■ 読書
- 『行為と出来事』
ドナルド・デイヴィドソン(著)、服部裕幸(訳), 柴田正良(訳)
勁草書房、1990
なぜ論理形式の分析のために、述語論理を使うのかを述べた箇所(第五章)。
{ある文の論理形式を与える}ということは、
{諸々の文の全体の中でその文がいかなる論理的位置を占めているかということを示すこと}
つまり、
{その文はどのような文を含意し、また、どのような文によって含意されるか、ということを明示的に決定するような仕方でその文を記述すること}
にほかならない。
ところで、このような位置づけはある特定の演繹的理論と相対的にならざるをえない。したがって、論理形式それ自体も一つの理論に対して相対的ということになる。
論理形式の相対性はこれにとどまらない。なぜなら、たとえ一つの演繹理論を与えたとしても、われわれにとって関心のある文を解釈するための全体的枠組が一つ以上存在し、しかも、それらがみんな含意のパターンを保存するということが起こりうるからである。
かくして、特定の文の論理形式は、
(1)一方において、演繹理論に相対的であり、
(2)他方において、文をその言語に翻訳する方法に関する何らかのあらかじめの決断に相対的であることになる。
以上のような観点から見るならば、なるほど、ある文の標準的な一階の量化理論言語への翻訳を、その文の固有の論理形式と呼ぶことには恣意性が伴っているように見える。
しかしながら、量化理論がよく知られた長所をもっているということは確かである。
それは強力であり、単純であり、無矛盾であり、一応、完全なのである。
自然言語の多くの文を量化理論言語の文に翻訳するためのかなり標準的な手続きが存在するということは十分注目に値することであり、この事実は、私が理論への相対性を明示しなかったことの弁明に役立つであろう。しかしもちろん、依然として相対性が残るという事実に変わりはない。
p190
「何で行為文が出来事への量化を含む必要があるの?」という疑問は、私(デイヴィドソン)に対する異論にはならないよ(大意)。
というのは、
(1)「ジョーンズはトーストにバターをぬった」という文は存在量化された文の論理形式をもっており、
(2)「......は......にバターをぬった」(buttered)は三項述語である、
と私が述べるときに意味しているのは、
単に、タルスキの基準を満たす真理理論からは、
「この文が真であるのは......が存在するとき、そしてそのときにかぎられる、」ということが帰結する
ということにすぎないからである。
全体としての一つの言語に適用される真理理論の文脈の中で文の真理条件を与えるならば、その文の論理形式を与えたことになる、
というのが私の見解である。
p196
出来事について語る文を量化理論言語の文へと「翻訳する」、あるいは「書き換える」理由として私が念頭に置いているのは只一つ、
{そうすることによって現行の真理理論の範囲内でそのような文の真理条件を与えることができる}
というものであることは今や明白であろう。
一階の量化理論言語に対しては明白な意味論が存在し、
したがって、
自然言語の文を量化理論言語の文へと書き換える方法が見出されるならば、
そのような文を処理することができるように真理理論を拡張する方法も見出されるであろう。
量化理論言語形式に依存している含意関係は完全に形式化が可能である。
したがって、
{いかなる理論とも独立に文の形式の故に成立していると認められるような含意関係を、
その文の量化理論言語への書き換えによって明瞭にできたか否か}、
という点を観察することによって、
{一つの真理理論の中で論理形式を処理することができたか否か}
を容易にテストすることができる。
p197
言ってることは明確だ。「論理形式」というのが文と文の含意の関係を指すならば、それを分析するのに述語論理を使う理由はよくわかる。
なぜなら含意を示すのに、これほどはっきりした形で示せるものは他にないから。
一言で言えば「便利だから」。
ところで「論理形式」と「論理文法」ってどう違うのだろう。
(どっちもヴィトゲンシュタイン由来の概念だよね)
c.f. クルターさん (ウィトゲンシュタイン派えすのめそどろじすと) の場合。
http://www.at-akada.org/blog/2007/02/post_66.html
それぞれの概念は一定範囲の他の諸概念とは有意味な・理解可能なしかたで結びつくのに、別の諸概念とはそのように結びつくことがない。様々な概念について、それぞれの概念がどの概念とどう結びつくのかを示すこと、これが論理文法分析の目標である。
「有意味な・理解可能なしかたで結びつく」というのは、「その文はどのような文を含意し、また、どのような文によって含意されるか」とどう関係し、どう関係しないのか。とりあえず、クルターさんは「真理理論を通じた分析」については考えてないのかな。
ところでえすのめそどろじすとといえば、
- 「会話データの利用法」
(in『日常性の解剖学―知と会話』)
わたしはサックス先生によるこの論文がとても好きなのだが、この論文にはタルスキの名前が出てくるね。
サックスはタルスキをどう評価したのだろうか。
■ 今日の名言(?)
「社会学者というのは理念的な社会関係で頭がいっぱいで、身体的なものを扱うのが下手な人たちなので、気持ち悪い人が多い」
(大意)
とくに異論はない。「身体的なものを扱うのが下手」というのは二重の意味で言っているのだと思うが、自分を振り返って考えるに私は両方の意味で下手だな。自分の体を扱うのが下手だし、「身体的なもの」をテーマとして扱うのも苦手だ。
ただし後者に関しては、最近「言語というのも身体技法みたいなものだな」ということに気がついたのでそれほど違和感はなくなった。
■ 買った本
戸田山和久(著)
日本放送出版協会、2005
■ 自己つっこみ
http://www.at-akada.org/blog/#id_20e99689e98e96
ノレーマソの場合、この語は「コミュニケーションはコミュニケーションによって規定される」(コミュニケーションは他のコミュニケーションによってコミュニケーションとなる)、つまり「コミュニケーションを他のものによって定義できない」という事態にかかわっているのだと思う。たぶん。
我ながら言ってることがおかしい。よく考えたら再帰性が他のものによる定義不可能を含意するわけではない。
たとえば自然数を再帰的に定義できるからといって、自然数をほかのものによって定義できないわけではない。自然数を実数によって定義することも可能だ。
リカーシブに、ということは単に「それ自身によって」というくらいの意味か。
■ メモ
Richard Allen(編), Murray Smith(編)
Oxford Univ Pr、1999
分析哲学系映画論のアンソロジーらしい。「現代思想」の分析哲学特集で飯田隆氏が紹介してたよ。
■ メモ2
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%b9%a5%af%a1%bc%a5%eb%a5%ab%a1%bc%a5%b9%a5%c8
主に中学・高校で発生する「人気のヒエラルキー」。俗に「1軍・2軍・3軍」「イケメン・フツメン・キモメン(オタク)」「A・B・C」*1等と呼ばれるグループにクラスが分断され、グループ間交流がほとんど行われなくなる現象。未だ根強い影響力を持つインドの階級制度、「カースト制度」に酷似していることから名付けられた。
わたしが高校生の頃は、「メジャー」「メジャーマイナー」「マイナーメジャー」「マイナー」と呼んでたよ。
「メジャーマイナー」と「マイナーメジャー」こそが最高のポジションであり、両者の微妙な交流や交錯が、学校生活の最大の見所である、とわたしの周りのごく一部では評判だったよ。
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』 (2009/07/14 15:29)