■前書き
可能世界について。
以前から、様相論理の意味論で使われる「可能世界」と哲学の議論に出てくる「可能世界」は別のものなんじゃないかと思っていたが、クリプキを読むことによって、その思いが確信に近くなった。
この点について説明してみる。
ちなみに、私は論理学も分析哲学もほとんど独学で学んだため (しかも勉強中のため)、話の正確さにあまり自信がない (つっこみを歓迎する)。
■真理関数のインプット
様相論理で言う「可能世界」は、「真理関数のインプット」のことだと考えるのがよいと思う。
現代論理学の標準的手法では、論理式を、「何か」をインプットすると、「真」「偽」のいずれかをはき出す関数だと考える。これを真理関数的意味論という。この「何か」が何であるのかは、命題論理の場合と述語論理の場合で異なる (詳しく説明すると面倒なのでしないが、命題論理では「真理値割り当て」、述語論理では「モデル」と呼ばれるものが、インプットになることが多い)。
いずれにせよ、この「何か」=インプットの部分はふつう「世界」の状態であるとされる。要するに、「世界がこれこれの状態だとすると」「この命題は真になる」「この命題は偽になる」などと考えていくわけだ。
可能世界意味論とは、この真理関数のインプット(=可能世界)を複数を考え、それを到達関係と呼ばれるネットでつなぐ手法だ。これによって、量化*1と似た論理形式を持つ推論を、論理式でモデリングできるようになった。
■量化と似た論理形式
量化と似た論理形式というのは、↓のようなことだ。
たとえば、標準的な様相論理では、必然と可能は以下のように関係づけられる。
¬□P==◇¬P (Pが必然でない==Pでないことが可能である)
(*「□」を「必然」、「◇」を「可能」、「==」を同値の意味で使っている)
これは、いわば二次方程式の解の公式みたいな超基本的な式であり、様相論理はふつうこれに類する式によって「可能」か「必然」のどちらかを定義するところからスタートする (この定義自体は、可能世界意味論よりもはるかはるか昔から存在する)。
そして、何しろ超基本的な式なのでこの式はよく使うのだが、私はこれを、否定の記号「¬」を中に入れると、「□ (必然)」がグリッと「◇ (可能)」に変わる、という風に覚えている。「グリッ」の部分が重要。
しばらく論理学の勉強をしていると誰でも気がつくように、これは、「∀(すべて)」と「∃(存在)」の間に成り立つドモルガンの法則によく似ている。
¬∀xPx==∃x¬Px (すべてのxがPであるわけではない==Pでないxが存在する)
こちらでもやはり「¬」を中に入れると、「∀」がグリッと「∃」に変わる。
■到達関係
可能世界意味論の基本的なアイデアは、複数のインプット(=可能世界)をネットワーク化することによって、この両者の類似を利用するという点にある。言われてみれば誰でも思いつきそうなアイデアだが、これを明確に形式化した人は、ソール・クリプキくんという十代の若者以前には誰もいなかった。
複数のインプットをネットワーク化するというのは、以下のようなことだ。
可能世界意味論では、「到達関係」という関係によって複数のインプット(=可能世界)をつなぎ、複数の世界からなるネットワークを考える。そしてその上で「必然」を「到達関係にあるすべての可能世界で成り立つ」に置き換え、「可能」を「到達関係にある少なくとも一つの可能世界で成り立つ」に置き換える。
到達関係というのは、この場合「存在しうる」「想像できる」「起こりうる」というような意味だと考えてよい。つまり、「必然」を「想像できるすべての世界で成り立つ」という意味だと考え、「可能」を「少なくとも一つの想像できる世界で成り立つ」という意味だと考えるのだ。
ちなみに、この「すべての世界で」「少なくとも一つの世界で」という部分は、ライプニッツくらいから (中世からという説もある) 、「必然とか可能って大体そんな感じだよね」と言われていた事柄で、それほど重要ではない。クリプキくんの新しさはむしろ到達関係によって複数の世界をネットワーク化した部分にある。つまり、「複数の世界」を考えた人はたくさんいたが、「複数の世界の【関係】」を考えた人は、クリプキくん以前にはいなかった。
