「僕の考えではドラえもんの存在を信じていて、ドラえもんに何とかしてほしいと思いました」


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こやの先生がネットで知り合った女性と再婚した (と世間ではもっぱらの噂)。


懐疑主義のどこがおかしいか

懐疑主義は複数あるので、懐疑主義一般と戦うことは不可能なわけだが、以下のロジックは結構汎用的に使える。

以下のような議論が「錯覚論法」と呼ばれ、懐疑主義の常套手段とされる。

(1)なにかものを認識したと思っても、後から間違っていたとわかることがある。

(2)ということは、すべての認識は、われわれが気がついてないだけで間違いかもしれない。間違いでないと確証する方法はない。

(3)従って認識は不可能である。


途中を省くと、

・認識は間違いうる

・従って認識は不可能である


問題は一回目の「認識」と二回目の「認識」の使い方が違うこと。

一回目の「認識」は、この語のふつうの使い方だが、二回目は変な使い方である。

「認識する」という語には「間違いの可能性がない」などという意味はない。「Aと認識した。しかし間違いだった」と言うことには何の矛盾もない。

この場合、「認識は不可能である」というのは「間違いの可能性が絶対にないほど確証された不可謬な認識は不可能である」ということである。そのように解するならば、これはもちろん正しい。

しかしその場合、ふつうの意味での認識は可能である。少なくともそれが不可能であると示されたわけではない。

一般的にいうならば、この手の懐疑主義的議論のおかしさは、「失敗の可能性」からいきなり「成功の不可能性」に飛ぶところにある。これは飛躍であり、単純に間違っている。


教育に対する提言

懐疑主義的な主張の方が前提の少ない立場であり、論理的に強い立場であるという風潮が世間にある気がした。

しかしこれはおかしい。むしろ多くの懐疑主義は、単に論理的に間違った主張をしていると思う。


これはおそらく、懐疑主義の攻めばかりが問題にされ、懐疑主義の守りが問題にされないからだろう。

しかし、懐疑主義者を守りにたたせ、その問題ある前提を突くようなロジックはいくつか存在する(私も多くは知らないが、たとえば「世界五分前誕生仮説殺し」などは見たことがある)。そういった懐疑主義殺しの方法を学校で教えると良いのではないか。

コメント(1)

# Ozrmsnzn

mia0uQ

(2009/07/14 14:49)

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