ウィトゲンシュタインの言語論―クリプキに抗して

コリン・マッギン(著), 植木哲也(訳), 野矢茂樹(訳), 塚原典央(訳)

勁草書房、1990


いつか何かに使えそうなところをメモしておく。

「創造テーゼ」と筆者が呼ぶものについて。

(適宜改行)

この提案によれば、ここでウィトゲンシュタインは「意味は使用によって創り出される」という考えに関わっている。つまり、ある言葉の意味は時を経るにつれ漸次構成され、創り出されていくのであり、確定した意味とは時間的な広がりを持つ使用の最終結果なのである*。


* これって実存主義に似てるよね。(という趣旨の脚注)


この提案に従うと、意味が使用を生み出す(使用の源泉である)のではなく、

むしろ使用が意味を生み出す(意味の源泉である)ことになる。


それゆえ、ウィトゲンシュタインが、それぞれの段階で新たな決断が必要とされると言う時、

この解釈では、使用のそれぞれの機会はそれに先立つ意味によっては不確定であり、

実際には意味を構成するものの一局面にすぎない、

と提案していることになる。


したがって言葉の意味は、使用の総計が考慮に入れられないうちは、ある意味で未確定なのである。

この幾分か曖昧で性急な主張を、創造テーゼと名づけることにしよう。

p188-189


創造テーゼはなぜおかしいか。

創造テーゼを支持することは、

所与の時点で私が何を意味しているかが

(1)(時間的広がりを持つ)私の残りの使用を考慮しないうちは確定されず(確定的ではなく)、

(2)したがっていま私が意味することは当の言葉のその後の使用に規範的な影響を及ぼしえない、

ということを支持することである。


(...)

今後も私の言葉の使用が適切であるとするなら、

それは現在私が意味していることに一致するか忠実である必要がある、

という常識的な考えを、創造テーゼは許容しないのである。

p189-p191

(後期ルーマンの) オートポイエーシスという概念は、時々この創造テーゼのようなものと解されている。ということは、オートポイエーシス的な主張をなす人は、創造テーゼに対する批判に答えなければならない可能性がある。


可能性は3つある。

(1)創造テーゼとオートポイエーシスは違う。

(2)創造テーゼとオートポイエーシスは同じである。そしてこの批判は間違っており、創造テーゼが正しい。

(3)創造テーゼとオートポイエーシスは同じである。そしてこの批判が正しいので、創造テーゼおよびオートポイエーシスは捨てなければならない。


私は(1)をとるべきだと思う。(3)でもいいけど。その場合であっても、マッギンが意味の還元不可能性と呼んでるような仮定は維持されなければならない(これを認めないならば、今度はクリプキの懐疑主義者と対決しなければならない)。


クリプキ説の擁護

次の2点を認めれば、クリプキ説をマッギンの批判から守れる。

(1)「共同体」を慣習の分布・再生産に関する概念として理解する。

(2)共同体の構成員は1人でもよい。


たとえばエスカレーターに乗るとき、右側に立つ派の人と左側に立つ派の人がおり、どちらに立つべきかが異なった風に分布している。

(Wikipedia によれば、「関東、福岡及び北海道及び岡山では乗り込む際に左側に立ち右側を空け、関西及び仙台では右側に立ち左空け」らしい)

このようなルール・慣習を共有する人たちの集合を「共同体」と呼ぶ。いうまでもなく、ここでいう共同体は、特定のルールに依存した形で定まる。エスカレーターに関する共同体は、言語に関する共同体、算術に関する共同体などとは異なった風に分布している。

共同体の構成員は1人でもよい。ルールの適用は公共的にチェック可能でなければならない(原理的にチェック不可能なものはルールではない)。しかし、話者が1人しか現存しない言語があってもおかしくはないように、従う人が1人しか現存しない慣習があったとしてもおかしくはない。


↓規則の適用に関し、共同体との一致は必要でないとマッギンは言った。

それゆえ私には、「彼は足し算の規則が呑み込めたと自分では思っているが、実はまだ分かっていない」といった文を主張するわれわれの実践に対するもっともよい記述は、個人的なものであると思われる。

われわれがこの文を主張するのは、

(i)彼が足し算の規則を習得したと言い、

しかし(ii)「n + m = ?」という形の問いに答えよと言われたときに、一般にその一対の数の和を与えることができないということが示される場合――すなわち彼はほとんどの場面でその和を与え損ね、しかも足し算の習得を発揮するのに何か障害があると想定すべき特別な理由がない場合――である。

それゆえ、他人によって為された規則の自己帰属を訂正する言語ゲームは、クリプキの主張に反して、共同体を主張可能性条件に取り込むことなく、適切に記述することができる。

p258-259、強調引用者

最後のクリプキ批判は端的に間違っているのではないかと思う。

マッギンがここで「足し算」と呼んでいるものは、「十進法の足し算」のことだろう。

しかし、歴史的には、十進法以外を用いる共同体も存在したのだから、足し算能力の判定をする前に計算者が何進法で数を数えるのかを知らなければならない。

要するにマッギンは、計算者が (クワス算にも十二進法にも従わないような) 現在のアメリカ人や日本人であると勝手に仮定しているのだろう。

しかし、その際すでに「どの共同体に属する人か」は前提されているし、共同体は依然として主張可能性条件に含まれている。


ここで共同体と呼んでいるものを「歴史」と呼び変えてもよい。マッギンが多くの場所で人間の自然本性と呼んでいるものも、一生物種に関する歴史の産物である。

したがって、「歴史なくしてルールなし」というミニマムな立場を採用することで、マッギンの自然主義とクリプキの共同体説を矛盾なく両立させられるのではないか。

もはやクリプキとは全然別の説になっているという話もあるが、グッドマン的な「概念の擁護」とクリプキの共同体を重ね合わせて読むならば、こういう解釈を選んでもおかしくないと思う。

コメント(4)

# snowboard77

It is one of things I can never understand ... how people can think that way. It's so illogical that it can only be based upon moronity.

(2008/04/ 7 4:19)
# DaveG

Seems different from your previous posts. Did YOU write this post, or someone else did? Anyway, I think your readers really enjoyed reading it.

(2008/04/ 9 19:45)
# Jjgcgmlx

MrAyLI

(2009/07/14 7:59)
# Jjgcgmlx

MrAyLI

(2009/07/14 7:59)

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