クリプキくんのアイデアは大成功に終わった。
構文論と意味論を合致させること(=完全性証明)ができると論理学者はうれしいわけだが、可能世界意味論は、従来の構文論と合致しただけでなく、これまで知られていた複数の公理系を到達関係の違いによって分類してみせた。
代替案はいくつかあるものの、いまだに可能世界意味論は様相論理の標準的手法として通用している。これは別に哲学業界にかぎった話ではない。言語学者だって情報科学者だって、様相論理を学ぶときは一番最初にクリプキくんの考えた手法を教科書で教わるのだ。要するに、クリプキくんは超すげーという話だ。
■2つの可能世界
上で説明したように、可能世界意味論の最大の強みは、「到達関係」による可能世界のネットワーク化だ。
これによって、量化と似た論理形式を持つ推論を論理式でモデリングできるようになった。これは「必然-可能」にかぎった話ではない。たとえば、「義務-許可/知っている-認める」などもまた、これと同じような振る舞いをすることが知られている。
これらをモデリングすることによって義務論理や認識論理など様々な論理体系が可能になった。
他方、(大人になったクリプキを含む) 哲学の文献に出てくる「可能世界」は、これら狭義の可能世界とはかなり違っている。「指示」「反実仮想」「虚構」「本質」の分析などでも可能世界の概念は登場するのだが、そこには最大の強みであるはずの到達関係のネットが登場しない。
「じゃあ何で可能世界の概念を使うのよ」というのが、しばらくの間私にとって謎だった。
哲学の文献に出てくる「可能世界」は多くの場合、「反事実的 (counterfactualな) 状況」と言い換えても許されるようなものだ (し、大人クリプキは実際そうしている)。こうした議論の場合、様相論理を使う意味もほとんど無いと思われる。しいて言えばスコープの大小が問題になるくらいだが、スコープの話は、論理式を使わなくても説明できるような事柄だと思う。
そこで、これら2つの可能世界は基本的に無関係なのだと考えると、話がすっきりするように思われた。
つまり、いわゆる「If的状況」「反実仮想の状況」について一生懸命考えるのが、哲学の可能世界なのであって、それは (真理関数のインプットという意味での) 可能世界に関する論理学的扱いが開発されたことと、直接には関係ない。数学的処理が開発されたがゆえに、Ifを考えることへの躊躇が薄れたという意味での影響関係はあるかもしれないが、それだけの話だと思う。
...と、はっきり書いてくれている人を見つけられずにいるので、まだ自信がないのだが、基本的にこういう話なんじゃないかなあ。どうなのだろう...(←だんだん自信がなくなってきている)。
- *1: ∀(すべて)と∃(存在)のこと
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全部読んだけど、100点ですね。
>クリプキくんのアイデアは大成功に終わった。
の段落が特に良いです。
>要するに、クリプキくんは超すげーという話だ。
』 (2007/12/ 8 7:49)しかし、これは不要だけど。
今更そんなこと言われるまでもなく分かってるよ!の可能性もあるのを承知の上で書き込みます。私も可能世界意味論に特に詳しい訳ではないので、内容は適当に判断して読んでください。
』 (2008/09/23 2:25)まず、指示と到達可能性は関係があります。理由は簡単です。指示が固定化されないと到達関係が決まらないからです。同時刻に「よつばとがラーメンを食べた」世界と「よつばとがカレーを食べた」世界とが互いに到達可能性であると言えるためには、「よつばと」が指示する対象が固定化されていないといけません。「反事実的状況」というのも「現在いる世界」からの到達関係が(暗黙のうちに)問題になっているはずです。クリプキが「名指しと必然性」で議論しているのはそういう話だと思うのですが。ちなみに「ヴィトゲンシュタインのパラドックス」は同じ話を指示から規則に変えただけです。(到達可能な)各可能世界から集めた指示行為の集合が指示を固定化するように、出来事の集合が規則を定めてくれるのか?みたいな。指示の固定化と到達可能性はどちらが先かって話をするとさらに面白くなそうですが…面倒なのでしません。
