2007年4月
http://plato.stanford.edu/entries/goodman-aesthetics/
私はこれを読んでレジメを書かねばならない。
最近お金がないので本を買い控えているわけだが、やけになって三冊買った。
すべてマーケットプレース。
ピエール・ブルデュー(著), Pierre Bourdieu(原著), 桑田礼彰(訳)
藤原書店、2000
ハイデガーについてもブルデューについても知りたかったのでちょうどよいかと思った。
勁草書房、1998
値段に躊躇していたが買った。
北田暁大(著)
勁草書房、2003
発話行為論とルーマンとの関係について、改めて考えたいと思っているので。
http://socinfo.g.hatena.ne.jp/contractio/20070428
不安な気持ちで出かけたのだが、ためになる話もいろいろと聞け、よい会であった。
竹内薫(著)
光文社、2006
本書の書評に曰く。
この本の57ページに「常識は仮説にすぎないのです」と書いてあるが、これは言い過ぎです。だって、[人間には顔がある」とか「日本の現在の首都は東京である」とかは常識だけど仮説ではないでしょ?(仮説だと言い張るならそれはそれで面白いが)
「99.9%は仮説」こそが思いこみだったという孔明の罠。
大庭健(著)
岩波新書(岩波書店)、2006
Amazonの書評に、倫理学の本なのに倫理的でないという評価が書いてあって趣深かった。
私も今後酷評するときは、社会学の本なのに社会的でないとか、人類学の本なのに人類的でないなどと言っていきたいと思った。
- 『ゼロからの論証』
三浦俊彦(著)
青土社、2006
どうも修論と直接関係ある本ではなく、近からずとも遠からず系の本を先に読んでしまう傾向にあってよくない。
- 『意味と目的の世界』
ルース・ギャレット・ミリカン(著), 信原幸弘(訳)
勁草書房、2007
まだあまり読んでいないのだが、本書はルーマニアンの人にお勧めできるものだと思う。彼女は、「(言語まで含めた)慣習を、進化論的に捉えてみましょう」という議論を展開しており、これは「構造を進化論的に捉えましょう」というルーマンの立論とも重なり (つつ異なる) 点が多い。
一方で、人間の意味的慣習までをも動物の慣習的行動の延長上に捉えてしまうこの議論を、自分のなかでどう位置づけてよいのかよくわからないでいる。だからこそなおさら、社会学の人々がこれをどう読むのかが知りたい。
信原幸弘(編)
勁草書房、2004
信原幸弘(編)
勁草書房、2004
上の本の「バイオセマンティクス」および、下の本の解説論文が入門としてよろしいらしい (が、私はどちらも読んでいない)。
関係ないが、このシリーズは一巻が「人間篇」で人間をテーマにした論文が載っている。二巻は「ロボット篇」でロボットをテーマにした論文が載っている。三巻は「翻訳篇」なので、当然の類推として、「翻訳をテーマにした論文が載っているのだろう」と私は思っていた。しかし、実は「翻訳論文を載せる巻」であったことが今日明らかになった。
大黒岳彦(著)
NTT出版、2006
合評会の参加予定者が少数精鋭すぎて不安です。
↓大黒本「物を直接観察できない説」を述べている箇所を抜粋した。
われわれが何かを「知覚」(wahrnehmen) するとき、われわれはその"何か"を、その"何か"「以上、以外の或るもの」(etwas Mehr, etwas Anderes) として認知している。例えば、目の前にある「コップ」を「知覚」する場合「円筒形のガラスで出来た物体」を「コップ」として「知覚」するのであり、「リンゴ」の場合には「球形をした赤と黄色の斑模様の物体」を「リンゴ」として知覚している。つまり、一般的に「知覚」においては「質料的な物理的形象」*が「意味」として把捉されるという二重化的統一の構造が成立している。p170
* いうまでもなく厳密にはこの「質料的な物理的形象」自体が「意味」をすでに伴っており、裸の「質料的な物理的形象」なるものは原理的に存在し得ない。
「コミュニケーション」はその持続的接続が (システム存続のために) 至上命題であると同時に、必ず <何ものかについての> 「コミュニケーション」たらざるを得ない。つまりコミュニケーションはいわば「志向性」(Intentionalitat) を持つのであり、この志向性によって「対象」と関与し得る。しかしながら、その「対象」は飽くまで "内在的"「対象」であり、システムがそれとは独立に存在する超越的な「対象」と直接な交渉や関係を持つわけではない。
この志向的関係をルーマンは「観察」と呼ぶ。p238-
一般的にいって、純粋な単なる「第一次観察」などというものは原理的に存在し得ない。それはマッハやベルグソン、西田幾多郎やジェームズなどが謂うところの「要素」「イマージュ」「純粋経験」といった、体験の中に意識が埋没・没頭してしまっている主・客未分、凡が一如の状態であるが、こうした事態にあっては、そもそも「観察」が「観察」として、「体験」が「体験」として反省されない。「観察」が「観察」として、「体験」が「体験」として反省された時点で、われわれはすでに「第一次観察」や「純粋経験」の水準を超え出、「反省」という名の「第二次観察」に移行してしまっている。つまり、そもそも「第一次観察」という概念事態が矛盾概念なのである。p378
1番目の引用箇所について。
見ることを「意味」と「意味以前」に分けたいらしい。
しかし『いうまでもなく厳密にはこの「質料的な物理的形象」自体が「意味」をすでに伴っており、裸の「質料的な物理的形象」なるものは原理的に存在し得ない。』とも言っている。
じゃあ2つに分けるなよ、と思う。
2番目の引用箇所について。
「観察」などと言われると、どうしても認知的な話をしているように考えてしまう。当然だけど。
しかし、ルーマン語の「観察」は、対象に対するかかわり一般を指す語なのだと思う (ルーマンの用語選択のセンスは根本的にダメだ、と私は思う)。
たとえば、ルーマンは「買うこと」を観察に含めていた。
依然として『近代の観察』が部屋の中から見つからないわけだが、たとえば『社会の芸術』邦訳p102にそういう話が出てくる。
しかしながら、その「対象」は飽くまで "内在的"「対象」であり、システムがそれとは独立に存在する超越的な「対象」と直接な交渉や関係を持つわけではない。
どういう意味なのか。
「物そのものを直接に見ることはできない」というのは (わたしはあまり認めたくないが)、まだ理解可能なテーゼのように思える。しかし、「物そのものを直接に買うことはできない」っていうのは何のことだかわからない (「チケットを直接買うのではなく、ダフ屋から買う」とかだったらわかるがそういう話ではないだろう)。
「何が売り買いの対象になるのかも、経済のなかで決まっていくことだよね」というくらいの話なら、理解できるし、「そうかもしれない」と思う。しかし、そんなことを「超越的な対象を直接買うことはできない」などという言い方で言うだろうか。
3番目の引用箇所について。
ここは完全にわけがわからない。
第一次観察というのが、主客未分になることであれば、「そんなことは不可能だ」というのはそりゃそうだろう。しかし、物を見るということはそもそも主客未分になることではない。
「私がベニテングダケを見る」。このとき、たぶん私は「私がベニテングダケを見ている」ということを知っている。だから、「見ることとと見ることを反省することはつねにセットで生じているよね」、というくらいの話なら理解できる。しかし、見ることと反省することが同時に生じるという無難な発想から、「見ることなんて存在しない」「反省することしか存在しない」に跳ぶのは飛躍が大きすぎる。
どうしてもこういうトリビアルな指摘しかできないな。
大黒岳彦(著)
NTT出版、2006
自分にとって「まともなメディア論」とは何か、としばらく考えていた。
結論: セーラー服だからですメディア論は、「機能分析」でなければならないと思った。
(ここで、機能分析という語は、単に「複数の選択肢を比較すること」のつもりで使っている)。
今日はもう寝るので手短に書く。
まず、「マスメディア論」はそもそもメディア論と呼ぶ必要がないと思われるのでおいておく。
それ以外のメディア論は、大まかに2系統に分けられるように思われる。
端的に言うと、「テレビ」のようなレベルで論ずるか、「映像」のようなレベルで論ずるかで話は少し変わる*1。
しかしいずれにせよ、次のことは言えるように思う(論証は省く)。
「テレビ」というメディアをそれ自体として論ずることができるか? 「映像」というメディアをそれ自体として論ずることができるか? できるわけがない。
できるのは、「テレビが可能にしたこと」「不可能にしたこと」をあげることだ。「映像が可能にすること」「映像には不可能なこと」をあげることだ。
そしてこれは、比較の視点がなければできない分析だろう。例えば、会話にとっての音を、それ自体として分析することはできない。できるのは、まず「文章と違って音はすぐ消えるよね」という比較と、だから「会話だとこういうことができないよね、こういうことはできるよね」という方向で議論を進めることだと思う。
- *1: 前者の系列にあるのは、「印刷物」「電話」「映画」...etc. 要するに、技術革新によって可能になったやりとりの舞台のようなもの。後者の系列にあるのは、テレビ番組にとっての「映像」、会話にとっての「音」、小説にとっての「文章」...etc. 要するに、やりとりの必要条件になっている素材のようなもののこと。
コピーすべき論文を書いておく。
- ウェス・シャロック&クアム・バトン(池谷のぞみ 訳)「正しいことをなさい!──規則有限主義と規則懐疑主義、そして規則に従うこと」
『文化と社会』第2号、2000
- 石井幸夫「意味と力――言語行為論をめぐる一考察」
『社会学評論』、Vol.40, No.2、1999
- 芦川晋「発話行為の理論とは何か,また何であるべきか--コミュニケ-ションとは何か,また何であるべきか」
『社会学年誌』通号 36、1995/03
- Jonathan Benett'Real'
K. T. Fann ed. "Symposium on J. L. Austin", 1969
法・図
- Jayyusi, L, 'Towards a Socio-Logic of the Film Text'
"Semiotica", 68 (3/4), 1988
文・図
大黒岳彦(著)
NTT出版、2006
読むには読んだものの、何を言えばよいのかよくわからない。
とりあえず、しょうもないことを書く。
著者は、身体は (ルーマンの言う)「意味」じゃないけど、(ルーマンの言う)「メディア」だよと言っている。ルーマンは言語的な意味観にとらわれているので、そのことに気がつかなかったのだそうだ。
しかし、ルーマンのメディア概念は、意味概念の下位概念にあたるものであるはずだ。
「意味」と呼ばれるのは、諸可能性からの選択というかたちになっているもの一般のことだ。そのなかでも、限定された諸可能性からの選択になっているものをルーマンは「メディアと形式」と呼ぶ。「言語」(メディア)とそこから選択されてできた「文」(形式)などがこれにあたる。
