2007年5月
「オントロジーーーー」って言葉の響きが恐ろしい。「オントロギーーーー」だともっと恐ろしい。東北あたりで、子供を怖がらせるためのかけ声として使われていそうだ。「オントロジー! お化けが出るぞ!」。あるいは、墓参りをさぼると先祖の霊をむさぼり食いにやってくる恐ろしい妖怪「おんとろ爺」などといったものがいそうな気がする。
それはさておき、オントロジーという分野がおもしろいのではないかと思った(「オントロジー」という分野は二千年前からあるが、その現代的展開がおもしろいのではないかと思った)。関連本をメモしておく。
以下はアマゾンで「オントロジー」「オントロジ」で検索して出てきた本たち。
- 『オントロジー工学』
溝口理一郎(著), 人工知能学会(編)
オーム社、2005
古崎晃司(著), 笹島宗彦(著), 來村徳信(著), 溝口理一郎(編)
オーム社、2006
斉藤孝(著)
中央大学出版部、2004
斉藤孝(著)
中央大学出版部、2006
AIDOS(著)
東京電機大学出版局、2005
■ URL
http://www.ei.sanken.osaka-u.ac.jp/japanese/Ontology/
http://www.kyy.saitama-u.ac.jp/~kachi/kyy.html
「オントロジー」「形式存在論」と呼ばれるものと「分析形而上学」は何が違うのか?と思って調べてみたが、どうもそれほど違わないらしい。
google: 分析形而上学 形式存在論
やってることはあまり変わらないが、哲学の人がやると「分析形而上学」や「形式存在論」と呼ばれ、工学の人がやると「オントロジー工学」と呼ばれるのかな。オントロジーの「実装」に関心があるのがオントロジー工学で、そこで出てくる細かい問題をあれこれ考えるのが分析形而上学・形式存在論ということなのかもしれない。
↓というわけでこれも入れておく。
柏端達也(訳), 青山拓央(訳), 谷川卓(訳)
勁草書房、2006
ちょっとまとめとく。
■ 古典
- 『言語と行為』
J.L.オースティン (著), 坂本 百大(訳)
大修館書店、1978
J. L. Austin(著)
Harvard Univ Pr; 2nd版, 1975
ジョン・R. サール(著), Searle John R(原著), 坂本百大(訳), 土屋俊(訳)
勁草書房、1986
John R. Searle(著)
Cambridge University Press, 1969
ジョン・R. サール(著), John R. Searle(原著), 山田友幸(訳)
誠信書房、2006
John R. Searle (著)
Cambridge Univ Pr (Txp); Reprint版,1985
サール顔写真でかっ!
■ 反響
K T Fann(編)
Routledge, 1979
ストローソンの「発話行為における意図と慣習」やコーエンの「発語内の力は存在するか?」などを収録。
Bach K.(著), Harnish R.M.(著)
The MIT Press, 1979
■ 関連するかもしれない本
有名どころのみ。
- 『論理と会話』
P. グライス(著), Paul Grice(原著), 清塚邦彦(訳)
勁草書房、1998
D. スペルベル(著), D. ウイルソン(著), Dan Sperber(原著), Deirdre Wilson(原著), 内田聖二(訳), 宋南先(訳), 中逵俊明(訳), 田中圭子(訳)
研究社出版; 第2版、2000
■ わりと最近の
ダニエル・ヴァンダーヴェーケン (著), Daniel Vanderveken(原著), 久保進(訳)
松柏社、1998
- 『意味と発話行為』
ダニエル・ヴァンダーヴェーケン (著), Daniel Vanderveken(原著), 久保進(訳), 渡辺 扶美枝(訳), 西山文夫(訳), 渡辺良彦(訳)
ひつじ書房、1997
Michael L. Geis(著)
Cambridge Univ Pr(Txp); 1版, 2006
読んでる時間はしばらくなさそうだが、ガイスはおもしろそうだ。ヴァンダーヴェーケンは見てみないとよくわからない。
飯野勝己(著)
勁草書房、2007
良い本だった。
「一発話主義のドグマ」や「言語行為は言語的linguisticでない」などの主張は、説得力では到底およばないとは言え、自分でも近いことまでは考えていたので、「おれも! それ、おれも考えてた!! 頭のなかからアイデアをぱくられた!」と思った(後半は嘘)。安心すると同時に先に言われてくやしい感じ。しかし後者の主張については、そこまでわかっているなら"speech act"を「言語行為」と訳すのはやめようと言いたくもある。
総じて語用論、コミュニケーション論の成熟を感じられる一冊だった。とにもかくにも成熟ゆえに、これまでの立脚点を批判しつつ、その基礎の上で豊かな分析を残せるようになってきたのかなあと思う。
