- 『真理と解釈』
D.デイヴィドソン(著)、野本和幸(訳)、金子洋之(訳)、植木哲也(訳)、高橋要(訳)
勁草書房、1991
「朝まで同人誌の企画会議」、「朝まで安価スレに貼りつく」など、ふつうの院生にはできないことを平然とやってのける自分に絶望したので、ちょっと勉強のために本を買ってみた*1。
とりあえず序論と一章「真理と意味」を読んだ。高いくせに、『行為と出来事』同様これも抄訳らしい。ひどい...。
むずかしくはあるが、言ってることが明確で筋が通っており、癒される。実は最近読みかけていたセラーズ『経験論と心の哲学』が、顔面蒼白になり思わず自信喪失するくらいにむずかしかったため、辟易していたのだった。
序論より。
W.V.クワインは、私の生涯における決定的な時期における私の先生であった。彼は私に言語について考え始めさせたのみならず、哲学には、正しい、ないし少なくとも誤っている、ということが存在し、そしてそのどちらかであるのかが重要なのだ、という考えを私に与えた最初のひとであった。
もえ。
■ テーマ
この論文(「真理と意味」)のテーマは「(★)【文の意味】が【単語の意味】にどのように依存するのか」を示すこと。
これは多くの言語学者や言語哲学者から、まともな意味理論が達成しなければならない課題のひとつだと言われてきたもののひとつである。
本論文はこの問い「【全体の意味】が【部分の意味】にいかに依存するか」を扱いつつ、「自然言語のまともな意味理論には何ができなければならないか」という問題を考える。
以下、適当にまとめてみる。
■ 複合名辞
いきなり文について考えるのは難しいからまず複合単称名辞について考えてみよう。
例として「アネットの父」「アネットの父の父」などといった表現をとりあげる。
課題(☆):これらの【複合表現の意味】が【部分(単語)の意味】にどのように依存するのか。
これを問うことによって、自然言語の意味を扱うことがいかなる仕事であるのかを例示する。
まず件の表現について。
対象となるのは、
A{アネット、アネットの父、アネットの父の父、アネットの父の父の父...}
という表現の無限クラスである。
この表現のクラスAの要素は「アネット」+ 0個以上の「の父」によって構成される。
アネット(の父)*
こうですか? わかりません><
Aに属する表現は、単称名辞なので、「表現の意味」=「その指示先」とするよ。
たとえば、ベネットがアネットの父であるとき、表現「アネットの父」の【意味するもの】は、ベネットその人である*2。
したがって、☆は、表現「の父」が指示先の決定において「どんな役割を果すのか」を記述することによって達成される。
「どんな役割を果すのか」と言うとむずかしそうだが、任意の表現に対しその指示先を与えるような理論を構成すればよい。
理論T (1)表現「アネット」はアネットを指示する. (2)tがAに属する表現であるとき、t+「の父」はtの指示先の父を指示する.
これでおk。
理論Tによって、無限クラスAの任意の要素に対し、その指示先を与えることができる。
たぶん↓こんな感じ。
function の父(){
return this.father;
}
「アネット.の父()」で、父ベネットが返り値になるというイメージ。
「アネット.の父().の父().の父()」とすると、ひいおじいちゃんが返り値になる。
理論Tは、クラスAにおいて、表現「の父」が果す機能を示すものである。
Tを構成することで何が達成できたか。
(1)「tがxを指示する」という形式の【すべての文】を含意する理論を得た。
#しかも、「指示する」以外のいかなる意味論的概念にも訴えかけずに、これを達成した。
つまり、この場合でいえば、
この理論Tによって以下のような文の系列が得られる。
{「表現『アネット』はアネットを指示する」, 「表現『アネットの父』はアネットの父を指示する」, 「表現『アネットの父の父』はアネットの父の父を指示する」...}
それによって、
(2)その論議世界に属するいかなる単称名辞に対しても、当の名辞の指示先を確定する実効的effectiveな手続きを得た。
たとえば、「アネットの父の父の父の父」などという長大な表現が現われても、上の理論Tを用いることで、その指示先を確定することができる。
■ 真理
課題(★)は、ただ今複合名辞に対して行なったような理論の構成を、文にまで拡大することで達成される。
ただし、文の場合、「指示先=意味」とすることはできない。
また、先と【同じ】成果をあげるためには、以下の2つが必要とされる。
(1)「sがmを意味する」という形式の【すべての文】を含意する理論。
(2)構造的に記述された任意の文の意味を確定する実効的な手続き。
(1)の「sがmを意味する」とは、先の
{「表現『アネット』はアネットを指示する」, 「表現『アネットの父』はアネットの父を指示する」「表現『アネットの父の父』はアネットの父の父を指示する」...}
の文ヴァージョンに相当するものである。
{「文『雨が降っている』は雨が降っていることを意味する」, 「文『花が咲いた』は花が咲いたことを意味する」...}
ただし、この「ことを意味する」という困難な表現に変え、デイヴィドソンは、より形式的 ・論理的な扱いになじみやすい、以下のような文の系列を提案する。これが一部では有名なT文というやつである。
sがTであるのは、pの場合、その場合にかぎる (pならばsはTであり、sがTならばpである) (sがTである ←→ p)
具体的には、
「雨が降っているならば、『雨が降っている』はTであり、『雨が降っている』がTであるならば、雨が降っている」
「花が咲いているならば、『花が咲いた』はTであり、『花が咲いた』がTであるならば、花が咲いている」
など...。
これは実質的に、タルスキによる真理の定義にひとしい。だから、文の意味を与える理論は結局、文の真理条件を与える理論に還元される。
述語「Tである」は、タルスキ流に定義された「真である」と同じものである。
課題(★)を達成するためには、先の理論Tと同様に、これら無限の文のクラスを、有限の形式的規則で表現しなければならない。
(しかも、最終的には日本語に属するすべての文に適用できるような理論を目指さなければならない)。
ただし本論文はそれを最後までやり切るわけではない。単に、そういうことをしなければ、自然言語のまともな意味論はできないよね、という趣旨を述べ、その道行を示すだけである。
問題がむずかしくまた興味深くなるのは、ここから先であり、たとえば「指示詞はどうするか」「時制はどうするか」などクリアしなければならない問題がたくさんひかえていること(しかし解決は不可能ではないこと)を示唆して論文は終わる。
ところで、この種の真理条件的意味論を、デイヴィドソン自身の「哲学的立場」とするような記述をたまに見かけるが、これは多少アンフェアなのではないかと思う。なぜならば、デイヴィドソンの功績のひとつは、「真理条件的意味論は、特定の哲学的立場を含意しない」と示したことにあるのだから。
彼はただ「いろいろ周辺事情を考えると、自然言語の意味論を研究するには、こういう方法が有望だと思うのだが、諸君はどう思うかね」と言ってるだけである。
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デイヴィドソンむずいよね。
』 (2007/08/21 18:55)著者近影はなかなかいいけどw
オレはとりあえず隠喩の意味するものだけ読んだ。これだけは素人にも読める。
そのうち読書会で取り上げたいです。
それも読みたい論文のひとつですね。
』 (2007/08/22 1:40)さっそく読んでみます。