2007年6月
■ アルトキー
Alt は「アルト」って読んでもいいらしいぞ。はまちちゃんがそう言っていたので、これからは堂々と「アルトアルト」と言っていきたい (権威主義)。
そう言えば、知り合いに Ctrl のことを「クトゥルーキー」と呼ぶ人がいた。その理屈でいくならば、「クトゥルフキー」「クルウルウキー」「ク・リトル・リトルキー」とかでもいいな (通じないけど。あとショートカットキーを打ってるうちに顔がインスマウス面になりそうだけど)。
この手の記号の呼び方は難しい。<br/> のことを「ブレイクタグ」って言ったら通じなくて、「ビーアールタグ」と言い直さなければならなかったり。「ウィンドウズミー」は、「エムイー」でもよい気もするが、「ウィンドウズクスプ」は変だし、「ウィンドウズヴィーアイエスティーエー」って言ってるやつがいたら笑ってしまいそうな気がする。そういえば隣の職場の人たちは、".wav" を和布ファイルと呼ぶのだが、私の頭の中では「ウェーブファイル」だ。あと、これは間違っていると思うが、".gif" をみるたびに「ジフ」じゃなくて「ギフファイル」と言いそうになる。
■ 最近知ったこと
Windows において "アルトキー + Tab" でウィンドウ切り替えができる。全然知らなかった。この手のショートカットキーって人に聞かないとまったく知る機会がなかったりする。
↓こういう拡張ソフトも存在するらしい。
http://www.forest.impress.co.jp/article/2002/11/13/joe.html
■ わたしがしばらく使っているスケジュール管理のための1つの方法。
↑ブログっぽいタイトル。
必要なもの
- Hidemarnet Explorer
- 自由になるサーバースペース
思うんだが、スケジュールは、テキストファイルで管理したいじゃないか。
グーグルカレンダーとか Remember the milk とか Y! カレンダーとか余計な機能がつきすぎでかえって面倒くさいと思うんだ。グーグルカレンダーは Opera に対応してないし(ファックオフ!)。
しかも、そのテキストファイルがネットワーク上にあると便利だろう。携帯からも開けるし、ネット環境さえあれば、家でも職場でも確認できるし、書き込める。
Hidemarnet Explorer があれば、そんな夢のような計画を実現できるんだ。
1. サーバー上に"schedule.txt"というテキストファイルを置く。
仮に、いま
www.sample.com/www/misc/schedule.txt
という場所においたとしよう。
2. 次に、いちいちこのファイルを探して開くのはやってられないので、ワンクリックで開けるようにする(←ここ重要)。
↓こういう感じのを書いて、"schedule.bat" という名前で保存する。
@echo off cd C:\Program Files\Hidemaru Hidemaru.exe ftp://www.sample.com/www/misc/schedule.txt exit
3. あとは、このファイルを実行するだけで、サーバー上の schedule.txt を秀丸エディタ上で開くことができる。がしがしスケジュールを編集したり確認したりしよう。
マウスジェスチャーで開けるとさらに楽なので、わたしはマウ筋を使って、「中クリック + ←」で schedule.bat を開くようにしている。
おお、これは便利だ。
しかしこのままだとあなたのスケジュールが世界に向けて公開されてしまうので、一応パスワードで保護しておく。認証には、.htaccess を使うとよい。こっちの方法は自分で調べてみよう。
ただし、ときどき FTP通信に失敗してスケジュールが真っ白になったりするので、なるべくマメにバックアップを取るようにしよう。
■ 新刊
大澤真幸(著)
講談社、2007
真幸大沢(マンセー)の新刊がぶ厚いというよくわからない情報をいただいた。
とてもぶ厚いらしいので各自本屋で確認してみよう。
■ アマゾン
amazon の「あわせて買いたい」アルゴリズムを狂わせるべく、なるべく変な組み合わせで本を買うよう心がけているのだが、ついつい忘れがちになってしまう。新品を買うよりもマーケットプレースで買うことが多いせいもあって、組み合わせのことを意識し損ねる。
たとえば先日ハッキングとピーター・ウィンチを一緒に買ったが、本当はもう一冊ライトノベルかなにかを買うべきだった。次からは気をつけるようにしたい。
■ ねこ
覚えておきたい英語の諺。
There are more ways of killing a cat than drowning it in butter
猫を殺すにも、バターの中で溺れさせる以外にいろいろな方法がある
原著p48、邦訳p85
- 『言語と行為』
J.L.オースティン(著), 坂本百大(訳)
大修館書店、1978
第四講に出てくる。
うっかり視野が狭くなって、バターで溺れさせる意外の方法が目に入らなくなる、そんなことってあるよね...ねーよw
というつっこみまで想像させてしまう自己パロディ的過剰さもふくめ、よい諺なので機会をみてすかさず使っていきたい。
■ 打ち明け話
数年前、まだ学部生の頃、喫茶店で勉強していて、頭が疲れていたためか、「アイスコーヒー」と言おうとして、「おーとぽいえーしす、おかわりで」と言いかけたことがある。
「おーとぽ、あ、いや、アイスコーヒー」と。
あのときは動揺した。
■ メモ
イアン・ハッキング(著), 渡辺博(訳)
産業図書、1986
リアリティの話らしいと知ったので買った。
リアリティの話をうまく扱えるべきだと思うのだが、なかなか糸口が見えない。
■ 買った本
買った本を書くのをやめた。理由は面倒になったからである。「こういう本が出ているのだぞ」と人に教えたくなることもあるので、そういうときだけ書く。
そういえば新刊で本屋で見かけて気になった本があったのだがタイトルや著者を忘れた。なんかナラティブっぽいものだったと思うのだが、なんだっけ。
J.ブルーナー(著), 岡本夏木(訳)
ミネルヴァ書房、2007
これだ。これは、ジェローム・S. ブルーナー?と同じ人だよな...?