ポ○ラ社に落ちたので就活\(^o^)/オワタ。
来年以降の私の将来は以下の2つの選択肢のなかから選ばるることとなったのであった。
- A 社 SE
社員約100名ほど。某有名ひるずの上の方で、シコシコとプログラムを書き、皆さんに愛されるホームページを (主に) つくるさだめ。
- B 社 Web 編集
現在のアルバイト先。社員10人以下。表参道付近のビルで、編集職として、皆さんに愛されるホームページを (主に) つくるさだめ。
優柔不断なので、こういうのは決められなくて困る。
現在の仕事をそのままつづけるのも楽でいいなあと思いつつ、SE にも結構惹かれている(志望理由は「パソコンと会議と勉強が好きだから」)。先に B 社に就職すると、倒産した場合路頭に迷うので、将来性を考えるととりあえず A 社に就職するのがよいような気もする。
どうぞ皆様、私のためを第一に考え、忌憚なき意見をお寄せ下さい。
うう、お金が...。
以下1冊は自然書店 (ネット書店ではないの意) で買った。
J.L. オースティン(著), 坂本百大(訳)
勁草書房、1991
以下2冊はネット書店で買った。
J. L. Austin(著)
Harvard Univ Pr; 2nd版, 1975
原著見ないと無理だと思った。
- 『言語行為の現象学』
野家啓一(著)
勁草書房、1993
やっぱ"speech act"は「言語行為」が定訳なのかなあ...。この本は古い本だから仕方ないけど、最近出たばかりの飯野本も言語行為だったし。"language"は「言語」、"speech "は「発言」、"utterance"は「発話」が美しいと思うがなあ。
なぜ「言語行為」がイヤか。
「発言」→「文」→「行為」の結びつきがオースティン、サールの議論の肝になっているのに、それが見えなくなってしまうところがイヤだ。「言語」っていうのは「日本語」とか「英語」とか「C言語」といったひとまとまりの体系を指すか、あるいは他のもの (この場合は「行為」?) と対比されるかぎりでの「ことば一般」を指す語だと思う。
しかしオースティンの議論のおもしろさは、「言語が行為である」という部分にあるわけじゃない。「言語が行為である」というだけだったら、弁論術とか説得術だってそりゃ「行為」としての言語なわけだけど、オースティンの新鮮さはそこにあったわけじゃない。オースティンが取り上げた「言うことが行うことである」っていう現象のおもしろさは、特定の文を発言すること (ex.「スターリン号と命名する」) が、それ自体として行為のパフォーマンスであるという部分にあるのだ。だから「言語行為」というおおざっぱなとらえ方じゃなくて、「発言行為」というよりフォーカスの絞られた言い方の方がよいと思うのだけど。しかし原著のタイトルも「言葉をもっていかにして事を為すか」だからなあ。やっぱり「言語と行為」という二項対立の方がわかりやすくてキャッチーなのか。
関係ないけど、今思いついたこと。コンピューター言語にも「変数の宣言」のような行為遂行文が存在する。「コンピューター言語の発言行為論 (あるいは語用論)」みたいな研究ってないのかな。あってもよさそうな気がするが、どうなのか。英語圏には絶対あるような気がするが、翻訳がなさそう。
メモ。
奥野忠昭(著)
教育出版センター、1998
アマゾンで「出来事・行為」で検索すると出てくる本。一体何が書いてあるのか気になる...。
関係ない動画の URL も貼っておく。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm79019
眠れないからといってニコニコ動画の「電子ドラッグ」タグをはしから見てしまうのはよくない。
2007/06/09訂正:
http://www.at-akada.org/blog/2007/06/post_218.html
↓これは間違いでした。申し訳ないです。↑訂正記事
論理学のことを書くと、後で、よく知らないのに適当なことを書いてしまった...orz と後悔しがちである(独学者の憂鬱)。
しかし、今回はあってたらしいことがわかった。
以前三上真司著『もの・言葉・思考』について、同一性記号についてヘンなことを言ってるのではないか、と書いた。
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/1_7.html
この著者はウィトゲンシュタイン (『論理哲学論考』) の「それぞれの個体に対し別々の名前を割り当てれば同一性記号はいらねえじゃん」という方針を採用していた。しかし、1個体につき1つの名前だけを割り当てたとしても、量化子が絡むとやっぱり同一性記号は必要になる (が、著者はそのことがわかってない) みたいなことを書いた。
私は『論考』を読んでないので、なんでウィトゲンシュタインが上のようなことを言ったのか謎だったのだが、今日わかった。『論考』は依然として読んでいないのだが、野本和幸『現代の論理的意味論』を読んでいたらきちんと解説されていた。
