2008年3月

生活

スーパーのなかをぼけーと歩いていたらワインの瓶をひっかけて割ってしまった。

そのあとも、レンタルビデオ店で (こりずにまたDVDを借りに行った) 会員カードがみつからずパニくっていたら、スーパーの袋を落してひっくりがえした。

こういう行動を、うまいこと萌え要素としてアピールできないものか...。


あとスーパーの店員さんが、こぼれたワインの上に糠をふりかけ、ほうきで糠をかきあつめるという掃除技法を駆使していてすごいと思った。糠ってそんなことにも使えるんだすげー。




読書

堀越 英美 (著)

幻冬舎、2008


名著でした。

では、宮沢賢治は妹にハァハァすることはなかったのでしょうか。宮沢賢治と妹の兄妹相姦的な関係性についてはさまざまな評論家が触れていますが、なかでも中沢新一『哲学の東北』に収められている賢治論は、すがすがしいほどに妹エロス全肯定です。母性から閉鎖性と肉体性を削ぎ落としたものが「妹」であり、愛情を固着も肉体接触もない「輝く粒子」としてとらえていた賢治は、だからこそ「妹」という存在を愛していたといいます。


(...メカ沢新一先生による妹萌え全肯定のおことばが引用されるが省略)


妹萌えはきれいな性欲......。宮沢賢治が実は「妹ハァハァ」な人だったとしても、彼の詩の透明性はなんら損われることはないのです。


p27-28、強調は引用者。


まだ全部読んでないけど、各章のまえがきがどれもすばらしい。

強い相手と対等に対することができず、弱いものにひたすら萌えるしかない、そういった「どうしようもない日本文学」の姿を描きつつ、それでいて完全に突き離すわけでもない適切な距離感が良いと思いました。日本文学のどうしようもなさというか、過剰な柔弱さみたいな変なところを冷静に描きつつ、でもそんな日本文学に萌えー、という複雑さ?(ちがうかも)

無論本筋は、萌える小説を集めたブックガイドなわけだけど、萌え対象だけでなく、ちゃんと「萌えるわれわれ」の姿も描き込まれているので、「トホホ...な日本文学と日本人」論としてもおもしろいかと思います。比較するもんでもないけど、冴えているときの斉藤美奈子みたいな感じ。



あわせて読みたい。

リビドー・ガールズ―女子とエロ




読書

現代形而上学論文集 (双書現代哲学2)

  • 『現代形而上学論文集』

勁草書房、2006


  • デイヴィド・ルイス「普遍者の理論のための新しい仕事」

がおもしろかった。

うそつきのパラドックスとラッセルのパラドックスとゲーデルの不完全性定理とカントールの対角線論法のあいだにつながりがあるように、グルーのパラドックスとウィトゲンシュタインのパラドックスと根源的翻訳の不確定性のあいだにはつながりがあると、少なくとも直観的に感じる。

「どうもこれは関連した問題のようだな」と思いつつ、関係を整理できずにいた。しかしこの論文は種々の問題のつながりに大変見通しのよい展望を与えていると思う。


エキゾチックなまでに形而上学的なのに、とても論理的で、よく整理されていて、さまざまな立場に対し中立的で、バランスのとれた記述だった。よい論文だなあ。

あとこの人、実はすごくプラグマティックだな。どの論点についても「これを認めるとこの問題とこの問題の解決に役立つので認めた方がいいだろう」みたいな姿勢だ。

↓イメージとしてはこんな感じ。

「おいおいボブ、ちょっと待ってくれよ。法則や因果関係をうまく定義できないと科学者は仕事にならないだろ? でもな、この普遍者っていうクレイジーなやつを認めて、そこに仮定をいくつかつけたすと、それが定義できちまうんだぜ。HAHA!」

プラグマティズムと形而上学って両立するんだwというのが新鮮だった。



わたしによる整理

  • グルーのパラドックス、ウィトゲンシュタインのパラドックス、根源的翻訳の不確定性に共通するのは、経験的データだけを利用して帰納的に推論しようとすると、どうしてもまともな結論に到達できないという問題だ。
  • 参考: グルーのパラドックス - Wikipedia
  • 論理的に可能なすべてのカテゴリーを認めると、「グルー」や「クワス算」のような変態的カテゴリーを排除できない。データと帰納法だけを使おうとすると、「すべてのエメラルドはグルーである」という変な結論まで支持されてしまう。
  • 未知の言語を話す人がウサギを見るたびに必ず「ガヴァガイ」と言うとしても、「ガヴァガイ」は「ウサギ」という意味だとはかぎらない。「ガヴァガイ」は、「ウサギとともにある時間」「すべてのウサギおよび東京タワーからなる単一の実体」「ウサギの諸部分にはたらきかける重力」「耳の長いもの、あるいはブラックホール」などを意味するかもしれない。
  • あまりにも数多くのカテゴリーを考えうるから、帰納的判断や翻訳の可能性はつねに過剰なのである。
  • しかし論理的に可能な性質の内、少数のものだけが自然な性質であるという仮定を認めると、これらの問題の解決に役立つ。
    • グッドマンの「擁護された概念」、クリプキの「共同体」などは、この「自然さ」に対する分析のバリエーションと言えるかもしれない(←これはわたしの意見)。

