■ 自然言語に非形式的意味は存在するか
「形式的意味」ではなく。
自然言語にかぎらず、そもそも非形式的意味なるものが存在するかどうか確信できないでいる。
自然言語というのは非形式的な意味に満ちたものであり、それを形式的手法で扱うことはそもそも不可能なのであり云々という議論がある。わたしはこの手の議論は眉にツバをつけて聞くことにしており、むしろ疑われてしかるべきものは非形式的な意味の存在なのではないかと考えている。
形式的意味の存在については疑いを持っていない。
たとえば、
- 誰某の父
- 誰某の父の父
- ...
- 誰某の父の父の...の父
という表現の無限の系列について、適切な解釈器を実装し、任意の表現が与えられた場合にデータベースを検索し、該当する人物を返すようなプログラムを実装することができる。この際、当のプログラムが、「の父」という語句が果す役割(意味)の適切な分析でもあることは疑わない (もちろんプログラムではなく、述語論理など、さまざまな形式言語を使うこともできる)。
しかし非形式的意味についてはどうだろう。
そもそも「非形式的意味」って何だ。
形式的手法で扱うことができない意味?
非形式的意味という概念にその程度の意味しかないならば、いかにも心もとない。
「扱うことができない」というのは2つ解釈の可能性がある。
「現在のところ扱えない」か「永遠に扱えない」かどちらかである。
たとえば「形式的手法では現在のところ扱うことのできない意味」を非形式的意味と呼ぶのだとしよう。この場合、「非形式的意味」が存在することは確かである。
しかしそれは「まだ会ったことがない親戚の人」というくらいのものであり、イミのある単位ですらないし、いずれ無くなるかもしれない。
一方それが「形式的手法では永遠に扱うことのできない意味」を指すのだとしよう。この場合、「非形式的意味」が存在するかどうかは疑わしい。なぜならば非形式的な意味が存在すると確信できるのは、
- われわれが「意味」と呼んでいる現象のなかにある領域が存在し
- その領域に存在するものは、形式的手法がどれだけ発達しても扱うことができない
という2つのことが証明された場合にかぎられるからだ。
しかしそんなことが証明されることなんてあるだろうか。
あってもおかしくないが、それが説得力のある仕方で示されるまでは自然言語が非形式的だなどというのはただの謬見である。
...と書いたあと、「こんな当り前のこと、わざわざ書いても仕方ないな」と思った。
しかし以下のブログ記事を見たため気が変わって公開することにした。
そうした一連の違いを、「どれでも」「何でも」の二語の違いに畳み込むのは土台無理である。言いかえるなら、自然言語・日常言語の文の力能を、単語を基本要素とする形式論理文法の力能に還元するのは無理である
これはひどい文章だ。まず「単語を基本要素とする形式論理文法」というのははじめて聞いた。量化子や関数記号って「単語」だろうか。それともわたしの知らないところに「単語を基本要素とする形式論理文法」というものがあって、それについて述べているのだろうか。
大体「どれでも」「何でも」というのは自然言語上の単語である。自然言語上の単語を必ず有意味な単位として考えなければならないと主張するならば、「論理文法」などという概念はまったく必要がない。自然言語の文法にまどわされることなく、論理文法を析出するようにしなければならないというのが、------論理文法を云々する人たちにとって------ここ百年ばかりの主潮流だった。「単語を基本要素とする形式論理文法の力能に還元するのは無理である」というのは、一見ある立場の人々に向けられた批判のようだが、そもそも存在しない立場の人を批判しているのではないかと思う。
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