ウィトゲンシュタインは量化子を体系から排除したんだな (そしてそれが『論考』の欠陥の一つでもあったと)。それがあったから名前の処理だけで同一性記号をなくすことができた。一方、三上氏は量化子を導入しつつそれと同じことをやろうとしていたので、話がヘンなことになったと。量化子を導入しつつ同じことをやろうとすれば、体系をもっとたくさんいじらなければならなかったはずだ。
少しだけひっかかってたことが解決したのですっきりした。
方波見大志(著)
ポプラ社、2006
■ あらすじ
今風の小学生たちが「時間を3分26秒削除し、起こったことをなかったことにできる機械」を得る。過去の事件がきっかけで主人公の友人は歩けなくなり、主人公の兄は引きこもりになったのだが、その事件の謎がだんだん解明される。でも過去の事件を削除したりいろんなことをするのでなんだかよくわからないことになる。
■ 感想
構成とかオチ以外はおもしろいいんじゃないか。子供が主人公の話が好きなので、小学校の描写などは楽しめた。仲間外れの女の子と仲良くなるところなどは結構好きだ。さわやかな話だった。
問題は、時間を削除するっていうアイデアがあんまり煮詰められてないことだろう。
以下はアマゾンのレビューにあった指摘。
1 少女が缶ジュースを捨てた際、
中身が近くにいた高校生にかかってしまいました。
少女は高校生に絡まれ、絡まれているところを少年に助けられます。
缶を捨てたことをなかったことにできれば、
少年に助けられることはありません。
2 ある時間から5分間、1秒にきっかり一つづつ1から300まで数字を書いていきます。
ある時間から3分間の出来事をなかったことにできれば、
数字は181から300しか書かれていません。
要するに、読んでいても「過去の一部だけを削除する」のか、それとも「その出来事の結果すべてを削除する」のか、どっちなのかはっきりしない。それどころか、作者がその点をあんまりきちんと考えず、ごまかしたままになっているのだな、ということがわかってしまう。その辺の曖昧さが最後まで残り、ぐだぐだになって終わってしまった感があった。
大体「時間を削除する」っていうアイデアが中心の話なので、読者としてはどうしても、「『時間を削除する/人生をリセットする』とはどういうことなのか」というところにストーリーが焦点化していくのを期待するじゃないか。でもそうなってない。「本当になかったことにしていいのか?」というのが多少はほのめかされるけど、それだけで終わっちゃう。オチにも結びついてないし、最後まですっきりしないで終わってしまう。未消化な感じがするのはそれが原因だと思われる。
http://bunfree.net/index2.html
11/11だそうだ。
相方の着ぐるみ騎士 J が自衛隊に入隊し、私は修論就活卒業その他でじたばたしているため、私のサークルアーカイブ騎士団は早くも活動停滞の危機に陥っている。
慶応義塾大学出版会、2007
http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766413687/
うーむ、テーマはおもしろそうだが...。
以下あらすじ関係の情報を軽くメモしておく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%89%E3%81%99%E3%81%98
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/arasujipeji.htm
小川 義男 (編)
中経出版(発行 樂書舘)、2003
小川義男(著)
楽書舘、2004
ジュンク堂で買った。
方波見大志(著)
ポプラ社、2006
わけあって買った。
石戸教嗣(著)
世界思想社、2007
ようやく買った。合評会までに二回読まねばならない。
J.L.オースティン(著), 坂本百大(訳)
大修館書店、1978
一個前
http://www.at-akada.org/blog/2007/05/post_194.html
二個前
http://www.at-akada.org/blog/2007/05/post_188.html
二転三転して悪いけど、オースティンの慣習convention概念について。
先生あのね。
「慣習的手続き」っていうのは、自分が「何をやっているか」を明確化(顕在化)するための技法のことだよ。「構成的規則」っていうのは、行為の可能性条件であり、「有効な行為」と「無効な行為」を分けるルールのことだよ。これはね、ウィトゲンシュタインが論理文法と呼んでるものと大体一緒だよ。
ぼくはね、オースティンの慣習概念が慣習的手続きの方にだけかかわると思ってたんだけど、結局構成的規則の意味でも使われているという結論が出たよ。
だって以下の部分はそうとしか読めないんだもん。
陳述statementの慣習について