だから、「意味じゃないけどメディアだ」というのは、「動物じゃないけどメメクラゲだ」みたいなテーゼであり、なぜそんなことが言えるのかがよくわからない。
本当は、「観察」概念の話をしたいのだが、『近代の観察』が見つからないので困っている。
恥の多い人生を送っております (自慢げに)。
さて、先日某社の最終面接を受けましたが落ちました。
しかし、よくよく考えてみると、あの会社は酸っぱい会社であったに違いないと思えてきたので、まったく悔しくないと言える。
ロボティクスの三原則について書いたものを某賞に送ったのも落ちたが、酸っぱい賞であったに違いないため、まったく悔しくないと言えよう。
■前書き
可能世界について。
以前から、様相論理の意味論で使われる「可能世界」と哲学の議論に出てくる「可能世界」は別のものなんじゃないかと思っていたが、クリプキを読むことによって、その思いが確信に近くなった。
この点について説明してみる。
ちなみに、私は論理学も分析哲学もほとんど独学で学んだため (しかも勉強中のため)、話の正確さにあまり自信がない (つっこみを歓迎する)。
■真理関数のインプット
様相論理で言う「可能世界」は、「真理関数のインプット」のことだと考えるのがよいと思う。
現代論理学の標準的手法では、論理式を、「何か」をインプットすると、「真」「偽」のいずれかをはき出す関数だと考える。これを真理関数的意味論という。この「何か」が何であるのかは、命題論理の場合と述語論理の場合で異なる (詳しく説明すると面倒なのでしないが、命題論理では「真理値割り当て」、述語論理では「モデル」と呼ばれるものが、インプットになることが多い)。
いずれにせよ、この「何か」=インプットの部分はふつう「世界」の状態であるとされる。要するに、「世界がこれこれの状態だとすると」「この命題は真になる」「この命題は偽になる」などと考えていくわけだ。
可能世界意味論とは、この真理関数のインプット(=可能世界)を複数を考え、それを到達関係と呼ばれるネットでつなぐ手法だ。これによって、量化*1と似た論理形式を持つ推論を、論理式でモデリングできるようになった。
■量化と似た論理形式
量化と似た論理形式というのは、↓のようなことだ。
たとえば、標準的な様相論理では、必然と可能は以下のように関係づけられる。
¬□P==◇¬P (Pが必然でない==Pでないことが可能である)
(*「□」を「必然」、「◇」を「可能」、「==」を同値の意味で使っている)
これは、いわば二次方程式の解の公式みたいな超基本的な式であり、様相論理はふつうこれに類する式によって「可能」か「必然」のどちらかを定義するところからスタートする (この定義自体は、可能世界意味論よりもはるかはるか昔から存在する)。
そして、何しろ超基本的な式なのでこの式はよく使うのだが、私はこれを、否定の記号「¬」を中に入れると、「□ (必然)」がグリッと「◇ (可能)」に変わる、という風に覚えている。「グリッ」の部分が重要。
しばらく論理学の勉強をしていると誰でも気がつくように、これは、「∀(すべて)」と「∃(存在)」の間に成り立つドモルガンの法則によく似ている。
¬∀xPx==∃x¬Px (すべてのxがPであるわけではない==Pでないxが存在する)
こちらでもやはり「¬」を中に入れると、「∀」がグリッと「∃」に変わる。
■到達関係
可能世界意味論の基本的なアイデアは、複数のインプット(=可能世界)をネットワーク化することによって、この両者の類似を利用するという点にある。言われてみれば誰でも思いつきそうなアイデアだが、これを明確に形式化した人は、ソール・クリプキくんという十代の若者以前には誰もいなかった。
複数のインプットをネットワーク化するというのは、以下のようなことだ。
可能世界意味論では、「到達関係」という関係によって複数のインプット(=可能世界)をつなぎ、複数の世界からなるネットワークを考える。そしてその上で「必然」を「到達関係にあるすべての可能世界で成り立つ」に置き換え、「可能」を「到達関係にある少なくとも一つの可能世界で成り立つ」に置き換える。
到達関係というのは、この場合「存在しうる」「想像できる」「起こりうる」というような意味だと考えてよい。つまり、「必然」を「想像できるすべての世界で成り立つ」という意味だと考え、「可能」を「少なくとも一つの想像できる世界で成り立つ」という意味だと考えるのだ。
ちなみに、この「すべての世界で」「少なくとも一つの世界で」という部分は、ライプニッツくらいから (中世からという説もある) 、「必然とか可能って大体そんな感じだよね」と言われていた事柄で、それほど重要ではない。クリプキくんの新しさはむしろ到達関係によって複数の世界をネットワーク化した部分にある。つまり、「複数の世界」を考えた人はたくさんいたが、「複数の世界の【関係】」を考えた人は、クリプキくん以前にはいなかった。
クリプキくんのアイデアは大成功に終わった。
構文論と意味論を合致させること(=完全性証明)ができると論理学者はうれしいわけだが、可能世界意味論は、従来の構文論と合致しただけでなく、これまで知られていた複数の公理系を到達関係の違いによって分類してみせた。
代替案はいくつかあるものの、いまだに可能世界意味論は様相論理の標準的手法として通用している。これは別に哲学業界にかぎった話ではない。言語学者だって情報科学者だって、様相論理を学ぶときは一番最初にクリプキくんの考えた手法を教科書で教わるのだ。要するに、クリプキくんは超すげーという話だ。
■2つの可能世界
上で説明したように、可能世界意味論の最大の強みは、「到達関係」による可能世界のネットワーク化だ。
これによって、量化と似た論理形式を持つ推論を論理式でモデリングできるようになった。これは「必然-可能」にかぎった話ではない。たとえば、「義務-許可/知っている-認める」などもまた、これと同じような振る舞いをすることが知られている。
これらをモデリングすることによって義務論理や認識論理など様々な論理体系が可能になった。
他方、(大人になったクリプキを含む) 哲学の文献に出てくる「可能世界」は、これら狭義の可能世界とはかなり違っている。「指示」「反実仮想」「虚構」「本質」の分析などでも可能世界の概念は登場するのだが、そこには最大の強みであるはずの到達関係のネットが登場しない。
「じゃあ何で可能世界の概念を使うのよ」というのが、しばらくの間私にとって謎だった。
哲学の文献に出てくる「可能世界」は多くの場合、「反事実的 (counterfactualな) 状況」と言い換えても許されるようなものだ (し、大人クリプキは実際そうしている)。こうした議論の場合、様相論理を使う意味もほとんど無いと思われる。しいて言えばスコープの大小が問題になるくらいだが、スコープの話は、論理式を使わなくても説明できるような事柄だと思う。
そこで、これら2つの可能世界は基本的に無関係なのだと考えると、話がすっきりするように思われた。
つまり、いわゆる「If的状況」「反実仮想の状況」について一生懸命考えるのが、哲学の可能世界なのであって、それは (真理関数のインプットという意味での) 可能世界に関する論理学的扱いが開発されたことと、直接には関係ない。数学的処理が開発されたがゆえに、Ifを考えることへの躊躇が薄れたという意味での影響関係はあるかもしれないが、それだけの話だと思う。
...と、はっきり書いてくれている人を見つけられずにいるので、まだ自信がないのだが、基本的にこういう話なんじゃないかなあ。どうなのだろう...(←だんだん自信がなくなってきている)。
- *1: ∀(すべて)と∃(存在)のこと
ソール・A.クリプキ(著), 八木沢敬(訳), 野家啓一(訳)
産業図書、1985
■ 感想
いまさら読んだ。
思ったより、形而上学と距離をとっていたのが新鮮であった。
■ アプリオリと必然的
「アプリオリ」というのは、「調べなくてもわかる」という意味だそうだ。
「必然的」というのは、「そうでないことが想像できない」という意味だそうだ。
たとえば、「切り裂きジャックは殺人者だ」というのは、調べなくてもわかるのでアプリオリ(切り裂きジャックはある殺人事件の犯人に与えられた名前だから、殺人者であることは調べなくてもわかる)。一方、切り裂きジャックが、そもそも殺人犯にならなかった可能性を想像することはできるので、これは必然的ではない (偶然だ)。
他方、物理学を知った上で「熱が分子運動ではない」という可能性を想像するのはむずかしい。だからこれは必然的だ。でもこれは調べてわかったことだからアプリオリではない (アポステリオリだ)。
...この点について何かを考えていたのだが忘れてしまった。
■ 忘却
そういえば、「naming」の2つの意味、「名指し」と「名付け」がダジャレになってる箇所があるって、戸田山和久が言ってたけど、探すのを忘れていた。あと、最初読んだとき、有名な名前の受け渡しの箇所を読み飛ばしていたので、「あれ? 指示の因果説がない??」と思った。
■ 素質
自分的メモ。
「固定的」は素質語ではないか。つまり、「可燃性」が、「適切な条件のもとで火を近づけたとき、火がつく」という意味であるように、これは「適切な条件のもとで反事実的状況においたとき、以前と同じ対象を指示する」という意味ではないか。
そっち方面で考えていくと、話がどう変わるのか (変わらないのか)。
■あらすじ
(文体はイメージです)
こんにちはこんにちは!!
ぼくクリプキちゃん!
- [直接指示]
名前は、記述や記述の群に置き換えられるって説があるよね!
「アリストテレス」を、「古代最後の偉大な哲学者」に置き換えるってやつ…!
こうですか!
「アリストテレスは犬が好きだ」 ->「古代最後の偉大な哲学者は犬が好きだ」 ->「なんであれ、古代最後の偉大な哲学者であるものならば犬が好きだ」 ->「∀x(Px→Qx)」
つまり、名前は記述の圧縮表現だってことだね…!
でも反事実的状況の場合もこれでいいのかな?
将来「アリストテレスは存在したが哲学者ではなかった」ってわかるかもしれないよね…
この場合、「古代最後の哲学者」は他にいるわけだけど、
その人が犬好きだったら「アリストテレスは犬が好きだ」は、
真だってことになるの><
ほかにも「アリストテレスが哲学者でなかったならば...」って考えることはよくあるよね。
この場合だって、話の対象となっているのは「アリストテレス」じゃないかな…!
名前は「記述や諸々の性質を圧縮したもの」ではないんだってぼくは思うよ。
名前は対象を直接に指示するんじゃないかな!
こんな風に記述の媒介無しに対象を指示する語を
固定指示子と呼ぶことにする。
通常の固有名はすべて固定指示子だね…。
生物種や鉱物などの自然種や「熱」や「1メートル」も固定指示子なんじゃないかな!
- [指示の受け渡し]
じゃあいったい名前は対象をどうやって指示するのかな!
「名前の伝達の連鎖」によって対象を指示するんだってぼくは思うよ。
名前って誰か他の人から聞くものだよね。
その前の人も誰か他の人から聞くし、
そうやってたどっていけばそのうち本人のところに届くはずだよね…!
この連鎖のおかげで人物を指示できるっていうのはどうかな…!
