わたしは一般的な意味でのマゾヒストではない。フィジカルな痛みはただ嫌いなだけだ。むしろ痛みというのは定義からして「避けるべきもの」なので、それを好むというのは何かの種類の錯誤を犯しているのではないかという疑いさえうっすら抱いている。
しかし、わたしは世にある諸々の残酷さに向き合う際、しばしばマゾヒスト的な方法で対処してきたと思う。
世の中には意志しても努力してもどうにもならないこと、つまり残酷なことがたくさんある。それは能力主義かもしれないし、学歴かもしれないし、モテたりモテなかったりという問題かもしれないし、生まれた階層と幼時に受けた教育で職業が決定されてしまうといったことかもしれない。いずれにせよ、「私は(あるいは誰かは)、がんばっても(あるいは簡単には) X を得ることができない。そしてそのことが、特に誰のせいというわけでもなく、あらかじめ決定されてしまっている」といった世の中の残酷さに直面したとき、人がとる対処法にはいくつかのパターンがある。
- A「X なんかほしくない」(酸っぱいブドウ派)
- B「X を得られない (あるいは皆が X をほしがるような) 世の中が間違っている」(反体制派知識人派)
- C「X が得られないなどという問題は存在しない」(無かった派)
思いつくままに3つをあげた。網羅的な分類にはなっていないが、「パターンがある」ということだけ示せればよい。
C のような立場は、一般的に定式化すると何の説得力もないので、想像しがたいかもしれない。しかし、たとえば「恋愛弱者」みたいな現象が問題になるとき、しばしば「問題があるって言うやつが問題だ」という規範的主張とセットで(たとえば「恋愛弱者などいないし、そもそも恋愛の強弱を問題にするのがおかしい」などといった形で)、問題の存在自体を否定する者が出てくることは、それほど珍しくないだろう。
ちなみに B と C の立場は明らかに矛盾する(現にある世の中を批判するなら問題は存在しなければならないし、問題が存在しないなら世の中を否定する必要もない)。にもかかわらず、たまに両方を唱える人がいるのはおもしろい現象だと思う。
おそらく、以上の3パターンは、「私」が残酷さに直面しないようにするための等価な方法群なのだろう。
これらに加え、問題が自分のことでない場合にかぎり、
- D「問題は簡単に解決するはずだ」(楽観派)
が存在する。楽観派は、「解決しがたい問題がある」というそのこと自体を認めたがらないため、思いつきでどんどん解決策を述べる。場合によっては問題に直面している人のせいにするし、「気の持ちようだよ」とか「堂々としていれば相手にも伝わる」などと適当なことを言う。
ごくまれにしかないことだが、楽観派に「行動力」が組み合わさった場合にかぎり、「私に任せろ」(夜回り先生派)というえらい人になる。
以上のように様々な派閥が存在する中、わたしが好きなのは、マゾヒスト (以下M) 的立場、つまり「問題は存在する」「そしてそれはどうにもならない」という残酷な事実を認め、それに悶え喜ぶ態度である。
M的立場のどこがよいか。
M は、問題の存在を否定しない。なぜなら動かしがたい問題が存在することこそ、M の喜びだからである。M は安易な解決に走ることもない。なぜなら簡単な解決を寄せ付けない問題こそ、天然の美しい鉱石のように、M の心を打つからである。しかも M は解決に向けて取り組まないわけでもない。なぜなら解決に向けて力を尽くし、にもかかわらず何も事態が変わらないときこそ、M は快楽を覚えるからである。
つまり M的態度を習得することによって、人は問題を否認せず、時間をかけてそれに取り組むことを覚えるのである。
ただし M は、内心では解決を諦めているため、解決を先延ばしにしてしまい、その結果滅多に問題を解決しない。(←M的態度に関するM的悲観論)
思うに、問題を効率よく解決したいならば、M派の人間と楽観派の人間を適当な比率で組ませるのがよいのではないか。あるいは、「心の内なるM」と「心の内なる楽観派」を両方飼うのがよいのではないか。
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M派に近いかもしれないが、
「“Xという困難に直面する自己”に萌えてみる」
(オラ、ワクワクしてきたぞ派)
というのもある。一種の逃避だが、一時的な精神的危機を避けるには有用である気がする。
』 (2007/07/ 4 0:50)おお、その選択肢は思いつかなかった。自分萌えの部分がM派と異なる点だろうか。
』 (2007/07/ 4 9:45)