おお、コメントありがとうございます。
』 (2008/09/23 11:03)ちょっと古い記事なので、考えが変わっている部分もあるのですが、参考になります。これを書いた時分は数学的形式としての可能世界と可能世界に関する哲学的思考の繋がりがよくわからなかったのですが、今では「形式の選択が哲学的世界観の選択に結びつくこともある」と思っております。
仰っておられる通り、到達可能性が固定指示と反事実的仮想に結びつくこともあるかもしれません。
この前に書き込んだコメントの誤りが分かったので一応書いておきます。
まず、指示が固定化されないとできない到達関係は、この前に言及したような「A→B ならば B→A」といった対称性ではなく、「A→B かつ B→C ならば A→C」といった推移性でした。集合に関する話もその場の直感で適当に書いたので誤解を招く言い方なのですが、要するに可能世界意味論のクリプキ型とルイス型の違いを意図したと考えてください。クリプキ型とルイス型の違いはネット上で探しても日本語の分かりやすい記事は見つからないのですが、ルイスの対応者説に関してはこちら(http://d.hatena.ne.jp/ytb/20080206/p1の特に3)が役に立ちます。貫世界同定説と対応者説の違いは形而上学的なので相当に理解しにくいです(こなれた解説も見たことない)。まあ、議論が冗談抜きでスコラ哲学なのでしょうがないのですが。
』 (2008/09/26 1:29)マニアックな話を書き込んですいません。日本にはポスト・クワインな分析哲学について書けるところがろくにないので、つい書き込みたくなりました。単なる訂正なので返事はしなくていいですよ。
言い忘れましたが、ブログいつも楽しみにしています。
』 (2008/09/26 2:13)固定指示と対応者の対立は何となく有名な話だと思っていました。遠慮せずまた書き込みいただければうれしいです。
お言葉に甘えて書かせてもらいます(自分のブログじゃ書きにくい話題なので)。可能世界意味論についてネットで調べていたら面白い論文が見つかったので紹介しておきます。
可能世界意味論に対する一批判(PDF)
http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/pdf/0927-12.pdf
この論文では貫世界同定を認めるクリプキの固定指示説が批判されて可能世界意味論の別の解釈(部分状況解釈)が提示されています。内容は面白いと思うのですが、ただ謎なのがクリプキとは対立するはずのデヴィット・ルイスの説への言及が全くないことだ。もともと文献参照が少ないとはいえ、この著者の提示する解釈が対応者説に考え方が似ている気がするだけに不思議だ。ましてや、飯田隆に指導を受けたらしいことを考えると、う~ん不可解(飯田隆がデヴィット・ルイスを知らない?馬鹿な!)。
ところで、可能世界の実在論を含めて哲学的な実在論が分かりにくい原因の一つが、これが言語や理論を通して実在することを意味しているからです。これはそれこそプラトンからの伝統なのだが、それを意識している日本の論者がどれだけいるか怪しい。少なくとも(そういう伝統がない日本で)哲学的な意味での実在論を本気で受け取ることなど私にはできない。可能世界は実在するか?なんて議論を好む人が日本ではいますが、そもそも哲学的な意味での実在論を端的には受け入れられない側からすると馬鹿らしい議論にしか思えません。
』 (2008/09/30 0:52)ただし、私自身は哲学的な実在論に関する議論(流行のオントロジーもこの系譜にある)には意義があると思いますが、この話はかなりややこしいのでやめておきます。
>飯田隆がデヴィット・ルイスを知らない?
まさかそんなことはないでしょうね。
確か「可能世界」という論文で、ルイスの様相実在論を扱っていたはずです。時期はわかりませんが。
』 (2008/10/ 1 20:33)>実在論
オントロジー、実在論にも興味があるので、ぜひまたブログででも扱ってくださるとうれしいです。