でもこれはあんまりじしんないです…
まちがってたらいやだから、
ちゃんとした理論にはしません><
よりよい見取り図を提示してみただけだよ。
- [同一性の必然性]
同一性を、「2つの名前が同じ対象を指示する」ことだって考えるのが流行ってるね!
でも、これとは別の同一性について考えてみちゃいました…!
名前と名前じゃなくて、対象と対象の同一性について考えるよ。
あるものと同一なものは、それ自身だよね!
自分と同一なものは、必然的に同一だよ。
だから、明けの明星が宵の明星と同一であるのは必然的…!
熱が分子運動であるのも必然的…!
- [必然性とアプリオリ性]
「熱と分子運動が必然的に同一だ」っておかしいですか><
確かにこれは昔は知られていないことだったし、
同一じゃない可能性もあったはずだよね…
でも「アプリオリなもの」と「必然的なもの」は別だって考えればいいんじゃないかな、きっと!
熱が分子運動であるのは、調べないとわからないこと(アポステリオリなこと)だけど、
一度わかってしまうと必然的になるよ…!
「熱が分子運動だということは最近わかった(そうではない可能性もあった)」っていうのは、
「熱が、今僕らが知ってる熱とは別のものであった可能性もあった」ってことだよね!!
http://www.tokyo-midtown.com/jp/index.html
知らなかったら職場で軽くおこられた。
「テレビを見られるようにしたのでバッチリです! もう世間知らずとは言わせません」みたいな弁明をした。
更新しようとしたらMTがエラーを起こすことが多く、イヤになる。
というわけで、更新を少なくするために、別のこともメモしておく。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D2%A5%EB%A5%D9%A5%EB%A5%C8%A1%A6%A5%D7%A5%ED%A5%B0%A5%E9%A5%E0
あとで読む。
John Perry(著)
Stanford Univ Center for the Study、Expanded版、2000
教わった文献。むずかしそうである。
- 『詩学』
アリストテレース(著), ホラーティウス(著), 松本仁助(訳), 岡道男(訳)
岩波文庫(岩波書店)、1997
なぜか自然書店 (「ネット書店ではない」の意) で見つけられなかったので、Amazonでついでがあるときに買おうと思っていた。しかるのちに買った。
- ティアズマガジン vol. 80
COMITIA80 のカタログを買った。
コミティアは、前回行ったらわりと楽しかったので、また行ってみることにした。しかし前回買った同人誌でまだ読んでないものが結構ある。最近マンガを読むのがおっくうで困る。
テレビ台を買い、テレビを設置したら部屋が一気にお茶の間風になったのでテレビの力はすごいなと思った。
- 山田友幸「意味と文脈依存性」
野本和幸(編), 山田友幸(編)
世界思想社、2002
指標的表現は、指標的表現を持たない言語に翻訳できないということが書いてある。
p143-
(7) 私は山田友幸と申します。北大で哲学を教えています。
(10) 山田友幸は山田友幸という名である。山田友幸は北大で哲学を教えている。
(…)
さて、山田が先の(7)を発話した場合と比較してみよう。「私」が発話者当人を指す表現である以上、たまたま山田が発話者である場合には、「私」は山田を指す。そうである以上、(7)と(10)は、同じ人物についての発言になるはずである。では、山田が(10)を発話した場合、彼は自己紹介をしたことになるであろうか。
(…)
(10)だけでは、通常の自己紹介が果たす役割が果たされないであろうことも明らかなように思われる。(10)だけでは、「山田友幸」と呼ばれている人物が目の前の発話者当人にほかならないことが聞き手に対して示されないからである。
p146
自己紹介が与えるのは、相手の側の「この人は誰か」という疑問への答えであり、小説に登場する記憶喪失者が思い出せずにいるのは、「私は誰か」という疑問への答えである。これらの疑問に対する答えは、弱い意味でのみ文脈依存的な言語で表現可能なすべての知識を記載した百科事典があったとしても、その中には書かれることがない。なぜならそれは、より強い意味で文脈依存的な言語でなければ表現できない情報だからである。
これは社会学にとっても重要な話ではないか。もう少しこれを展開した内容が読みたいのだが、どっかにないかしら。
最近ルールや慣習についての理解で、人とすれ違うことが多い。授業などに出ていると、「あれ?」と思うことがままあり、しかも基本的に説明が下手なので、自分の考えをうまく伝えられずもどかしい思いをしがちである。しかし、自分としても、あまり真面目にルールそのものについて考えたことはなかったので、ここら辺で少し考えを整理しておくとよいのかもしれないと思い始めたにゃあ。
ダラダラと思いつくままに書くにゃあ。
「ルール違反はルールに依存している」とか
「ルール違反がルールの存在を支えている」
といった考え方は、社会学にはわりと伝統的にあるものだと思うが、他所のディシプリンの人には、そこまで共有されてはいないのかもしれない。私がしばしば疑問を感じる理由はそこら辺にありそうだにゃあ。
犯罪は、法に論理的に依存している。(法がなければ、犯罪は論理的に不可能)
犯罪があるからこそ、法は維持される。(犯罪がなければ、法が存在する理由もなくなる)
というのは、私には、比較的当たり前のことに思える。
しかし、法と犯罪、無秩序と秩序を対立させる考え方は比較的根強いにゃあ。
たとえば「人はなぜルールを守るのか」という問いが今でも生まれてくるのは、「ルール」を「ルールを守ること」の側から理解する傾向が強いことを示しているのではないかにゃあ。
しかし、たとえば「文法」のルールは、文法的に正しい文を生み出すためにあるのではない。破格の文法もまた文法によって可能になっているにゃあ。
春が二階から落ちてきた。(冒頭の文章より)???これだけでも人を引き付けるのに十分です。伊坂さん3冊目ですが、これが1番かな!
という小説のレビューがある。
(私は最近レビューの収集をはじめた)。
「春が二階から落ちてきた」という文が、この人にとって、「見える」ものとなるのは、それがルール違反の文章だからだ。
この文が、「凝った文」として目に見えるようになるのは、「春」という語に関するルールがあるからだにゃあ。語のルールがそもそも存在しなければ、「春が二階から落ちてきた」も、ただの普通の文章と変わらないものになってしまう。ルールには、ルール違反を有徴化し、理解可能なものにする働きもあるニャー。
土屋賢二(著)
勁草書房、1998
上の本の一章を読んでいたら、これとよく似た例が出てきた。
アントニオ・カルロス・ジョビンの『ドリーマー』という曲について。
この曲がなぜいい曲かを分析すればたぶんこうなるだろう。まず、三、四小節目の和音が意表をついている。メロディーからすれば一、二小節目と同じ和音を予想させるが、それを裏切っているからである。とくにベースの音が同じままであること、またここには示さなかったが、イントロの部分でCの次にCm7を配していることから、変化を予想してもCm7を考えるくらいであるので、いっそう意外の感を強くする。p30-31
このように、この曲は、聴く人に期待を持たせておいてそれを裏切るという、ちょうど手品や本格物の推理小説に似た要素をもっている。p32
だが、この手法が有効であるということがそもそも、音楽が決まりきった手順にしたがっていれば、容易に予想できる手品や推理小説のように、つまらないものしかできないということを示している。p32
このようにして、「芸術にはルールがある」「しかし、ルールに従っていれば良い作品になるわけではない」ということを示していくのが、本書第一章のストーリーになっている。
この論文は大変おもしろかったのだが、「ルールに従えば良い作品ができるわけではない」という結論の部分にはかなりの違和感があったにゃあ。
否定しているにしても、「芸術の規則とは、よい作品をつくるための手順のことである」という理解にどこかでひきずられているから、こういう結論が出てくるのだと思う。そうではなく、「ルールには、作品を理解可能にする働きがある」というべきだと思うにゃあ。
「期待を裏切る」とか「予想を裏切る」とか「驚き」というと、心理的な話のようだが、これは心理の問題とは関係がない。
推理小説の結末が予想できたとしても、「何がトリックになっているか」ということは理解できる。
それと同様に、この曲の展開をあらかじめ予想できたとしても、曲が「ルール違反の展開」を利用していることは、ルールを知っている人間なら誰でも指摘できることだ(私には楽譜が読めないので、正直曲の分析はちんぷんかんぷんだったのだが)。「春が二階から落ちてきた」という文の場合でも同様だ。これが隠喩になっているのは、春という語のルールを参照すれば誰にでも指摘できることだ。
つまり、驚く必要はない。驚かせようとしていることがわかればそれでよい。そしてそれは、規則を参照することさえできれば、誰にでも達成可能な事柄であるにゃあ。
芸術の規則には、「そこで何が行われているか」を理解可能にする働きがある。
こうしたルールの利用は、「解釈」でも、「感性的判断」でもない。
美学、文学理論の世界では、しばしば読者/受容者の活動を、「解釈」とか「感性的判断」に限定してしまうが、ルールを利用した理解の活動をもっと重要視すべきであると私は思うにゃあ。
※注
偉そうな文体が自分でイヤになってきたので、語尾に「にゃあ」をつけてみた。
赤田先生は、わるい部分が頭なので、時々朦朧としたまま行動していることがある。
いつのまにかこの2冊を買っていたらしいのだが、うっすらとしか記憶に残っていない。
黒田硫黄(著)
小学館、2001
黒田硫黄(著)
小学館、2003
書評・イアン・ハッキング『偶然を飼いならす──統計学と第二次科学革命──』
内井惣七
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~suchii/hacking.html
あとで読む。
おまけ。
- ナショナルから大切なお知らせとお願いです
http://www.nicovideo.jp/watch/sm114441
ナショナルからのお知らせを色々とリミックス。
ホラー版のやつが好きだ。
関口安義(著)
日本放送出版協会、2006
戸田山和久(著)
日本放送出版協会、2002
授業に出ているとだんだん自信がなくなってきて、今さらこんな本を買ってみた。
最近考えていること。
■わかること
最初に、わかっていることを書く。
社会的なカテゴリーを、物理的なモノのように扱ってはならない。
たとえば「会社」は、単に空間的な場所を指すのではない。会社が会社となるためには、しかるべき場所でしかるべき人々が、しかるべき振る舞いをするのでなければならない。会社とは、場所-人-振る舞いのリンクによってつくりだされる種類のものだ。従って、会社-を-する-ための振る舞いの技法というものが存在し、これらの技法を用いることによって、はじめて会社という場が成り立たしめられる。
だから、一つの場所を観察しただけでは、「会社」を調査したことにはならない(それは、会社を耐震調査に訪れた人々が、「会社」を調査していないのと同じことだ)。会社というカテゴリーを扱うためには、会社-を-する-ための技法を問題にしなければならない。