買わないと思うが図書館で読むかもしれない。
■ 論文メモ
- 前田泰樹「「私的経験」の理解可能性について--歯科医療場面の相互行為分析」
http://ci.nii.ac.jp/naid/40004978633/
これはおもしろそうだ。歯の痛みがどのようにして公共的に示されるか、本当に調べてみた、という趣旨だろうか。
- 林原玲洋「S.Toulminの議論モデル・再考--相互行為としての論争/規範としての論理」
http://ci.nii.ac.jp/naid/40006000618/
そういえば、id:shim にトゥールミンモデルについて聞かれたなと思ったので、メモ。
↓こういう本も出ている。
- 『議論のレッスン』
日本放送出版協会、2002
「僕の考えではドラえもんの存在を信じていて、ドラえもんに何とかしてほしいと思いました」
■ ニュース
こやの先生がネットで知り合った女性と再婚した (と世間ではもっぱらの噂)。
■ 懐疑主義のどこがおかしいか
懐疑主義は複数あるので、懐疑主義一般と戦うことは不可能なわけだが、以下のロジックは結構汎用的に使える。
以下のような議論が「錯覚論法」と呼ばれ、懐疑主義の常套手段とされる。
(1)なにかものを認識したと思っても、後から間違っていたとわかることがある。
(2)ということは、すべての認識は、われわれが気がついてないだけで間違いかもしれない。間違いでないと確証する方法はない。
(3)従って認識は不可能である。
途中を省くと、
・認識は間違いうる
・従って認識は不可能である
問題は一回目の「認識」と二回目の「認識」の使い方が違うこと。
一回目の「認識」は、この語のふつうの使い方だが、二回目は変な使い方である。
「認識する」という語には「間違いの可能性がない」などという意味はない。「Aと認識した。しかし間違いだった」と言うことには何の矛盾もない。
この場合、「認識は不可能である」というのは「間違いの可能性が絶対にないほど確証された不可謬な認識は不可能である」ということである。そのように解するならば、これはもちろん正しい。
しかしその場合、ふつうの意味での認識は可能である。少なくともそれが不可能であると示されたわけではない。
一般的にいうならば、この手の懐疑主義的議論のおかしさは、「失敗の可能性」からいきなり「成功の不可能性」に飛ぶところにある。これは飛躍であり、単純に間違っている。
■ 教育に対する提言
懐疑主義的な主張の方が前提の少ない立場であり、論理的に強い立場であるという風潮が世間にある気がした。
しかしこれはおかしい。むしろ多くの懐疑主義は、単に論理的に間違った主張をしていると思う。
これはおそらく、懐疑主義の攻めばかりが問題にされ、懐疑主義の守りが問題にされないからだろう。
しかし、懐疑主義者を守りにたたせ、その問題ある前提を突くようなロジックはいくつか存在する(私も多くは知らないが、たとえば「世界五分前誕生仮説殺し」などは見たことがある)。そういった懐疑主義殺しの方法を学校で教えると良いのではないか。
コリン・マッギン(著), 植木哲也(訳), 野矢茂樹(訳), 塚原典央(訳)
勁草書房、1990
いつか何かに使えそうなところをメモしておく。
「創造テーゼ」と筆者が呼ぶものについて。
(適宜改行)
この提案によれば、ここでウィトゲンシュタインは「意味は使用によって創り出される」という考えに関わっている。つまり、ある言葉の意味は時を経るにつれ漸次構成され、創り出されていくのであり、確定した意味とは時間的な広がりを持つ使用の最終結果なのである*。
* これって実存主義に似てるよね。(という趣旨の脚注)
この提案に従うと、意味が使用を生み出す(使用の源泉である)のではなく、
むしろ使用が意味を生み出す(意味の源泉である)ことになる。
それゆえ、ウィトゲンシュタインが、それぞれの段階で新たな決断が必要とされると言う時、
この解釈では、使用のそれぞれの機会はそれに先立つ意味によっては不確定であり、
実際には意味を構成するものの一局面にすぎない、
と提案していることになる。
したがって言葉の意味は、使用の総計が考慮に入れられないうちは、ある意味で未確定なのである。
この幾分か曖昧で性急な主張を、創造テーゼと名づけることにしよう。
p188-189
創造テーゼはなぜおかしいか。
創造テーゼを支持することは、
所与の時点で私が何を意味しているかが
(1)(時間的広がりを持つ)私の残りの使用を考慮しないうちは確定されず(確定的ではなく)、
(2)したがっていま私が意味することは当の言葉のその後の使用に規範的な影響を及ぼしえない、
ということを支持することである。
(...)
今後も私の言葉の使用が適切であるとするなら、
それは現在私が意味していることに一致するか忠実である必要がある、
という常識的な考えを、創造テーゼは許容しないのである。
p189-p191
(後期ルーマンの) オートポイエーシスという概念は、時々この創造テーゼのようなものと解されている。ということは、オートポイエーシス的な主張をなす人は、創造テーゼに対する批判に答えなければならない可能性がある。
可能性は3つある。
(1)創造テーゼとオートポイエーシスは違う。
(2)創造テーゼとオートポイエーシスは同じである。そしてこの批判は間違っており、創造テーゼが正しい。
(3)創造テーゼとオートポイエーシスは同じである。そしてこの批判が正しいので、創造テーゼおよびオートポイエーシスは捨てなければならない。
私は(1)をとるべきだと思う。(3)でもいいけど。その場合であっても、マッギンが意味の還元不可能性と呼んでるような仮定は維持されなければならない(これを認めないならば、今度はクリプキの懐疑主義者と対決しなければならない)。
■ クリプキ説の擁護
次の2点を認めれば、クリプキ説をマッギンの批判から守れる。
(1)「共同体」を慣習の分布・再生産に関する概念として理解する。
(2)共同体の構成員は1人でもよい。
たとえばエスカレーターに乗るとき、右側に立つ派の人と左側に立つ派の人がおり、どちらに立つべきかが異なった風に分布している。
(Wikipedia によれば、「関東、福岡及び北海道及び岡山では乗り込む際に左側に立ち右側を空け、関西及び仙台では右側に立ち左空け」らしい)
このようなルール・慣習を共有する人たちの集合を「共同体」と呼ぶ。いうまでもなく、ここでいう共同体は、特定のルールに依存した形で定まる。エスカレーターに関する共同体は、言語に関する共同体、算術に関する共同体などとは異なった風に分布している。
共同体の構成員は1人でもよい。ルールの適用は公共的にチェック可能でなければならない(原理的にチェック不可能なものはルールではない)。しかし、話者が1人しか現存しない言語があってもおかしくはないように、従う人が1人しか現存しない慣習があったとしてもおかしくはない。
↓規則の適用に関し、共同体との一致は必要でないとマッギンは言った。
それゆえ私には、「彼は足し算の規則が呑み込めたと自分では思っているが、実はまだ分かっていない」といった文を主張するわれわれの実践に対するもっともよい記述は、個人的なものであると思われる。
われわれがこの文を主張するのは、
(i)彼が足し算の規則を習得したと言い、
しかし(ii)「n + m = ?」という形の問いに答えよと言われたときに、一般にその一対の数の和を与えることができないということが示される場合――すなわち彼はほとんどの場面でその和を与え損ね、しかも足し算の習得を発揮するのに何か障害があると想定すべき特別な理由がない場合――である。
それゆえ、他人によって為された規則の自己帰属を訂正する言語ゲームは、クリプキの主張に反して、共同体を主張可能性条件に取り込むことなく、適切に記述することができる。
p258-259、強調引用者
最後のクリプキ批判は端的に間違っているのではないかと思う。
マッギンがここで「足し算」と呼んでいるものは、「十進法の足し算」のことだろう。
しかし、歴史的には、十進法以外を用いる共同体も存在したのだから、足し算能力の判定をする前に計算者が何進法で数を数えるのかを知らなければならない。
要するにマッギンは、計算者が (クワス算にも十二進法にも従わないような) 現在のアメリカ人や日本人であると勝手に仮定しているのだろう。