要約

  • オーストラリアのアームストロングさんは個物のなかに現われる普遍者について論じてきた。アームストロングさんの議論の多くの部分には賛同できないが、普遍者の存在を認めるといろんな問題に片がつくのは確かだ。普遍者は次の問題の解決に役立つ。複製、スーパーヴィーニエンス、因果関係、法則、唯物論のミニマルな定義、言語と心の内容。
  • 普遍者と性質のちがい。性質というのは、単に個物を集めたクラスのことだ。一方、普遍者は実体であり、個物のなかにまるごと存在する。たとえば「赤」の普遍者は、すべての赤いもののなかにまるまる顕現している (もしそんなものがあるとすれば)。
  • さて、普遍者くんの存在を認めよう。普遍者くんの重要なところは、まばらにしか存在しないってことだ。論理的に可能な多数の性質の内、普遍者を例化したものはごく少数だ。
  • すると、「自然的性質とは、すべてのメンバーが共通の普遍者を例化した性質である」などの形で自然的性質を定義できる。普遍者くんの仕事はここまででおわり。明日からは自然的性質くんに働いてもらう。
  • 複製の分析。複製とは、自然的性質は同じだけど、異なる2つのもののことである。これを認めると、スーパーヴィーニエンスや決定論をうまく分析できる。
  • 法則の分析。良い理論とは、現実に合致するだけではなく、自然的性質を含む理論である。法則は、良い理論のなかに現われる規則性である。
  • 因果関係の分析。因果関係は反事実的条件文によって分析される。しかしこの分析には、自然的性質が必要である。
  • 唯物論の分析。省略。←ここは結構おもしろかった。けどちょっと大変なので省略。
  • 言語と心の内容の分析。
  • 理論の意図された解釈とは理論を充足される解釈である、と考えると、あまりにも多くの解釈が可能になってしまう。無理矢理変な解釈をこじつければ、理論を充足させることができるからだ。理論や言語の指示対象が約定によって定まるとすると、この問題は解決しがたい (なぜならば約定もまた言語によってなされるしかないからだ)。しかし「述語を自然的性質に関連づけるべし」という制約をもうけると、自然な解釈だけにしぼれる。
  • 信念 (心の内容) についても同様である。信念の解釈については、「適合の原理」と呼ばれる制約がある。
  • 主体の状態Sがある行動Aをひきおこすとしよう。状態Sは何らかの信念として解釈される。われわれはこのとき、主体の抱く価値観がAを合理化するようなかたちでSを解釈しなければならない。これが適合の原理である。
  • 主体の信念体系を確率分布Cとし、主体の価値観を効用関数Vで表現すれば、適合の原理はCとVの関係として表現できる。
  • しかし、C とV (信念と欲求) のめちゃくちゃな組み合わせでも適合の原理が満たされてしまう(「わたしが月曜日生まれであれば長生きしたい。それ以外の場合には寿命が偶数年であってほしい」とか)。
  • だから、適合の原理に加えて「寛容の原理」が要求される。これは「主体の信念がなるべく現実に合致するような解釈を選べ」という原理だ。
  • 自然的性質は寛容の原理を補助する。信念が現実に合致するだけではなく、信念をなるべく自然的性質に関連づけるべし、という制約をくわえるのだ。

もよおし

ジェフ・クルター氏来日講演に行った。

2日めと4日めに参加しました。


  • やはり会話などの具体的な分析はめちゃくちゃおもしろい。次のターンでの修復の話はかなりおもしろげ。
  • わりとユーモアのある人なのかな。
  • 2日め。タイトルに"Syntax"と入っているので期待して行ったのだが...。
  • なんかシンタックス/セマンティクスというものを非常に狭く取った上で、「そんな区別は成り立たない」と言っているような印象が...。
  • チョムスキーを批判している割に、シンタクス/セマンティクスについてはパースの定義を参照しているだけだし...。
  • あと前から気になっていたが、やはりこの人の言う「アプリオリで偶然的」は、どちらかと言えば「アポステリオリで必然的」だな。というか、ふつうに「分析的」って言えばいいところでわざわざ変な言い方を採用しているように見える。これは本当に言葉の使い方だけの問題なのでアレだが。
  • 4日め。最後の最後に神経科学の人からの反論(質問?)、みたいなコメント。すごくおもしろそうなやりとりをしていたのだが、英語がわからず、ぜんぜんついていけない...。



DVDが返せない

レンタルビデオ店でDVDを借りると毎回延滞してしまう。今回はとくにひどく「その内観ればいいだろう」と思っている内に4日延滞していた。30分のアニメのDVDなのに、どうしても観るのをめんどくさがってしまう。

人や店にものを借りると絶対に返し忘れたりなくしたりするので自分にはものをレンタルする能力がないのではないか、と疑いはじめている。

人や店からものを借りないように自省した方がいいのかもしれない。




Project Euler

人々に影響され、Project Eulerをはじめた。

勉強のつもりなので C++ で解くよ。コンパイルのコマンドが g++ であることを知らなくてはまったど素人であるが。


C++ はブルーバックスに入門書があったので、それを読んでみたよ。


これならわかるC++―挫折しないプログラミング入門 (ブルーバックス)

小林 健一郎 (著)

講談社、2001


値段も高くないし、チュートリアルとしては悪くないような。

あと、↓こいつを辞書がわりに。


とりあえず最初の4問を解いたが、サイトが落ちてて解答できない...。

日常

美容室に行った。

つい行くのを忘れがちなので、最後に行った日をブログに書いておくことで忘れないようにしよう。




買った本

加地 大介 (著)

春秋社、2008


新刊。最近の勁草書房と春秋社はものすごいいきおいだなあ。

見たところ、これまでも断片的に形式存在論を紹していた著者による本格的な存在論の研究書であるらしい。工学系オントロジーとの関係も詳しく紹介されている。

実は期待してたので、早速購入。

哲学書のなかにWebセマンティクスって書いてあると (いい意味で) すごい違和感だ...。




堀越 英美 (著)

