html
語の意味を扱うには、意味の「一義性」を仮定するか、それとも意味の「多義性」を仮定するか、どっちかのやり方しかないのだろうか?と昨日書いた。今日関連する記述を別のところで見つけた。
勁草書房、1984
「本当real」という言葉について。
「黄色い」とか「馬」とか「歩く」といったことばと違って、それは単一の、特定できる、常に同じであるような、意味をもたない、という点で例外的である。(…)しかし、それは、多数の異なる意味をもっているわけでもない。p98
「本当」は一義的でも多義的でもない。
なぜか。
「本当」の対義語は、たとえば「おもちゃ」であったり、「絵」であったり、「模造品」であったり、「人工」であったりする。「本当のXである」というのは「おもちゃでない」とか「絵でない」とか「模造品でない」とか様々な場合に使われうる言い方だ。
これらすべてのケースに共通の特性が存在すると考えるのは間違いだ。
だからと言って、「本当」という語には、複数の意味があるというわけでもない。
じゃあなんなのか。
「本当の」ということばの機能は、何ものかの特徴づけに肯定的に寄与することにあるのではなく、本当でない可能なあり方を排除することにある―そして、こうしたあり方は、個々の特定のものについても多数あり、また、種類を異にするものに応じて極めて異なる場合が多いのである。個々の適用においては測りしれないほど多様でありながらも、一般的機能がこのように同一であることこそ、「本当の」ということばに、単一の「意味」もないし、かといって多義性、すなわち多くの異なった意味があるわけでもない、という、一見したところ厄介な特徴を与えているのである。p106
んー。
むずかしい。
とりあえず「本当」が、「本当でない可能なあり方を排除する」というのは、トートロジーだ。説明にはなっていない。
しかし、「本当real」が「否定主導語」(否定形の方が基礎的な語)だという分析は素晴らしいと思った。
