■ 日常
コメントなどを聞いたりしているうちに考えたことを書く (言われたことと直接には関係ない)。
自分でもあまり明確に考えられてはいなかったが、わたしがわたしの論文でやりたいことの1つは、日常的なカテゴリーの擁護だと思った。
「日常的なカテゴリー」というのは、なんでもよいのだけど、たとえば、SFとかミステリといった小説のジャンルがそうだ。
これらは科学的なカテゴリーではない。科学的なカテゴリーじゃないから、一見曖昧に見えるし、ぐにゃぐにゃしているけれど、だからと言って日常生活で使えなくて困るというわけじゃない。それが曖昧で使いようのないものに見えるのは、その本来の用法を忘れて、科学的なカテゴリーの仲間に入れようとするからだ。
「その辺りに立ってなさい」と言うことは曖昧なのか?と、ウィトゲンシュタインは言った。
科学の言葉と比較すれば、それは曖昧に見える(「その辺りってどこだよ」「『立つ』を明確に定義できるものならやってみろ」と)。しかし、そもそも異なる種類の道具を比較して、その優劣を言おうとすることがおかしいのであって、本来の文脈にあるときその言葉に曖昧さがあるわけではない。
たとえば、文学にかかわる研究者は、しばしばジャンルをうまく扱えず、「ジャンル」をなんだか胡散臭い対象だと見なしてしまう。それは、こういう人たちが、対象を学問の言葉のなかに落しこもうとするからだと思う。別の言葉で言えば、研究者は、ふつうの読者がふつうのこととして普段行なっていることを、学問的な仕事として実践せねばならない立場にあるからだ。
しかし、人が日常的に小説を読んだり小説の話をしたりするとき、「ジャンル」というものが手におえないほど曖昧であるわけではない。少なくとも、ふつうの人はそんなことで困ったりはしない。
(その際、質の悪い研究者は、日常的カテゴリーをうまく扱えないという自らの欠陥に気づかないばかりではなく、「ジャンルにとらわれないことがおれのジャスティス!」と、自分を正当化しようとする)。
だから、「ひとが普段やってること」を扱うならば、日常的なカテゴリーを厳密なカテゴリーと置きかえるのではなく、そもそも「どうやって日常的なカテゴリーを使っているか」を調べたり、分析したりすべきだよ。物理学者や生物学者はたぶんそういうことはやらなくていいけど、少なくとも社会学者はそういうことをすべきだよ、と。
...あれ? 新しい考えに思いいたったはずだったのだが、改めて書いてみると、以前考えていたこととほとんど変わらないので驚愕。
卒論のときに読んでいた『相互行為分析という視点』と言ってることが変わらんじゃないか。
■ モダニズムと反モダニズムで理解する大ざっぱな20世紀史
↑のようなことをぼんやり考えながら、「日常性」って何だろうなーと思っていた。
飯田隆氏だった思うが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のことを、「モダニズムの傑作」と評した人がいた。これは言われてみると、「おお、なるほど」という感じである。
論理実証主義なんて、見ようによってはモダニズムの極みみたいなもんだ。
ここで「モダニズム」というのは、すごく大まかに言えば、「今あるもの (日常的なもの) をぶっ壊して、新しいものを一からつくっていこう」という思想のことだと思われる。
19世紀の終わりくらいから20世紀の半ばくらいまでの間、芸術でも政治でも哲学でも、とにかく様々な領域で、こうした発想が一大ムーブメントを形成した。
「実験」とか「前衛」とか「改良」とか「革命」などといった発想はすべて、大まかにこのモダニズムの運動の波のなかにあるものだと思う (というか、そういう発想のことを広い意味でのモダニズムと呼ぶんだ。ただしこれだとモダニズムを広義に解釈しすぎだから、「改良主義」って言った方がいいかもわからんけど)。
たとえば、前衛美術というのは、20世紀初頭の未来派あたりからはじまると言われる。前衛美術の人たちは、自分たちの作品のことを「実験」と呼んだ。
現在でもそのなごりで「実験的な作品」だとか「前衛的な作品」なんて言葉を使うけれど、今ある言葉だけの「実験」とは違って、当初これは本当の意味での実験だった。彼らは、芸術に対する感性を改造することで、今ある日常や社会を全部ぶち壊して改良しようとしたのだから。
(たとえばバウハウスなんかは、田舎に変な建築の変な学校をつくって神秘主義と合理主義と共産主義が入りまじったわけのわからん教育をして、地元の人にいやがられていた。今からみるとほとんどサティアンと変わらん。訓練によって超人になろうという発想は似たようなもんだし)。
前衛美術家の「実験」、アナーキストがコミュニティで共同生活をする「実験」、そしてマルキシストが労働者の国家をつくろうとする「実験」などがあり (ファシズム運動だって革命であり改良主義的な実験だったわけだし)。前衛的な政治運動があったからこそ、前衛的な芸術があったのだし、逆もまた真なりだと思うよ。