幻冬舎、2008


以前よりひそかに注目していた著者による期待の単著。さっそく購入した。


↓目次。期待に外れぬセレクションであるといえよう。

http://inspirace.80code.com/2008/03/post_15.html

生活

  • 卒業しました(この支配から)。
  • あと約2年つづけた仕事も今日で最終日でした。

特に言うことはないのだが、まあ書いておくとよいかなと思ったので書いておく。実に3月ですね。




学習

素人目にも相性がよさそうだなあと思っていたが、やはり確率論と論理学の意味論、とくに可能世界意味論はそっくりだなあ。

読み換え表をつくっておくとわたしが確率の勉強をしやすいので読み換え表をつくっておこう。

おれ用。


確率論 - Wikipedia

標本空間Ω => 論理空間(可能世界全体の集合W)

標本空間の元ω => 可能世界w

事象event => 命題 / 事態

根源事象 => 原始命題

事象すべての集合F => 命題すべての集合?

Fが加算加法族、という条件は、論理式の再帰性、つまり「P, Qが論理式であれば『PまたはQ』も論理式である」に相当するものだな。


確率測度 => 付値関数(まあ、ここはかなり違うものだけど)

確率空間 => クリプキモデル


主観確率であれば、信念論理と同じ考え方をすればよい。

というか、さっき気がついたが、主観確率と論理学で言う「信念」の対応って、デイヴィドソンの統一理論を結び合わせる蝶番に位置するものだな。

これがあるからこそ、デイヴィドソンは意味の理論と行為の理論 (決定理論) を結びつけることができたのだね。

説明はしょりすぎだが。


述語論理的な確率論てないのかな。述語様相論理が大変なのと同じ理由で大変なことになりそうだが。

(あるみたいだが、あまり情報を見つけられなかった)。

というか、様相論理と確率論の関係だったらたぶんカルナップを読めばよいような気はする。



帰納的確率と様相の論理

永井 成男 (著), 大窪 徳行 (著)

早稲田大学出版部、1986


↑こういう本もでている。


↑これには、確率の問題もちょっと入っているね。

買ってみた。


ファジィ真理値は確率と混同されやすいが、概念的には異なる。ファジィ真理値は漠然と定義された集合に対するメンバーシップ関数で表され、何らかのイベントや条件の発生確率を表すものではない。

へー。


↓あとで読むかも




読書

ケインズの哲学

伊藤 邦武 (著)

岩波書店、1999


ケインズが元々分析哲学者だったというのは知っていたが、ケインズが主観確率を含む確率論の分野で仕事をしていたというのは最近知った。

買った。読んだ。おもしろかった。

あとあまり関係ないが、確率論における「頻度説」ってよく考えると一種の実在論だな。

確率の場合についてはわりと皆自然に頻度説を受け入れているように思えるのだが、なぜか確率の場合だけ実在論が受け入れやすくなっているのはちょっとおもしろいな。


人間的な合理性の哲学―パスカルから現代まで

伊藤 邦武 (著)

勁草書房、1997


著者はこんな本も書いている。これは意思決定論を扱ったものらしい。気になる。

生涯一文学徒

人に「小説も読むんですか?」と聞かれ、びっくりした。読まなそうに見えるのか。

一応腐っても(?)、生涯一文学徒のつもりである。

どっかに (自転車などに) わかりやすく書いておいた方がいいのかな。

* ちなみにこれはmmww氏が学生時代、自転車に「生涯一文学徒」と書いていたという内輪受け的エピソードを背景にしている。




読書

プランク・ゼロ (ハヤカワ文庫 SF―ジーリー・クロニクル (1427))

早川書房、2002


未来史ものの連作。おもしろかった。やっぱ未来史はいいなあ。

↓続編。いずれ読もう。


真空ダイヤグラム―ジーリー・クロニクル〈2〉 (ハヤカワ文庫SF)

スティーヴン バクスター (著), Stephen Baxter (原著), 小野田 和子 (翻訳)

早川書房、2003




にょろーんくわいんさん

             -‐ '´ ̄ ̄`ヽ、
             / /" `ヽ ヽ  \
         //, '/     ヽハ  、 ヽ      も   ペ
         〃 {_{ノ    `ヽリ| l │ i|  あ      す ガ
         レ!小l●    ● 从 |、i|   る の     サ
          ヽ|l⊃ 、_,、_, ⊂⊃ |ノ│  か     る
        /⌒ヽ__|ヘ   ゝ._)   j /⌒i !  い  は
      \ /:::::| l>,、 __, イァ/  /│  ?
.        /:::::/| | ヾ:::|三/::{ヘ、__∧ |
       `ヽ< | |  ヾ∨:::/ヾ:::彡' |
             -‐ '´ ̄ ̄`ヽ、
             / /" `ヽ ヽ  \
         //, '/     ヽハ  、 ヽ
         〃 {_{       リ| l.│ i|  く
         レ!小lノ    `ヽ 从 |、i|  ぁ
          ヽ|l ●   ●  | .|ノ│  ば
            |ヘ⊃ 、_,、_,⊂⊃j  | , |.  が
          | /⌒l,、 __, イァト |/ |  い
.          | /  /::|三/:://  ヽ |
          | |  l ヾ∨:::/ ヒ::::彡, |

論理的観点から―論理と哲学をめぐる九章 (双書プロブレーマタ)

論理的観点から―論理と哲学をめぐる九章 (双書プロブレーマタ)

W.V.O. クワイン (著), Willard Van Orman Quine (原著), 飯田 隆 (翻訳)