「作品」もまた、そのような社会的カテゴリーのひとつである。作品とは、ある種の対象のことであるとともに、対象に対するある種の扱い方のことでもある。「作品でありうるような種類のもの」に触れただけでは、作品に触れたことにはならない。絵画をX線で調査する技師は、作品に触れているのではない。
打てば響くを地でいく会話も可能で頭もきれるニールも、後半はとくにヒヤヒヤする場面が多かったのですが、そう感じさせないように隠している描写が面白かった。
読み終わった後は、「悲しい」よりも「あたたかい」だった。
この本を読んでたくさん泣いたのに、
読み終わったら「ああ。いい本だなあ」って。
心があたたかくなった。
これはすごかったです。
子供がいるからなのか、リアルに想像出来る上に話の展開がノンストップで寝かせてくれませんでした。
上のような文を読めば、誰が書いた文かわからなくても、文脈がなくても、何らかの種類の「作品」について語っているのだと理解することができる。
「作品を作品として扱う」とは、たとえば上のような語りの対象にするということだ。
人は、ある種の「モノ」に触れれば、それだけで作品の受け手になれるわけではない。小説の読者になるとは、しかるべき対象をしかるべき仕方で、(たとえば上のような仕方で) 扱うことだ。上の人々は、小説の読者になるための技法を知っており、それを現に用いている。人々は、ある種の振る舞いの技法を用いることによって、作品-についての-語りというコンテクストをつくりあげている。コンテクストは、語りを理解可能にするとともに、語りの技法によってつくりあげられる。最近の私は「技法」という語を用いるのがお気に入りだが、これを「慣習」や「ルール」や「構造」や「文法」と呼び変えてもかまわない (それらの種差も重要かもしれないが、おおまかな構図としてはこれらは同じ位置にくる概念で【ありうる】)。
読者論、受容美学がなぜダメかというのは、この地点から見ればわかりやすい。「読者」や「受け手」は、あらかじめ存在するカテゴリーではない。人は読者になるための技法を用いることによって、はじめて読者になる。「作品」を社会学的に扱うのならば、まず「どうすれば受け手になれるのか」こそを問題にしなければならない。
■わからないこと
ここまではわかること。よくわからないことはここからはじまる。
「作品」と「モノ」を切り離すことはたやすい。小説とは「文字列」のことではない。極端な例をあげれば、同じ文字列を持った異なる小説さえもが存在しうる (a.k.a. 「ドンキホーテの著者、ピエール・メナール」問題)。文字列と小説を同一視するのは、単なるカテゴリー・ミステイクだ。
しかし、それ以上のカテゴリーの重なりをどうやって切り離すべきかが、よくわからない。
ひとつの「作品」は、同時に「小説」であり、「フィクション」であり、「推理小説」であることもある。
メディア論ならば、「小説であること」の固有の次元を問題にしなければならない。たとえば、「小説であること」と「映画であること」がそれぞれどのように違うのかということを問題にしなければならない。
フィクション論ならば、「フィクションであること」の固有の次元を問題にしなければならない。
ジャンル論ならば、「推理小説であること」の固有の次元を問題にしなければならない。
それら「固有の次元」についてまともに考えず、あたかも映画やテレビや写本について語ればメディアについて語ったことになるかのように論じているから、たいていのメディア論はダメなのだ。フィクション論にしても、ジャンル論にしても同様だ。
ひとつのカテゴリーの固有の次元を問題にしない「X論」は、「会社」ではなく、「会社の建物」について語るようなカテゴリー・ミステイクを犯している。
この内、メディアの固有性を切り離すという試みについては、可能であるような感じもする。写真であること、小説であること、映画であることが有意味であるような水準というのは確かに存在しうるだろう。私がまだ読み終わっていないジェユッシの写真論↓は、それに成功しているように見えなくもない。
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_105.html
しかし、フィクションという次元は、存在するのだろうか。
あるとすればそれは、「架空の出来事であることが有意味であるような水準」であるはずである。
あると言われればあるような気もするし、ないような気もするし、最近その辺がよくわからなくなっている。
今日ふと思ったのは、「虚構の出来事」というのは、小説その他のフィクションにとって、文や文字や音のようなものかもしれないと思った。つまりそれはやりとりの中で利用されるリソースであり、「素材」という意味でのメディアになっているかもしれない。
会話という場が、音を利用するように、小説もまた虚構の出来事を利用するのかもしれない。
この点については、主にこれから考えるので、まだあまりまとまっていない。
最近発見した緊張を防ぐ方法。
むずかしいことを考える。
むずかしい本を持ち歩き、面接などに行く途中、行く直前など、暇があればとにかく読むようにする。そっちの問題で頭をいっぱいにしておくことで、緊張しそうな発想 (面接失敗の想像など) に頭を使う余裕がなくなるようにする。
こつは、むずかしい問題を扱っていても平易に書かれた本を選ぶこと。何を言ってるのかがわからないようなタイプの本だと、そもそも移動中に読む気がしない。また、考えすぎても困るので、あまり深刻な問題ではなく、パズルのような問題を扱ったものがよい。
以上2つの条件にぴったくるのは分析哲学の本だ。
最近面接を2つ受けたが、幹部面接のときはクワインの『論理的観点から』を読んでいた。役員面接に行くときは、クリプキの『名指しと必然性』を読んでいた。二回とも緊張を緩和するのに成功したので、このメソッドに自信をもった。
後者は、講演を起こしたものだけあって非常に平易であり、しかもむずかしさもなかなかのものなので、緊張緩和にはかなりお薦めできる一冊となっている。緊張緩和に使ったことはないが、グッドマンの『事実・虚構・予言』なども向いているのではないかと推測する。
クワイン
W.V.O. クワイン(著), Willard Van Orman Quine(原著), 飯田隆(訳)
勁草書房、1992
読むには読んだが、むずかしすぎてほとんど解説できない。
教科書的には、本書所収の「経験主義の2つのドグマ」で、クワインは論理実証主義にとどめを刺したということになっている。しかし2つのドグマを読んでも、なぜこれで実証主義が破綻するのかはよくわからない。
一方、『哲学の歴史 11 20世紀 2 (11)』所収の飯田隆論文によれば、クワインの批判によって概念分析という哲学の試み (少なくとも、経験科学と無関係な概念分析が可能であるというタイプの立場) も破綻するのだそうだ。こっちはわからないでもない。というかそもそも「経験的でない概念分析が可能だ」という態度の方が私にはよくわからない。
2つのドグマとは、
- 「分析的な、つまり事実から独立した意味に基づく真理と、綜合的な、つまり事実に基づく真理との間には根本的な断絶がある」
- 「有意味な文は、直接的な経験を表す語同士を論理的につなげたものと同値である(=還元主義)」
という2つの信念のこと。
「経験主義の2つのドグマ」の目的は、この2つがうさんくさい信念であるのを示すこと。
■内容
内容は、だいたいこんな感じの構成になっていると思われる。
- 分析性は同義性に依存する。
「独身の人は結婚していない」が分析的であるのは、「独身」と「結婚していない」が同じ意味だからだよ。
- しかし同義性というのは何だかよくわからないよ。
- 分析的というのは、意味規則によって真になるということだ。(という説もある)
- しかし、何が意味規則であるかは、「何を公理としてとるか」と同じで、そのつどの試みによって変わるものだ。
- 同義性を還元主義によって説明しようとする説もある。
しかし還元主義もやっぱり怪しい。
単体で検証可能な文などというものはない。
そこでホーリズムですよ。
■感想
解説をいろいろ読んでいたら余計にわからなくなってきたが、読んだときは、「意味論的規則はそのつどの試みに相対的」という部分が重要なのかと思った。
何を公理とするかと同じ、ということは「本によって違う」「何がしたいかによっても違う」ということだ。しかし意味論的規則の例があまりあがっていないのであまり詳しくはわからなかった。
クワインはモデル論的な意味論をかなり慎重に遠ざけている。この辺りの批判は現在ほとんど受け継がれていないように見える。むしろモデル論が標準的な方法として大手を振ってまかり通っているように見える。モデル論の妥当性を問題にした議論には、クワイン以後どのようなものがあるのだろう。
■思いつき
存在するとは、変項の値となるということである。
※イケメンに限る
参考:
「序説」「試論」「論」「について」などを「の話」で置き換えると、急に安っぽくなる件。
- ルネ・デカルト著『方法の話』
- アンリ・ベルクソン著『意識に直接与えられたものの話』
- ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著『確実性の話』
- アリストテレス著『形而上の話』
- ジャック・デリダ著『グラマトロジーの話』
書いた後、やっぱちょっとちがうかなと思ったので消した。
今日聞いたイタリア文学びっくり情報。
- 万能人
レオナルド・ダ・ヴィンチと並び称されるルネサンスの万能人、レオン・バッティスタ・アルベルティは、ジャンプ力がすごいらしい。助走無しで人の頭より高く跳躍するそうだ。ギザウニベルザリス...w
- インド人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2
「インド人もびっくり」の由来は神曲の一節「上へ行けば行くほど、末広がりに広がるその上枝の高さは、喬木のおのが森に住み慣れたインド人をさえ、驚嘆させたであろう」(寿岳訳)が元になっていると言われている。
またいろいろ買ってしまった。
フィルムアート社、2002
撮影技法の簡便なガイドって感じ。
平田順子(著)
太田出版、2000
アマゾンのレビューにひとりで10個同じレビューを投稿している人がいる。
- 『談話と対話』
石崎雅人(著), 伝康晴(著)
東京大学出版会、2001
意図、計画認識、談話構造、相互行為…会話分析・言語哲学・人工知能などでの知見を計算論的な視点から統合。理論的・実証的研究に必須の基礎理論を詳説。
情報科学の人が書いた語用論の教科書らしい。
こいつは、マニアックだ。
山岡実(著)
松柏社、2000
ぱらぱら見たが、近年の物語論の展開を知るには良さそうな感じだった。
- 『論理の基礎 - 日常言語と形式論理学』上下
P. F. ストローソン(著)
法律文化社
定価で売ってたのでびっくりした。一冊1200円テラヤスス。
最近だらけていていかん。
もっとビシビシ活動しようと思ったのでここに書いておく。
以下は単に本のメモ。
ルーディ・ラッカー(著), 大槻有紀子(訳)
工作舎、1993
SF作家のルディ・ラッカーが書いた情報科学と数学の本。おもしろそうだ。
ふと情報科学系のことを勉強したくてたまらない気分におそわれることがある。
こっちも気になっている。
- 『ソフトウェア』
ルーディ・ラッカー(著), 黒丸尚(訳)
早川書房、1989
私が卒業した大学(のごく一部)では、山本寛氏は名作「怨念戦隊ルサンチマン」の監督として非常に尊敬されており、私ももちろん例外ではない。
