2007年7月
■ 日常
コメントなどを聞いたりしているうちに考えたことを書く (言われたことと直接には関係ない)。
自分でもあまり明確に考えられてはいなかったが、わたしがわたしの論文でやりたいことの1つは、日常的なカテゴリーの擁護だと思った。
「日常的なカテゴリー」というのは、なんでもよいのだけど、たとえば、SFとかミステリといった小説のジャンルがそうだ。
これらは科学的なカテゴリーではない。科学的なカテゴリーじゃないから、一見曖昧に見えるし、ぐにゃぐにゃしているけれど、だからと言って日常生活で使えなくて困るというわけじゃない。それが曖昧で使いようのないものに見えるのは、その本来の用法を忘れて、科学的なカテゴリーの仲間に入れようとするからだ。
「その辺りに立ってなさい」と言うことは曖昧なのか?と、ウィトゲンシュタインは言った。
科学の言葉と比較すれば、それは曖昧に見える(「その辺りってどこだよ」「『立つ』を明確に定義できるものならやってみろ」と)。しかし、そもそも異なる種類の道具を比較して、その優劣を言おうとすることがおかしいのであって、本来の文脈にあるときその言葉に曖昧さがあるわけではない。
たとえば、文学にかかわる研究者は、しばしばジャンルをうまく扱えず、「ジャンル」をなんだか胡散臭い対象だと見なしてしまう。それは、こういう人たちが、対象を学問の言葉のなかに落しこもうとするからだと思う。別の言葉で言えば、研究者は、ふつうの読者がふつうのこととして普段行なっていることを、学問的な仕事として実践せねばならない立場にあるからだ。
しかし、人が日常的に小説を読んだり小説の話をしたりするとき、「ジャンル」というものが手におえないほど曖昧であるわけではない。少なくとも、ふつうの人はそんなことで困ったりはしない。
(その際、質の悪い研究者は、日常的カテゴリーをうまく扱えないという自らの欠陥に気づかないばかりではなく、「ジャンルにとらわれないことがおれのジャスティス!」と、自分を正当化しようとする)。
だから、「ひとが普段やってること」を扱うならば、日常的なカテゴリーを厳密なカテゴリーと置きかえるのではなく、そもそも「どうやって日常的なカテゴリーを使っているか」を調べたり、分析したりすべきだよ。物理学者や生物学者はたぶんそういうことはやらなくていいけど、少なくとも社会学者はそういうことをすべきだよ、と。
...あれ? 新しい考えに思いいたったはずだったのだが、改めて書いてみると、以前考えていたこととほとんど変わらないので驚愕。
卒論のときに読んでいた『相互行為分析という視点』と言ってることが変わらんじゃないか。
■ モダニズムと反モダニズムで理解する大ざっぱな20世紀史
↑のようなことをぼんやり考えながら、「日常性」って何だろうなーと思っていた。
飯田隆氏だった思うが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のことを、「モダニズムの傑作」と評した人がいた。これは言われてみると、「おお、なるほど」という感じである。
論理実証主義なんて、見ようによってはモダニズムの極みみたいなもんだ。
ここで「モダニズム」というのは、すごく大まかに言えば、「今あるもの (日常的なもの) をぶっ壊して、新しいものを一からつくっていこう」という思想のことだと思われる。
19世紀の終わりくらいから20世紀の半ばくらいまでの間、芸術でも政治でも哲学でも、とにかく様々な領域で、こうした発想が一大ムーブメントを形成した。
「実験」とか「前衛」とか「改良」とか「革命」などといった発想はすべて、大まかにこのモダニズムの運動の波のなかにあるものだと思う (というか、そういう発想のことを広い意味でのモダニズムと呼ぶんだ。ただしこれだとモダニズムを広義に解釈しすぎだから、「改良主義」って言った方がいいかもわからんけど)。
たとえば、前衛美術というのは、20世紀初頭の未来派あたりからはじまると言われる。前衛美術の人たちは、自分たちの作品のことを「実験」と呼んだ。
現在でもそのなごりで「実験的な作品」だとか「前衛的な作品」なんて言葉を使うけれど、今ある言葉だけの「実験」とは違って、当初これは本当の意味での実験だった。彼らは、芸術に対する感性を改造することで、今ある日常や社会を全部ぶち壊して改良しようとしたのだから。
(たとえばバウハウスなんかは、田舎に変な建築の変な学校をつくって神秘主義と合理主義と共産主義が入りまじったわけのわからん教育をして、地元の人にいやがられていた。今からみるとほとんどサティアンと変わらん。訓練によって超人になろうという発想は似たようなもんだし)。
前衛美術家の「実験」、アナーキストがコミュニティで共同生活をする「実験」、そしてマルキシストが労働者の国家をつくろうとする「実験」などがあり (ファシズム運動だって革命であり改良主義的な実験だったわけだし)。前衛的な政治運動があったからこそ、前衛的な芸術があったのだし、逆もまた真なりだと思うよ。
一方ちょっと方向こそ違うけれど、論理実証主義の運動だって、「これまでの哲学なんてすべて捨て、曖昧な日常の言語も捨て、述語論理と命題論理の言葉だけを喋る哲学超人になろう」というモダニズムっぽい運動だったわけで。
ところが、第二次大戦あたりを境に、こういう発想自体がマイナーになってしまう。
今だって、前衛や実験を自称する人はいるけれど、「社会を (そして日常生活を) すべて一から組み立て直そう」などといった発想がメジャーになることはない。政治運動と芸術家と神秘主義者は互いに疎遠になり、カルトはただのカルトのままで終わるようになる。
(なぜそうなったのかということは知らんよ。たぶんいろんな原因があったんじゃないか)
ウィトゲンシュタインもまたあっさりと考え方を変え、日常的なものを擁護する側に回る (ただしこの人の場合、元々否定したかったのかどうかもよくわからないのだが)。俗に、分析哲学の世界において、論理実証主義から転回した人々のことを「日常言語学派」と呼ぶ (正確には、オックスフォード大学にサロンを形成していたオースティンやギルバート・ライルやストローソンなどの人々を指す語だが、この派の人々に影響を与えた後期ウィトゲンシュタインらを含めて「似たようなもん」と考えることもある)。
これに対し、なんで「日常」言語よ (本当にそんなものあるのかいな) みたいな批判が時々なされるけど、なぜ「日常」かといえば、それ以前に「理想」言語学派があったからだよなーなどと思う。先行するモダニズム的・改良主義的運動があり、しかもそれがいきづまっていたからこそ、「改良はいいから改めて日常を問おうぜ」という提言が説得力を持ったのだろう。また先行する実証主義の流れのなかで言語に関する議論が蓄積されていたからこそ、日常の語彙をあらためてフォーマルな仕方で問うことが可能になっていた*1。
だからどうと言うわけでもないのだが、すごく大きな (そして大ざっぱな) 歴史的コンテクストに置いてみれば、わたしなどの考えていることも、そういうところにおさまるのかなあなどと考えていた。
しかし「改めて日常を問う」って何なんだろうな、本当に。(げに、うつし世はゆめといったところですよ)。
■ 全然関係ないけど。