勁草書房、1992


読書会で第二論文を読んだ。

人間原理と多宇宙

多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス

三浦 俊彦 (著)

青土社、2007


上の本を読んで以来、人間原理おもしろいなーと思っている。


  • 「この宇宙は知的生命の誕生を許容するようなかたちをしている (=ファインチューニングされている)」
  • 「宇宙がそのようなかたちをとる確率は低い (=宇宙はほかのさまざまなかたちをとりうる)」

という2点を認めると、「宇宙は複数存在する」という推論が導かれるそうだ。


以下のような実験を考えよう。

[A]

3つのサイコロがある。

あなたは眠らされ、サイコロの出目が「6,6,6」だったときだけ起こされ、質問を受けることになっていた。この実験の設定はあなたにも知らされてある。

あなたは目が覚め、質問を受ける。

「最後に出たサイコロの目はいくつだったと思う?」

「6,6,6」

「『6,6,6』が出る確率は1/216。こんなに低い確率の出来事が起きたのはなぜだと思う?」

「サイコロをふる回数は特に制限されていなかった。つまりサイコロを何度もふったんでしょう?」


また別の実験。

[B]

宇宙の初期条件が「6,6,6」だったときだけ、知的生命が誕生することになっていた。

「6,6,6」を満たす宇宙のなかで知的生命が誕生し、考える。

「調べてみたところ、この宇宙の初期条件は『6,6,6』であり、知的生命が誕生するのはこの場合だけであることがわかった」

「初期条件が『6,6,6』となる確率は1/216。こんなに低い確率の出来事が起きたのはなぜだろう?」

「宇宙が1つしかないという仮定には特に根拠はない。つまり宇宙はたくさんあるんだろう」


ただし以下の推論は間違っている(逆ギャンブラーの誤謬)。

[C]

甲という生徒が教室でサイコロをふっている。乙という他の生徒がふと見ると、サイコロの出目はちょうど「6,6,6」だった。

乙は考える。「『6,6,6』が出る確率は1/216。こんなに低い確率の出来事が起きたのだから、甲は何度もサイコロをふったんだろう」


[C]が[B][A]と違うのは、[C]の場合、「6,6,6」という出目にはとくに意味がないこと。「1,1,1」や「1,2,3」や「2,6,6」の場合でも乙は同じことを考えるかもしれない。

一方[A][B]の場合には、「6,6,6」という出目があらかじめ固定されており、確率を考える推論者もそのことを知っている。

無論これは「推理」や「推論」であって「証明」ではないが、(宇宙が1つしかないという仮定に特に根拠がないという想定のもとで)「多宇宙の方がもっともらしい」という推論自体は特にまちがっていないように思った。

ちなみに人間原理から神の存在を導こうとしても無駄だそうだ。「神が存在するという条件のもとで宇宙に知的生命が誕生する」確率がいくら高くても、神が存在するという仮定の事前確率が低いので、仮説が破棄されてしまう。結局人間原理から独立に神の存在証明をしなければならない。




感想

多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス

三浦 俊彦 (著)

青土社、2007


「この宇宙はファインチューニングされている」という仮定から、「宇宙は複数存在する(多宇宙説)」「『わたし』は歴史上何度も繰り返しあらわれる(輪廻転生観)」という2つの説を導く本。大変おもしろかった。もしもマッドサイエンティストならぬ「マッドフィロソファー」というカテゴリーがあれば、三浦氏こそそれだ、という思いを強くした。


ただし「輪廻転生観」は正しいのかどうかよくわからんけど。

細部の議論にはまだなかなかついていけてないが、どうしても「それ、輪廻転生ちゃうやん」という気がしてならない。

ずるく感じられるのは、本書の議論は結局のところ、『わたし』の概念を変えろという主張だからだろう。

「魂というものがあって、それがさまざまな人にやどっていく」という説じゃなくて、「『わたし』というものを、歴史上何度も繰り返しあらわれるようなものと考えるようにしなさい」、または「よくよく考えてみると『わたし』という概念はもともとそういう概念だったんだよ」という話だ (違うのかもしれないけど、どうもそういう風にしか読めない)。

しかし東洋の哲学者がまじめに輪廻転生を論証するというのは、ガイジン受けが非常によろしいだろうから、英訳するとよいのではないかと思った。


人間原理そのものより、「観測選択効果」がおもしろい。

「なぜわたしは中国人ではないのか」と問う推論者が自分をデータとして扱う場合、サンプルとしての『わたし』には「自分は中国人ではないと思っている」というバイアスがかかっている(という話を書いた)。人間原理の話にもこれによく似た話がたくさん出てくる。

人間原理の場合も、サンプルとなるのは『知的生命』=自分たちの存在なので、「自分はどういうサンプルなのか」「自分はなぜこんな問題を考えるようになったのか」が問われ、しばしば話が非常にややこしくなる。


見た目はずいぶん違うけれど、よく見ればこれは伝統的な論理学・分析哲学の問題と非常によく似ている。

「命題の隠れた前提を明示しろ」というのはラッセル以来の伝統的な方針だし、「自分自身を確率論的なデータとして扱う」のは自己言及的な命題の一種である。


↓標準的な教科書だそうだ。たぶん読まないけど。




読書

以前コメント覧に、検索でみつけた意思決定理論の教科書っぽいものをいくつか書いた。

http://www.at-akada.org/blog/2008/03/2008315.html#comment-16739


実際に書店で見たところ、「意思決定の際に気をつけるべきこと」などを書いた本もまざっていた。

↓しかし以下は良い本だった。


論理学 (1冊でわかる)

論理学 (1冊でわかる)