- らき☆すた -もってけ!セーラーふく- OP たらふくおなかいっぱいVer2.00
http://www.nicovideo.jp/watch/sm140082
というわけで、このアニメ観たいな。DVD出てるのかな。
おまけ。
- ハレ晴れムスカ
外山ブームをきっかけに、日本でも演説が流行ればよいと密かな願望を抱いている。
- 外山恒一 in 映像の世紀
格調が高い。
- ニコニコ名作劇場 No.12 外山恒一の政見放送×IDOLM@STER とかちつくちて
笑った。
- 外山恒一は大変なものを盗んでいきました→Ver.2.0
これ好き。
- 外山恒一政見放送(サウスパーク)
これは良くできてる。
私が本屋で発見したことを書く。
ちくま学芸文庫の新刊。
W.V.クワイン(著), 吉田夏彦(訳), 野崎昭弘(訳)
ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2007
昔出てたやつの再版らしい。軽い読み物風。
- 『使える現象学』
レスター・エンブリー(著), 和田渡(訳), 李晟台(訳)
ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2007
どうなのか。
本屋と関係なく、気がついたこと。
しょこたん☆ブログを読んでいたら、しょこたんこと中川翔子さんがホーリーマウンテンを観ていたのでえらいなあと思った。
いわゆる4月病。
本を買う量を減らそう減らそうと思っているのだが、単位を取るためには本を買わねばならないということに気づく。結構単位が残っててやばー。
- 『意味と目的の世界』
ルース・ギャレット・ミリカン(著), 信原幸弘(訳)
勁草書房、2007
Ruth Garrett Millikan(著)
Oxford Univ Pr, 2005
授業中に、ライカンと間違え、顔から火が出る思いであった。
間違えたことより、間違えたあとうっかり、「いや、よく間違えるんです」みたいな風にごまかそうとしてしまったのが恥ずかしかった。
「おいおい、よくわかってない社会学のやつが来たよ...」て思われたに違いない。ぎゃー。
- 『システム理論入門』
ニクラス・ルーマン(著), ディルク・ベッカー(編)
新泉社、2007
野本和幸(編), 山田友幸(編)
世界思想社、2002
だんだん言語哲学がなんだかよくわからなくなってきたので基本に立ち返りたく思った。
- 『相対主義の可能性』
ジャック・W. メイランド (編), マイケル・クラウス(編), 常俊宗三郎(訳), 加茂直樹(訳), 戸田省二郎(訳)
産業図書、1989
これもこころ惹かれないタイトルだが、執筆陣は豪華だ。
携帯を転送の件。
http://www.at-akada.org/blog/2007/04/post_156.html
待ったら解決した。
ヘッダに以下の文言を入れておいたのだが、はてなアンテナがこいつに気がつくのにしばらくかかったようだ。今はきちんと転送されるようになったと思われる。
<link rel="alternate" media="handheld" href="http://www.at-akada.org/blog/mobile/" />
- 訃報
カート・ヴォネガット死去。
http://www.nytimes.com/2007/04/12/books/12vonnegut.html?_r=4&oref=slogin&oref=slogin
まわるまわる。ぐるぐるまわる。
- 共同研究
京都大学人文科学研究所共同研究
「虚構と擬制――総合的フィクション研究の試み」
http://kyodo.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~fiction/fictionHP/Fiction_home.html
以前からうすうす勘付いてはいたが、もしかしてフィクション研究は流行ってるのではないだろうか。
あと一年流行るのが遅れてほしかったなあ。
古本屋で2冊。
- 『志賀直哉私論』
安岡章太郎(著)
講談社、1983
早川書房編集部 (編)
早川書房 、1991
買った本をいちいちここに記すのはもうだいぶイヤになっているのだがよくわからない義務感にかられてつづけている。
携帯電話からのアクセスを携帯用ページに転送したいと思った。
なぜならはてなアンテナを携帯で見ていて(私はよくはてなアンテナを携帯で見ている)、アンテナから直接ブログに移動できないと面倒だからだ。
調べたところ、.htaccessを使うのが一番簡単そうだった。
というわけで.htaccessに以下の文言を書き込む。
RewriteEngine On
RewriteCond %{HTTP_USER_AGENT} ^(DoCoMo|KDDI|DDIPOKET|UP\.Browser|J-PHONE|Vodafone|SoftBank)
RewriteRule ^$ http://www.at-akada.org/blog/mobile/ [R]
試したところ、携帯から直接URLを打ち込んだ場合はこれで転送されるようだ。しかしアンテナからのリンクで飛ぶとうまく転送されない。...なぜだ。
郡司隆男(著)
日本評論社、1994
安かったので買った。
今日の発見。
「日常言語」というのは哲学をかじった人。
「自然言語」というのはコンピュータ・サイエンスをかじった人。
関係ないけど、『情報数学セミナー 自然言語』というタイトルはおもしろい。
↓で表紙が見られるが、表紙にでかでかと「自然言語」と書いてあるのを見るとさらにおもしろい。
http://page16.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u5990644
人間と話すのが苦手だから、自然言語も教科書で学びたい。そんな情報科学の研究者向けの一冊、のように見える。
■気づき
「ジョン・マクタガート」と「ジョン・マクダウェル」を混同していた。
今後気をつけたい。
「時間が無い」と言ったのはマクタガート。ラッセルを大学から追放したのもマクタガート。
マクダウェルはウィトゲンシュタイにゃん。まだ生きてる。
■表示と指示
表示denoteと指示referのちがい。by戸田山和久
ここで注意しなければならないのは、表示という関係は、指示という関係とはまったく異なる特別な関係であるということだ。指示は、言語表現と項との間の関係だ。言語と世界の関係と言ってもよい。これに対して、表示は表示概念という項とモノという項のあいだの関係である。つまり、世界のなかにある存在者同士の関係だ。
p214
へー。
■タイプとオーダー
「ラッセル」の項目を読んでいてふと思った。
ルーマンの「セカンド・オーダーの観察」って、「オーダー」じゃなくて「タイプ」の上昇ではないだろうか。
知ってる人は知ってるように「セカンド・オーダーの観察」とは「観察の観察」のことだ。
観察が二項述語だとすると、
(二項述語だと思うが)
観察はクラスだということになる。
ということは、観察の観察はクラスのクラス(集合の集合)だ。
これはオーダーではなく、タイプの上昇だ。
タイプの上昇とは、「何を基本的な存在者とするか」が変わることだ。タイプが1つあがると、それまで個体だったものだけでなく、個体の集合や、個体の関係の集合を個体として扱えるようになる。
要するに、何を有意味な「単位」として認めるかについて、タイプが上昇すればするほど基準がゆるくなる。これはルーマンのしている話ともそう遠くないと思われる。
では、オーダーの上昇とは何か。
基本的には、述語を集めて新しい述語をつくることだ。
一番よくあるケースで言えば、述語を量化することだ。
たとえば「セカンド・オーダーの述語論理」とは、述語の量化を許す論理のことだ。「イルカは、クジラがもっているすべての性質をもつ」とか「クジラは、イルカが持っている少なくともひとつの性質をもつ」といった文は、セカンド・オーダーの述語論理でなければつくれない。
これはタイプの上昇とはまったく違う。基本的存在者として「イルカ」しか認めなかったとしても、「イルカはイルカのもつ属性のうちの少なくともひとつをもつ」という文をつくることができる。
「観察」ということで言えば、種々の観察を集めて、新しい述語をつくることが「セカンド・オーダーの観察」だという話になってしまう。
これはルーマンのしている話とは全然関係ない。
だから、「セカンド・オーダーの観察」よりは、「タイプがひとつ上の観察」の方がよりよいのではないかと思った。
- 『哲学の歴史 11 論理・数学・言語』
飯田隆(編)
中央公論新社、2007
■目次
- 総論 科学の世紀と哲学
- 自然科学の哲学
- ドイツ語圏における展開
- フランスにおける展開
- フレーゲ
- ラッセル
- 数学基礎論の展開とその哲学
- ウィトゲンシュタイン
- 前期
- 後期
- ウィーン学団とカルナップ
- 科学哲学
- エピステモロジー
- 日常言語の哲学 - 分析哲学1
- クワインとクワイン以後 - 分析哲学2
すごい本が出ていたので買った。
そのままの勢いで結構読んじゃった。
飯田氏による「日常言語の哲学」「クワイン」の辺りと戸田山和久氏による「ラッセル」の項目などを読んだ。どちらもおもしろい。とくに、ちょうど「経験主義の2つのドグマ」に頭を悩ませていたところだったので、クワインの項目は非常に助かった。
私は日本語のダメなところは、話題によって語彙を変えるところだと思っている。
専門書と日常語で別々の語彙を使うのは最悪だと思う。なぜ最悪かと言えば、それによって本来関連あるはずの問題たちの関連が見えなくなってしまうからだ。
しかし、一般論としてわかっていても、実践することはむずかしい。なぜなら私をふくめ多くの人々はすでに日本語の習慣に十分にひたっており、専門的な議論のなかに、くだけた言葉が出てくると、「おかしい」「ヘンだ」と感じてしまうからだ。
ラテン語で書くことが当たり前の時代に、ダンテは、自分が日常的に使っている言葉で書くことを選んだ。現在に生きる人がこのことを評価することはたやすい。しかし、それを評価する多くの人たちが、その一方で俗語まるだしの論文を笑う、ということを私は知っている。
改革のための一歩はまず自らの感覚を矯正することでなければならない。それは自分の感覚を型にはめ、べつの形にたわめていくことだ。それは訓練であり、訓練である以上、自分の感覚をいじめることでなければならない。
■エクリチュール
「エクリチュール」という語をカタカナで使うのはとてもおかしいことだと思う。なぜならカタカナでエクリチュールと書くと、フランス語ができる人以外、誰もこれが英語の"writing"と同系統の語だと気がつかないからだ。そもそも日本語の「書く」にかかわる問題だとさえ気がついてもらえない。これは決して良いことではない。
私は'écriture'は、「文章」と訳すべきだと思う。
私の知るかぎり、この語には、次の3つの意味がある。
- 「喋る」に対比される「書く」
- 「書かれたもの」
- 特定の人の文体
(例. 「山下清のエクリチュール」)
3つとも「文章」で、特に何の問題なく通じる。
もちろん、哲学の専門用語として、限定された意味をもたせたいのだから、日常語の「文章」とは意味が違ってくる場面もあることはわかる。しかし、それはフランス語でも、日常語としての'écriture'と哲学用語の'écriture'の間に生じているはずの問題であり、文のアレンジで十分に解決できるはずだ。
■差延