モダニズムと日常回帰(?)という文脈でみると、福本和夫がフクロウ博士になったのと、モダニズム作家龍胆寺雄がサボテン博士になったのってなんか関係あるのかって気がしてきた。
- *1: その辺の細かな影響関係はぜんぜん知らんのだが、そもそもウィトゲンシュタインや論理実証主義がなければチョムスキーだって生まれなかったんじゃないか。いろんな専門分野のはざまにある歴史の流れだから、どうしても見えにくくなってしまっているけれど。そういえば以前、2ch 言語学板の意味論スレを見ていたら、意味論の起源に「言語学者ラッセル」って書いてあったのがおもしろかった。きみらからはそう見えるのか!と
唐突にOperaの便利機能を紹介。
ブックマークを右クリックし、プロパティからニックネームを登録する。たとえば http://mixi.jp のニックネームを "m" にする。
しかるのちに、アドレス欄に "m" と打つとミクシに飛ぶ。
F8 を打つとアドレス欄にフォーカスがいくので、「F8 → m」と打つだけでミクシに移動できる。
この要領で、よく見るサイトを4つ5つくらい登録しておくととても便利(「はてなアンテナ」は "a"、はてなブックマークは "b"、ブックマークのお気に入りは "bf"、とか)。
最初にキーを覚えたり登録する手間はかかるが、パーソナルバー(的なもの)にリンクを置くより、キーを2つ打つ方が早いとおも。
話は変わって。↑こういうTIPS 的な内容を書くときについ「便利」って書いてしまう。しかし、実際のところ、「便利」を追求しているわけではまったくない。何か目的があって、合理的に手段を選択しようとしているわけではなく(合理的な手段を選択しないようにしているわけでもないが)、もっと甘く魅惑的な感情に誘われるように、ちょっと便利なアレやコレやを探し求めてしまう。
きっと、そんな風に動いてしまう動機は、ただ万能感を追求しているだけなのだと思う。たとえばだな。指一本動かすだけで世界が思いのままに動いたら気持ちいいと思うだろう。それと同じように、せめて PC のなかだけでも、最小の動作で行きたい場所に移動したりしたい。つまり、その昔ドラゴンボールを読んでいたときに感じていたその感情みたいな欲求が根底にあって。そんな中二的な全能感覚を感じられるその一瞬のエンドルフィンのためだけに、わたしは日々地道にブックマークを整理したり、ニックネームを登録したりしているのだ。
しかし大人になると、万能感を追いもとめてくらすのはちょっと格好わるいから。だから一応言い訳のために、「ほら、こっちの方が便利でしょ」と言いながら、ちょっと便利な TIPS に興ずる。しかし、根底に流れている動機は、「[邪鬼眼]がー」などと脳内設定つくってよろこぶ中二的なアレと同じものだと思うんだ。
あー、Firefox の便利なアドオンか邪鬼眼がほしい。
■ 買った本
買ったのはちょっと前だけど。カート・ヴォネガット追悼特集号だよ。
■ メモ
豊洲のがすてなーにに行ったよ。しかし「ガスってなに」ということについてはさっぱりわからなかったので、一応検索してみたよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%B9
ガス (Gas) (瓦斯は当て字)は気体全体のことを指す。
と書いてある。
しかしがすてなーにでガスと呼ばれていたのは、「天然ガス」「都市ガス」などのことらしかった。
この用法における「ガス」は要するに「燃料になる気体」のことだと考えてよいのだろうか。少なくとも展示はそういう風にアレンジされていたようだったが。
しかしだな、がすてなーにはこの手の疑問にたいする答えを、入り口にでも掲示しておくべきではないのか。「ガスとはこれこれのものである(あるいは、「ここではこういうガスについて紹介するよ」)」という趣旨については一言も触れず、いきなりキッチンやガス管の展示を見せられても混乱するだけだろう。
そりゃ、ちょっと遊べる展示をおいておけば、子供は一応よろこんでみせるかもしれない。しかし結局それらの展示をつなぐものが何であるのかを示されないかぎり、ガスについての理解が深まることはありえないのではないか。
思うに、あれらの展示をつなぐメインのストーリーは「人間は昔からある種の気体(ガス)を燃料として利用してきたよ。われわれの身のまわりには、ガスを利用したものがたくさんあるよ(例えばキッチンだよ)。また、そうしたガスの利用を支えているのはこういう技術だよ」ということだろう。しかし、それがはっきり示されていないので、全体として「すでにガスとは何かを知っている人間」にしかつながりを理解できない展示になっていたと思う。
もっと言うとだな。ああいう展示をよしとする運営者は子供をなめているのでないか。単に展示のつくり方がまずいのだろうと思うけど、結果として「どうせ子供は理解できないだろうから、子供だましの展示でもおいておけばいいや」という態度になっているのではないか。
あるべき姿は、「ガスとは何か」についてはよく知らないけれど、まともな思考力だけは持っている人間が(つまりまともな理解力のある子供が)、考えればきちんと理解できるような展示になっていることだろう。しかしあれらの展示はそうなっていなかったと思ったよ。
■ 時間
がすてなーにについて考えすぎた気がする。
ちょっと思ったこと。
チェスタトンは、「子供は勧善懲悪の話など好きじゃないなどと言う人がいるが、子供こそ、善と悪があるべき場所にあることを好むのだ」という趣旨のことを言っていたと思う(うろおぼえだが)。
もしも私が、子供の教育を支配する教育独裁者だったならば、子供には、できるかぎり (論理的な意味でも、倫理的な意味でも) 筋の通った世界を見せたい。
長くつ下のピッピやムーミンみたいなアナーキーな筋でもいいよ。でも、筋の通らない子供だましの世界はひとつずつつぶしていくべきだ。
■ 読んだ
フリッツ・ライバー『ビッグ・タイム』
サンリオSF文庫(株式会社サンリオ)、1978
『魔の都の二剣士 <ファファード&グレイ・マウザー1>』シリーズの人。なんかむずかしくてなー。よくわからなかった。ラストはおもしろげだったんだけど、人の名前はおぼえられないし、何がおこってるのかよくわからないしで、よくない読書体験だった。
可能性(1): わたしが読み飛ばしたのが悪い
可能性(2): 翻訳が悪い
可能性(3): 作者が悪い
たぶん、答えは「ぜんぶ」なんだけど、割合はどうかな。
■ 本企画について
http://www.at-akada.org/blog/2007/07/post_227.html
■ 読み物
この話が好きな人は。傷が好きな人なので。感情移入ゆえに、最後の展開をちょっと複雑な思いでみる。(←予言)
■ なぜ
戸根勤(著), 日経NETWORK(監修)
日経BP社、2007
ちょっと危機感を感じてノートとりながら読んだ。二章途中まで。
わかったこと。OSのなかにいるプロトコロル・スタックという小人みたいな生き物(TCP担当とIP担当の2人組。アメリカの子供が悪さをしたときにかぶせられるまぬけ帽子のような三角帽をかぶっているイメージ)が、ソケット(魔方陣みたいな感じ?)をあやつってコネクションをはる。するとデータを送受信できるので(゚д゚)ウマー
■ φ(`д´)メモメモ...