グレアム・プリースト (著), 菅沼 聡 (翻訳)

岩波書店 (2008


論理学の入門書だが薄いなかにトピックをつめこんであっておもしろい。意思決定理論やベイズ確率についても触れられていた。

同一性や時間の話もあり、どちらかというと論理学ならぬ論理哲学入門に近い内容かもしれない。




読書予定

組織の中の決定理論

高橋 伸夫 (著)

朝倉書店、1993


↑これを読もうかなと思っている。4月以降。読書会のかたちにするかもしれない。



ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ダグラス・R. ホフスタッター (著), Douglas R. Hofstadter (原著), 野崎 昭弘 (翻訳), 柳瀬 尚紀 (翻訳), はやし はじめ (翻訳)

白揚社、2005


あと↑なぜかこれの読書会をすることになったが、参加希望者いないですか。

今のところ参加予定者は2人で、わたしと詩人のMRさんです。

前置き

↓の本を読みながら「なぜわれわれは中国人ではないか」問題について考えていたら解決した。

以下はえらそうに書いているが、ほとんど人間原理の応用である。


多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス

三浦 俊彦 (著)

青土社、2007


「なぜわれわれは中国人ではないか」問題をわたしが考えるにいたったきっかけについては、以下を参照。

http://www.at-akada.org/blog/2008/03/2008314.html#id_p1




「なぜわれわれは中国人ではないか」問題

「なぜわれわれは中国人ではないか」問題とは改めて定式化すれば下のような問題である。

わたしは平凡な人間であり、とりたてて特別なところはない。

いわば全人類のなかからランダムに選ばれたサンプルのようなものである。

しかし、本当にランダムなサンプルだとすれば、わたしは中国人である確率がもっとも高いはずである。

しかるにわたしは中国人ではない。

なぜだろう。

この場合、「わたし」は自分が平凡であると思えば思うほど、自分が中国人でないことが不思議に感じられる。

では、このような問題に悩む「わたし」に対して何を言ってやればよいだろうか、というのが「なぜわたしは中国人ではないか」問題である。


ちなみに、

「わたし」はランダムなサンプルではない

というのは不完全な解答である。

どういう点で偏ったサンプルであるかまで指摘しなければ答えにならない。


もちろん実際には、中国人である確率はそこまで劇的に高いわけではないので、中国人でないことはそれほど不思議ではない。

しかしこれと同種の謎に人が直面することはままある。




「なぜわたしは生き残ったのか」問題

別の似たような問題を取り上げよう。


郵便的不安たち# (朝日文庫)

東 浩紀 (著)

朝日新聞社、2002


東浩紀のデビュー作である「ソルジェニーツィン試論 - 確率の手触り」という論考がある。

実は本が見つからなかったので記憶から再構成するが、この論考は以下のような問題を論じていた。

(ここから)

ソルジェニーツィンが小説に書いたスターリン体制下のソ連では、人はさしたる理由もなく収容所に入れられ、殺された。

そのような状況に置かれた人々はしばしば「なぜ彼は殺されたのに、自分は生き残ってしまったのか」という問いに直面する。

しかしこの問いに答えが与えられることはなく、人々は理由の無い端的な事実に直面するしかない。あとはただむなしく答えのない根源的な問いを投げかけつづけるか、問い自体を放棄するしかない。

ソルジェニーツィンの小説が描いているのはそのような世界である。

(ここまで)


「わたしが生き残る理由なんて無かったのに(=平凡なのに)」「なぜ生き残っているのか」という風に定式化すれば、「根源的問い」と「なぜ中国人ではないか」問題の類似は明らかだろう。しかしこの「根源的な問い」に答えが無いというのは間違いであり、むなしく問い続ける必要はない。実際にはきちんとした答えが出る。




主観確率

さてこの場合、問題になっているのは、「わたしは中国人ではない」「わたしは生き残った」というすでに確定した事象である。

すでに確定した事象の確率を問う場合は、通常の確率(=客観確率)ではなく、主観確率*の考え方を採用しなければならない。


主観確率の場合、「推論者がどんな情報を得ているか」がきわめて重要になる。

マージャンを例に考えよう。マージャンのソーズ牌がすでにたくさん場に出ている場合と、まだ1つも場に出ていない場合では、「対戦相手がソーズを抱えている確率」は大きく異なる*。なぜならば前者と後者では、推論者が得ている情報が異なるからである。ソーズ牌がたくさん場に出ているならば、「対戦相手がソーズを抱えている確率」もそれに応じて低くなる。

* これが客観確率ではないことに注意。実際には対戦相手が抱えている牌はすでに確定している。「対戦相手がソーズを抱えている確率」とは、あくまでも対戦相手の牌姿を見ることができない他のプレイヤーにとっての主観確率である。


なお、一般に「なぜpか」と問う人に対しては、「すべての情報を考慮すればpの主観確率はきわめて高いですよ」という答えが適切な解答となりえるだろう。たとえばマージャンのゲーム中に「中」を捨てたあと、「なぜ誰も鳴かないのか」とたずねる人がいた場合、「すでに3枚見えてますよ」つまり「すでに中は3枚場にでており、しかも中は4枚しかないので、誰も鳴かない確率は1ですよ」と答えたならば、きちんとした解答を与えたものと考えてよいだろう。