しかし、その際すでに「どの共同体に属する人か」は前提されているし、共同体は依然として主張可能性条件に含まれている。
ここで共同体と呼んでいるものを「歴史」と呼び変えてもよい。マッギンが多くの場所で人間の自然本性と呼んでいるものも、一生物種に関する歴史の産物である。
したがって、「歴史なくしてルールなし」というミニマムな立場を採用することで、マッギンの自然主義とクリプキの共同体説を矛盾なく両立させられるのではないか。
もはやクリプキとは全然別の説になっているという話もあるが、グッドマン的な「概念の擁護」とクリプキの共同体を重ね合わせて読むならば、こういう解釈を選んでもおかしくないと思う。
「好みのタイプは?」と聞いた後、すかさず「では、好みのトークンは?」と聞く。
■ メモ
ピーター・ウィンチ(著), 森川規雄(訳)
新曜社、1977
復刊。
■ 抽象
抽象的な話しかしてはいけない飲み会に参加することになった。
(たぶん参加することになっているはず)。
現役の人文系大学院生たるもの抽象的な話で負けるわけにはいかんと意気込んでみる。
話題をリストアップしておく。
- 抽象とは何か。
「抽象的なもの」・「一般的なもの」・「観念的なもの」の違いについて考える。(これから)
- 意味には何個意味があるか。
- 『意味の意味』
C. オグデン(著), I. リチャーズ(著), C. Ogden(原著), I. Richards(原著), 石橋幸太郎(訳)
新泉社、2001
これに書いてあるはず。持ってるけど読んでない。飲み会までに読むのはつらいなあ。
というか今気づいたが、別の予定とかぶってるな。
やば、参加できないかも。
■ 買った本三冊
ジュンク堂にて。
- 『地球の長い午後』
ブライアン W.オールディス(著), 伊藤典夫(訳)
早川書房、1977
ほしおさなえ(著)
東京創元社、2007
赤川次郎(著)
角川書店、1984
■ 最近よく思うこと
人間はなるべく低いレベルで生きた方がいい。
「あいつ嫌いだったので死んでざまーみろと思いました」とか、それくらいの倫理観しか持たなくていいんじゃないか。
本を読んでも、「なに言ってるかよくわかんないけど、むずかしいこと言ってて頭良さそうだと思いました。でもなに言ってるのかわからないので好きではありません」とか、それくらいの感想でいいと思う。
「死んだやつのことを悪く言ったらかわいそうじゃないか」と言われたら、「やっぱりかわいそうなのでざまーみろはひどいと思いました」と訂正すればよい。「書き方は難しいけど、ここはこういう意味だよ」と言われたら、「意味がわかったので嫌いではありません」と訂正すればよい。
あまり実践できていない (実践してるけど、徹底はできていない) し、まじめに考えるとほんとにそれでよいのかよくわからないけど、とにかくよくそういうことを思う。
なんというか、基本的に馬鹿でありたいという欲望があるんだろうなあ。なぜそんなことを思うのかはよくわからないけど、褒められると落ち着かない。
病院いった。
熱っぽいんですー、体温計ないんで熱はかってないんですけどーっていったら、「はいはい風邪。抗生剤いらないよ」「はしか? ハア?」みたいな扱いを受け、軽く傷ついた。
そのまま自主休校をして休むことにし、家でアニメ観てた。
大魔法峠全話とジャイアントロボの前半を観た。
大魔法峠はまったく頭を使わないで観られるところが、よいアニメだった。
- 大魔法峠 - ぼくパヤたん
http://www.nicovideo.jp/watch/sm87290
- 大魔法峠 ぼくパヤたん 第2章(ぷにえの放送禁止ソング3)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm215413
これはひどいw なぜベトナムw
■ おお 朝日ソノラマよ つぶれてしまうとはなさけない
http://www.asahisonorama.co.jp/hp/whatsnew/readers.html
私がネムキを買わなかったばっかりに...(←ちがう)。
なんという悲しいことだろう。
■ 発表2つめ
思い切って具体的な分析にスライドしたせいか生産的なコメントが多くてよかった。寄せられた疑問や批判もこれから何度も出会いそうなものであったので、答え方をもっと考えないといけないと思った。
■ 最近の本
岡田斗司夫(著)
ちくまプリマー新書(筑摩書房)、2007
むう。「世界征服」は確かに良いテーマだな。興味深い。
五十嵐太郎(著)
ちくま学芸文庫(筑摩書房)、2007
これもおもしろそうなテーマだけど、Amazonのレビューでは微妙な評価だな。博論らしい。
■ 『探究』前半のもえポイント
ウィトゲンシュタイン(著), 藤本隆志(訳)
大修館書店、1976
38節
そして奇妙なことに、「これ」ということばについては、かつてそれこそ本来的な名であると言われたのである。それゆえ、われわれがそれ以外に「名」と称しているものは、すべて不正確で近似的な意味においてだけ、名であるのだ、と。
あえてラッセルの名前を出さず、老師とのかつての蜜月を必死で振り切ろうとするウィト。もえ。
46節
さて、名は本来単純なものを表記しているというのは、いったいどういうことであるか。――
(...)
こうした基本的要素がラッセルの「個体」でもあり、またわたくしの「対象」でもあったのである(『論理哲学論考』)。
かつての自分と老師が分かち合い、ともに取り組んだ哲学的問題を疑似問題として切り捨てようとするウィト。技巧派で老練なラッセルと、不器用な天才の見本たるウィトゲンシュタインの入り組んだ愛憎にもえ。
■ 別のもえ
老年のラッセルは、日常言語のなかに哲学的問題を解消しようとするかのごときイギリス哲学(ケンブリッジのウィトゲンシュタイン、オックスフォードのオースティン)の現状に絶望し、アメリカのクワインに嘱望を託したという。
マイケル・ダメット(著), Michael Dummett(原著), 野本和幸(訳)
勁草書房、1998
本書におさめられたダメットのインタビューには、クワインがオックスフォードを訪問した頃の生々しいエピソードがつづられている。当時のオックスフォードは日常言語学派と呼ばれた学風がまっさかりの頃で、学生や研究者たちはみな、哲学は日常言語の探求のなかに解消していくのだと信じていた。そこに現れたクワインは、論理実証主義の変種にしか見えなかったのだろう。オックスフォードの人々たちにとって、それはすでに乗り越えられた立場としか映らなかったが、クワインを論破できなかったのでくやしがったという。
ダメット曰く、ただひとりオースティンだけが、「自分が何に直面しているのかをはっきりと知って」いた。オースティンはきわめて慎重にクワインに疑問を投げかけ、二三の応答が交わされた。
もえー。
今日さっき突然「うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ」というこのブログのタイトルの意味がようやくわかった。
どうして自分のつけたタイトルの意味がわからないのかと人々はおっしゃるかもしれないが、自分のしていたことの意味が後になってようやくわかるということもままあることだと思う。
言うまでもなくこれは「うつし世はゆめ 夜のゆめこそまこと」というかの江戸川乱歩先生の言葉のパロディであるわけだが。幻想を愛し、現実逃避をモットーとする私は、以前からこの言葉に感銘を受けており、これを座右の銘とすることも辞さない心構えであった。しかし、ちょっとそのままでは気に入らなかったので「夜のゆめこそまこと」の部分だけ変え、「ゆめもゆめ」にすれば語感もかわいらしくていいかなーと思って、ブログのタイトルに採用した (ぜひとも諸君には、プロのコピーライター (時給1200円) である私の高尚なセンスをこの点に感じてもらいたい)。
変えてみて、「うむ、まあこれでよいか」と思っていたのだが、うつし世も夜のゆめも両方ゆめってどういうことなのかというのは、よくわからないままだった。しかし、今日それがわかった。