香西豊子(著)
勁草書房、2007
■ ニンジャー
http://www.nicovideo.jp/watch/sm488943
M川さんに聞いた。エンドルフィンの出る忍者動画。2:00~あたりの分身の術がやばい。
■ SKK
少し前に SKK を入れた。
IME、ATOK その他の変換システムとは違い、すべてがコントロール化にある感じ。特に漢字かなの配分に関しては、すべて自分で意識的に変換しなければならないので頭を使う。
感覚としては、手書きに近い。考えながら文章を書くぶんにはよいかもしれない。
しかし一日中使っていたら左シフトの使いすぎで小指がつりそうになった。しかたないので、猫まねきを入れ、キーボードに改革を起こす。よく考えるとまったく合理的でないキー配列がたくさんあるので変革にはよい機会であった。
ほとんど使ったことのない「無変換」キー、「変換」キー、「カタカナひらがな」キー、「Caps Lock」を二級市民と位置づけて隔離し、高等民族である「シフト」、「エンター」、「バックスペース」、「Ctrl」などの生存圏を確保した。今やわたしのキーボードは優生思想の拠点となった!
Shift とまちがえて Caps Lock を押して泣いたあの日々はもはや過去のものとなったのである。
(以上を書いたおかげで、SKK に「二級市民」「優生思想」「生存圏」などの物騒な単語をおぼえさせることに成功)
■ いつか
いつか思いっきり暇になったら軍事の勉強がしたい。全然勉強したことないけど、なぜか昔から軍事は気になる領域だった。
たぶん「誰であれ人は銃で撃たれると死ぬ」という即物性が好きなんだろうと思う。そしてその即物性のまわりに無数の職業や政治や法やなにやらが組織されていることの不思議さというか。
あと軍事って結局、すべてが「可能性」のためだけに用意された領域じゃないか。たとえば「国防」というのは、つねに「侵略の可能性」を阻止するという形でしかありえないわけで。その辺りのことについて考えていると実に不思議な感じがする。
■ 読んだ
- 『ダブル・スター』
ロバート・A. ハインライン(著), Robert A. Heinlein(原著), 森下弓子(訳)
東京創元社、1994/06
政治家の替え玉になった役者が活躍する話。おもしろかったけど、あまりSFではない。たとえばこれと同じような話をシェイクスピアが書いていたとしてもそれほどおかしくはないのではないか。というかむしろいかにもシェイクスピアが書いてそうな話だった。
■ 本企画について
http://www.at-akada.org/blog/2007/07/post_227.html
■ 語られず示される
先日の研究会で「語り得ぬもの」という表現が気持ち悪いという話をしていた。
ちなみに元のシンポに行ってないのでどういう話なのかはわかってない。
仮に「経験を語る語りのなかにはつねに語り得ぬものがあり、その語り得ぬものが大事だ」という話をしていたとして、それについて思ったこと。
単純な誤謬推理じゃね?
A「経験を語るすべての語りには、語り残されるものがある」
B「経験を語るすべての語りにおいて語り残されているようなあるもの(語り得ぬもの)がある」
仮に上のA が重要な主張であると認めたとしても、B を認める必要はない。両者は異なったことを述べているからだ。
「すべての人間には親がいる」を認めたからといって、
「すべての人間の親であるような人がいる」を認める必要はない。
「語り得ぬものが大事」というテーゼは、無害な主張である A と まったく信憑性のない B の主張を混同している場合にのみ本当らしく見えるものではないか。
(ちなみにアンスコムによればアリストテレスでさえこれと同じ誤謬をおかしていたそうだから、仮にそういう誤りをおかしていたとしても同情の余地はあるかもしれない。あと日本語だと定冠詞がないから余計に混乱しやすいかも)
「親は大事」「語り得ぬものが大事」というテーゼは、「すべての人にとって自分の親は大事」であるとか「すべての人にとって、自分が語り得なかったものが大事」と解釈することもできる。
しかし、「万人にとって共通であるような親の概念を大事にせよ」という人はいないだろう。「語り得ぬものが大事」というのは、これと同じ種類のすごく変なことを言っているような感じがする。
あともう1個思ったこと。「経験を語りきることができない」というのは解釈しようによってはきわめて些細な主張ではないか。
「どのようにであるかの知識 know-what-it-is-like」を「命題知 know-that」に還元できないという現象がある。
たとえば、明太子についてどれほどたくさんの話を聞いたとしても、実際に食べるまでは、「わたしは明太子がどんな味か知っている」 と言うことはできない。どれだけたくさん話を聞いたとしても、明太子を食べたやつから「おまえは所詮食ったことねえからわかんねえよw」とあざ笑われたりする。
それと同様に「どんな経験だったか」というのは原理的に命題知には還元できないものなので、「これですべて伝えた。おまえは私と同じ経験の知識を持っている」ということはありえない。
しかし、万が一この現象のことを言っているのならば、明太子でもタラコマヨネーズでも何にでもあてはまるような話を倫理的な口調ですることに何の意味があるのかと思ったりする。
■ φ(`д´)メモメモ...
スティーヴン・C・レヴィンソン(著), 田中廣明/五十嵐海理(訳)
研究社、2007
■ 市場
- アイマスMAD アイドルマスター春閣下 死ね死ね団のテーマ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm675862
みるべきところはニコニコ市場。こやの先生の『すばらしき愚民社会』が7冊売れている。
■ SOLA 発表
どこでも結構同じようなことを言われる。
たとえば、
「これはフィクション以外にもあてはまる話ではないか」
「フィクションにのみあてはまる話だと思って書いてはいないのだが」
みたいな応答を最近何度か繰り返した。
これはきっと書き方に問題があるのだろう。
短期的には、「分析をもっと手厚くする」、「書き方を考え直す」の両方をやらねばならないな。
一方で「理由」とか「原因」についてもうちょっと考えたいなーと思ってる部分もあり。
うーん、セラーズ読みたい。
(セラーズがどれほど重要であるかを一部の人に例示。まず「理由の論理空間」はセラーズの概念である。
また、リチャード・ローティいわく、論理実証主義からの転換点に位置する3つの重要な仕事がある。それはクワインの「経験主義の2つのドグマ」とウィトゲンシュタインの『哲学探求』とセラーズの「経験論の心の哲学」であると。←大絶賛だよ!)