以下では上記の問題に対し、この種の解答を与える。すべての情報をきちんと考慮すれば「わたしが生き残った確率」「わたしが中国人でない確率」はほぼ1である。




解決

ところで、「なぜわたしが生き残ってしまったのか」を問う推論者は、実際には推論者自身について1つの重要な情報を得ている。

それは、推論者自身は「なぜわたしが生き残ってしまったか」という問題について考えているところであるという情報である。

生き残らなかった人がこのような問題について考えるとは想定しがたい。よって「推論者は生き残った人である」という情報がほぼ確定する。

つまり、「わたし」はすべての人々からランダムにサンプリングされた人ではありえない。もし「生き残っていない人」であれば、そんな問題を考える可能性はきわめて低いからだ*。

* 「自分は生き残った」と信じている人が、実際に生き残った人である確率はきわめて高いだろうが、確率1ではないかもしれない。死んだ人が霊として存在しており、しかも「自分は生き残ってしまった」と勘違いしている可能性を考慮すれば、確率は1より少なくなるからだ。しかしいずれにしても確率はほぼ1である。


もし「わたし」がどれほど平凡に思えたとしても、この問題に悩んでいる時点で偏ったサンプルであるのは間違いない。仮にランダムなサンプルであったとしても、「自分が生き残ったと信じている人の集合からサンプリングされた人」である。

つまり、前提となる情報をきちんと明示するならば、実際に説明されるべきであったのは「自分が生き残ったと信じている人であるところのわたしが生き残っている」という事象である。つまり、自分が生き残ったと思っている推論者の集合からランダムに選ばれた人が、実際に生き残った人であったという確率を考えればよい。言うまでもなく、この事象が生じる確率は (生き残った推論者が1人でも存在するならば) ほぼ1である。



「なぜわれわれは中国人ではないか」問題も同様の論法で解決する。

「わたし」がこの問題について悩んでいるということは、「わたし」が中国人でない確率はきわめて高い。もしわたしが中国人であれば、「なぜわたしは中国人ではないのか」などという問題に悩む確率は低い*。

* ただし小さな子どもなどの場合には自分の国籍を誤解している可能性がある。たとえばわたしは子どもの頃、「自分は白人である」と誤って信じていた。自分の国籍を誤解した中国人の子どもが「なぜ自分は中国人ではないのか」と考えている可能性を考慮すれば、「わたし」が中国人である確率もわずかながら存在する。


よって「わたし」は、たとえどれだけランダムなサンプルであったとしても、「自分が中国人ではないと信じている人の集合」という偏ったサンプルから抽出された人である。

つまり問題となっている事象は、「自分が中国人ではないと信じている人であるところのわたしが中国人でない」という事象である。つまり自分が中国人でないと信じている推論者の集合からランダムに選ばれた人が、実際に中国人でなかったという確率を考えればよい。この事象が生じる確率は (中国人でない推論者が1人でも存在するならば) やはりほぼ1だろう。起きて当然の事象である。




言いわけと教訓

以上のように、「なぜわたしは生き残ったのか」「なぜわたしは中国人ではないのか」という問題にはきちんとした答えがある。

ただし上記のような答えを「なぜわたしは生き残ってしまったのか」と悩む人に伝えると相手が怒るかもしれない。

なぜならば上記のような確率論的な答えは、「根源的問い」に対し、あまりに世俗的な答えであるように見えるからだ。


しかし「怒るだろう」と決めつけるのはいささか失礼な想定である。

真剣に答えが知りたいと思って悩んでいる人であれば、正しい答えを聞いて怒るはずなど無いからである。もちろんわたしの答えが間違っている可能性もあるが、それならば不備を指摘し、一緒に (またはひとりで) 別の答えを探ればよい。

答えを聞いて怒るのは「深刻な根源的問いに悩んでいるポーズにひたりたかった人」だけである。


無論、親類や家族や友人を収容所で殺された人が、しばし悩むポーズにひたりたかったのだとしてもそれほど責められるべき点は無い(褒められるようなことでもないが)。

しかしはなから上記の問いをただの修辞疑問文だと決めつけるのは失礼である。もしわたしがそのような立場に置かれれば、実際に真剣に考えると思う。そして真剣に考えている問題に答えが与えられても、喜びこそすれ怒りはしないだろうと思う。むしろ「絶対に解決しない」と思っていた問題に、あまりに世俗的な答えが与えられれば、拍子抜けしポンと救われたような気分になるような気がする。


一方、悩んでいるふりをしていた人が怒ったとしても、わたしはそれほど気にしない。なぜならばその人は嘘をついていたわけであり、嘘をつくのは基本的には悪いことだからだ。わたしがうっかり「考えるふり」を信じて馬鹿正直に答えてしまったとしても、特に責められるようなことをしたわけではない。

無論、悩んでいる人が目の前にいれば、わたしだってそれほどスマートには行動できないかもしれない。しかし少なくとも理念としては、「正しい答えを知っている」と思っている以上、それがどれほどつまらない答えであろうと教えるべきだと思う。



以上。

教訓としては、

「どれほど平凡な人間であっても、悩んでいるふりをしている暇があれば頭を使って目の前の問題を解決しろ」

ということだと思う。

(こんな風にかっこうをつけて間違えていたら恥しいが、わたしに思いつくのはこの程度である。質問・異論があれば適宜教えてください)。

虚構の人の人権

これは考え出すとそうとう深いテーマなのであまりうまくは書けない。

ちょっとだけ切り口を思いついたのでメモしておく。(このブログはほとんどの場合がそうだけど)あまり他人向けではない。

倫理についてあまり真面目に考えたことがないので、この手のことを考えようとすると語彙の不足と思考の未整理に悩まされがちである。


  • 「権利はどのような感情に由来するか」
  • 「他人の苦痛や快に対する想像力である」

どれほど認められるかはわからないが、わたしは↑上のような発想をわりと信じている。

また、論証も説得もできないが、わたしは権利に関する事態をおおむね以下のように理解していると思う。


(ここから)

