■ shimに関し最近気がついた2つのこと
すごくどうでもいい話題です。
- 以前ブログに書いてあった「絶対故障だ てゆうかありえない」というのはPerfumeからの引用である。
最近Perfumeのベスト盤を借りたので気がついた。今書いてある「世界を売り飛ばせ」の元ネタはまだわからない。
- 以前「ふたりのもじぴったん」の話をしたら「ぴったんぴったん文字ぴったん♪」と唄いだしたので、「そんな歌じゃない」と言った。メロディーがおかしいのはともかくそもそもそんな歌詞は無い。しかしあとあと振り返って考えるに、あれは「つるぺったん」と混同していたのだろうと気がついた。
■ 右翼とか左翼とか
ネットで「ウヨ」とか「サヨ」とか書いてあるのを見るたびに違和感を覚える。「本当にそれは左翼なのか? 右翼なのか?」と思ってしまう。
まず一番気になるのは、個別の政策単位で右翼とか左翼を判定しようとすること。
個々の政策を提案したり、反対したり、賛成したりというのはさまざまな立場を理由として為されるものなので、それを主義信条と結びつけるのはすごい変な感じがする。たとえば単純に「イラク戦争には反対」という主張をとってみても、そういう結論にいたった理由は「天皇陛下に危機がおよぶ可能性があるから」かもしれないし、「地球上から戦争を根絶すべきだと考えているから」かもしれないし、「なんとなく悪いことっぽいから」かもしれない。だから政策単位で主義信条を判断しようとするのは基本的に間違っていると思う。
なんだろうなあ。しばしば適当なニュアンスで「左翼」とか「右翼」って言う人は、「オタク」とか「DQN」などを認定するような感じで「こういうことを言いがち」とか「こういう本を読みがち」とか「こういう政策に反対しがち」、「あと周りの人も似たような感じ」という理由で、あたかも当人のトライブを認定するような形で、どっち翼であるかを判断しているのではないかと思う。そしてへたをすれば本人たちもそういうノリで自分たちの政治信条を把握しているのではないかと思う。
しかしそれも変だなあと感じる。じゃあどうすべきかという話を書こうと思ったが大変なのでもっと大雑把な話をする。
(最近ブログを更新してなかったので何はともあれ更新したいのである)。
とりあえず簡単ながら思うこととしてはだな。「右翼左翼」というのは「フランス革命をとめたい派/フランス革命を進めたい派」という意味なのだからフランス革命と関係のないケースでは使わない方がいいんじゃないか。
一応マルクス主義者などは「これこれこういう理由で、おれらこそフランス革命派の最先端」という理屈をつけていたわけじゃないか。そのような感じで、どうしても右翼左翼をなのりたい (または右翼左翼を認定したい) 場合は「フランス革命から現在にいたるまでにこれこれの展開があり、まさにわれわれ(ないし彼ら)こそフランス革命反対派、推進派の末裔なのである」という説明を用意すべきじゃないか。
もちろんトライブを認定するために「右翼左翼」ということばを使ってもいいのだけど、問題はトライブと関係のない「右翼左翼」とまざって話がややこしくなることだ。
たとえば「プロレタリアートによる暴力革命こそフランス革命以来の歴史的展開から導きだされる必然的な戦略なのである」という主義信条と「なんとなく暴力とかはいやなので戦争反対」というのはまったく関係のない (どころかときに相反する) 立場じゃないか。それを一緒にして「左翼」とか呼ぶのはやっぱよくないよなあと思うのであった。「いわゆる右翼左翼とはまったく関係ない」ということを広く周知したうえで、サヨ、アンチサヨ、ウヨ、アンチウヨくらいのことばを使うことにしとけばいいのかな。
しかしこういうことを考えていると、現代は政治思想が少ない時代なのだなあとしみじみ思う。よしあしはともかく、昔の人達 (19世紀から20世紀中盤くらいまで?) は「これこれこういう方法で政権をとり、こういうしくみの新しい国家をつくろう」ということを具体的に考え、議論し、ときに革命に成功したりもしていたわけじゃないか。
一方現代をふりかえってみるに、そういった具体的な戦略を構想する議論はきわめて少ないし、革命をおこせるほどの人気もない。
- マイノリティの視点からは学ぶべきものがたくさんあるよね
- マイノリティを大切にした方がいいよね
- 福祉を充実させるべきだよね
- 国家とかあまり信用できないよね
という主張をのぞくと現代の左翼っぽい人たちって他に何か主張してたっけ?という感じ。