まず、乱歩先生のモットーである「うつし世はゆめ / 夜のゆめこそまこと」は、現実忌避の思想であり、「まこと/ゆめ」という二項対立を前提とした上で、それを逆転した逆説的な表現になっている。一方「夜のゆめもゆめ」というのは、「うつし世」も「夜のゆめ」もある意味では似たようなものであり、うつし世も、見ようによっては荒唐無稽、奇想天外な夢のようなものではないかと述べている。つまりここには、うつし世のなかにさえ愛すべき夢の姿を見いだし、すべてを肯定しようという私の現世肯定的な思想が現れているのであった。従ってこのブログは、現実逃避を繰り返した果てに私がうつし世にゆめを見出し、そこに自分をなじませていく日々の記録なのである。
発熱のために思考がたぶん狂っているのだが、その分頭が冴えているとも言える。
■ 存在を知った本
東条敏(著), 人工知能学会(編), JSAI=(編)
オーム社、2006
人間の言語・知識・信念を一貫して述語論理のモデル論的意味論として、特に可能世界意味論を中心に据えて解説。それにより、「自然言語の意味」「知識と信念の維持の問題」「論理プログラミング」の3つの話題を結び付ける。
こんなの出てたんだ。信念論理を含め、様相論理の教科書はあまりないので貴重かも。
■ 最近思ったこと
私はさらっと流すのが下手なようだ。
特定の分野について勉強すると、その分野のことを真面目に考えすぎてしまい、論文に書こうとすると、一からすべてを論じるか、まったく触れないかどっちかしかできなくなってしまう。しかし、これは要するに、身をかわすのが下手なんだろうと思った。
たとえば様相論理や経済学やゲーム理論や言語哲学について何かを言うとして、専門外の社会学者がその土俵の上でまともに戦う必要はまったくない。そんなことができるはずもないし、できるかのように見せかけているなら、それはただの嘘つきだ。そうじゃなくて、その背景にある考え方とか諸々の事柄について、専門外の社会学者ならではの仕方で何かを言うべきなのだろう(もちろん、それをやるためには前提として対象をよく勉強しなければならないが)。プロパーがプロパーとして専門分野に向かっているところに正面からぶつかるのではなく、プロパーとはまったく違った仕方で、しかし、プロパーの人をドキリとさせるような水準で横やりを入れるべきだ。そして、そういったことができる人を「筋金入りの素人」と呼ぶのだろう。
これまであまりそういった方向でものを考えたことがなかったので、私はもっと「筋金入りの素人」的方法を意識的に学ぶべきだと思った。
- 『経済学という教養』
東洋経済新報社、2004
この本とか、その辺をよくクリアしていてよかった気がするなあ。
と思ったのだが...。今改めてこの本の Amazon レビューを見て、(うすうす感づいてはいたが) それがどれほど理解されづらい仕事であるかを痛感したので、いきなりやる気がなくなった...。
そういえばこれ、以前 2ch の数学の哲学スレを見てたときも思ったんだった。だってなー。プロパーからはうさん臭がられたり、うざがられたりするし、当の分野に無知な同業者からは理解されないし、やってられないよなー。対象領域はいくら学んでもキリがないし。しかも数学者はとりあえず最先端の数学を理解していれば評価されるけど、数学の哲学をやる人は、いくら理解していても、それだけだと「それのどこが哲学なの?」とか言われたりするんだよ。
法社会学とか科学論とか、その辺は全部そうだけどなー。
まあその分、プロパーから評価されるとうれしいんだと思うけど、やっぱり大変だなあ...。頭痛くなってきた。(´Д⊂
■ 読書
ソール・A.クリプキ(著), 黒崎宏(訳)
産業図書、1983
「クリプケンシュタイン」という言葉があるくらいのもので、この本はウィトゲンシュタイン解釈としては間違っているという評価が定着しているらしい。
しかし改めて読んでみると、ウィトゲンシュタインとクリプケンシュタインの違いがよくわからなくなってしまった。
■ 規則
ウィトゲンシュタインのパラドクスとはどのような問題だったか。解説するのは大変なので省略するが、おおまかにはこういうことだと思う。
数列や関数について、個別の適用例だけから一般項を導出できるか。もちろんできない。高校入試でそういう問題も出ていた気がするが、厳密に考えると有限の適用例にあてはまる一般項は無限にあるのでそういうことはできない。
これを敷衍すると、われわれが「+」という記号を使うとき、つねに同じ足し算の規則に従っているという自明の常識が怪しくなってしまう。個別の適用例から足し算関数の一般項を導出できないならば、その適用例は実はすべて別の関数の適用例かもしれない。
規則に関する懐疑主義者はそこにつけ込んで、「おまえが昨日まで足し算だと思ってやっていたのは、足し算じゃなくてクワス算だ」と言ってくる。足し算とクワス算では、第1項が1000以上の時のふるまいが違う。「おまえは1000以下の計算しかしたことがなかったので、足し算をしていたのかクワス算をしていたのか証明できない」とか言われる。
あと、1つ置きに数を並べるという数列に対し、それまで正常に数列を書き出していた生徒が、100以上になると、突然2を足し始めたりする。
しかし、この話を何回聞いてもよくわからなかったのは、機械の話がどうなるのかということだった。たとえば、数字を1つおきに並べるとか、足し算というのは、私の PC でも理解できる程度の規則なわけだが。
↓こういうのを書くとか。
function seq(x){
if(x == 1) return x;
return seq(x-1) + 2;
}
function plus(x, y){
for(i=0; i<y; i++){
x++;
}
return x;
}
(数列や足し算の表現がこれでよいのかは知らん)
規則のパラドクスみたいなことを言い出すとその辺がどうなるのかがよくわからなかった (クリプキ的解釈の場合も、反クリプキ的解釈の場合もどっちもわからなかった)。
しかし、これについてはクリプキがうまく説明してくれていた。
「機械」といったとき、プログラムを考えるか、物理的な機械を考えるかで話が異なる。
プログラムの場合は、一般項の一意な表現ができないというのと同じになる。
クリプキ的懐疑主義者は、『おまえが書こうと意図していたのは JavaScript じゃなくて QuavaScript だ。QuavaScript の文法では、変数が1000以上のとき「++」のふるまいが違う』とか、そんな感じのことを言う。
そして物理的な機械の方は、人間と同様に規則違反を犯しうる (故障とかバグとかで)。
だから物理的な機械まで組み立てて持ってきたとしても、「それは故障かもしれない」とか言われる。
(つまり機械もまたルールに従う規範的な存在だということだ)。
要するに何が言いたかったのかというと、"QuavaScript" って言ってみたかっただけなんだが。
■ 体調
よくなったと思ったら体調がまた悪化してきた。
もう1ヶ月くらい風邪ひいてる。ひょっとして風邪じゃないのか?
あー、病院行くかー。面倒くさいなあ。
■ 今日知った言葉
メタメタフィジックス。
いい言葉だ(語感が)。
■ 水伝について
色々考えてたけどまとまらないし、たいていのことはもう誰かが言ってるからもういいやと思った。
全然関係ないことを言おう。
「科学」って名乗らなければたぶんみんな怒ったり説教したり反論したりしないと思うんだ。
「なぜかはわからんが、なんとなくゲームは脳みそに悪そうな感じがする」とか、
「特に根拠はないが、なんとなく水に良い言葉をかけるときれいな結晶ができたりするんじゃないかと思う」とか、
「こういう気がする」ということだけを語っているならば、むしろ好もしい感じの人になるのではないか。見ていてホッとするというか。
少なくとも私がそんな本を店頭で見つけたならば、ちょっと手にとってみると思う。
■ ニコニコ(RC)
カードが対応外だった...。
■ マイリスト
- じーちゃんにもってけ!セーラーふく歌わせてみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm460852
じーちゃんに歌わせてみたシリーズ。芸達者。
- 花京院の頬を染めてみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm414937
- 「典明忘れちゃレロレロよ!をキョンの妹風で歌ってみた」に画像つけた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm439831