他人の苦痛・快と未来の自分自身の快・不快は似ている。どちら想像のなかにしか無いから。

この両者が同質のものであることを認めるなら、以下も導かれる。

未来の自分の快を招き、未来の自分の不快を避けるように行動できる人は、その能力を他人のために行使することもできる。

「権利」とはこの能力の行使を制度化したものである。

(ここまで)


しかるに、われわれ (の内の多く) が快や苦痛を想像できるのに、現状では権利を認められていないものがある。

その一例が「(人間以外の) 動物」であり、別の一例が「虚構の人」である。


なぜ認められていないのか。いくらでも理由はつけられるだろうが、結局大した理由は無い、と少なくともわたしは思う。

動物の権利については、すでにある程度論じられている。現在はまだ冗談のようなものでしかないが、100年200年の内にはきっと何らかの形で認められるのではないかと思う。

虚構の人のことだけを考える。

無論、生きた人間と同等の権利を与える必要は必ずしも無い。しかし「虚構の人」の「権利に相当するもの」もあるのではないかと思う。

それがどんなものであるかは知らない。しかし、苦痛や快を想像できる以上、何かがそこにあるはずだ、という気がしている。




読書

多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス

三浦俊彦(著)

青土社、2007


人間原理とファインチューニングから「輪廻転生」が帰結される、とする異様にスケールの大きいやばい本。「なぜわたしは中国人ではないのか」みたいな話が載ってそうだったので買ってみた。

横尾忠則ライクな表紙はなんと、著者自身の絵らしい。どんな哲学者だよ...。

(((((((( ;゚Д゚))))))))ガクガクブルブル


三浦氏の奇人奇才ぶりに恐怖を感じつつも、SF的なおもしろさを感じる。が、ベイズ確率に関する部分を読みとばしていたらだんだんついていけなくなってきた。

せめて記号の読み方を覚えておこう。

P(B) = 事象Bが発生する確率(事前確率, prior probability)

P(B|A) = 事象Aが起きた後での、事象Bの確率(事後確率, posterior probability)

とする。 ベイズの定理によれば、P(A) > 0 ならば、

P(B|A)=P(A|B) * P(B) / P(A)

が成り立つ。


ベイズの定理 - Wikipedia

変形すれば

P(A) * P(B|A) = P(B) * P(A|B)

だから、

「Aが起き、その条件の下でBが起きた確率」と「Bが起き、その条件の下でAが起きた確率」が等しいってことかな。



あわせて読みたい

可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

なるほど

ちょっと前に、「ゲーム理論と合理的選択理論と意思決定理論はどういう関係にあるのか」と書いた。


今日、

意思決定理論 = ゲーム理論 + ベイズ統計学

であることを知った。

あと「決定理論」「統計的決定理論」「意思決定理論」などがほぼ同じものを指すらしいことが何となくわかった。



英語圏の哲学者はよくこの意思決定理論について書いているのだが、日本だとあまり聞かないな。


↓あとパラパラWikipediaを見ている内に気づいたが、これは先日のパラドクス会で出てきたパスカルの賭けの話の元ネタだな。


ついでに選択理論。




パターナリズムって悪いことなの?

ときどき非難として使われているのを見るので、悪いことだという扱いなのだろうが、いまいちピンとこない部分がある。

パターナリズム(英:paternalism)とは、強い立場にあるものが、弱い立場にあるものに対して、後者の利益になるとして、その後者の意志に反してでも、その行動に介入・干渉することをいう。日本語では「父権主義」「温情主義」などと訳される。


これって要するにえらい人が、わたしのためを思って何かしてくれるということだよね (わたしが弱い立場にあるとして)。

「過剰な介入はよくない」というくらいの話ならわかる* んだが、「基本的にはよいことなんじゃね?」と思う。できればそうしてもらいたいよ。

* 「過剰」って言ってる時点で「よくない」という意味が含まれているわけだから、「過剰な介入はよくない」というのは当り前だが。


もっと言うと、「何がその人の利益になるかは人によって違う(本人にしかわからない)」という前提から出発するなら、パターナリズムはすべて「悪いこと」であり「余計なお世話」だと思う。しかしこの前提って特に根拠ないんじゃないか。「とりあえずそういう前提から出発すべきだ」というケースがあるのは理解できるが、だからと言っていつもそうすべきだというわけではないだろう。

「利益が万人にとって同じ」というのは間違っていると思うが、「全員バラバラ」と「全員同じ」という2つの極端なモデルを考えるのであれば、「全員同じ」の方が現実に近いモデルだと思うな、わたしは。




独学道 - 受験参考書

もしも「独学道」というものがあるとすれば、

  • 受験参考書を利用せよ

という教えは独学道の必須項目の1つでなければならぬ。

わたしの経験から言って、どの分野についても、大学の先生が書いた教科書よりも受験参考書の方がはるかに親切でわかりやすい場合が多い。

(大学の先生が書いた教科書は、まず問題がついていなかったり、問題がついていても解答がついていなかったり、解答がついていても解説がついていなかったり、全般的にひどいできのものが多い)。

理由は自明で、大学の先生は予備校の先生ほど「教えること」に対して真剣ではないからだろう。まあ彼らは「研究者」として雇われているのであって「教育者」として雇われているわけではないのだから仕方がない。無論その分野の専門家と話が通じるようになるためには、「標準的な本を読む」ことも大切なのだが、受験参考書を導入として利用するのはきわめて有効な勉強法である。


