■ 文学
おそろしいことに今の日本では「純文学」よりもジャンル小説の方が敷居が高くてアカデミックなものになりつつあるわけだが。
少なくとも二世代くらい前までは、文学と言えば、難しいことを知っている人が難しいことを考えながら超絶技巧を駆使してときに破滅へ向って疾走しつつ書くものであり、どちらかと言えば「怖いので近寄りたくない」というものだったと思うのだが。村上春樹や吉本ばななが出てきたときに「歴史との断絶」が云々され、その後どうなるのかと思っていたら、それっきり断絶したままになったという印象。
今や文学というのは何となく感性で書くものであり、一方ミステリやSFは楽しむのも書くのもその分野に関するそれなりの歴史的知識や教養を求められるので敷居が高いといった配置になりつつあるように見える。芥川賞をとるのは、内容があんんまなくて文章と構成がウェルメイドでぽわーとした生活ドラマみたいなやつばっかりだし。
別に文学がどうでもよいのだが、それってすごいことだと思っている。
■ 言説
あんまり確言できるような内容ではないが、書かないと忘れそうなので、書いておく。
言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から (シリーズ 社会学のアクチュアリティ:批判と創造)
東信堂、2006
たとえばこの本などを読むとしみじみ実感するのは、理論的傾向の強い社会学者は「言語論的転回」という言葉の意味がよくわかっていないということだ。
もちろんフレーゲもソシュールもひっくるめて指すような大雑把な意味で「言語論的転回」という語を使ってかまわないのだが*1、狭い意味での「言語論的転回」(フレーゲに端を発するそれ)に話をかぎるならば、論理学と無縁なところで転回を捉えても意味はないだろうと思う。
何に違和感があるかというと、「言語論的転回」を「考え方の違い」と捉えている節があること。
「Aという考え方からBという考え方に変わった。これを言語論的転回と呼ぶ」という趣旨の記述にはのきなみ違和感を感じる。わたしは言語論的転回を考え方の変化だとは思わない。それは発見であり、端的な驚きだと思う。
何についての驚きかと言えば「言語のなかに数学みたいなものがある件」について。
論理学というのはまあ数学みたいなもんだ。
しかしそれは現実の言語や判断によく似たものでもある。
そして驚くべきことはそこ。そこだけ。
「人間の言語や判断をいじってたら数学的体系みたいのが出てきたんだけど、何これ?」というのがまず根本的な驚きなのだと思う。そしてその体系に触れ、そのことを確かめてみることは後から来た誰にでもできる。
だから言語論的転回を一口に言っても出てくる考え方は千差万別。
「言語のなかに数学みたいなものがある件」をどうやって説明するかが人によって違うから。脳の構造だって言ってもいいし、社会的規約だって言ってもいいし、世界の構造だって言ってもいいし。
しかしいずれにせよ、「言語のなかに数学みたいなものがある件」にぶちあたること(ぶちあたったこと)を言語論的転回と呼ぶのだと考えることにするとわりとすっきり話がまとまる気がしている。
■ 思いつき
ふたりはプリンキピア
ふたり=ラッセルとホワイトヘッド
■ おれが金持ちだったら
らっぷびととみくすびとに金をやってオリジナル曲をつくらせハルヒ第2期OPに使う。
でも若いミュージシャンにいきなり大金をやったりするのはよくないかなーとも思った。というかおれが金をやらなくてもきっと自分でチャンスを掴むんだろうなー才能のある人はとも思った。
前提として金は無いわけだが。
■ ドゥルーズ
ドゥルーズとかが好きな人と話していると、相手が「冗長性が!冗長性が!」などと言うので、「ところでそれが情報理論の概念であることは知っているのか」と尋ねると、ムッとした顔をされ「それがオレと何の関係があるのか」みたいな態度を取られることが何度かあった。
きっとああいうのを「ゆとり」と言うんだろうなあ。
■ 数学
「数学とか科学の論文に対しても芸術作品のような美を感じることがある」といったようなことを言う人がいるじゃないか、ときに。たとえば最近id:pha氏が書いてた。
しかしわたしの場合それが実感としてよくわからずむしろ逆じゃないかと思ってる。
数学的な構築物に触れて「美しい」と感じのはよくわかる。
しかし(広義の)芸術作品に触れて、「美しい」と思うことなんかなくないか?と思う。作品に触れてわたしが思うのは「やべー、これやべー」とか「かっけー」とか「熱い!」とか「うまい!」とか「もえー」とか「おもしれー」であり、美しいと思うことはまずない。
思うに、「美」っていうのはどっちかと言うと必然的なものというか他ではありえないものに対して抱く感情じゃないか。限界までそぎおとして単純な構造だけがあるものなどを見ると、「美しい」という感情を抱いたりする。
一方(広義の)芸術作品にはそんなことは求めてなくて、作品のよさ・おもしろさは偶然的な部分にある。昔からあるお約束であるとか世の風潮に対して、つくった人が何を見たか・何をしたかっていう部分が重要なのであって、だからこそ「熱い」とか「やべー」はあっても「美しい」はない。