■ φ(`д´)メモメモ...
岡ノ谷一夫(著)
岩波書店、2003
ジュウシマツの歌に耳を傾けたことがあるだろうか.なにげなく聞き流しているうちはいつも同じに聞こえるが,じつは意外に複雑で,なんと「文法」があることが発見された.この「文法」は,オスがメスの気を惹くために,より華麗な歌を歌おうとして発達したのではないか? 人間言語の起原もひょっとしたら....大胆仮説で言語進化の謎にいどむ.
思うに、「文法」(構文論)というのは、「当の体系に属するものと属さないものを分ける規則」のことだろうと。だとすれば鳥の歌にそれがあることはそんなに意外ではないのではないか。
いやもちろん「「どんな文法か」を研究することには意義があると思うけど、ちょっとコピーにひっかかっただけ。
■ 気づき
昨日「生き物苦手板」の存在意義がわからないと書いた。
考えていたら理由がわかった気がする。
- 「ペット大好き板」(?)がありました。
- ペット好き、生き物好きのスレとともに、ほかに場所がないので、「生き物嫌い」「ペット嫌い」のスレも定期的にたちます。
- 生き物好き、生き物嫌いの間で争いがたえません。
- 生き物苦手板が分出し、生き物嫌いの隔離に成功。
↑こういうことではないか。
軽く調べてみたところ、おおまかにそんな感じっぽかった。
■ 匿名の増田
http://anond.hatelabo.jp/20070719033518
↑昨日から断続的に書き込んでいるこの人のことが気になって、何度も増田をみてしまっていた。
(中間発表前なのに)
http://anond.hatelabo.jp/20070720084906
↑一応、これが最後の書き込みっぽい。
■ 日常
最近 vip の安価スレをよく見てるせいか*1、何をみても「どうせ釣りだろう」と思ってしまう。たとえば丸川珠代が投票してなかったというニュースを見ても、「釣りだろう」と思ってしまう。そんな風に考えていると、だんだん歴史の総体がすべて釣りかもしれないと思えてくる。本当の話も混ざっていると思うのだが、半分くらいは釣りじゃないかと思う。たとえば大化の改新とか釣りっぽい感じがする。ローマ帝国盛衰史の最後のページに、「釣りでした」って書いてあったらどんな気分がするんだろう。
■ 考え
ここ数日考えることがすべて適当でよくない。
自分には倫理観が足りないのではないかとよく考えている。
「最終的解決」の会議について何度か想像してみた。
もしも自分が大戦中にドイツの官僚だったら、「収容所のユダヤ人どうしますか?」ってみんなで頭を抱えたあげく、会議を早く終わらせたくて、「もう、全員殺しちゃいましょうか?」って最初に言っちゃいそうな気がする。「どうせみんな早く死ぬか遅く死ぬかの違いだけですよw」(全員苦笑)とか言ってしまいそうだ。
あと、ああいう会議はきっと、事前にほとんど結論まで決まっているんだろうなと思った。おそらく本当の最終決定がなされる会議の前に、結論の見えない無数の会議が開かれ、そのどれかひとつの重苦しい会議で、ついに耐えられなくなった誰かが「毒ガス...」って言ったのだろう。そして全員投票などを何度か繰り返し、だんだんこれで本決まりかというムードになってきて、それでもみんな結論が重すぎるから「全滅」とか「殺す」とははっきり言えない雰囲気で、「赤田案(仮)でいきますか」「赤田案(仮)しかないですな、もう」とか言うんだろうと思った。
- *1: ここ数日、勉強するからと遊びの誘いを断り続けているのに、激しく逃避していることがここまでの記述で明らかに
■ 方法
サドナウの本を読むとジャズピアノがうまくなるらしいと聞いた。
■ 読書
- 『宇宙船ビーグル号』
A.E.ヴァン・ヴォクト(著), 浅倉久志(訳)
早川書房、1978
ダブルスターが届かないので読みかけのこれを最後まで読んだ。
宇宙旅行ものは、やっぱいいな。(;´Д`)ハァハァ
ヴォークトは結構好きなような気がしてきた。『武器製造業者』もおもしろかったし。『非Aの世界』も早く読まなければ。
主人公の専攻する科学が「情報総合学」。名前が学際系のダメ学科っぽいのに活躍してやがる (原語はNextialismらしいけど)。ひとりの総合人間学学士として嫉妬を禁じ得ない。
レビューによると、エイリアンはこの作品からの盗作で訴えられ、敗訴したらしい。イクストルのことかー!