- [ジョジョMAD]花京院注意報
http://www.nicovideo.jp/watch/sm464841
- [ジョジョMAD]ムーンライト典明伝説
http://www.nicovideo.jp/watch/sm402805
花京院人気すぎワロタ。そういえば以前、「澁澤龍彦と仲間たち」みたいな展覧会を観に行ったら、「花京院典明」と記帳してあったので、「花京院は澁澤好き」とインプットされた。
■ デイヴィドソン「概念図式」
むずかしい。軽く一読しただけなのでまだよくわかんない。
- 経験を「概念図式」によって組織化するとか、
- 実在は概念図式に相対的だとか、
- 2つの図式の間で翻訳が不可能であるとか、
そういった考えがおかしいと言われている。
なぜ図式や言語間の翻訳不可能は嘘か。自分の理解。
「翻訳可能」とか「翻訳不可能」というのは、「同じもの」に対する2つの表現の間で言われる。違うものの表現を比較して、その間の「翻訳」を云々するのはおかしい。たとえば重力に関する理論を、三位一体に関する教説に翻訳できないというのは当たり前で、その場合「翻訳」とはどういうことなのか自体よくわからない。この場合は翻訳が不可能なのではなく、単純に翻訳について語るのがヘンだ。
だから、Aという言語と、Bという言語が翻訳不可能だというのならば、それは「同じものについて語っているのだが、その両者の間で翻訳することはできない」という意味でなければならない。しかし、本当にその2つの言語が翻訳不可能だと言うのならば、「じゃあおまえはなぜそれらが同じものについて語っているとわかったのか」という話になる。
たとえば、「天使が太陽を運んでいる」という考えと、「引力のために地球が太陽のまわりを回っている」という考えの2つがあった場合はどうなるのか。少なくともこの2つの理論(?)は同じものについて述べているが、翻訳可能ではない。
この場合は単にどちらか一方(または両方)が間違っているということになるんだろう。みんな大人だから、「こっちは間違いで、正しいのはこっちだけ」とかあんまりはっきり言わないけど、両者が両立しないことを言っている以上、やっぱりどっちかは間違い。
しかし、概念の変化についてまったく語れないというのもちょっとヘンな感じはする。
昔は「家」というのは「家名」のことで、血筋はどうでもよかった(養子が当たり前)。しかし、今は「家」といったら血筋のことだよね、みたいな話はあってもおかしくないように思える。
この場合2つの「家」がまったく別物というわけでもない。昔の人だって、現在の家族を見れば、やっぱりそれのことを「家」と呼ぶかもしれない。また、そのどちらかが「間違っている」ということもない。家というのは営まれるものであって、何かについて主張しているわけではない。極端にいえば、皆が家だと考えているものが家だ。
うーん、「概念なしでも存在できるもの(物理的なもの)」と「概念なしには存在できないもの(社会的なもの)」の違いかな。
■ 買う本
長谷川裕一(著)
ソフトバンククリエイティブ、2007
買うよー。買うってばー。
■ 読んだ本
- 『歴史の分析哲学』
アーサー C.ダント(著), 河本英夫(訳)
国文社、1989
なぜか河本氏が訳してるダントー。
内容は、
- 過去の出来事を懐古的に記述すること (歴史記述) の文法
- および行為の記述
についての本だった。
これは、もっと社会学の文献などでバリバリに援用されて良いものではないか。
ダントー氏がどういうコンテクストの人なのかよく知らなかったのだが、論理実証主義への批判からはじまって、ライル、アンスコムなどを参照しつつ分析していくスタイルは「日常言語学派」的なものに近く思われた。
世評では、「歴史相対主義」の本だとされているような気がしたが、全然違わないか?という印象。
■ マイリストから
ニコニコ動画のマイリストがいっぱいになってしまった。アカウントのない人は申し訳ない。
- 電気の恋人 I am Programmer's Song ( MOSAIC.WAV )
http://www.nicovideo.jp/watch/1177340529
これはよい。アルバムほしいなあ。
- Klaus Nomi - Three Wishes
http://www.nicovideo.jp/watch/1176370319
識者に問いたい。
Pモデルタグがついており、実際Pモデル調なのだが、これって平沢がクラウス・ノミをパクってるの?
- Perfume - Chocolate DiscoDiscoDisco!!!
http://www.nicovideo.jp/watch/1174743128
無限ループ系。一回しか聴いてないけど、これはよかった。
- Chris Cunningham + Aphex Twin /Rubber Johnny
http://www.nicovideo.jp/watch/1177349225
恐いんだけど、コメントつきで見るとおもしろい。
- 『コンピューターおばあちゃん』 ライブバージョン
http://www.nicovideo.jp/watch/1175772101
コズミック・インヴェンション版。中学生バンド。
↓この形式で書くと、ブログツールの意味がほとんどないが、書きやすいことがわかった。
■ くじら
via zucasa
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kyoto/news/20070609ddlk26040483000c.html
後輩がニュースになっていた。アクティブに活動していてえらいなあと思った。
直接関係ないが、最近、人の話を聞いても「うらやましい」と「かわいそう」しか感想がない。
ちょっとでもポジティブな話を聞くと、「いいなー、うらやましいなー」と言ってしまう。ちょっとでもネガティブな話を聞くと「かわいそー」と言ってしまう。「かわいそー」と言うとたいてい相手が怒るので、それがおもしろくて言っている節もある。
■ 買った本
竹内外史(著)
講談社ブルーバックス(講談社)、2001
どうして集合を学ぶのかと聞かれたら、「数学はひさしぶりなので、まず基礎論からやろうと思った」と答えよう。
■ ソニックブーム
イアン・ハッキング(著), 伊藤邦武(訳)
勁草書房、1989
この本によると、哲学者デイヴィドソンが登場したとき、その衝撃のあまり「スーパーソニックブーム」になぞらえ「デイヴィドソニックブーム」と言われたらしい。
もうね、アメリカの哲学業界はいったい何を考えているのかと思いましたね。おまえらは中学生かと。
■ 対応説・整合説
ソニックブームのために上の本を確認してたら、対応説と整合説は矛盾しない (とデイヴィドソンは言った) という話が載っていた。
ソニックブーム親父の本もいずれは読まねばならないなあ。
■ 時計
目覚ましの音に慣れてしまうため、周期的に朝起きられなくなる。数ヶ月前に買った時計では起きられなくなったため、新しい時計を買ってみた。携帯電話を入れると、これで目覚ましが4つになった。
新しい時計は電波時計なので、「時刻合わせ」ボタンを押すと、電波が自動的に時計を合わせてくれる。時針が勝手に回りながら時間を合わせていくのでハイテクだと思った。
「電波が自動的に時計を合わせてくれる」。
↑これがおもしろい発言に見えてしまうのはよくない傾向だ。
■ 2ch
私が 2ch をいかに知らないかというと、VIP は「雑談系2」にあるということを昨日知ったというくらいのものである。
■ 名無し
少し前に M川に聞いた話。ポエム・詩板から、詩文学(仮)板が独立したのだった。そして詩文学(仮)板の「名無しさん」の名 (←撞着語) を決めようとしていると。
そのときは「イリュミ名無シオン」という案が詩文学(仮)板らしく高尚でよいのではないかという話になったのだが、今日見たらいまだに決まっていないらしかった。いろいろ出ていておもしろい。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/poetics/1171154926/
- 名無しと小鳥とすずと
- 無名詩集
- 名無しが名無しだった頃
- 二十億光年の名無し
- 名前なんてつけるんじゃなかった
- 名無しの時代はさむい。
- ぢっと手を見る名無しさん
