大黒岳彦(著)
NTT出版、2006
合評会の参加予定者が少数精鋭すぎて不安です。
↓大黒本「物を直接観察できない説」を述べている箇所を抜粋した。
われわれが何かを「知覚」(wahrnehmen) するとき、われわれはその"何か"を、その"何か"「以上、以外の或るもの」(etwas Mehr, etwas Anderes) として認知している。例えば、目の前にある「コップ」を「知覚」する場合「円筒形のガラスで出来た物体」を「コップ」として「知覚」するのであり、「リンゴ」の場合には「球形をした赤と黄色の斑模様の物体」を「リンゴ」として知覚している。つまり、一般的に「知覚」においては「質料的な物理的形象」*が「意味」として把捉されるという二重化的統一の構造が成立している。p170
* いうまでもなく厳密にはこの「質料的な物理的形象」自体が「意味」をすでに伴っており、裸の「質料的な物理的形象」なるものは原理的に存在し得ない。
「コミュニケーション」はその持続的接続が (システム存続のために) 至上命題であると同時に、必ず <何ものかについての> 「コミュニケーション」たらざるを得ない。つまりコミュニケーションはいわば「志向性」(Intentionalitat) を持つのであり、この志向性によって「対象」と関与し得る。しかしながら、その「対象」は飽くまで "内在的"「対象」であり、システムがそれとは独立に存在する超越的な「対象」と直接な交渉や関係を持つわけではない。
この志向的関係をルーマンは「観察」と呼ぶ。p238-
一般的にいって、純粋な単なる「第一次観察」などというものは原理的に存在し得ない。それはマッハやベルグソン、西田幾多郎やジェームズなどが謂うところの「要素」「イマージュ」「純粋経験」といった、体験の中に意識が埋没・没頭してしまっている主・客未分、凡が一如の状態であるが、こうした事態にあっては、そもそも「観察」が「観察」として、「体験」が「体験」として反省されない。「観察」が「観察」として、「体験」が「体験」として反省された時点で、われわれはすでに「第一次観察」や「純粋経験」の水準を超え出、「反省」という名の「第二次観察」に移行してしまっている。つまり、そもそも「第一次観察」という概念事態が矛盾概念なのである。p378
1番目の引用箇所について。
見ることを「意味」と「意味以前」に分けたいらしい。
しかし『いうまでもなく厳密にはこの「質料的な物理的形象」自体が「意味」をすでに伴っており、裸の「質料的な物理的形象」なるものは原理的に存在し得ない。』とも言っている。
じゃあ2つに分けるなよ、と思う。
2番目の引用箇所について。
「観察」などと言われると、どうしても認知的な話をしているように考えてしまう。当然だけど。
しかし、ルーマン語の「観察」は、対象に対するかかわり一般を指す語なのだと思う (ルーマンの用語選択のセンスは根本的にダメだ、と私は思う)。
たとえば、ルーマンは「買うこと」を観察に含めていた。
依然として『近代の観察』が部屋の中から見つからないわけだが、たとえば『社会の芸術』邦訳p102にそういう話が出てくる。
しかしながら、その「対象」は飽くまで "内在的"「対象」であり、システムがそれとは独立に存在する超越的な「対象」と直接な交渉や関係を持つわけではない。
どういう意味なのか。
「物そのものを直接に見ることはできない」というのは (わたしはあまり認めたくないが)、まだ理解可能なテーゼのように思える。しかし、「物そのものを直接に買うことはできない」っていうのは何のことだかわからない (「チケットを直接買うのではなく、ダフ屋から買う」とかだったらわかるがそういう話ではないだろう)。
「何が売り買いの対象になるのかも、経済のなかで決まっていくことだよね」というくらいの話なら、理解できるし、「そうかもしれない」と思う。しかし、そんなことを「超越的な対象を直接買うことはできない」などという言い方で言うだろうか。
3番目の引用箇所について。
ここは完全にわけがわからない。
第一次観察というのが、主客未分になることであれば、「そんなことは不可能だ」というのはそりゃそうだろう。しかし、物を見るということはそもそも主客未分になることではない。
「私がベニテングダケを見る」。このとき、たぶん私は「私がベニテングダケを見ている」ということを知っている。だから、「見ることとと見ることを反省することはつねにセットで生じているよね」、というくらいの話なら理解できる。しかし、見ることと反省することが同時に生じるという無難な発想から、「見ることなんて存在しない」「反省することしか存在しない」に跳ぶのは飛躍が大きすぎる。
どうしてもこういうトリビアルな指摘しかできないな。
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>3番目の引用
ここでの「「第一次観察」という概念事態が矛盾概念」という主張の根拠って、カントの「物自体」は認識不可能、みたい話をしているように見えるんだけど。
しかしそもそもルーマンは分析/総合二元論的把握をやめようというところから議論をしてるのであって、この「第一次観察」の解釈だと、なんか、むしろ逆戻りしてるような……。気がするのはあたちだけかしら。
』 (2007/04/27 21:10)明日行くと、赤田氏(本家)の作り笑いがみられそうだ(笑)。
> カントの「物自体」は認識不可能
うーん、そんな感じはしますが、そもそも物自体は認識不能という議論自体意味がわからないのでやっぱりこちらも意味がわからないのでした。
> 分析/総合二元論的把握をやめよう
そうなんですか?
「分析/総合二元論的把握をやめる」というのはどういうことでしょう。「アプリオリなものの分析は経験的になされなければならない」といった感じだったらわかるような気もしますが*、どこかでルーマンがそういうことを言っているのでしょうか。
* たとえばハッキングが概念分析を歴史を通じて行ったように、哲学者が行っていた仕事を経験的な方法で実践するといったポリシーをとること。
』 (2007/04/27 22:32)>(本家)の作り笑い
まあ私はとくにプレッシャーを感じる立場にないので気楽なものですが。