■ 語られず示される
先日の研究会で「語り得ぬもの」という表現が気持ち悪いという話をしていた。
ちなみに元のシンポに行ってないのでどういう話なのかはわかってない。
仮に「経験を語る語りのなかにはつねに語り得ぬものがあり、その語り得ぬものが大事だ」という話をしていたとして、それについて思ったこと。
単純な誤謬推理じゃね?
A「経験を語るすべての語りには、語り残されるものがある」
B「経験を語るすべての語りにおいて語り残されているようなあるもの(語り得ぬもの)がある」
仮に上のA が重要な主張であると認めたとしても、B を認める必要はない。両者は異なったことを述べているからだ。
「すべての人間には親がいる」を認めたからといって、
「すべての人間の親であるような人がいる」を認める必要はない。
「語り得ぬものが大事」というテーゼは、無害な主張である A と まったく信憑性のない B の主張を混同している場合にのみ本当らしく見えるものではないか。
(ちなみにアンスコムによればアリストテレスでさえこれと同じ誤謬をおかしていたそうだから、仮にそういう誤りをおかしていたとしても同情の余地はあるかもしれない。あと日本語だと定冠詞がないから余計に混乱しやすいかも)
「親は大事」「語り得ぬものが大事」というテーゼは、「すべての人にとって自分の親は大事」であるとか「すべての人にとって、自分が語り得なかったものが大事」と解釈することもできる。
しかし、「万人にとって共通であるような親の概念を大事にせよ」という人はいないだろう。「語り得ぬものが大事」というのは、これと同じ種類のすごく変なことを言っているような感じがする。
あともう1個思ったこと。「経験を語りきることができない」というのは解釈しようによってはきわめて些細な主張ではないか。
「どのようにであるかの知識 know-what-it-is-like」を「命題知 know-that」に還元できないという現象がある。
たとえば、明太子についてどれほどたくさんの話を聞いたとしても、実際に食べるまでは、「わたしは明太子がどんな味か知っている」 と言うことはできない。どれだけたくさん話を聞いたとしても、明太子を食べたやつから「おまえは所詮食ったことねえからわかんねえよw」とあざ笑われたりする。
それと同様に「どんな経験だったか」というのは原理的に命題知には還元できないものなので、「これですべて伝えた。おまえは私と同じ経験の知識を持っている」ということはありえない。
しかし、万が一この現象のことを言っているのならば、明太子でもタラコマヨネーズでも何にでもあてはまるような話を倫理的な口調ですることに何の意味があるのかと思ったりする。
■ φ(`д´)メモメモ...
スティーヴン・C・レヴィンソン(著), 田中廣明/五十嵐海理(訳)
研究社、2007
■ 市場
- アイマスMAD アイドルマスター春閣下 死ね死ね団のテーマ
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