■ 思った
たとえば「情報」という概念について。
A: われわれが日常的に用いている「情報」概念
B: 形式的(数学的)に規定された「情報」概念
の2つがある。
ここで、AとBのどちらが偉いかという問題があって、Bが偉いと思う人は、AとBが食い違うとき、「日常的な概念は曖昧なものであって、より厳密な定義を用いるべきだ」とする。
しかし一方、Aの方が偉いという考え方もあって、そちらに即して考えるなら、BとAが食い違うのは、Bの形式的規定が日常的直観をうまく表現できていないから、ということになる。
わたしはどちらかというとAが偉いという立場だが。
今日思ったのは、常識的直観に合っていることは大切だが、それを争点にしてはいけないということだ。なぜならばXの方が直観に合っている、Yの方が合っている、という議論には終わりがないからだ。
いや、これだと言い方が悪いな。議論に終わりがないのではなく、論証にならないと言うべきか。2つの競合するモデルがあるとき、(どちらかが明らかに破綻しているというのでなければ)、可能な作業は、Xのモデルの方がシンプルであり直観にも合っているという「勧誘」や「説得」のみだろうと、そういうことを思った。
■ 読書
柏端達也(著)
勁草書房、1997
おもしろいので2回目を読んでいる。
デイヴィドソンの解説書かと思っていたが、そうではなく、「アンスコム、デイヴィドソンの主張を概ね受け入れたあげく、自分なりにその成果を発展させる」という本だった。
しかし、
「AGENTはOBJECTをφすることによって、γした
」
などという例文を読んでいると、必然的に、かのドラえもんを爆笑させた22世紀のギャグ「アルファがベータをカッパらったらイプシロンした。なぜだろう」を思い出してしまう。
■ 行為
行為論におけるデイヴィドソンの成果を説明することは簡単だ。
Aは昨日友達の家でニコニコにログインし、初音ミクオリジナル曲「歌詞を乱数で生成した歌」を聴いた。
ここから、
Aは昨日ニコニコにログインした
を推論することは常識的な直観に合っている。
(たとえニコニコや初音ミクが何だか知らなくてもこの推論自体は可能である)
しかし、かつて、この推論をうまく表現できるモデルは存在しなかった。
デイヴィドソン以前に主流だったやり方では、「友達の家でニコニコにログインし」は「友達の家でニコニコにログインする」というただ1つの述語として扱われてしまう。
それに対し、デイヴィドソンは、先の文を「ある出来事」について述べたものと解釈することを思いつき、
(ア)ある出来事が存在し、それは昨日の出来事であり、それはAの友達の家で起きた出来事であり、それはAがニコニコにログインするという出来事であった
という風に言いかえればよいと提案した。
(ア)から、「ある出来事が存在し、それは昨日の出来事であり、それはAがニコニコ動画にログインするという出来事だった」、つまり、「Aは昨日ニコニコ動画にログインした」を導く推論は、初歩の述語論理だけで表現することができる。
これ自体は別にむずかしくも何ともない話だと思うのだが、むずかしいのはむしろ「で、それができると何が楽しいのか」を伝えることだ。
たとえば「生きる意味が知りたくて」とか言って哲学書を読みはじめた人に対して、「これが素晴しい哲学的成果なんだ」って言っても絶対納得しないだろうし。ポストモダンがどうのこうの言う人も絶対納得しないだろうし。
しかし改めて考えると、「日常的な行為の概念をきれいにモデル化できる」って言っただけで「それはすごい」と思う人はたくさんいるはずだよな、と今日思った。
■ しかし
この「雑記X年X月X日」というタイトルにはまったく一覧性がないな。
この方が書きやすいのだが、個々の見出しにタグがつけられないのが問題か。あとMTの検索が重くて使いものにならないのもよくない。
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 雑記2007年10月22日(月)
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.at-akada.org/mt/mt-tb.cgi/416

コメントする