(あまり右翼に詳しくないので------左翼にもさほど詳しくないけど------右翼の例が少なくて申しわけない)。
ということはつまり、現代は新しい政治的なアイデアが枯渇した状態だということなのかもしれない。
まあわたしが知らないだけですごく新しくすごく刺激的なアイデアを考えている人たちがどこかにいるのかもしれないが。
個人的には「これは新しいなあ」と感じたのは動物の権利運動くらいだなあ。
■ エディタがおまえに合わせるのではない。おまえがエディタに合わせるのだ
道具が人間に合わせていくだけなら人間は退化していくばかりだが、道具に合わせる自ら修練をつむことで人間はさらなる進化をとげる。
ということを最近考えた*。
そういう意味では「軍服に合わせろ」メソッドにも一理あるように思わないでもない。
わたしは秀丸を愛してやまない人間だが、泣いて馬謖を斬る思いで*、emacsを使うことにしようかと思っている。
わたしは軽いソフトこそ善という派閥なので、Meadowに関しては起動が重いことが気になっていたが、site-lispを整理したらすごく軽くなった。ので今後積極的に使おうかなー、と思っている。
あと最近気がついたがGNU EmacsのWindows版ってふつうにWindows上で動くし日本語も通るんだな。だからこっちを使ってもいいかもしれない。
■ タブローを描くプログラム: 反省
反省をメモすることで、忘れないようにする。
- 表示部分とタブロー構築のロジックが分離できてないのはいかがなものか。
本当は表示部分をすぐFlashに切りかえられるくらい分離すべきだったなあ。HTMLを変更しただけでコア部分に変更が必要になる実装はよくないな。
- もっとライブラリに頼ってもいいんじゃないか
なんかあるとすぐ「じゃあ自分で (ゼロから) つくってみよう」と思ってしまう。勉強という意味ではそれでいいんだが、利用する人からするとそんな頑張りには意味がない (これは勉強を目的とした企画だったのでそれでいいけど)。たとえば、今回は「論理式パーサを自分で実装する」というのが個人的なチャレンジだったのだが、その部分で既存のライブラリを利用していたとしても、「タブローを描くプログラム」そのものの価値には代わりはないわけで。「勉強志向」と「完成品志向」はときに対立するなあと思った。
- タブローを描くプログラムより、「矛盾を判定するプログラム」の方がすごそうじゃないか
もう少しエンジン部分を分離し、「矛盾を判定できる」「ついでにタブローも描ける」という風にプレゼンすればよかった。
言ってもしかたない (というか人に聞かせてもしかたない) ことばかりだが、「ブログに書く」のがものを忘れないための一番よい方法だと思っているのでやむをえずここに書くのである。
■ 読書
レイモンド スマリヤン (著), 長尾 確 (翻訳), 田中 朋之 (翻訳)
白揚社、1990
を読んでいる(というか解いている)。おもしろい。
- >>ゲーデルを読もう
- >> ゲーデルを理解するためにこの本を読もう
- >> 真理値表書くのめんどうだなあ タブローの描き方忘れちゃった
- >> せっかくだから思いだすついでにタブローを描くプログラムを書こう
- >> 結構時間かかる
- >> できた
- >> 早くこれ読みおわらないと
という感じでスタックがつみかさなり、なかなかゲーデルにもどれないという罠。
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松本和夫「数理論理学」(共立出版)という本が面白いと思うのですが、もしまだ読まれていませんでしたらお薦めします。Gentzenの自然推論という表記法(タブローのような証明法)があって、古典論理と直観主義論理を似た形で表現できたり、超限帰納法による自然数論の無矛盾性の証明に使えたり。今読まれている本の後にでも。
http://www.amazon.co.jp/%E6%95%B0%E7%90%86%E8%AB%96%E7%90%86%E5%AD%A6-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E5%92%8C%E5%A4%AB/dp/4320016823
』 (2008/02/ 5 20:28)おお..。ありがとうございます。
』 (2008/02/ 5 21:27)名前くらいは聞いたことがある本です。大変そうですが、おもしろそうですねえ。ぜひ手にとってみます。