- イリュミ名無シオン
- 汚れちまつた名無し
- いちめんのななし
- ぼくに名前がないということを口にすると全世界が凍るだろうという妄想によって僕は廃人であるらしい。
最後のが無理矢理でいい。
気が散って何も手につかないので、だらだらネットを見ている。こういうときは眠れない。昨日につづき、また今日も同じ感じ。早く寝よう。
■ ぽえむ
ついさっき風呂に入っていたら、ふいに、「これからはぽえむが流行る! よおし、ぽえむを書こう!」と思いついた。
(「ぽえむ」というのは現代詩や近代詩ではなくぽえむのことな)
そう思ったのだがそのすぐ後に、「いや、絶対流行んねーし」と脳内つっこみが入った。
脳内つっこみの方がたぶん正しいことを言っているのだが、思いついた瞬間の私はなぜか「流行る! 書かねばならない」と思っていたので、放っておいたらたぶん実際にぽえむを書くところまでいったと思う。
冷静になった自分とその前の自分のギャップがおもしろかったので、「こういうときは冷静な意見を無視してぽえむを書いてみるべきなのだろうか」と考えた。「このまま書いてもいいし、つっこみに従っても良いし、つっこみに従うかどうか悩んだことをブログに書いてもいいな」という諸々の可能性があったのでしばらく悩んだ。もはやこの時点でぽえむのことは半分忘れているのだが、そのまま脱線しつづけ、「どうして自分の思考はすぐメタな方向にいくのか」について考えた。
■ 増田について
はてなアノニマスダイアリーこと、増田の楽しみ方がまだ今いちわからないでいる。たまに生々しい書き込みがあっておもしろいのはわかるのだが、ちょっと自分には生々しすぎて疲れてしまったりする。
あと、書き込みを全部読もうとするのがいけないのだと思うのだが、書き込みが多いので、途中で読むのに飽きてくる。2ch のスレを全部見たり、youtube の動画を全部見るやつはいないのだから、これは読み方が下手なんだろうな。もっとザッピング的に読んでいくべきなのか。
■ ファイラーーー
私がエクスプローラー (Windows デフォルトのファイラ) で最悪だと思うところ。
タブないしウィンドウの複製に相当する機能がないこと (私は知らないのだが...ひょっとしてあるのかな)。
だってさ、フォルダ開いて作業してて、「ちょっとこのフォルダ開いたまま上の階層のフォルダ開きたいな」ってことあるじゃん。こういうとき、今開いてるフォルダを別ウィンドウに複製できたら便利じゃないか。むしろできないとすごい不便じゃないか。いちいちこのファイル開いて、別のフォルダに移動して、また戻ってってやるのは余計な手間だと思うんだ。
タブがないのはがまんできる。マウスジェスチャーも使いたいけど、それはマウ筋使えばいい。
しかし、タブ、ウィンドウの複製ができないのは我慢ならない。
http://cres.s28.xrea.com/soft/mdie.html
というわけで MDIE というファイラを使っている。ちょっとだけ重いけど、マルチタブで、マウスジェスチャも使えるので重宝している。
おすすめの設定。
「ツール > クイックオプション > フォルダの重複を許す」を設定する。
その後マウスジェスチャ「R↓↑」に「ファイル > 新規ウィンドウ > 現在のフォルダ」を割り当てる。
また、キーショートカット「Ctrl + T」(N でもいい) に「ファイル > 新規ウィンドウ > 現在のフォルダ」を割り当てる。
これでタブの複製ができるようになる。
(マウスジェスチャーを「↓↑」にするのは私が使いやすいように Opera に合わせてるだけなので、自分が慣れてるコマンドにすればよい)。
再現確認してないけど、エクスプローラーから MDIE にドロップするとファイルが壊れることがあるような気がするので、それだけは注意してほしい。
■ 最前面化
ウィンドウを「つねに最前面に表示」できるようにすると、メモや画像を見ながら作業するときに便利だよ。やってみるとわかるけど、「いちいちクリックして最前面に持ってくる」手間を省くだけで作業がかなり楽になる。
私はマウ筋というソフトを使い、マウスジェスチャで最前面化できるように設定している。
↓ほかにも最前面に表示ができるようにするソフトはいくつもあるようなので、PC で作業する機会が多い人は試してみるとよいのではないか。
google: 最前面に表示
■ ツイッター長者
「Twitter を毎日更新していたら、知らないうちに人気者になっており、みんながおれの生活について知っている」といったようなトゥルーマンショー的な話を書くとよいのではないか。
あるいはそういう人気者が現れてきてもいいのではないか。
(すでにいるかもしれない)
というか、知らない外国人がしばしば私をフレンドに入れてくるので↑こういうことを思いついたのだが、もしかしてアイコンが女性 (っていうかミーヤ) の写真だからフレンドに入れられてるのか。
■ 真理の対応説
ローティが死んだせいもあるのか、最近ふと気がつくとプラグマティズムについて考えていたりする。
(考えていることはたいていしょうもないことだけど)
今日は、「真理の対応説」って素朴に正しくないか?と思った。
「言語は実在を写像する」。なぜかときどき特に何の論証も経ずにこの種の考え方が「素朴だ」とか「正しくない」とか「ドグマだ」とされていることがあるように思ったが、これは素朴な意味ではすごく正しい説だよな。
おそらく、ここには、
- 概念なしには何も認識できない。(犬という概念なしに犬そのものを考えることはできない)
- 「犬」という語は言葉であり動物ではないので、犬ではない。
という2つの側面がある。真理の対応説を攻撃する人たちが、前者のようなことを言いたいのであれば、それはたぶん正しい。しかし後者の意味で考えるなら、対応説的な発想の方が単純に正しい。
しかし、対応説を支持する人の中に、前者を否定する人っているのかな。前者を否定する人がいるのなら「真理の対応説」対「プラグマティスト(構築主義?)」みたいな対立が成り立つけど、本当にそんな人がいるのだろうか。
「概念なしには何も認識できない」と「言語は実在を写像する」というのは、特に矛盾する見解でも何でもない。たとえば『論考』のウィトゲンシュタインはこれに相当する見解を2つとも主張している。
...しかし、この話はこういう水準で考えても、どうにもつかみどころのない話になっちゃうな。
もう少し具体的な水準で考えられる機会を待つことにしよう。
今日は眠れない感じなのでいろいろ書いてみる。
■なぜか finalvent の人のブログを過去ログにさかのぼって読んでいた。ウィトゲンシュタインの感覚日記の話が書いてあって、「感覚A」「感覚A」と言ってたので「Eだろ」とつっこみたくなった。しかしつっこんでもしょうがないのでいいや。いやいや、われわれはアルファブロガーのブログとかみると、「アルファブロガーって何でもよく知ってるんだナー」と頭から信じそうになってしまうじゃないか (おれだけか)。しかし、もちろんそんなわけないのでいいかげんなこともよく書いてるし、そうじゃないとやっていけないと思うのだが、読者は間違いを見つけると鬼の首を取ったかのごとく指摘したくなる。それでアルファブロガーの人もいろいろと大変だなと思った次第。様相論理についても間違ったことを書いていたように思ったが、これは指摘するとまた自分が間違ってそうで恐いからいいや。
いや、「A か E か」というレベルじゃなくて、そもそも感覚日記の議論の要点を外したようなことを書いていたように思ったのだが、そもそも私が感覚日記の議論の要点をよくわかってないので、あんまり何も言わんとこ。
■構造主義はどこで間違えたか。
これは一言で言える。「行為者のレリバンスを無視した」から。もっと砕いて言うと「構造を評価する基準が無かった」から。たとえば「~のような構造が」とか「~のようなルールが」と誰かが言い出したとき、「その構造・そのルールが本当に使用されているのか」を評価する基準がなければ研究にも何にもならないから。
自分なりの言い方で言う。「構造」とか「ルール」みたいな話をするときに、一個の基準になりうるのは、そのルールが破られたとき、ルールに従ってる人々にとって「破られたことがわかるか」ということだと思う。会話の格率だとか、ターン取得の規則はこれを満たしているのでよい。認知系に入り込んだ人たちだとまた別の基準があるんだと思うけど、私が知ってるのはそのくらい。