さて、AとBの種類の不適切性は、警告、保証などというような種類の行為を空虚で無効なものとするものであったが、陳述はこの種の不適切性に関してはいかなることになるのであろうか。すなわち、陳述の外見を呈するものが、一般に契約などについて言われているのとまったく同様に空虚で無効なものとなり得るであろうか。これに対する答えは、重要な点で肯定的であるように思われる。最初の事例はA・1とA・2である。すなわち、慣習すなわち一般に受け入れられた慣習が一切存在しない場合、または、与えられた状況が発言者による当該慣習の発動に対して不適当である場合である。まさにこの型の不適切性の多くが陳述を待ち受けているのである。
p229
陳述には慣習がある【から】、陳述は不適切になることもある、と言われているよ。
つまり、不適切に成りうる行為はなんでも慣習的だって言ってるのと一緒だよ。
一方、不適切な陳述の例としてあがっているのは次のようなものだよ。
たとえば、隣りの部屋に何人の人がいるかということを、今ここで陳述することはできない。もし、あえて「隣りの部屋には五十人の人がいる」と言う人がいるとすれば、私は、その人が当て推量をしているとか推測しているとか考えざるを得ない。(これはちょうど、あなたが私に命令しているのではなく、というよりむしろそれが命令であるとはまったく考えることができず、ただおそらく相当に無作法な仕方で私に頼んでいるのであろうと推量せざるを得ないことがときたまあるように、この場合、かなり奇妙な仕方で、「一か八かの当て推量をしている」のである。)
p231、強調はオースティン
要するに、「知るはずのないことについては陳述できない」、「推測」になっちゃうからだよっていうことだね。
あと、このすぐ後では、何が陳述であるかを決定するには、「発話の場面を全体として考慮に入れることが重要である」と言われているよ。これが意味するところは、「個別的な事情」と「慣習」が矛盾するとは考えられていないということだね。
この引用箇所で、「陳述」を陳述らしく見せる技法が問題になっているのでないことは明らかだね。ここでは「慣習」は、「(発語内)行為を有効/無効に振り分けるもの」として扱われているよ。言うなればこれは要するに「陳述の構成的規則」である、というのと同じことだよ。
事態がこのようになっているとすると、ストローソンのようなタイプの批判は誤読に基づくものだってことだね。やーいやーい。
しかし、「『約束する』と発話することで約束を遂行できるのはなぜか。→慣習があるから」というときの「慣習」、つまり「手続き的な慣習」と、上のような「慣習」はどういう関係にあるのかな。
うーん、結局「できる/できない」をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかの違いしかないのかなあ。そういう気がしてきた。
- 『重力が衰えるとき』
ジョージ・アレック エフィンジャー(著), 浅倉久志(訳)
ハヤカワSF(早川書房)、1989
おもしろかったが、ちょっと不完全燃焼な感じ。人格改変がもっとバリバリでてくるもんだと想像していたが、それほどではないし。
あと、ラストがひどい。続編があるらしいのだが、未邦訳のようだ。
- 『永遠の終り』
アイザック・アシモフ(著), 深町眞理子(訳)
ハヤカワSF(早川書房)、1977
世の中にはミステリを読めないという人がいる。私はそこそこ読むのだが、読めないという人の気持ちはわからないでもない。
私も物理トリックにはあまり興味がなく、昔は「ミステリというのは物理トリックばっかりなのだろう」という偏見を持っていたのであまり興味がなかった。「開いたドアにつかまって移動したので足跡が残らなかった」とか言われても、「だから何?」としか思わないので。
今ミステリを読んでおもしろいと感じるのは、心理トリックと叙述トリックだ。
例えばこの小説の場合だと、ヒロインは何も知らないふつうの人 (時間人) で、「永遠人」の主人公がそのヒロインに恋をして、連れ出したり、守ろうとしたりする。要するに無知でか弱いヒロインを守るヒロイックな話になっていて、ヒロインは「何もわかってない現地人」みたいな描かれ方であまり魅力的ではないのだが、最後の数ページでそれが逆転する。すべてを知っていたのはヒロインの方で、主人公はだまされていたのだ。
こういう「最後の瞬間に、それまで見えていた事態が一変する」という瞬間の快楽が好きだ。私にミステリを読み続ける理由があるとすれば、「最後の瞬間の変転」に対する嗜好がその大部分を占めていると思われる。
ちなみに、なぜかミステリの話になったが、普通に考えるとこの小説は「ミステリ的な技法を使ったSF」であり、つまり端的に言うとSFなので、その点は注意されたい。ついでに述べておくと、私にとってSFの魅力は「でかい話」にある。アシモフの小説はたいていそうだけど、この小説はSF的な「でかい話」とミステリ的な変転の両方をバランスよく備えているので好きだ。