※参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%BB%B6
日本語では「差延」などというまったく意味不明の訳語をあてられている"différance"は、"différence"(違い)と、"différer"(遅らせる)をくっつけたダジャレである。
これは、どう考えても「遅がい」と訳すべきところだろう。
デリダの小難しい論文にダジャレが出てくると、日本人としては違和感を感じるところだが、それはフランス人がデリダを読んで、そもそも感じているはずの違和感であると思う。従って、ここは迷わず「遅がい」と訳さねばならない。
何より、デリダは"différance"(遅がい)と"différence"(違い)の発音が同じであり、文章上の表記だけが違うということを重視していた。私の訳語はこの点を反映しているのであるから、「差延」などという誰にも意味のわからない語より、遙かに優れているはずだ。
日本語文法の基礎くらいは学んでおきたいなと思っている。
- 『日本語の文法』
高橋太郎(著)
ひつじ書房、2005
よさげ。
庵功雄(著)
スリーエーネットワーク、2001
初学者にはいいかも。
庵功雄(著), 松岡弘(著), 中西久実子(著), 山田敏弘(著), 高梨信乃(著)
スリーエーネットワーク、2000
中上級もある。いいかもしれない。
久島茂(著)
くろしお出版、2001
おもしろそうなのだが、どうか。
G. E. Hughes(著), M. J. Cresswell(著)
Routledge, 1996
Amazonがねーよwと言うので丸善へ。
↓の本の内容を新しくした版。
三浦聡(著)
恒星社厚生閣、1981
ジャンル
M川氏と会ったので色々しゃべった。思いついたことを忘れないようにメモしておく。
■セカイ系
私は「セカイ系とは、作品設定(世界設定)に主人公や登場人物の内面を投射した、いわば設定が心理の隠喩になっている作品のことだ」という自説を持っている。
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post_104.html
M川氏にこの説の感想を聞いたところ、「確かにそれはエヴァンゲリオンに当てはまる特徴のひとつだし、エヴァンゲリオン以降そういう作品がつくられているのも正しいと思う。しかし、その語はもともとエヴァンゲリオンの別の特徴を指摘するために使われていたのではないか」と言われる。M川の認識では、セカイ系とは、劇場版のエヴァンゲリオン最終話を批判するために使われた語であったそうだ。この点についてはよくわからないので保留しておく。しかし、確かにWikipediaの記述の一部は、この批判に答えようとしているように読めなくもない。
また、話をしている内に、実は二系統の異なる作品が「セカイ系」の名の下に括られているのではないかという問題が浮かびあがった。
ひとつは、上に描いたように作品設定に登場人物の心理を投射したタイプの作品。これを仮に隠喩・投射型セカイ系とでも呼ぶことにする。
もうひとつは「泣けるシチュエーション」など、あるシチュエーションを描くことを主目的として、非現実的な設定をつくりあげるタイプの作品。設定が書き割りになるのは後者のタイプでも同じだが、後者の場合、設定は隠喩として機能しない。「最終兵器彼女」などは後者の事例にあたる。こちらはシチュエーション先行型とでも呼ぶことにしよう。
M川氏の意見によると、新海誠の作品のうち、『ほしのこえ』は後者(シチュエーション先行型)の例であり、『雲のむこう、約束の場所』は前者(隠喩・投射型)の例であるそうだ(私は『ほしのこえ』しか観てないので『雲...』についてはわからないが、『ほしのこえ』は「シチュエーション先行型」であると思う)。
思うに、『涼宮ハルヒ』は隠喩・投射型をかなり自覚的に(もはや隠喩が「隠」喩でなくなるくらいに)やった事例であり、『世界の中心で愛を叫ぶ』は、非現実的な設定こそ出てこないものの、シチュエーション先行型の例に近い。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』はエヴァンゲリオン以前に隠喩・投射型のセカイ系をやった事例だ。
■ジャンル
ジャンル論はむずかしい。
ジャンルの定式化がいかに間違っていたとしても、人はたとえば「セカイ系」といったジャンルの概念を使うことができるし、セカイ系の作品を正しく判別することができる。私は、「正しいジャンル論」とは、このようにして人がジャンルを判別するときに、実際には何をしているのか、何に注目しているのかをうまく反省することであると思う。
ジャンルは名づけられる以前から存在する。
「セカイ系」という言葉が使われる以前から、「作品設定に主人公の内面を投射した作品」は存在していた。斉藤美奈子が『妊娠小説』を書く以前から、妊娠小説というジャンルは存在していた。セジウィックが『男同士の絆』を書く以前から、男同士で女性をとりあう小説は存在していた。
名前がつく以前から存在していたからこそ、「妊娠小説とは、堕胎で悩む若い男女を書いた小説のことだ」と説明されたとき、人は「ああ、アレのことか」と理解することができる。「妊娠小説を書こう」というやつはあまりいないと思うが、「叙述トリック」という言葉を知らなくても、たとえば、「『アクロイド殺し』のような小説を書こう」と思うことで、叙述トリックというジャンルを志向することはできてしまう。
しかし、二種類(以上)の「セカイ系」がある場合、それをどう考えればよいのか。
そもそも、「SF」や「ミステリー」という大きなジャンルに、共通したひとつの特徴があるとも思えない。だから、おそらくジャンルというものは、少しずつ似ているが、実際には多種多様な雑多なものの寄せ集めを指示することもあるのだと思う。
だが、こうした事実をもって「ジャンルというのは曖昧なものであり、ジャンルに共通した特徴を探そうとすること自体が無益なのだ」という解決へ進む道を、私は受け入れたくない。
むしろ「雑多なものを束ねるラベル」としてのジャンルが存在する一方で、本当に存在するある種のまとまりを指示するジャンル名もあるのだと思う。後者はジャンルというより、「技法」という方が近いかもしれない。
「作品設定に主人公の内面を投射する」というのは、この種の技法の事例だろう。それはセカイ系と呼ばれるラベルとは必ずしも一致しないかもしれないが、人はこの技法を認識することも、使うこともでき、それについて語ることができる、と私は考える。
この種の技法について、説明されても理解できないということは考えられない。むしろそれは、説明されたとき、「ああ、アレのことか」とすぐにピンとくるものでなければならない(それを見たことがない場合は別にして)。人は説明される前からそれが何かを知っている。ただそれをうまく反省することができず、間違った名前を与えたり、他のものと混同したり、うまく定式化することができない、という場合がある。それを使うことはできるのに、それをどうやって使っているのかを説明することができないことがある(スキーを滑ることができても、スキーの仕方を説明できるとはかぎらない)。
何が言いたいかというと。「成功した批評」(の少なくとも一部)は、この種のあらかじめ存在していた技法を正しく定式化することであるかもしれないと思った。そして失敗した批評とは、間違った定式化や間違った反省のことを意味するかもしれないと思った。
土屋賢二(著)
勁草書房、1998
タイトルに惹かれないのでスルーしていたが、「新しい芸術様式の出現」というそれなりに関心のあるテーマについて触れられているらしいので買った。Amazonに安く出てるだろうと思ったらやはり安く出ていた。しかし、この本はやはりタイトルがよくない。
私としては建設的に考え、より良いタイトルを提案する提案型の読者でありたい。
- 『ロボット猫とロボットとロボットモーツァルト』
はどうだろう。ぐっとよくなったと思うのだが。
古書店にて。笹塚の北にある一新堂書店は、品揃えもよく値段も安くて非常によい店だと思う。
- 『レトリック感覚』
佐藤信夫(著)
講談社学術文庫(講談社)、1992
私が買ったのは講談社文庫版だが、今は学術文庫ででてる。
エドムント・フッサール(著), Edmund Husserl(原著), 細谷恒夫(訳), 木田元(訳)
中公文庫(中央公論社)、1995
「危機感覚を身につけようかと思って」というのが表向きの理由。
各務三郎(編)
講談社文庫(講談社)、2000
茂呂雄二(著), 汐見稔幸(著)
東京大学出版会、1988
このシリーズは結構おもしろい本が入ってるかもしれないと思い始めた。
- 『少年小説の世界』
高橋康雄(著)
角川書店、1986
戦前少年小説のガイドブック。こういう本がほしかった。
就活向けの自己分析にチャレンジ。
意外とあてはまる項目が多くて驚いた。私は大企業向きの人間であることがわかった(←餅男にだまされる人々)。
- 与えられた問題(課題)を解く(解決する)のが好き。その問題(課題)を解く(解決する)ことにどういう意味があるかとかよりも、その問題が難しければ難しいほど面白いと思う。
->○
これはわりと共感できる。
- Whatへの「好き嫌い」やこだわりがあまり細かくなくおおらか。一緒に働く人への「好き嫌い」があまりない。そして苦手(つまり「嫌い」)を克服するのが好き。
->△
こだわりはないし、苦手を克服するのは好きだ。一緒に働く人への好き嫌いはそこそこあるかもしれない。相手に想像力がないとつらい。
- 尋常でない体力(特に何十年も長時間労働ができる持久力)を持ち、そこが競争優位になる世界が好き。
->×
これはまったくあてはまらない。体力のなさに絶大な自信をほこっている。
- 匿名性を好む。「これは自分がやったことだ」というような意志表明(自分の名前で仕事をすること)にあまり興味を持たない。むしろ一人ではできない大きなことを仕事ではしたいと考える(たとえば世界中に普及する自動車の開発に関与したというようなことを好む)。
->△
匿名はそこそこ好む。名前を出すことにそこまで忌避感があるわけではないが、そのつらさや重さもわかるので、出さなくて良いなら楽かと思うことはある。
- パワーが好き。政治的行動が好き。責任感が強い。いずれは組織の長になってそのパワーを行使することで何かを成し遂げたいと思う(社会貢献みたいな達成、共同体の家族も含めた幸福にコミットするとかも含めて)。
->×
これはまるでない。責任感というものはあるし理解できるが、「できることなら責任を負いたくない」と思っている。生涯のつづくかぎり、長と名のつくものからは可能なかぎり逃げたいと思う。
- 組織の一員であることの「気楽さ」、「安心感を持ちつつ生活できる」ことが好き。
->○
結構好きだ。
- 短期決戦型勝負よりも長期戦のほうが好き。
->○
長期戦が好きだ。
- 「巨大なものが粛々と動いていく仕組み」みたいなものが好き。工場が好き。プラントが好き。巨大建造物が好き。社会のルール作りみたいなこと(立法っぽいこと)が好き。
->△
工場、プラント、巨大建造物までは好きだ。
社会のルール作りはそれほど好きではないが、「社会主義国家」が好きだ。理想に燃えた人々が一糸乱れずにマスゲームなどしてるのを見るとドキドキする。国家のしくみとして社会主義がよいのかどうかは知らないが、「危険な香り」、「壮大さ」、「美」などの意味で社会主義国家にはかない憧れを抱いている。これは「巨大なものが粛々と動いていく仕組み」「社会のルール作り」に近いのではないか。