基本的にそれだけの話であり、「どうやって研究を評価するか」というテクニカルで世俗的な部分で議論はつきている。「構造がー」とか「力がー」とか「差異がー」とか思想的な話を読み込むべきところではない。
■時々無性にポモの人とか、人文系のイヤな部分を書き立てたくなるが自重している。
遠回しに書こうっと。カルスタの人は、むしろ正しい。馬鹿にされてることあるけど、非政治的なポモの人とか、運動しないでいまだにポスト構造主義言ってる人とかよりはだいぶまし。「構造主義」がどうしたとか「ポスト構造主義」がどうしたとかいう話は、むしろ政治的な文脈でしか救えないだろうと思う。これについて finalvent の人が「構造=ソ連」って言ってて、そういう理解はそれはそれで正当なのではないかと思った。
■買った
それで思い出した。マーケットプレースで安かったので買った。
ソール・A.クリプキ(著), 黒崎宏(訳)
産業図書、1983
↓こっちも読まなきゃだけど、後で図書館ででも読もうっと。
■フロギストンはマイナスの質料を持つ。
「フロギストンはマイナスの質料を持つ」って誰かが言い出したとき、「じゃあフロギストンって概念は使うのを止めよう」と言い出す勇気が必要。デイヴィッドソンが「言語なんて存在しない」と言ったとき、(広義の)「言語」というカテゴリーは捨てるべきだった。クリプキが「ルールなんて存在しない」と言ったとき、「ルール」という概念も捨てるべきだったかもしれない。じゃあ何が残るかっていうのはわからないけれど。
■形式的なものが好きだ。
好きでたまらない。人によってはああいうものがとても無味乾燥に見えたりするのかと思う。自分にとっては形式的なものが無味乾燥に見えたことがほとんどない。うっかり文系になってしまったので入学以後勉強しなかったけど、基本的に数学好きなんだよね。
昔ある人と話してて「哲学も数学みたいなもんだなと思って興味がなくなってしまった」みたいなことを言われたことがある。たぶんその人は「形式的で無味乾燥としている (実存的じゃない)」みたいなことが言いたかったのだと思う。私はそういう感覚がよくわからなかったので、これはちょっとびっくりした。哲学も文学もある意味では数学みたいなもんだし、そうじゃなかったらつまらないと思うんだけど。
■何かを書くと必ずあとで後悔する。
基本的に自分の書くことがいつも恥ずかしくてしょうがない。なんつうかこうものすごい「恥の感覚」があるのだが、人が恥じているのを見ると、「そんなに恥ずかしくないのに」と思う。きっと自分のことも第三者として見れば、そう言うと思うのだが、やぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。「生まれてごめんなさい」みたいな感覚がたまーにおそってくる。ときどき衝動的にブログとかサイトとか丸ごと消したくなる。数年のうちにはきっと耐えられなくなって消すと思う (一度消してるし)。ブログをずっとつづけている人はそういうの無いのかな。あっても克服しているのだろうか。それはすごいなといつも思う。
いや、もっと恥をかいて、とことん恥をかいてずうずうしくなるべきなのか。ときどきそういうことも考える。
吹っ切れることもあるけど、しばらくすると冷静になるので、やっぱり自己嫌悪してあまり長続きしない。
スタイルが未完成なことが問題なのかもしれない。1から2年くらいで考え方が変わってしまうことがある。そういうとき「考え方が変わった。これこれと言ってたのは間違いだった」みたいなことを説明するのもめんどうくさい。「昔書いたこと」と「自分が今思ってること」の落差が広がっていくと、昔書いたものが公開されていることに嫌気がさしてくる。
でもだからと言ってそれを消すのもヘンな話ではある。人に対してだったらそういうと思う。しかし堂々と残しておくのもそれはそれで難しい。年を取れば堂々とできるのか。できるかもしれない。
■最近トゥイッターやってる。トゥイッターは無責任なので今のところすごい書くのが楽。読んでる人も少ないし。
基本的に私はものすごくあがり症だ。多くの人 (数十人以上) が読んでるとか見てるとか思うとやたらに緊張してしまう。早くあがり症だけは克服したい。たまに暴走と悪のりの力でヘンなことができることもあるが、長続きしない。
■就職
私は積極的に「就職したい」と思っており、研究者には積極的に「なりたくない」と思っている。ある種の院生の人と話していると、もしかしてその辺が理解されていないのではないかと思うことがある。彼・彼女らのなかでは働くのは「イヤなこと」であり、皆が皆「研究者になりたい」と思っているのではないかと、(思いたくないけど) 思ってしまうことがある。
アレはいったい何なのだろう。働くのは研究よりもよっぽど楽で楽しいことだと思うけどな。
■プラグマティズム
思うに、プラグマティックであるとは、「高尚で深遠で形而上学的な問題を、世俗的で経験的な問題の中に解消したい・解消する」という志向を持つこと。「他者の根源的な理解不可能性」に悩む人に対し、「モテる方法」「頭が良いと思われるための話し方」という本を手渡すこと。
ところで、世の中には、アンチ・プラグマティスト、すなわち「世俗的で経験的な問題の中に、高尚で深遠で形而上学的な問題を見つけようとする人」がいる。この人たちは、「喋るのが下手で悩んでる」という人に対し、「他者の根源的な理解不可能性」みたいなことを吹き込もうとする。皮肉なことに、後者はたまにプラグマティストのことを仲間だと思い込んでしまうが、プラグマティストからすれば、こいつらこそ敵に他ならない。
しかし、両者がよく似ているのも確かだと思われる。多くのプラグマティストは、一度はアンチ・プラグマティストの道をもたどりかけ、転向の結果プラグマティストになるのではないかと思う。プラグマティストとアンチ・プラグマティストの区別に敏感なのは、プラグマティストだけであり、そもそもどちらにも関心がない大多数の人々にはあまり両者の区別がつかない。
そしてプラグマティストもアンチ・プラグマティストも基本的に負け続けている。
ちなみに私はどちらかというとプラグマティストなので注意してください。
「おもしろいこと」は「正しいこと」ではない。そして「正しい」は相対的ではない。
私はかなり大きくなるまで、「おもしろい」ことと「正しい」ことが別であることに気がつかなかった。しかし今は別だと思っている。ちなみに、ここで「正しい」というのは「真である」と「倫理的に正しい」と両方含めて考えている。
「おもしろい」と「正しい」が別であるというのは、「おもしろくない意見の方が正しいこともある」ということだ。
このことはある種の人には当たり前すぎて、それがわからない人もいるということすら想像の外にあるかもしれない。しかし、かなり最近 (いつなのかもうわからないけど) になるまで、私にはこの単純な事実がよく飲み込めなかった。いまだに飲み込めていない人は私以外にもたくさんいるだろうと思う。私はそういう人に、自分が知ったことを何とかうまく説明したいと思うことがある。
もっと直接に言ってみる。「何が正しいかどうか一概には言えない」とか、「その人が本当は何が望んでいるのか他人にはわからない」とか、「幸せなんて人それぞれである」とか、「真理なんて相対的なものでしかない」というのはぜんぶ嘘だ。いや、これらの発言が適切であるような場面は確かにそれぞれあるのだけど、一般的なテーゼとして考えるなら、これはぜんぶ嘘だ。つまり、「何が正しいのか一概に言える」し、「人が何を望んでいるかは他人にわかる」し、「幸せは人それぞれではない」し、「真理は絶対的」だ。
具体的に言うと、「教師になることが万人にとって幸せである」と思ってる人に対しては、「幸せは人それぞれ」って言ってやった方がいい。この場合この発言は適切だし、私だってそうすると思う。しかし、文字通りにそれが真理だと思うのは大間違いだ。100人いれば100通りの幸せがあるというのは嘘だ。本当は、100人につき17通りくらいしか幸せはない (数字はメチャクチャ適当)。
初対面の人に「1日に車に3回ひかれた」という話をする。「不幸ですね」と言われると思う。このとき「何が幸せであるかは人それぞれで一概には言えない。だから確かめさせてほしいのだが、そのことはあなたにとって不幸だったか」と言ってくる人がいたとすれば、私はその人のことをヘンな人だなと思う。ヘンだと思うだけではなく、腹も立つと思う。