飯野勝己(著)
勁草書房、2007
著者は私に対し、なんのうらみがあって、(1)私がオースティンを検討しており、(2)かつ金がないので本を買い控えているときに、こんな本を出すのか。パラパラみて内容がダメそうだったら図書館を待とうと思ったが、良さそうな本だった。><
(特に社会学方面で) 杜撰に用いられがちな「発語内の力」という概念の2つの解釈を整理した辺りとか、名著っぽい香り。
ところで、speech act を「言語行為」と訳すのはいい加減に止めようと言いたい。「発話行為」というのもあって、こちらの方がましだとは思うが、これもあまり好きではない。一番良い訳は「発言行為」だと思うのだが、ひとりでこれを使う勇気がでない。
- 『順列都市〈上〉』
- 『順列都市〈下〉』
グレッグ・イーガン(著), Greg Egan(原著), 山岸真(訳)
早川書房、1999
読んだ。おもしろかった。
最近速読の練習をしている。少しだけ早くなった。字を目で順順に追っていくのをやめて、頭の中で文を順番通りに再構成するのがコツだと思う。今は、同時に三行読んで、文章を頭の中で再構成する練習などをしている。さらにうまくなってくると、すべてのページをランダムに読むだけで内容を理解できるようになるかもしれない。...と考えると、塵理論っぽくないだろうか。
そして、さらに速読がうまくなると、本がなくても内容が理解できるようになり、最後には本を見て、「これはいったいなんだろう」と言ったりする。...これが「名人伝」。
■あらすじ
塵理論とは何か。理解できる範囲で書き記してみる。
塵理論とは、一言で言うと、自己意識を持ったソフトウェアにはハードウェアなど必要ないという理論だ。
この小説には、ソフトウェア上にシミュレートされた人格であるところの<コピー>と呼ばれる人たちが出てくる。
<コピー>のひとり (正確に言うと違うのだが) はある時次のことに気づく。<コピー>たる自分の意識は、コンピューターによって表現されたパターンの順列と組み合わせにすぎない。それを表現する端末は東京とニューヨークくらい離れててもまったく影響がないし、1年停止したあとに再び<コピー>を再生しても、<コピー>自身の意識は完全に連続している。
であるならば、<コピー>の意識を再生するハードウェアは本当に必要なのか。時間も空間も関係なく、特定のパターンが表現されればよいだけならば、それはすでに宇宙のどこかで実現していると言えるのではないか。ある日の古本屋の本棚に並んだ本の列が<コピー>の意識の正確な表現になっているかもしれないし、空気分子の配列がそれを実現しているかもしれない。宇宙に散らばった無数の塵がハードウェアとなって、<コピー>の永遠の存在を許すのだ。
従って、はじめの数秒間だけ<コピー>と<コピー>の都市 (順列都市) をハードウェア上に再生すれば、ハードウェアを停止した後も永遠に続く<コピー>だけの宇宙が誕生する。
ポイントは、「自己意識を持った」ソフトウェアというところだろうか。この理屈でいくなら、塵理論的な Mozilla Firefox とか、塵理論的な Photoshop は存在するし、まだつくられていない IE8.0 さえも塵理論的にはすでに実現している。ただしインターフェイスに相当するものがないから誰もそれを使えないというだけのことで。一方「自己意識を持ったソフトウェア」なら、そもそも現実と相互作用しないという選択肢を選ぶこともありえるから、完全に塵理論化しちゃってもいいよねという話だと思う。
■[いつか読む]
イーガン自身による塵理論の FAQ
http://gregegan.customer.netspace.net.au/PERMUTATION/FAQ/FAQ.html
J.L.オースティン(著), 坂本百大(訳)
大修館書店、1978
最近しばらく検討していたのだが、やっぱりどう考えても以下のすべての論点を合わせると矛盾する。
- A. 慣習とは、定型的な文(や動作)と行為を結びつけるもののことだ。(慣習は文から行為への関数である)
- B. すべての発語内行為は慣習によって支えられる。
- C. すべての発話は発語内行為を含む。
なぜならば、明らかに慣習的でない方法で発語内行為を行うこともできるから(ストローソンのオースティン批判がこういう趣旨だった)。ふつうじゃない方法で「約束」を行うというのも、それはそれでよくあること。
「慣習的なもののみを発語内行為と呼ぶ」という可能性も検討したが、Cははっきり書いてあるので無理だった。
あと、Aの解釈が間違っていて、「慣習」という語はもっと広い意味で使われているという可能性もまだ拭いきれないのだが、現時点ではそれはほぼないんじゃないかと思っている。
また、「非慣習的な発話はいつでも慣習的な発話に置き換えることができる(から、結局発語内行為はすべて慣習によって支えられる)」という解釈の可能性はあるが、これはあまり擁護できそうにない。「いつでも」置き換えられるとはかぎらないし。