一方ちょっと方向こそ違うけれど、論理実証主義の運動だって、「これまでの哲学なんてすべて捨て、曖昧な日常の言語も捨て、述語論理と命題論理の言葉だけを喋る哲学超人になろう」というモダニズムっぽい運動だったわけで。
ところが、第二次大戦あたりを境に、こういう発想自体がマイナーになってしまう。
今だって、前衛や実験を自称する人はいるけれど、「社会を (そして日常生活を) すべて一から組み立て直そう」などといった発想がメジャーになることはない。政治運動と芸術家と神秘主義者は互いに疎遠になり、カルトはただのカルトのままで終わるようになる。
(なぜそうなったのかということは知らんよ。たぶんいろんな原因があったんじゃないか)
ウィトゲンシュタインもまたあっさりと考え方を変え、日常的なものを擁護する側に回る (ただしこの人の場合、元々否定したかったのかどうかもよくわからないのだが)。俗に、分析哲学の世界において、論理実証主義から転回した人々のことを「日常言語学派」と呼ぶ (正確には、オックスフォード大学にサロンを形成していたオースティンやギルバート・ライルやストローソンなどの人々を指す語だが、この派の人々に影響を与えた後期ウィトゲンシュタインらを含めて「似たようなもん」と考えることもある)。
これに対し、なんで「日常」言語よ (本当にそんなものあるのかいな) みたいな批判が時々なされるけど、なぜ「日常」かといえば、それ以前に「理想」言語学派があったからだよなーなどと思う。先行するモダニズム的・改良主義的運動があり、しかもそれがいきづまっていたからこそ、「改良はいいから改めて日常を問おうぜ」という提言が説得力を持ったのだろう。また先行する実証主義の流れのなかで言語に関する議論が蓄積されていたからこそ、日常の語彙をあらためてフォーマルな仕方で問うことが可能になっていた*1。
だからどうと言うわけでもないのだが、すごく大きな (そして大ざっぱな) 歴史的コンテクストに置いてみれば、わたしなどの考えていることも、そういうところにおさまるのかなあなどと考えていた。
しかし「改めて日常を問う」って何なんだろうな、本当に。(げに、うつし世はゆめといったところですよ)。
■ 全然関係ないけど。
モダニズムと日常回帰(?)という文脈でみると、福本和夫がフクロウ博士になったのと、モダニズム作家龍胆寺雄がサボテン博士になったのってなんか関係あるのかって気がしてきた。
- *1: その辺の細かな影響関係はぜんぜん知らんのだが、そもそもウィトゲンシュタインや論理実証主義がなければチョムスキーだって生まれなかったんじゃないか。いろんな専門分野のはざまにある歴史の流れだから、どうしても見えにくくなってしまっているけれど。そういえば以前、2ch 言語学板の意味論スレを見ていたら、意味論の起源に「言語学者ラッセル」って書いてあったのがおもしろかった。きみらからはそう見えるのか!と
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中間発表お疲れ様。またこっちの勉強会でも話してください。
』 (2007/07/31 18:26)僕も自分がやってることとは何だって最近反省的に考えてると、日常的に音楽を語る言葉を擁護したいっていう気持ちが強いことに気が付きました。悲しいとか、ロックだとか、エモーショナルだとか。往々にしてちょっとばかり哲学や美学とか学問をかじった人はそのような言葉が無意味だとか言い出したりして、音楽とかポピュラー音楽とかに批評なんてなりたたないとか、破壊的な結論しか言わない。僕はそんなに好きじゃなかったけど、ロキノンのようなものもある意味で批評として意味があるって言いたいんですね、やっぱり。
そうそう最近そのこととか考えるとECDの「リアルじゃない話ってあんの?」っていうフレーズが常に頭に浮かびます。形而上学とかを馬鹿にする人にも言ってやりたいですね。
「リアルじゃない話ってあんの?」
中間発表お疲れ様。またこっちの勉強会でも話してください。
』 (2007/07/31 18:35)僕も自分がやってることとは何だって最近反省的に考えてると、日常的に音楽を語る言葉を擁護したいっていう気持ちが強いことに気が付きました。悲しいとか、ロックだとか、エモーショナルだとか。往々にしてちょっとばかり哲学や美学とか学問をかじった人はそのような言葉が無意味だとか言い出したりして、音楽とかポピュラー音楽とかに批評なんてなりたたないとか、破壊的な結論しか言わない。僕はそんなに好きじゃなかったけど、ロキノンのようなものもある意味で批評として意味があるって言いたいんですね、やっぱり。
そうそう最近そのこととか考えるとECDの「リアルじゃない話ってあんの?」っていうフレーズが常に頭に浮かびます。形而上学とかを馬鹿にする人にも言ってやりたいですね。
「リアルじゃない話ってあんの?」
まあ私も、言ってるほど実現できてないのでお恥ずかしいかぎりですが。
』 (2007/08/ 1 11:42)8月微妙に忙しいような気配になってきたので、ちょっと勉強会どれくらい参加できるか怪しいのですが、とりあえず次回はいきますね。