だから言うならばむしろ「芸術作品に対しても数学的な構築物に感じるような美しさを感じることがある」だと思うんだけど。
まあこれはきっとわたしの作品観が偏っているせいもあるんだろう。
■ グッドマン
http://www.at-akada.org/blog/2007/03/post-127.html
ひさびさに自分で書いた記事を読んで思い出した。わたしはこのとき椅子に使っていた木箱が壊れたので捨てると書いているのだが、今だに捨てていない......。もう半年以上経過しているらしい。ひどい話だ。
- *1: わたしが独裁者だったら止めさせるが独裁者じゃないので心の広いところを見せておく。
コメント(13)
コメントする
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 雑記2007年12月26日(水)
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.at-akada.org/mt/mt-tb.cgi/864
この日記とは全く関係ないが、イヌイット語の「雪を表す言葉」説の大元はヒュー・ブロディ『エデンの彼方』じゃないか
』 (2007/12/29 6:00)うーん、それもそれなりに古そうだが、もっと前に大元がありそうな気がする。サピア、ウォーフあたりじゃないのかなあ。
』 (2007/12/29 18:01)でもねでもね
』 (2007/12/29 23:18)宇宙とか数学もヤベーって思うことあるでしょ。だからヤベーと美は結構近いんだよ。
以前、俺は教授と数学について「美しい」という言葉を適用することはメタファーかリテラルかについて言い争ったことがある。教授はそんなもんメタファーに過ぎないといったけど、俺はリテラルに解釈するべきであると主張した。もしひとたび、「美しい」という言葉をメタファー的に使用することを可能とすると、リテラルな表現自体が消えてしまうゆえに、数学であれなんであれ「美しい」という形容詞は常にリテラルであると思ったのである。数学や科学に適用するのがメタファーならば、人間の行動などに適用するのはメタファーかリテラルか、という難問に突入するゆえ、俺は美的性質一般を本質的にメタファーであるが、リテラルな形容詞だと考えている。
ごめんなさい長文を。
> ふたりはプリンキピア
「途中で喧嘩して仕事放棄」で1クール途中で中止。
』 (2007/12/30 0:22)多様体が!多様体が!
』 (2007/12/30 0:24)も付け加えておこう。
>美しい
』 (2007/12/30 5:13)確かに「甘い」をメタファーで使うことはあっても「美しい」がメタファーだって言うのは何か変な感じがしますね。他にもそういう形容詞あるかな。「正しい」とかがそうかな。
「ふたりはアンチ・オイディプス(ドゥルーズ+ガタリ)」だと3作目くらいまでつくられそうです。
』 (2007/12/30 5:21)しかし「ふたりはエラリー・クイーン」あたりが一番生産性が高そう。
「ひとりでクロード+レヴィ+ストロース」が最強。
』 (2007/12/30 6:40)私も、純文学どこいっちゃったんだろうと思ってた。たったいまの「昔で言うところの純文学」みたいな文学って、もうないの?
』 (2007/12/30 14:00)>「ひとりでクロード+レヴィ+ストロース」
』 (2007/12/30 14:06)長寿番組になりそうです。
>「昔で言うところの純文学」
』 (2007/12/30 14:10)意味合いによる。「現代風だけどちょっと実験的な小説」くらいなら多少はある。
ただ、そのまま「昔の純文学」の延長にあるようなものは、もはや「長生きした戦後文学者」くらいしか書いてないと思う。
たぶん価値語はそんな振る舞いをするように思えるんだ。しかしながら「正しい」はメタファー的使用がありうると思うんだ。例えば「素数は正しい」。これが「美しい」になると微妙なところなんだよ。「素数は美しい」と。これはプッチ神父とかならリテラルに納得してもらえそうだが、普通の人にとってはリテラルに解釈できなくて詩的なメタファーのようにも思える。しかしながら、そのような言葉さえも強制的にリテラルに適用可能であるからこそ、美的用語は独特なんやと思う。
>ふたりはプリンキピア
』 (2007/12/30 14:25)途中から空気が読めないウィトゲンシュタインが仲間になるんじゃなかったけ?
>わたしが独裁者だったら止めさせるが独裁者じゃないので心の広いところを見せておく。
これってデイヴィドソンが元ネタだっけ?
>正しい
確かにこれは微妙だったかも。
>ウィトゲンシュタイン
いずれにせよ生産性が低そうです。
>独裁者
』 (2007/12/30 22:12)「わたしが言語科学大臣だったら」みたいなフレーズはデイヴィドソンにあった気がしますが、特に意識してなかったです。