なんとか好意的に読もうとしているのだが、どうもむずかしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9
時々、「動物の権利」のことが気になることがある。最近また動物の権利について知りたくなったので、いくらかメモしておく。本当はピーター・シンガーの本が読みたいが、お金がないので本を買わないことにしている (のと動物の権利について知らなくてもまったく困らない) のでしばらく延期する。
動物の権利の何がおもしろいかというと、それが単なる「動物がかわいそう」という運動ではないからだ(「動物がかわいそう」という動機に基づいて活動している人もいっぱいいると思うが)。
動物の権利運動の一部は功利主義に基づいており、「動物がかわいそう」という人々に混じって、どう見ても論理的一貫性のためだけに動いている人がいる。私は気になっているのはこの部分だ。彼らが動物の権利を主張するのは、論理的に妥当でない制度がまかり通っているのが許せないのと、動物の権利を認めないと一貫した功利主義者になれないと思っているからだ。私はこういう原理主義者が好きなので、ぜひ彼らについて知りたいと思っている。
なぜ功利主義が動物の権利に結びつくか。功利主義とは、ものすごく単純化して言うと、快の増大こそが正義であるという立場だ。しかして快は、感覚や意志を持つものすべてが得るものだ。であるならば、増大すべき快を人間という種に限定する必然性はない。功利主義を徹底するならば、快を感じうる身体すべてを保護するようつとめなければならない。
私は功利主義者ではないので何とも言えないのだが、これは確かに一貫した立場だと思う。というか何より、共感能力や常識その他をかなぐり捨てて、「快!の!増大!こそが!正義!である!」という論理に基づいて立場を決定できるのが素晴らしいと思う。よくわからないので想像で言うのだが、彼らはきっと、「快」という抽象者だけが存在する宇宙をリアルなものとして描ける能力を持っているのではないだろうか(ちょっと意地の悪い書き方になってしまったが、悪意はまったくない。むしろ「俺たちにできないことを平然とやってのける!」という類の憧れを持っている)。
Wikipediaの記事に、こういうエピソードが載っていた。「もし救命ボートが転覆して人間の赤ん坊と犬のどちらか一方しか助けられないとしたらどうするか」という頭の悪い質問に対する答えとして、
動物の権利哲学者のトム・リーガンはこう答えている:「もし知能の遅れた赤ん坊と犬とであったなら犬の方を助けるだろう」
こいつはきっと「権利は知能と感覚を保護するために与えられるべきだ! しかして知能の遅れた人間の子どもと犬を比較するならば、知能を持つのは犬なのであるから! 犬を助けるべきだ!」みたいな感じで演繹的に考えているのだと思う(知らないけど)。意見の是非はともかく(実際のところ、あまり共感はできないのだが)、こういう極端な立場から正義を主張する人を見ると、わくわくするようなたまらない気持ちが心中からこみあげてくる。原理主義者萌えー。
将来設計からしばらく遠ざかっていた日々であったが、説明会に行ったきり忘れてた某社から「面接に来い」との知らせで行くことになった。また、別の某社の二次試験に受かったので、次の試験を受けに行かねばならなくなった。
活動率を高めようと思ったり、やっぱもう決めてしまおうと思ったり、気持ちが二転三転する今日この頃であった。
最近勉強はしているのだが、どうも論文を実際に書き出すことを後回しにしてしまう傾向にあるようだ。締め切りが少し先までないのと、書き始めるのがつらいため、読書に逃避してしまいがちな最近だった。
これはいけないと思ったため、早く書きはじめ、書き続けなければならないということをここに書いておくことで、論文を書くための強制力を発生させたい。早く書け早く書け早く書け。
■ 現代(の)美学を大いに盛り上げる人たちの団3回目:「グッドマンの美学」
http://plato.stanford.edu/entries/goodman-aesthetics/
最近参加している勉強会。レジュメをここにもあげておくので興味ある人はどぞ。
(長いので、「つづきを読む」のところにあげておく)。
ちなみに内容は、ほとんどただの箇条書きによる要約。
以下、勉強会後に気づいたことをメモ。自分用。
「例示exemplification」はしばしば「象徴symbol」と呼ばれる記号概念に似ている。
- 例示とは
- 「性質の所有」プラス「指示」である。例: 布見本。見本は、ある性質を持つと同時に、その性質のラベルを指示する。見本にとっては、一部の性質のみが関与的relevant。例えば布見本の場合、例示されているのは、「色」と「質感」だけであり、大きさや形は関与的でない。
- 象徴とは
- 記号と指示対象が一体化しているとき、その記号が象徴であると言われる。例は、「神の像」が神を象徴する場合や、天秤によって「公正」を象徴する場合。