■ ふいんき (←なぜか変換できない)
ふいんきり~だ~は、任意の日本語文書の内容を解析して、 2ちゃんねる(+まちBBS)でいうとどこの板のふいんき(←なぜか変換できない)に似ているかを教えてくれるプログラムです。
結果。
(1)言語学 (2)SF・FT・ホラー (3)プログラム (4)文学 (5)懐かし洋画 (6)一般書籍 (7)UNIX (8)映画作品・人 (9)B級グルメ (10)創作文芸 (11)コスプレ (12)雑誌 (13)インターネット (14)生活全般 (15)生き物苦手
よくわからないものもあるが、まあこんなものだろう。
「生き物苦手板」の存在意義がよくわからない。
■ 姿勢
1から2年に1回くらい、「姿勢をよくしよう」と思い立ち、ことさらに背筋をのばして生活することがある。ここ数日、この通過儀礼(?)を再開したため、ことさらに背筋をのばして暮らしていた。
しかし、数日たち、すでにあきらめかけている。あきらめかけているのは、背筋をのばすのがつらすぎて、勉強に集中できないなどの悪影響が出ているからである。
なお、煙草の本数も減らそうとしているのだが、こちらもつらくて半ばあきらめかかっている。
■ こない
早く次のヒューゴー賞に進みたいのに『ダブルスター』がこない。
■ 料理エッセイ
昨日id:pha*1、id:shim 二氏に会ったとき、「料理には構造化の度合いがある」という思いつきを喋った。喋った後に自分ひとりでも考えた。考えたことを書き記しておきたい。
私以外の二人がパフェを食べていたせいで思いついた。パフェは高度に構造化された食べ物である。ここでいう「構造」は、メニューA を Aたらしめるのに必要な「要素」+「その配置」のことかな。パフェは分割不可能な多数の要素からなり、しかもその配置もかなり限定されている。パフェはアイスやクリームや果物などの部分からなり、分割できない。対して、アイスコーヒーはいくら分割してもアイスコーヒーでありつづける。
構造化の度合いは、「一人前を二人前に分けるのにかかる手間」「盛りつけにかかる手間」に正の相関を示す。
(ただし、バナナの房のように、自然の状態で構造化された食べ物も存在する)。
構造化の度合いがきわめて低いのは、コーヒーなどの飲み物、水飴などの不定形なものである。
また、具の少ないスープ、ソーメン、ご飯、餅などもきわめて構造化の度合いが低い。
カレーライス、ソースのかかったスパゲティー、牛丼など「不定形のソース+主食」という二極構造によって構成されたメニューがこれにつづく。
一方、冷やし中華、パフェ、手のこんだ和菓子などは、きわめて構造化の度合いが高く、素人にはほぼ分割が不可能であると考えられる。
単位が異なるような気もするが、定食をここに含めてよいのならば、これらもまた高度に構造化されたメニューであると言えよう。
スポンジとクリームによって層化されたケーキなど、縦方向の分割を許すのに、水平方向には分割できないメニューもある。ピザやケーキなどは、一方向にのみ頑強な構造を示すがゆえに、「7分割できない問題」などを引き起こす。
また、一部の要素がもたらすプレミア感も料理の構造によって説明可能である。ショートケーキのイチゴや、カレーに一個だけ入っているゆで卵は、構造決定的な要素であり、一人前のメニューは、これらの要素のために分割不可能になる。ショートケーキのイチゴが重要に感じられるのは、それがメニューの構造に対して大きな貢献をなすからである。
「だから何だ」という話だが、料理をこういう粒度でとらえたことがなかったので、改めて考えてみると新鮮だった。
- *1: 読み方はアイディープハー
■ 読んだ
- 『ボシイの時代』
マーク・クリフトン(著), フランク・ライリイ(著), 冬川亘(訳)
東京創元社、1981
この著者らについてはまったく知らなかったのだが、これはおもしろかった。
ミュータントではないが、エスパー新人類もの。
文明に対するシニカルなコメントがいちいち良い感じ。
■ 本企画について
http://www.at-akada.org/blog/2007/07/post_227.html
■ 前置き
http://www.at-akada.org/blog/2007/07/post_227.html
■ 読んだ
- 『分解された男』
アルフレッド・ベスター(著), 沼沢洽治(訳)
東京創元社、1965
『ゴーレム100』の邦訳が出版され、かすかに話題を読んでいるかに思われるベスター。
本編は、エスパー警察官対悪漢実業家の犯罪推理もの。記念すべきヒューゴー賞一作目。
エスパーネタと犯罪ネタはいいけど、悪い意味でインテリ風な精神分析ネタ(゚⊿゚)イラネと思った。
厚みのある読書をすべく、ヒューゴー賞の歴代受賞作を年代順にすべて読むという企画です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%BC%E8%B3%9E
ところで、狙ったわけではないですが、今年の世界SF大会(ワールドコン) は日本で開催されるそうです。めでたいですね。
http://www.nippon2007.org/jpn/index.shtml
■ ルール
- ヒューゴー賞長編部門受賞作を、53年の『分解された男』からはじめ、年代順に1冊ずつ読む。
- 1冊読み終わるごとに、ブログ上で「読んだ」と宣言する。
- その際感想などは書いても書かなくてもよしとする。面倒だったら「読んだ」と一言だけですませてもよい。
- 未邦訳または入手困難の場合は飛ばしてもよい。
- 読んだことのあるものは飛ばしてもよい(もちろん、改めて読んでもよい)。
■ 参加方法
もし万が一参加したい方がいれば、「参加する」と勝手に宣言し、勝手に読みはじめてください (明示的にトラックバックを送らないかぎり、私は気づかない可能性が高いです)。というか、参加希望者は現れないだろうと推測しているのですが、ほかの参加希望者がいてもいなくても、私がひとりで読みつづけます。
一番メジャーだろうと思ったので私は長編部門を読むことにしますが、ほかの方が参加する場合「わたしは中長編部門を読む」とか「ぼくは短編部門を読む」という人がいてもよいかもしれません。
ちなみに、本企画は、「ぬるい読者が教養を得る」ことを本義とするものです。私自身まったくもって濃いSFファンではありません。この企画以前に読んだ長編部門受賞作は、『銀河帝国の彼方へ』一篇のみです。というわけで、ぬるい読者の方々の参加をお待ち申し上げております。
■ ねこ
第五期鬼太郎ひさびさに観た。猫娘がいろいろとコスプレしてる。このアニメ、観るたびに猫娘の比重が増しているような気がする。
■ 買った本
- 『ダブル・スター』
ロバート・A. ハインライン(著), Robert A. Heinlein(原著), 森下弓子(訳)
ヒューゴー賞。
タイトルとしては、旧訳の『太陽系帝国の危機』の方が好きなのだが、訳が悪いという噂を耳にしたので、新しい方を買った。しかし、原題はダブル・スターの方なのか。
つまり、これが意味するところは、おそらく旧訳者および当時の編集者らは『太陽系帝国の危機』の方がかっこいいし売れるだろうと判断したということなわけで。そしてひょっとすると当時は実際に「『太陽系帝国』の方がかっこいいぜ!」というセンスがまかり通っていたのかもしれない、などと思うと感慨深い。
■ 読書
G.E.M.アンスコム(著), 菅豊彦(訳)
産業図書、1984