- 「これが今から始まる新しいゲームだ」と「ルール」を与えられたとき、そのルールの意味をすぐに習得してその世界で勝つことに邁進する、みたいなことが好き。
->○
これも好きだ。
というわけで、緻密な分析により、私は大企業向きだとわかったので大企業の方から内定をいただいてもやぶさかではない。
知覚・感性・その他 - 2
- 『社会の芸術』
ニクラス・ルーマン(著), Niklas Luhmann(原著), 馬場靖雄(訳)
法政大学出版局、2004
前回:
http://www.at-akada.org/blog/2007/04/_1_1.html
1章後半。
同じ話を現象学に依拠してすることもできると言いながら(注92)、なぜかスペンサー=ブラウンに依拠するルーマン。
きわめて一般的な話ばかりで頭が痛い。
■もの/形式
電波系の記述を差し引いて読むと以下のような感じか。
- ものとは何か :Ⅵ節
ルーマンは、「もの」(本書では「形式/かたち」と呼ばれる)の定義をきわめてゆるくとっている。未規定なものから区別され、さしあたり規定されたものとしてあるようなもの一般を「もの」と考える。この辺りの方針は、現象学に依拠してやっていた前期ルーマンとまったくかわらない。なぜスペンサー=ブラウンに依拠したいのかはよくわからない。
- 作品というもの :Ⅵ節
芸術作品という「もの」の特徴は、それが(ひとまず)他の一切からはっきりと区別されてあること。そしてその境界のうちにさまざまなものが現れるわけだが、それらは境界の内でお互いに規定しあっている。つまり、作品という限定と、その内なる相互の限定を考えることができる。当たり前といえばものすごく当たり前の話。
- 境界 :p51-, Ⅸ節など
作品という「もの」の境界を、ルーマンはきわめて重要視する。なぜかというと、それが芸術という領域をその他の領域から分ける境界にもなっているからだ。作品のうちで、境界の外側に言及することもまああるが、それだってこの境界を前提しているわけだよ、と。
■作品の指示可能性
おそらく、「驚き」と並んで一章でもっとも重要視されている論点が、作品という「もの」の同一性/指示可能性というテーマ。
->p59, p71-73, p74-75など
作品という「もの」、またその内に現れる「もの」は(なぜだか知らないが)、どんな人にとっても、やりとりにとっても「同じもの」として言及されうる。複数の人の知覚における志向の対象と、やりとりの言及の対象は、それぞれ同じ「もの」である。
ものすごくわかりにくい言い方をすると、個々人の信念世界および言語的やりとりの世界というものを考えたとき、芸術作品(およびその内なる「もの」)について、貫世界的同一性が成り立っている。
これはきわめて重要な点である。なぜなら、同じものを知覚している、そして同じものについて言及してるという前提があるからこそ、判断がバラバラであってもやっていけるからだ。そしてまた、この前提によって、知覚されたこと(感じたこと)を語ることが可能になるからだ。
これは見ようによっては、固有名の直接指示説みたいな話をしている。つまり、「どんなものであるか」とまったく無関係に「同じものである」ような種類の「もの」があるということが、古来哲学者に一種のパズルを提供してきた(アリストテレスは一切の特徴をはぎとってもまだアリストテレスである)。しかし、これを逆から考えることもできる。つまり、「芸術作品の『指示可能性』が判断の多様性を保証する」、とルーマンは言っているように見える。
指示可能性/個体性/同一性-を、あくまでも「やりとりに対する貢献」の側から捉えようとするところがルーマンらしいといえばルーマンらしい。
ところで、ルーマンは、「個体的なものとは他の一切から区別されるものだ」(そしておそらく逆に言うと、「他のものと相互規定しあうものは一般的なものだ」)と言っている(p71)。全然敷衍してくれないので、これがどれだけ妥当性のある話なのかよくわからないが、おもしろい話ではあるような気はする。
■知覚からやりとりへ
再読してわかったこと。少なくとも本書第一章において、ルーマンの関心が「知覚とやりとり」「知覚と言語的やりとり」にあることは確か。
言い換えれば、「芸術という、大部分を知覚(感じ)に依拠した領域が、どうしてやりとりとして成立するのか」にルーマンは関心を向けている。より限定的に「知覚と言語の架け橋という位置づけを与えることで、非言語的やりとりとしての芸術を記述しようとしている」とも言えるかもしれない。
この点について、ルーマンは主に二つのことを言っている。
ひとつは上で書いたような、作品の指示可能性。知覚において志向される作品とやりとりにおいて言及される作品が「同じもの」だからこそ、他人の「感じ」を感じることができなくても、作品について、言語で語り合うことができる。
この分析が背景にあるからこそ、ルーマンは第一章の結論部に、
「芸術はいかにしてコミュニケートするのか?」
「芸術作品によってである」
という、驚くべき(点がまったくないという意味で驚くべき)テーゼを置いている(p81)。
二点目は、前回触れた「驚き」について。知覚に驚きが与えられることで、しばしば「何のために?」という形で、やりとりが開始される。そしてまた、驚きは一般化された予期/規則にかかわっている(p60-61など)。「~であるはずだ」というある種の規則があるからこそ、驚くことができる。
これがきわめて重要なのは、この種の規則が、ひとつの作品を過去の作品へと結びつけるものであるからだ。(驚きの背景としての)規則は常識からももたらされるが、過去の作品の知識からももたらされる。より限定的に言えば、過去のジャンルや様式に対する知識があるからこそ、新しい作品に驚くことができる。
ex.「萌えキャラが犯人の推理小説はこれまで存在しなかった」。
本書で「様式」という概念がきわめて重要視されている理由のひとつはここにある。驚き/規則/ジャンル - の関連は、一章ではあまり触れられていないが、注121などにははっきりと指摘されている。
■言語的
「言語的」という概念は、「イエス/ノーの区別が適用されない」(p25)、または「外延denotationが重要じゃない」(p35)ということと、ほぼ同義に使われている。このことから「言語的」という概念が、きわめて特殊できわめて狭い意味で使用されていることがわかる。だからこそ「言語芸術は言語的じゃない」(p35)などという言い方がでてくるわけだ。
言語的というのは「言語的に定式化された判断」のことだと考えてよさそうだ。うっすらとフレーゲを意識したような記述からしても、いくらか言語哲学よりの言語観に依拠していると言えなくもないような(あまり自信はない)。
一方、知覚の分析は、現象学(化されたスペンサー=ブラウン)に依拠した形で与えられている(こちらはかなり明確)。
「作品に対する指示の同一性」「知覚における驚きと規則」という二つのアイデアでもって、「言語的判断」と「知覚」のつながりを論ずることが一章の主なストーリーになっている。
蓮實重彦(著)
新潮社、2007
これが、どういう本かというと。
もちろん、フーコーは、ドゥルーズがそうであるように、フィクションをめぐる理論的な言説は一つも残していない。だが、フィクションを論じる者に求められている資質は、それを「自由に流通させ、自由に操作し、自由に構成したり、解体したり、再構成したりするのに歯止めをかけ」ずにおくことにほかならないと、彼らのテクストはいっているかに読める。『「赤」の誘惑』がめざしたのも、まさしく「虚構というものとその多義的なテクスト」のまどろんでいる細部を目覚めさせ、それにふさわしい「生」を回復させることにあったといえる。
p279
要するにいろんな人のフィクション論から、「赤」という語を拾ってそこに「意図的な誤読」を施すことで、理論家の手からテクストの多義性を解放することが目的らしい。
うーん、ハスミン先生のこういう「テクスト主義者」ぶりと、「フィクション」という概念の相性の悪さは見てるとなんだかむずがゆい。このむずがゆさはどこからくるのだろうか。
一応読んで考えてみる。「テクストは多義的だ」という以上の内容が書いてあるといいなあ。あと、こういうんじゃなくて、映画の話を素材に真面目にフィクション論をやってくれたらもっとずっと期待したんだけどなあ。
最後の部分では、ほんとに『社会の芸術』に言及してる。何を思ってルーマンを読んだのかはよくわからない。
すごいサイトを見つけた。
://www.age.ne.jp/x/eurms/RONRI-J02.html
記号論理学の根本的な改革をなしとげたらしい。
現行の記号論理学は肝腎なところで誤っており、根本的な改造を要するものだったのです。.
(“完全性定理”が 今後たどる運命は ここで言わずとも、やがて歴史が教えるでしょう。).
で、改訂後のすばらしい論理学が12000円で売ってる。
すげー。儲かるのかな? この商売。
内容としてはBサイトの方がおもしろい。
://www.age.ne.jp/x/eurms/P03.html#3
この世は 現代の人々の おおかたの予想を超えた.深遠なる構造.を持っており、
先に御紹介した.“二階のヴェン図”.は それを垣間見せてくれているものの一つなのです。
↓この世の論理構造。すばらしい。
://www.age.ne.jp/x/eurms/View.html
確かにこれは予想を超えていた。
■未規定箇所
- 1「この作品には、ヒーローは登場しない」
- 2「アメリカでは、重婚は許されていない」
1のような文はある作品に欠けているもののことを言っている。このような「欠け」は、欠落である以上、往々にして明示的には書かれないわけだが、人がストーリーを読む経験にとっては重要な意味を持ちうる。「ヒーローが登場しない」ことが作品のきわめて重要な部分であるのは、むしろよくあることだろう。
一方2のような事柄が、明示的に書かれていなくても、物語に関連することもある。これは当たり前だから書いてないだけだ。
何が言いたいかというと。
1と2はだいぶ違っている。1は「作品」の構成に関わるが、2は「虚構」の出来事に関わる。虚構論を論ずるからには、この違いをうまく言い表すことができなければならないと思うのだが、なかなかうまく整理できない。
■感性的判断
「美しい」というのが世界について何も述べていないというのは少なくとも嘘であると思う。
「美しい」は間違いなく、世界について、対象について何かを述べている。でもそれは「主観的」であると言われる。対象についてではなく、自分がそれをどう感じるかだけを述べているのだと言われる。
しかし、通常「美しい」と言われないもの、たとえば「ドブネズミ」を「美しい」と言えば、理由を求められるだろう。あるいは少なくとも、「なぜ?」と問いたくなるだろう。
であるならば、「何が美しいか」は、私が言葉を発する前にあらかじめ決まっているのでなければならない。「美しい」には「美しい」の規則があり、規則は主観的ではありえない。
にもかかわらず、ドブネズミが美しいと言っても、真剣な対立が生じるわけではない。
「ドブネズミは赤い」と「ドブネズミは赤くない」ならば、正しいのはどちらか片方だけだ。
一方「ドブネズミは美しい」と「ドブネズミは美しくない」の間にはそんな関係はない。この二つはともに自然な形で両立しうる。
...考えてたら頭が痛くなってきた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%96%E3%83%8D%E3%82%BA%E3%83%9F
見ようによってはかわいいかなあ?