後者の「象徴」概念はソシュールに由来する。他方グッドマンはパース由来の「symbol」概念を用いているため、グッドマンの「symbol」は単に記号一般のことを指す(2つの象徴概念の違いについては、佐々木健一『美学辞典』などを参照)。
単にこの2つって似てるよねってことに気がついただけ。
グッドマンの「体系sytem」概念は、ローカリティを含まない。
たぶん含まない。グッドマンの記号体系は弱い意味でのコンテクストであるが、「今ここ」と呼ばれるような強い意味でのコンテクストの話ではない。ただし、「今ここ」的なコンテクストの話を含めて考えようとするならば、「投射projection」の概念と「例示」の概念を利用できるかもしれない。
グッドマンには関与性relevanceの概念がある。自分の概念として用いているわけではないかもしれないが、発想としてはある。特に「例示」は関与性に関わる概念として設定されている。
コミティアに行った。オタクの人をひさしぶりにいっぱい見たので、オタクの人のそれっぽい服装とか、それっぽい喋り方とかも、ミームとかいうやつなのだろうかと思った。ああいうものはどうやって研究すればいいんだろうなあ。
以下、買ったもの。
- 『ティアズマガジン』 vol.80
カタログ。事前に買ってあったのに、忘れたので当日また買う羽目になった。
- 『クイックハルト』
郁雄/吉武
http://www.astronaut.jp/diary/diary.htm
- 『印度で乱数 腐乱亭日乗』
駕籠真太郎
http://www1.odn.ne.jp/~adc52520/
- 『花論争』
黄色いメガネ
- 『ベンジャミン スペシャル・ショート・ストーリーズ』
サトウナオコ、夜色オルガン
- 『中国の阿片』
- 『宦官と宮女』
水苑
- 『マイナスガーデン4』
MYNA、マイナスガーデン
http://www.geocities.jp/mynasgarden/
- 『世界探検話』
Matatabi Mix
私が本屋で発見したことを書く。
前から書こうと思って忘れていたこと。
フェルナンド・ペソア(著), 高橋都彦(訳)
新思索社、2007
全訳が出ている。抄訳版をすでに買ってしまったのに。
J.L.オースティン(著), 坂本百大(訳)
大修館書店、1978
ちょっと前に、オースティンの「慣習Convention」がルーマンの「構造」にあたる概念だと書いた。
http://www.at-akada.org/blog/2007/04/post_182.html#comment-335
これは不正確だったので、一部訂正します。
オースティンが慣習と呼んでいるのは、「特定の文のタイプや動作を、行為に結びつけるもの」のことであった。
- 「謝罪します」と言うと謝罪になるのに、「侮辱する」と言っても侮辱したことにはならないのはなぜか?
- 挨拶のときに帽子をとるのはなぜか?
-> 答え: 慣習のため。
つまり、特定の文のタイプや動作が行為と結びつくのは、歴史的偶然の結果である、という事態を説明するためにこの語は使われているらしい(第六講の「進化論的」(?)議論を参照せよ)。
ルーマン風に言うならば、慣習とは「作動をシステムに帰属させるもの」だ。だからむしろルーマンの言う「二元コード」と比較するのがよいかもしれない(ただしコードは「構造」の下位概念なので、構造に含まれるものではあるのだが)。
「構造」と直接比較可能なのは、「規則」とか「必要条件」と呼ばれているものの方だった。サールが後に「構成規則」と名付けたのはこっち(ちなみにサールはジョン・ロールズからこの概念を借りてきたらしい)。
西村清和(著)
勁草書房、1993
本書は、「なぜ悲劇を楽しめるのか」「なぜ殺人を美しいものとして享受できるのか」「なぜ悪漢が魅力的に描かれうるのか」などの問いをたてている。しかし、ほとんどの章では、問いを「劇作家がどうやって悪漢を魅力的に描いたか」という対象領域の問題にずらした上で、特定の作品の記述を行っている。
これはなかなかおもしろいんじゃないか。確かに、それらの問いは、まず「劇をつくる人」にとってこそ問題だったはずで、それを哲学的・理論的に解決しても仕方がない。というような意味で、この方針は賛同できるものだった。
G. フレーゲ(著), 坂本百大(編), 土屋俊(訳)
勁草書房、1986
ものすごいスピードで目を通したのであまり内容は理解していない。
- モーリッツ・シュリック「事実的ア・プリオリは存在するか」
がおもしろかった。
表面的には現象学批判。趣旨は、「現象学者がア・プリオリで総合的な真理と呼んでるものは、その実、分析的真理であり、トートロジーだ」。
しかし、読みようによっては、現象学は (使ってる用語がおかしいだけで) 論理文法の分析をしている、という定式化を行っているように見えなくもない。今読むとむしろ「現象学と分析哲学は共通の問題を扱っている」という主張として読めるのではないか。