むずかし。三周目にしてようやく構成がわかってきた。というか、ひどい構成だな。これ、ちゃんと章分けして、各節にタイトルをつけ、適宜、図や用語の解説を入れるだけではるかにわかりやすくなるのではないか。
門脇俊介(著)
創文社、2002
アンスコムがあまりに難しいので先にこっちを読んだ。まさに「そこ!」という重要なとこでよくわからなくなるが、大まかな話としてはわかりやすかった。
↓終わったら次はこれを読む。しかし、どうしてセラーズはこの論文だけ2冊も出てるのか......。岩波自重。
W・S・セラーズ(著), 中才敏郎(訳)
勁草書房、2006/01
- 『経験論と心の哲学』
ウィルフリド・セラーズ(著), Wilfrid Sellars(原著), 浜野研三(訳)
岩波書店、2006/03
■ Users kill the Hatena Star
某氏がツイッターで「はてなスターの悲劇」と言っていた。
そのネタを先に思いつかなかったことが悔しくてならなかった。
■ 人
職場に新しく来た人に、「いつからあんな (粗雑な) 扱いを受けてるんですか?」と聞かれる。
確かに、最近「赤田(苦笑)」みたいなキャラクタになってきた気がするが、第三者に指摘されると軽くショックだ。
■ 画像
■ 夢
将来の夢を聞かれるたびに(というか、二十代も半ばを過ぎた人間にそんなことを聞く方も聞く方だよな)、説明するのが面倒くさいので、「駅前で古いジャンプを売る人」「灯台守」「自宅警備員」「キーボードの文字を彫る人」など適当な答えを返してきた。しかし、わたし将来の夢決定版は以下のようなものである。
(ことあるごとに人に話しているので聞いたことのある人は申し訳ない)。
- 金持ちの老夫婦に育てられる
- 成人と同時に老夫婦が死に、財産と屋敷だけが残る
- 天涯孤独の身となり、道楽に身をやつす
(「モルグ街」に出てくるデュパンみたいな感じ)
生まれた瞬間に挫折したため、今の人生はいわば敗戦処理みたいなものかなと思っている。
■ ゆうま
最近ふと思い出した4コマ。少年アシベのなかの一篇だったと思う。
アシベの友達のちょっとませた男の子でゆうまっていたじゃないか。
その4コマはゆうまが出てくる話で、だいたい以下のような内容だったと思う。
(うろ覚えなので全然違ったかもしれない)。
- 1コマ目: ガードレールの上を歩くゆうま。
- 2コマ目: ぶるぶる震えたおじいちゃんが登場し、「そんなところを歩いてると落ちて怪我をするよ」。
- 3コマ目: 青い顔をするゆうま。
- 4コマ目: 家に帰って食事をしているゆうま。興奮しながら、「予言者に会ったんだ」。
漫画で読んでもわかりにくい内容だったので、文章で説明するとなおさらわからないと思う。
要するにおじいちゃんは危ないから注意しただけだったんだけど、ゆうまは予言者に危機を予言されたと思ってしまったという話だった、のかな。
4コマ漫画としてみるとすごくわかりにくいんだけど、よくできた短編小説のような、心に残る情景だなあと思う。アメリカのちょっとイノセント志向の作家、サリンジャーとか、スティーブン・ミルハウザーなんかが書いてそうだ。
ところで、実はゆうまも「金持ちの老夫婦に育てられて天涯孤独」っていう夢を語っていたので、わたしは少しだけゆうまに親近感を抱いている。
人として軸がぶれています。
■ 話
少し前に書き忘れた話。
先日病院に行ったところ「癒し絵手紙」みたいなものが飾られていたのだが、その絵手紙に「ここから先は神の領域」って書いてあった (のがおもしろかった)。
■ Livedoor Reader
ライブドアリーダーを使い始めた。
これは、増田ことはてなアノニマスダイアリーをみるのに最適なインターフェイスなのではないかという気がした。
さくさく飛ばしながら流し読みしつつ、おもしろそうな記事だけ URL に移動して読むというのがちょうどよい感じ。
その他、しょこたんブログなどにもふさわしいインターフェイスであると感じたことだよ。
■ 秘密
今のうちに教えておくけど、はてなスターってあれ、星じゃないらしいよ。
ヒトデ?とかなんかそういう感じの生き物らしい。
■ クオリアについて
心の哲学上の議論としてのクオリアではなく、いわゆる通俗的な意味での「クオリア」という概念の消費について。
もっと具体的にいうと、例の茂木氏について。
考えていたらよくわからなくなってきたので、よくわからなくなってきたということを書いてみる。
芸術作品の価値は、それを前にした時に感じるクオリアの質で決まる。
それは言語化できるものではない。
それは記号化できるものではない。
安易にマーケットにのるものでもない。
驚くことに、言葉の芸術である文学でさえ、作品の価値は言語化も記号化もできないクオリア体験の質で決まるのである。
ふりかえって見れば、人生で大切なことは、全て言語化できないことばかりじゃないか。
子供の時に友達とプールに入った時のくすぐったい気持ち。初めてのデートの前のそわそわした時間。他者の心とぶつかった時のずしーんと来る感じ。
なにげない日常に由来し、天上の気配の中に結晶化する。そんなことが作品を前にして感じられた時、それを傑作と呼び、感謝する。生きる歓びがこみ上げる。
すでに流通しているものなど、放っておけ。自らの内なる、最も切実な、甘美な、哀しきクオリアにこそ寄り添え。そして、そのクオリアをポップに昇華せよ。
ここに、クオリア原理主義を宣言する。
まず前提として、私は↑こういう発想があまり好きではなく、こういう文章を見ると、体がむずがゆくなるのだが、ここでは特に好き嫌いの話をしたいわけではない。
わたしの見聞によれば、↑こういう話が好きな人は、「クオリアは人に伝えられない」って聞くと癒されたり、自分を肯定されたような気分になるそうじゃないか。
それってなぜなんだろう。なぜこんな独我論みたいな話で癒されたりするのだろう。
たとえば素朴に考えるなら、「人に理解されない」ということに、寂しさを覚えてもいいわけじゃないか。
なぜそこで寂しがるのではなく、ことさらに癒されたりするのだろう。
人に伝える努力をしなくても良いような気がするから?
序列に乗らない (質的な) ものに訴えることによって、なにかしらの競争から逃れられるような気がするから?
考えていたら、なんかどうでもよくなってきた。
眠い。
■ 熱
熱は少し下がったが、まだ38.1度。
■ 発見
「ネット」っていう人はふつうのネットが好きな人。
「Web」とか「WWW」っていう人はビジネスの人。だからきっと「Web 2.0」はお金のにおいがする単語なんだよ(ちがうかも)。
■ 今日知ったショートカット
Alt(アルトキー)押しながら Drag&Drop でショートカット作成
変換後 Ctrl+Back space で再変換
Ctrl + Home で文書冒頭、Ctrl + End で文書末尾。
Ctrl + Shift + Home で冒頭まですべて選択、Ctrl + Shift + End で末尾まですべて選択。
■ 読書
ブライアン W.オールディス(著), 伊藤典夫(訳)
ハヤカワSF(早川書房)、1977
シャブ漬けで書いたナウシカって感じ。
すごくおもしろかった。発熱にぴったり。
実況してみる。
- 人間\(^o^)/オワタ
- 人間みんなあたまわるい子になった。おもしろいw
- とりこ!(この小説で頭いいのは、奇形鳥人とキノコとイルカだけw)
- ( ゚∀゚)o彡゜アミガサ!アミガサ! 人間の脳アミガサタケだった...orz。なんだってー!
- o(´□`o)ポンポン!