しかし、「何の傷も負わなかったし、保険金をたくさんもらった」という説明をそこに付け加えれば、相手は「ラッキーでしたね」という風に意見を変えるだろう。だからといってこれは「幸せは人それぞれ」を意味しない。むしろ、幸せが人それぞれじゃないから意見が変わったのだ。「何の傷も負わずに金をもらう」ということが「ふつう誰でも幸せだと思うこと」だから、意見が変わったのだ。
あるいはそこに「私は実は車にひかれることにとてつもないエクスタシーを覚えるのだ」という話を付け加える。私の話に説得力があれば、相手の意見は変わるかもしれない。だからといってこれは「幸せが人それぞれ」を意味しない。むしろ幸せが人それぞれじゃないという事例だ。「とてつもないエクスタシーを覚える」ということが「ふつう幸せだと思うこと」に含まれているからこそ意見が変わったのだ。
こういう言い方をすればいいか。「幸せ」という語を定義するとき、世界に起こったすべての出来事のなかから「幸せ」と言えるような出来事をすべてリストアップしていくことにする。これを幸せの外延的定義と呼ぶ。幸せの外延的定義のなかにどんな出来事がリストアップされるかということはたぶん人によって異なる。その人のパーソナリティにも依存するし、その人の人生にも、その人の遺伝子にも依存するだろうと思う。
しかし、それとは別に「幸せ」という語の内包的・公共的な定義がある。たとえば辞書でこの語をひくと、ひいたことないけどたぶん、うんぬんかんぬんといった定義が載っている。辞書に載ってることが、本当に適切かどうかは知らないし、不十分かもしれないけど、「幸せ」という語には定義がある。そして人は公共的定義に逆らって語を使うことはできない。人は「幸せ」という語がもともと持っている論理に従いつつ、「幸せ」という語を使う。上の外延的定義の例だって、先にこの「幸せ」の定義があるからこそ、幸せと呼ばれうるような出来事をリストアップしていくことができる。語の公共的論理は語の外延的定義に先立っている。
あと、「ここでは『幸せ』という語を『パンダ』という意味で使う」といったような約束事を定めることはもちろんできる。しかしそのとき人は「あの人は『幸せ』という語で、幸せのことを意味していないのだ」と言う。1000年前の日本では、「幸せ」は「不幸」を意味したということもありうる。しかしそのとき人は、「この時代『幸せ』には幸せという意味は存在しなかった」と言う。
誰かと親しくなれば親しくなるほど、「その人が何を幸せの外延的定義に含めるか」がわかってくる。たとえば「会社クビになったけど、あいつなら喜んでそう」みたいなことがわかるようになる。このことは「幸せが人それぞれ」であることを意味しない。「幸せ」という語が持っている論理はその間ずっと変わっていない。このクビになった話が第三者に伝わったとして、その人は「不幸だ」と思うかもしれない。そこで私は、「いや、あいつはこういうやつなので、むしろ喜んでいるのではないか」と説明する。説明は伝わることもあるだろう。「そういう事情なら喜んで当然ですね」と相手は言う。
しかし、どこかに一線がある。判断が難しいケースももちろんある。しかし判断の難しいケースがあるということは、「判断が不可能である」ことを含意しない。昼と夜の境界は曖昧だが、昼と夜の区別は存在するし、真っ昼間や真夜中も存在する。
「あなたはそう言うかもしれないが、個別の事情など関係なく、それは不幸なのだ」と言えるような事例もある。たとえば「こいつは殴られることが好きなのだ」と言って相手を殴ることが微笑ましい事柄として通用するような、ローカルな人間関係もあるかもしれない。そして「ふつうは通用しないこと」が通用するような人間関係を人は「濃い」「気持ちいい」と感じることがあるし、その中にいることが「おもしろい」ということは、少なくとも私にはよくわかる。
にもかかわらず、限界は存在する。限界を超えた場合、ローカルな理解のルールはもう通用しない。人はそのときには裁きを受けなければならない。
あと、全然関係ないけど (更新がめんどいから一度に書くけど)、↓これがおもしろかったので「もっと言え」と思った。
Tono(著)
朝日ソノラマ、2000
Tono(著)
朝日ソノラマ、2001
Tono(著)
朝日ソノラマ、2002
Tono(著)
朝日ソノラマ、2003
Tono(著)
朝日ソノラマ、2005
Tono(著)
朝日ソノラマ、2006
朝日ソノラマ、2007
ひさしぶりに琴線に触れるマンガを読んだ。これは本当に素晴らしかった。最終巻 (8巻) が待ち遠しい。
■ あらすじ
「呪い師か占い師かお祓い師か何か」の家に生まれたチキタは、物心つく前に人食いの化け物ラー・ラム・デラルに家族全員を食われてしまうが、「とてもまずい」という理由で自分だけが生き残る。まずい人間は100年育てるととても美味になるという伝説を信じたラー・ラム・デラルはチキタを育てることにし、2人の共同生活がはじまる。
その後いろんなキャラクターが出てきて、2人と仲良くなったり、人を殺したり、化け物を殺したり、自分が死んだり、思い出になったりする。
■ 説明
雰囲気がとても好きなのだが、それを説明するのがむずかしい。というか、私がこの雰囲気を好むだろうことは、表紙を見た瞬間にわかったので、概してこれが好きな人は表紙を見ればわかるのかもしれない (そんなことはないか)。
妙にのほほんとした化け物と、何が起こってもあまり動じない人間の交流の描き方が坂田靖子に似ている。絵柄もちょっとは似ている。チキタとラー・ラム・デラルの関係は、『百鬼夜行抄』の律と青嵐の関係に似ている。
お話は、人を食って生きるものと人の論理の交錯が主軸になっている。人食いは何百年も生きていて、すごい力を持っていて、人を食って生きる。しかし、話を聞けば、人食い側の事情も人にはわかってしまう。わかってしまうから同情できてしまうのだが、それでも人を殺して食うといういうことをどうしても認められなかったりして、「うーんうーん」といういった感じで話が進んでいく。それだけ書くとまるで『寄生獣』のようだが、やっぱり『寄生獣』でもない。だって『寄生獣』は少女マンガじゃないし。
「少女マンガ」という言い方で何も伝えられないことに無力を感じる。「少女マンガ」は少女の恋愛を描いたマンガではない。私が知っている恋愛マンガではない少女マンガのもうひとつの軸のことをなんと言えばよいのかわからない。
Wikipedia に頼ってみる。Wikipedia によれば、坂田靖子らの世代は「ポスト24年組」と呼ばれるらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/24%E5%B9%B4%E7%B5%84
「24年組→ポスト24年組」と受け継がれていったような「少女マンガにとって大切だった何か」のようなものがあるとして。ここにはそれがあり、私は「少女マンガ」という言い方になるべくならそれをこめたいと思っている。しかし「70~80年代の少女マンガ (のごく一部) が持っていた何か」を「少女マンガ」という語で暗示することには無理がある (ある世代のごく一部の人はそういうニュアンスを「少女マンガ」という語にこめていると思うけど、やっぱり無理があると思う)。たとえば、今少女マンガのコーナーに置かれている多くのマンガの中にそれがあるのかというと、きっと無いのだろうし、無いものは無いで別に悪いことではないのだから、何か別の言い方をすべきなのだろう。しかし、今のところ何も思いつかないので、その問題は置いておく。今後考えていきたい問題である。
とにかく言いたいことは次のようなことだった。
これより素晴らしいマンガ、新しいマンガはきっとある。しかし、私はこれからもずっとこのマンガのような「怪奇幻想系の、ちょっとトウのたった少女マンガ」を愛好しつづけるのだろうと思った。
ところで、本屋に置いてあるのを見たことがないので、実物を見たことがないのだが、TONO、ますむらひろし、高橋葉介、今市子、諸星大二郎などが連載しているらしい「ネムキ」というのは素晴らしい雑誌だな。私はこの雑誌をきちんと読んだり、定期購読したりすべきではないか。


















