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[]意味の一義性と多義性


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語の意味を扱うには、意味の「一義性」を仮定するか、それとも意味の「多義性」を仮定するか、どっちかのやり方しかないのだろうか?と昨日書いた。今日関連する記述を別のところで見つけた。

知覚の言語―センスとセンシビリア

勁草書房、1984


「本当real」という言葉について。

「黄色い」とか「馬」とか「歩く」といったことばと違って、それは単一の、特定できる、常に同じであるような、意味をもたない、という点で例外的である。(…)しかし、それは、多数の異なる意味をもっているわけでもない。p98

「本当」は一義的でも多義的でもない。

なぜか。

「本当」の対義語は、たとえば「おもちゃ」であったり、「絵」であったり、「模造品」であったり、「人工」であったりする。「本当のXである」というのは「おもちゃでない」とか「絵でない」とか「模造品でない」とか様々な場合に使われうる言い方だ。

これらすべてのケースに共通の特性が存在すると考えるのは間違いだ。

だからと言って、「本当」という語には、複数の意味があるというわけでもない。

じゃあなんなのか。

「本当の」ということばの機能は、何ものかの特徴づけに肯定的に寄与することにあるのではなく、本当でない可能なあり方を排除することにある―そして、こうしたあり方は、個々の特定のものについても多数あり、また、種類を異にするものに応じて極めて異なる場合が多いのである。個々の適用においては測りしれないほど多様でありながらも、一般的機能がこのように同一であることこそ、「本当の」ということばに、単一の「意味」もないし、かといって多義性、すなわち多くの異なった意味があるわけでもない、という、一見したところ厄介な特徴を与えているのである。p106

んー。

むずかしい。

とりあえず「本当」が、「本当でない可能なあり方を排除する」というのは、トートロジーだ。説明にはなっていない。

しかし、「本当real」が「否定主導語」(否定形の方が基礎的な語)だという分析は素晴らしいと思った。

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2007年3月31日 21:33に投稿されたエントリ

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