- ポンポンがだんだんかわいくなってくる(ゴクリ現象)。
- 化け物の名前が「トンガリ」w
- イルカ威張ってるw お爺ちゃんとょぅι゛ょ2人をこきつかうイルカ。
- イルカツンデレw
- ξ゚⊿゚)ξ わたしはソーダルであるイーだ
- ラストもナウシカだった
ところでこれもヒューゴー賞だが、長編受賞作には入っていなかった。なぜかと思って解説をよく読むと、中編連作シリーズということで短編部門で受賞したらしい。
■ メモ
岩波書店、2003
「そうじゃ,わしが博士じゃ」としゃべる博士や「ごめん遊ばせ,よろしくってよ」と言うお嬢様に,会ったことがあるだろうか.現実には存在しなくても,いかにもそれらしく感じてしまう日本語,これを役割語と名づけよう.誰がいつ作ったのか,なぜみんなが知っているのか.そもそも一体何のために,こんな言葉づかいがあるのだろう?
上野智子(編), 佐藤和之(編), 定延利之(編), 野田春美(編)
おうふう、2005
若手メール世代作家と同じ世代の読者を想定し、現代日本語が直面している諸問題にさまざまな局面からアプローチできるよう、全部で25のケースから構成。多種多様な現代日本語の実態を明確にする。
中川正之(著), 定延利之(著)
くろしお出版、2006
日本語に固有であるとする「世間」と「世界」の使い分け。他の言語ではどうなっているのか? 「世間」と「世界」の対立を担う項目を意識しつつ、中国語、フランス語、マテンゴ語、インドネシア語との対照研究を行う。
- 『よくわかる言語学』
定延利之(著)
アルク、1999
日本語教育能力検定試験の傾向を徹底分析、受験対策は万全。トピックごとの解説と問題演習で日本語教育の重要分野をマスター。学習したことを実践でどう生かすか教育現場からのアドバイスを掲載。この本では普通の入門書よりもさらに基本的な内容を盛り込むことにしました。すべての用語を説明しようとしない代わりに、例えば「機能」や「品詞」といった特に重要な用語のイメージや考え方をじっくり説明しています。
■ 他人が怒ってるのをみると怒る人
ブログや掲示板などで、何かに対して怒りをぶつけた記事ってあるじゃないか。
見知らぬ人が怒る場面に立ち会うというネット特有の現象のためか、人が怒って当然の理由で怒っていても、必ずたしなめようとする人っているよね。
攻撃的な言辞をみると反射的に止めの手がでる人というか。
たとえば、「お怒りの気持ちはよくわかりますが、冷静な対話が求められるのではないでしょうか」とか言ったりするの。
あと「効果的でない」とか言う。「こんな陰口のようなことをしていては誤解されて当然です。それよりも提案を冷静に伝える方がはるかに効果的ではないでしょうか」。もしもおまえがその怒ってる人と同じ運動体の構成員で、一緒にビラの文案を練っているならともかく、プライベートなブログに怒りを書き付けているところでそれはないだろうと思う。
最近みた実例としては、マンガに対する表現規制に怒ってる人に対して、「やや逆ギレの印象を受けました」というコメントをみた。これは「逆ギレ」という言葉の使い方としても間違っているのではないか (それは正ギレだ)。
データを参照しながら「若者は本を読まないというのはただの嘘である」と主張している人に対して、「なぜそんなに怒るのですか、それでは批判対象と同じではないですか。まったりいきましょう」というコメントをしている人もみた。間違いの指摘に、「同じ」もなにもないだろうと思った。
あと、おもしろいのは、しまいにはそういう「たしなめ人」の方が怒ったりするの。元のエントリに対して「こんな便所の落書きのような記事を書いていては!」みたいな攻撃的言辞を積み重ねたあげく、どんどん言葉が乱暴になっていったりする。おまえはいったいなにがしたいのかという。
人はなぜ他人が怒っているのを忌避しようとするのだろう。
とりあえず「怖い」というのはあるかな。怒りの振る舞いというのは、第一には怒りの対象に対して威嚇のために行うものだし。そもそも、何をもって「怒り」の表現とするかというと、「私は怒りに我を忘れ、コントロールを失っているのだぞ」という過剰なくらいのアピールのことをそう呼ぶわけだし。
動物の群れでも、1匹が怒り出すと周りの動物にそれが伝わるという(←未検証。単にうろ覚えの話)。
■ 38.6
「クーラーをつけているのに暑い」「昨日よく寝たはずなのに寝覚めがすっきりしない (それに、最近にしてはめずらしくたくさん夢を観た)」などと思い、ぐだぐだしながら論文を書いていた。
しかし気のせいとはとても思えないほど体が熱いので、ふと思い当たって熱を計ると38.6度だった。
何かの間違いだと思ってもう1回はかったところ、今度は38.7度だった。
よくよく考えてみれば、数日前から、「なぜか体が熱い」「間接が痛い」「頭が痛い」などの症状が出ていたのであった。
自分の鈍感さにあきれながら病院へ行った。
「水分を取れ。しかし胃腸に悪いので冷たいものはだめだ。できればスポーツドリンクなども温めて飲め」という指示を与えられたので、自宅で温かいコーラを飲む(←今ここ)。
■ 形而上学
柏端達也(訳), 青山拓央(訳), 谷川卓(訳)
勁草書房、2006
うふふ。ついに買っちゃったんだ。いやー、いいなあ、形而上学は。意味がなくて美しくて。
とりあえず第一論文だけ読んだ。マットの上の1001匹の猫......。マットの上の猫も、ずいぶんと遠くまできたもんだ。
層の厚い SF 読書をするために、ヒューゴー賞受賞作を年代順に読んでいこうと思いつく。
そんなことしてる場合かと思わないでもないが、気長にがんばろうと思う。
とりあえず『分解された男』を買った。
なにしろすべて「安い」というところがありがたいなあ。
- 1953年 『分解された男』 ( The Demolished Man ) アルフレッド・ベスターISBN:9784488623012
- 1954年 該当賞の発表なし
- 1955年 『ボシイの時代』 ( They'd Rather Be Right ) マーク・クリフトン、フランク・ライリーISBN:9784488666019
- 1956年 『太陽系帝国の危機/ダブル・スター』 ( Double Star ) ロバート・A・ハインラインISBN:9784488618018
- 1957年 該当賞の発表なし
- 1958年 『ビッグ・タイム』 ( The Big Time ) フリッツ・ライバー
- 1959年 『悪魔の星』 ( A Case of Conscience ) ジェイムズ・ブリッシュ
- 1960年 『宇宙の戦士』 ( Starship Troopers ) ロバート・A・ハインライン
- 1961年 『黙示録三千百七十四年』 ( A Canticle for Leibowitz ) ウォルター・ミラー
- 1962年 『異星の客』 ( Stranger in a Strange Land ) ロバート・A・ハインライン
- 1963年 『高い城の男』 ( The Man in the High Castle ) フィリップ・K・ディック
- 1964年 『中継ステーション』 ( Way Station ) クリフォード・D・シマック
- 1965年 『放浪惑星』 ( The Wanderer ) フリッツ・ライバー
- 1966年 『デューン/砂の惑星』 ( Dune ) フランク・ハーバート
- 1967年 『月は無慈悲な夜の女王』 ( The Moon Is a Harsh Mistress ) ロバート・A・ハインライン