伝記系
最相葉月(著)
新潮社、2007
気にはなっている。
黒田硫黄(著)
小学館、2001
黒田硫黄(著)
小学館、2003
ドラマ化されるらしい。
http://www.ntv.co.jp/sexyvoice/
ドラマ化に興味はないが、そういえば最後まで読んでなかったかもしれない、と思い出した。読み直したいなあ。
バーナード レイトナー(著), Bernhard Leitner(原著), 磯崎新(訳)
青土社、1996
カクカクしている。
オースティン
J.L.オースティン(著), 丹治信春(訳), 守屋唱進(訳)
■あらすじ
エイヤーの『経験的知識の基礎』などを批判することで、認知主義にケチをつけようと思う。
- 「物質的なものを知覚する」という言い方はおかしい。
知覚されるものが物質だけだって誰が決めた? われわれが知覚するものには、「人間、人間の声、川、山、炎、虹、影、映画のスクリーンの上の像、本の中や壁の上の絵、湯気、ガス」などがあるわけだが、これらのうちのどれが物質でどれが物質でないのかちゃんと考えたことがあるのか。
- 「物質を直接的に知覚することはできない」というのは嘘だ。
「間接的に知覚する」ってどういう意味よ? 「間接的に知覚する」というのは「望遠鏡で見る」「色眼鏡で見る」「カーテンに映った影を見る」「鏡に映った像をみる」などといった場合に使われる表現だが、あいにくこれらのケースはそれぞれだいぶちがう。「直接的に知覚できない」っていうのは、この内のどれを想定しているのか。
あと「間接的に臭いを嗅ぐ」ってどういう意味だか言えるもんなら言ってみろ。
- 「センスデータ」とか「知覚表象」という概念はおかしい。
そもそも「物質を直接知覚することはできない」っていうのは嘘なので。「われわれはウサギを見ているのではなく、ウサギの像を見ているのだ」っていうのもやっぱり嘘。「ウサギを見る」ときは端的にウサギそのものを見ている。
- 「見え」は誤りえないというのはただの嘘。
まず「見え方」に関する判断が誤りえないというのはどういう意味か。失敗の可能性がないとか、後から撤回されえないということであれば、これは間違いだ。「私にはマゼンダに見える」と言ったあと、「え? マゼンダって薄い緑のことじゃないの? じゃあ間違えた。薄っぽい緑系の色に見える」と言い直すことは十分にありえる。
言葉の使い方をよく知っている人なら、確かにこの種の間違えを犯す可能性はほとんどない。でも、そういう仮定を増やしていいならおれだって増やすよ。言葉の使い方をよく知っていて、判断力もある人が、実際に豚をよく見て、触って、「あれは豚だ」っていうなら、やっぱりこの場合も誤りの可能性はほとんどない。「見え」だけじゃなく、「あれは豚だ」っていう判断だって、同じように誤りえないものになりうるのだ。
■感想
「ものそのものを直接的に見ることはできない」。言われて気がついたが、これは確かにまったく意味のない表現だ。
この表現の意味するところが、「視覚器官や光を使わずにものを見ることはできない」という意味であれば、もちろん正しい。しかし、ここで「できない」と言われている「視覚器官や光を使わずにものを見る」ってどういう意味だ?
古典的な解答はたぶん、「神や天使がものを見るときのように見る」ということだろうか。つまり、人間は、天使や神のような方法で「見る」ことはできないと。天使や神がものを見る方法をリアルに想像できるならば、「ものそのものを直接的に見ることはできない」という表現も意味を持つのかもしれない。
だけどまあ、天使をさておくならば、「視覚器官や光を使わずにものを見ることはできない」というのは、「独身の人は結婚していない」などと同様に、「見る」の辞書的意味によって真になる文だろう。
関係ないが、タイトルの元ねたは↓らしい。オースティンつながり?
- 『虚構世界の存在論』
三浦俊彦(著)
勁草書房、1995
再読。
■1章
作品の同一性。
前に読んだときも思ったが、外延主義と現象主義という二項対立が雑。
「作品の同一性」という、よく考えるとそれなりに難しそうな問題がテーマなのに、道具立てがダメすぎる。
ものの同一性を、a時点とb時点の時点を越えた同一性という方向から考えていくのは、作品以外についてもむずかしそう。そのため、芸術作品特有の問題ではなく、同一性一般のむずかしさにぶつかってしまっている。
しかも道具立てが、もともと「指示」を論ずるために使われていた概念たちだけというのはいかにも心もとない。指示と同一性の関係に対する考察もなしにそんな流用をしても、とてもうまく行きそうに見えない。もう少し叩きがいのある議論になっているとよいのだが、どうも随所でアラが目立つ。
■2章
作品世界の完全性と未規定箇所。
「シャーロック・ホームズの髪の毛の本数は偶数である」など、作品内に決定の手がかりが一切ない命題(三浦のいう「5次レベルの命題」)をどう考えるか。
5次レベルの命題を、真偽を決定できない無意味な文と考えるのが三浦のいう「状況説」。これは穏当な立場に見えるが、以下のような問題が生じる。
- A「ホームズの髪の毛の本数は偶数か奇数である」
これはおそらく、無意味な文ではなく、有意味でしかも正しい文だ。
一方、状況説をとる場合、以下の二つの命題はどちらも無意味な文となる。
- B1「ホームズの髪の毛の本数は偶数だ」
- B2「ホームズの髪の毛の本数は奇数だ」
Aを認めつつ、B1、B2をともに無意味な命題と考えるのは気持ち悪くないか?と。結局問題はそこにつきるように思われる。これが気持ち悪いと思うなら、作品世界は「すべての命題に真偽が割り振られる」という意味で、完全な世界となる。
この点については、いまいちどう考えてよいのかよくわからない。
別のこと。
「未規定箇所」をどう考えるかというのは、西坂仰氏の『相互行為分析という視点』が論じているような、「『~が無い』ということを見ることができるのはなぜか」という問題に関連するように思える。
しかし、その辺りの問題を並べて比較して考えるのは、教養不足で私の手にはあまるなあ。
某社試験。
眠いのと花粉症で頭がぼーっとして、できはいまいちだった。
帰りに、ひさびさの神保町めぐりをした。
- 『論理学の方法』
クワイン(著)、中村秀吉、大森荘蔵(訳)
岩波書店、1961
アマゾンにはないようだ。
ニクラス・ルーマン(著), Niklas Luhmann(原著)、馬場靖雄(訳), 上村隆広(訳)
勁草書房、1990
アマゾンのクレジット表記はものすごくいい加減だなあ。上村隆広さんが書いて、馬場靖雄さんとニクラス・ルーマンさんが訳したことになってるよ。
- 『論理学』
上田泰治(著)
創文社、1967
安かった。
青土社、2007.03
「米沢穂信」特集
大黒本合評会に参加したいと申し出たところ、ならばルーマンにおける「言語的なもの/非言語的なもの」について考えてこいと。
それとはまったく別個にid:shinimaiさんにいただいた発表原稿が、「美的な記述」と「非美的な記述」を巡るものであったと。
というわけで、しばらく知覚や感性などといったものたちについて考えてみようかと思った。
- 『社会の芸術』
ニクラス・ルーマン(著), Niklas Luhmann(原著), 馬場靖雄(訳)
法政大学出版局、2004
ひさびさの再読。一章前半。
再読の印象。昔読んだときは、「知覚」は心的で私秘的で認知的なものとして扱われていると思ったが、よく読むと事態はそれほど単純ではないかもしれない。
だらだら気づいたことをまとめてみる。
■「知覚」って何よ
まず「知覚」というのがなんだかよくわからない。『センスとセンシビリア』を読んだら余計にわからなくなった。
ふつうの語用では「見る」「聞く」「嗅ぐ」などのこと。ルーマンはたぶん広義の「感じること」まで含めて考えているように見える。
とりあえず
- 知覚は意識がすること
- そこには他者言及と自己言及がある
だと言われている。
「意識」というのは、なんだかよくわからないが「見る人」「聞く人」のことか。
「見る」「聞く」などのことをするとき、「『見られるもの』(他)と『見る人』(自)が必ずあるよね」というくらいの話なら、理解できないでもない。
■「知覚」と「非言語的やりとり」
二点目。
- 「感性(知覚)」「知性」
- 「知覚」「言語」
- 「知覚」「やりとり」
という三つのやり方。
伝統的な哲学者は、「感性(知覚)」(感じること)と「知性」(わかること)という対立でものを考えていた。そこでは、「見て」「わかった」ことを、他人に「伝える」という問題は無視されていた。「わかる」と「それを他人に示せる」はいろいろ関係してくるはずなので、これはダメな問題設定だった。
ルーマンは触れていないが、これに対し、最近の(20世紀以降の)人ならば、むしろ「知覚」と「言語」を対立させることが多いのではないかと私は思う。
一方、ルーマンは、「知覚と知性」でも「知覚と言語」でもなく、「知覚」と「やりとり(コミュニケーション)」の区別からはじめるべきだという。
では、
- 「知覚」と「言語」
- 「知覚」と「やりとり」
はどうちがうか。
少なくとも、後者の場合、「言語的やりとり」以外に「非言語的やりとり」もある。だから、「非言語的なやりとり」と「知覚」のちがいが問題になる。実際ルーマンはこの点に関心があるようだ。
ルーマンは、非言語的なやりとりの例を3つあげる。p23-
- 身ぶり
- 自覚的かどうか微妙な出来事(服装とか)
- 芸術
これらは、知覚と言語的やりとりの間を架け橋するのだという。
■知覚からやりとりへ
じゃあどうやって架け橋するのか。p31-
ここには、ひどく単純だが、もしかすると重要かもしれないことが書いてある。
芸術作品における架け橋の過程(3ステップ)
- 芸術作品は予想外の知覚を与える(びっくりさせる)
- すると「何のために?」と問うことができる(問いたくなる)
- そのような問いを問うことで、(しばしば言語的な)やりとりをはじめることができる
作品について「何のために?」と問うことができるからこそ、伝統的な美学では目的手段図式が使われてきた。しかし、芸術に外的に与えられた目的は特に見あたらなかったため、「自己目的」などというヘンな概念しか使いようがなかった。
だが、ここで重要なのは、「何のために?」という問いに答えが与えられることではない。重要なのは、「何のために?」という問いが以後のやりとりをはじめるために使われる、ということだ。
「通常ならざる知覚」や「驚き」の話が前はよくわかっていなかったが、少なくとも1章Ⅴ説はこういう↑議論になってるように見える。
「通常ならざる知覚」なるものは(「通常」と対比させてるわけだから)、「予期」とか「規則」などにかかわるものであるはずだ。ルーマンはここでは何も言ってないが、知覚と予期の関わりをもう少し考えるとよいかもしれないと私は思った。
■文芸
ルーマンは、以上の話が、美術だけでなく文芸にもあてはまると言っている。p35
なぜかというと、文芸の場合、文の真偽ではなく、文の持つ「感じ」が重要だからだそうだ。
ここでは「言語的なもの」と「知覚的なもの」が、「外延denotation」と「内包conotation」の区別にほとんど重ね合わされている。
この辺りをみると、この本では、「知覚」という語はかなり特別な仕方で使われているんじゃないかと思えてくる。













































