2007/06/09訂正:
http://www.at-akada.org/blog/2007/06/post_218.html
↓これは間違いでした。申し訳ないです。↑訂正記事
論理学のことを書くと、後で、よく知らないのに適当なことを書いてしまった...orz と後悔しがちである(独学者の憂鬱)。
しかし、今回はあってたらしいことがわかった。
以前三上真司著『もの・言葉・思考』について、同一性記号についてヘンなことを言ってるのではないか、と書いた。
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/1_7.html
この著者はウィトゲンシュタイン (『論理哲学論考』) の「それぞれの個体に対し別々の名前を割り当てれば同一性記号はいらねえじゃん」という方針を採用していた。しかし、1個体につき1つの名前だけを割り当てたとしても、量化子が絡むとやっぱり同一性記号は必要になる (が、著者はそのことがわかってない) みたいなことを書いた。
私は『論考』を読んでないので、なんでウィトゲンシュタインが上のようなことを言ったのか謎だったのだが、今日わかった。『論考』は依然として読んでいないのだが、野本和幸『現代の論理的意味論』を読んでいたらきちんと解説されていた。
ウィトゲンシュタインは量化子を体系から排除したんだな (そしてそれが『論考』の欠陥の一つでもあったと)。それがあったから名前の処理だけで同一性記号をなくすことができた。一方、三上氏は量化子を導入しつつそれと同じことをやろうとしていたので、話がヘンなことになったと。量化子を導入しつつ同じことをやろうとすれば、体系をもっとたくさんいじらなければならなかったはずだ。
少しだけひっかかってたことが解決したのですっきりした。