- 1968年 『光の王』 ( Lord of Light ) ロジャー・ゼラズニイ
- 1969年 Stand on Zanzibar(未訳)ジョン・ブラナー
- 1970年 『闇の左手』 ( The Left Hand of Darkness ) アーシュラ・K・ル=グウィン
- 1971年 『リングワールド』 ( Ringworld ) ラリー・ニーヴン
- 1972年 『果しなき河よ我を誘え』 ( To Your Scattered Bodies Go ) フィリップ・ホセ・ファーマー
- 1973年 『神々自身』 ( The Gods Themselves ) アイザック・アジモフ
- 1974年 『宇宙のランデヴー』 ( Rendezvous with Rama ) アーサー・C・クラーク
- 1975年 『所有せざる人々』 ( The Dispossessed ) アーシュラ・K・ル=グィン
- 1976年 『終りなき戦い』 ( The Forever War ) ジョー・ホールドマン
- 1977年 『鳥の歌いまは絶え』 ( Where Late the Sweet Birds Sang ) ケイト・ウィルヘルム
- 1978年 『ゲイトウェイ』 ( Gateway ) フレデリック・ポール
- 1979年 『夢の蛇』 ( Dreamsnake ) ヴォンダ・マッキンタイア
- 1980年 『楽園の泉』 ( The Fountains of Paradise ) アーサー・C・クラーク
- 1981年 『雪の女王』 ( The Snow Queen ) ジョーン・D・ヴィンジ
- 1982年 『ダウンビロウ・ステーション』 ( Downbelow Station ) C・J・チェリー
- 1983年 『ファウンデーションの彼方へ』 ( Foundation's Edge ) アイザック・アジモフ
- 1984年 『スタータイド・ライジング』 ( Startide Rising ) デイヴィッド・ブリン
- 1985年 『ニューロマンサー』 ( Neuromancer ) ウィリアム・ギブスン
- 1986年 『エンダーのゲーム』 ( Ender's Game ) オースン・スコット・カード
- 1987年 『死者の代弁者』 ( Speaker for the Dead ) オースン・スコット・カード
- 1988年 『知性化戦争』 ( The Uplift War ) デイヴィッド・ブリン
- 1989年 『サイティーン』 ( Cyteen ) C・J・チェリー
- 1990年 『ハイペリオン』 ( Hyperion ) ダン・シモンズ
- 1991年 『ヴォル・ゲーム』 ( The Vor Game ) L・M・ビジョルド
- 1992年 『バラヤー内乱』 ( Barrayar ) L・M・ビジョルド
- 1993年 『遠き神々の炎』 ( A Fire Upon the Deep ) ヴァーナー・ヴィンジ、『ドゥームズデイ・ブック』 ( Doomsday Book ) コニー・ウィリス
- 1994年 『グリーン・マーズ』 ( Green Mars ) キム・スタンリー・ロビンソン
- 1995年 『ミラー・ダンス』 ( Mirror Dance ) L・M・ビジョルド
- 1996年 『ダイヤモンド・エイジ』 ( The Diamond Age ) ニール・スティーヴンスン
- 1997年 『ブルー・マーズ』 ( Blue Mars ) キム・スタンリー・ロビンソン
- 1998年 『終わりなき平和』 ( Forever Peace ) ジョー・ホールドマン
- 1999年 『犬は勘定に入れません』 ( To Say Nothing of the Dog ) コニー・ウィリス
- 2000年 『最果ての銀河船団』 ( A Deepness in the Sky ) ヴァーナー・ヴィンジ
- 2001年 『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』 ( Harry Potter and the Goblet of Fire ) J・K・ローリング
- 2002年 American Gods(未訳)ニール・ゲイマン
- 2003年 『ホミニッド-原人-』(Hominids)ロバート・J・ソウヤー
- 2004年 Paladin of Souls(未訳)L・M・ビジョルド
- 2005年 Jonathan Strange & Mr Norrell(未訳) スザンナ・クラーク
- 2006年 Spin(未訳) ロバート・チャールズ・ウィルソン
■ 読書
- 『行為と出来事』
ドナルド・デイヴィドソン(著)、服部裕幸(訳), 柴田正良(訳)
勁草書房、1990
なぜ論理形式の分析のために、述語論理を使うのかを述べた箇所(第五章)。
{ある文の論理形式を与える}ということは、
{諸々の文の全体の中でその文がいかなる論理的位置を占めているかということを示すこと}
つまり、
{その文はどのような文を含意し、また、どのような文によって含意されるか、ということを明示的に決定するような仕方でその文を記述すること}
にほかならない。
ところで、このような位置づけはある特定の演繹的理論と相対的にならざるをえない。したがって、論理形式それ自体も一つの理論に対して相対的ということになる。
論理形式の相対性はこれにとどまらない。なぜなら、たとえ一つの演繹理論を与えたとしても、われわれにとって関心のある文を解釈するための全体的枠組が一つ以上存在し、しかも、それらがみんな含意のパターンを保存するということが起こりうるからである。
かくして、特定の文の論理形式は、
(1)一方において、演繹理論に相対的であり、
(2)他方において、文をその言語に翻訳する方法に関する何らかのあらかじめの決断に相対的であることになる。
以上のような観点から見るならば、なるほど、ある文の標準的な一階の量化理論言語への翻訳を、その文の固有の論理形式と呼ぶことには恣意性が伴っているように見える。
しかしながら、量化理論がよく知られた長所をもっているということは確かである。
それは強力であり、単純であり、無矛盾であり、一応、完全なのである。
自然言語の多くの文を量化理論言語の文に翻訳するためのかなり標準的な手続きが存在するということは十分注目に値することであり、この事実は、私が理論への相対性を明示しなかったことの弁明に役立つであろう。しかしもちろん、依然として相対性が残るという事実に変わりはない。
p190
「何で行為文が出来事への量化を含む必要があるの?」という疑問は、私(デイヴィドソン)に対する異論にはならないよ(大意)。
というのは、
(1)「ジョーンズはトーストにバターをぬった」という文は存在量化された文の論理形式をもっており、
(2)「......は......にバターをぬった」(buttered)は三項述語である、
と私が述べるときに意味しているのは、
単に、タルスキの基準を満たす真理理論からは、
「この文が真であるのは......が存在するとき、そしてそのときにかぎられる、」ということが帰結する
![S-Fマガジン 2007年 09月号 [雑誌] S-Fマガジン 2007年 09月号 [雑誌]](http://ec1.images-amazon.com/images/I/11G%2BNVx-wCL.jpg)