通読しての感想。
近年では、ろくに検討もされず、「論理実証主義は間違っていた」と言われることが多いわけだが、本当に間違っていたかどうかは怪しいと思う。論理実証主義者というのは、「こういうことができるはずだ。やろう」というプログラムを掲げていただけなので、その「間違い」を示すのは大変むずかしい。なにしろ間違っていたと言えるためには、そのプログラムが「如何なるバージョンにおいても不可能だ」と言えなければならないわけだが、そんなことを示すのはそれこそ困難なのではないか。
むしろ論理実証主義者の試み自体は、弱いバージョンに置き換えればまったく問題のないものであると思う。つまり、数学者が今でも行っているような「公理(スタート地点)をいろいろ取り替えてみることで、体系が整合的かどうかチェックする」というくらいの作業をするのだと考えれば、現在でも存在意義は十分に確保できるのではないか (ただし、それはもう「論理実証主義」とは呼ばれないかもしれないが)。
論理実証主義者にとって必要だったのは、「諸科学のためにがんばります」というサービス精神とうまいプレゼンだったのではないか。そして致命的だったのは、偉そうだったことと、ごく一部の科学しか目に入っていなかったことだったのではないか。
http://lolipoking.lolipop.jp/cgi/patio.cgi?mode=past&no=4424
適用してみた。
効いているのかどうかよくわからないが、二重投稿にはならなくなったような気もする。
みずからの政治的アティテュードを表明すべく、たまに社会派っぽい発言をしてみる。
デリケートな問題に触れるので、最初に弁明をしておく。
わたしは右翼が好きで、街宣車を見ると胸がどきどきする派の人だ。なぜ好きかというと、声高に正義を唱える人が好きだからだ。じぶんは日常生活で声高に正義を唱えることはまずなく、周りの人が唱えるところもあまり見たことがないので、正義の快楽にうちふるえる機会に飢えているのだと思う。なんの根拠もなく断定するが、人はたまに体を動かすのと同様、たまに正義の快楽にうちふける方が体にいいのではないかと思う。右翼の人を見ると、正義を疑似体験できるので私は好きだ。
さらにバランスをとる発言をしておく。私は声高に正義を唱える人一般が好きなので、左翼も好きだ。
さて、本論にはいる。
わたしは、天皇制は即時撤廃すべきだと思っている。
理由は、はずかしいからだ。じぶんが属している国が土俗宗教の教祖さまみたいなのをエンペラーとして仰いでいるかと思うと、はずかしていてもたってもいられなくなるからだ。
浅田あきらに「土人テラワロスw」と言われてもまったく仕方ないと思う。だってその通りだから。日本人にはときどき「日本人は無宗教で...」などと言う人がいるが、教祖さまからいただいた暦を大半のやつらがありがたく使ってるくせに、どの口でそんなことを言うかと思う。
そもそも「天皇制」を存続すべきだという人は、何が好きなのかがよくわからない。
周知のように「天皇制」というのはコミンテルンがつくった言葉で、そもそも「天皇」は制度ではないというのが伝統的な見解だったはずだ(日本共産党は、「天皇制」というこの語を使ったがために大弾圧にあったのではなかったか)。
天皇の本義からすれば、それが制度であって良いはずがない。制度であるということは、他の公的制度同様に、日本国憲法およびその他の法律によって規定されたものであるということだ。つまり、日本国憲法を改正したら、なくなっちゃうかもしれないよーということだ。また、憲法による規定を受け入れるということは、万世一系の正統性よりも、憲法の手続き的な正当性を上におくということになる。
ゆえに、天皇を崇拝する観点からしても、現在の象徴天皇制はちっともよろしくないものだ。「天皇制」が伝統的なものだから残すべきだなどと言っているやつは、何がしたいのか。何がどう伝統なのかもよく知らないが、なんかふるいっぽいから残しておいた方がよいということだろうか。その気持ちはわからないでもない (わたしもものとか捨てられない方だから) が、ちょっとちがうんじゃないかと思う。
わたしが天皇制撤廃論者である理由は、主に「はずかしい」という点につきるので、国政と土俗の習俗が分離されればそれで満足する。憲法の前の方が改正され、象徴天皇制を撤廃し、天皇が「伝統芸能みたいなもの」になれば、速やかにそれを受け入れる。皇室ファンになることも辞さないつもりだ。
ちなみに、土俗の習俗が残っていること自体はとくに悪いことだとは思わない。むしろこのましいことだと思う。
この「このましさ」と「はずかしさ」の対比は、たとえでいうと、以下のようになる。
- じぶんの会社の敷地に古い稲荷がある。
→わあ素敵
- 社長がその稲荷を信仰し、社員にもそれを強制している。
→わあはずかしい
