大学院生などは、そのような現実を見ず、受験参考書をばかにしてかかるものが多いが、これは実に憐れむべき謬見であると言える。

その点わたしなどは大学院受験時にこのことに気がついていたため (同時期に公務員試験を受験していたおかげである)、大学院入試にも公務員試験の参考書を利用した。大学院試験は2つ受験し2つとも合格したが、1つの側では、「専門科目はだんとつのできだった」と褒められた。これもすべて受験参考書のおかげである。


しかるに受験参考書の世界でもっとも層が厚いのは大学受験の世界である。ゆえに、大学受験科目に勉強したい分野が含まれている場合は、それを利用するのがもっとも簡便な独学法であると言える。残念ながら大学受験科目に含まれていない場合にも、公務員試験やさまざまな資格試験の参考書、問題集を利用することができる。



...と思い立ち、統計学などは資格試験の受験参考書を利用するのがもっとも良いだろうという結論に達した。

あとわたしは文系なので行列ができないのだが、よく考えればこれも大学受験の問題集を使うのが良いにちがいない。


社会人なのに独学独習に全力を費す諸先輩方を見習い、4月以降もがんばって独学道の奥義を極めるべく邁進したいと考える所存である。




思いつきで恐縮だが、


世間ではこのニュースが話題である。

以下は単なる思いつきな上にニュースと関係なくて恐縮だが、思ったこと。

児童ポルノ法にしろ何にしろ、「誰もが原理主義者と指弾されることを嫌がっている」のは嫌だよねえと思う。

わたしの考える理想の社会のなかでは、この手の出来事が起きた場合、法治国家の理想と原理を信じて止まぬ一千人の軍団が、「そも!法の原理とは!」みたいなうざい議論を仕掛ける一方、対抗する側は現代形而上学の成果を駆使し「なぜ虚構の児童が存在しないと言い切れるのか」というさらにうざい議論を仕掛け、事態がスコラ的に混迷を極めたあげく「もう面倒な議論を聞かされるのはごめんだ!」と怒り狂った騎馬兵の集団に全員が惨殺されて死亡するはずなのだが、現実の日本では誰もが「自分ではなく相手の側が原理主義者だ。おれはリベラルだ」と叫んでいて不愉快である。

気づき

電車のなかで速読の練習をしていると、電車を降りた後しばらく視野が広くなる。周りの人の動きが妙にくっきりと見えるのでおもしろかった。

あと、すごくがんばって集中して読むと2000字/分くらいまでは速くできることがわかった。




なぜわれわれは中国人ではないのか。

論理パラドクス―論証力を磨く99問

三浦 俊彦 (著)

二見書房、2002


「パラドクスの会」(仮称)というイベントに参加しました。

↑の本を読んでさまざまなパラドクスについてあれこれ考えるイベントです。


バランスよくさまざまな分野からいろんな問題をとってきている本で、会話のネタとしては非常におもしろかった。種々の問題の紹介の仕方も、特に専門知識がなくてもあれこれと考えて楽しめるようにうまく整理されていたと思う。

「哲学において大切なのは、問いをたてることではなく、解くことである」と豪語する著者だけあって、著者自身がずばずばと解答を出しているところも好感が持てた。自分たちなりに考えたあと、著者自身の解答に文句をつけていくのも楽しい。


とりわけ、

など、答えのない問題の方が考える余地があっておもしろい。


またフェルミのパラドクスに付随してでてきた下のような問題が印象深かった。


「宇宙にはどれくらい知的生命体が存在するのか」という問題に対し、次のような主旨の推論が紹介されていた。

「宇宙に知的生命体がたくさん存在するなら、われわれはそのどこに生まれ落ちてもよかったはずだ。しかし、われわれは現に地球に生まれたのだから、『地球に生まれる確率はそれなりに高かった』と判断すべきだろう。従って地球というのはこの宇宙のなかでも、歴史が長く知的生命体がとりわけたくさん集まっている場所の1つだと考えるべきだ (その極限的な場合として、知的生命体は地球にしか存在しない、というケースが考えられる)」

これに対し、参加者のひとりが、

「その推論が成り立つなら、『地球上では中国に生まれる確率が一番高かったはずなのに、なぜわれわれは中国人ではないのか』という問題も成り立つはずだ (しかしこれは問いの立て方が間違っているように思える)」

という疑問をはさんだ。


この「なぜわれわれは中国人ではないのか」という問題提起がなぜか一番心に残った。

これは確かに疑似問題のようにも思えるのだが、改めて考えると、一度くらいそういう疑問を心に抱くことがあってもよかったのではないかと思う。しかしそんなことまったく考えたことがなかった。

どうしてわたしは中国人ではないんだろう。これは果して説明のつけられるような問題なんだろうか。

あるいはひょっとすると本当は中国人なのに、そのことに気がついていないのかもしれない。


あとこういう風に何でも確率で考えるのがおもしろかったので、その後も「死んでいるか生まれる前の期間の方がはるかに長いはずなのに、どうしてわたしは今生きているのか」などとずっと言っていた。


しかし今考えるとやっぱりよくわからなくなってきたな。

日本人に生まれる確率は5分の1くらいだったわけだから、起きても不思議は無い程度の偶然であると言える。

しかしこれが10億分の1の確率となると、説明が必要なほどの強い偶然であるように思える。だから、「なぜわれわれは地球に生まれたのか」という問題に対し、「地球に生まれるのはそんなに低い確率ではなかった」と考えてもよいように思える。

しかし「わたしはなぜこの家族の一員として生まれたのか」とか「わたしはなぜこのわたしなのか」というのはとても低い確率で起きた出来事で、しかも解答を与えようがない疑似問題に思える。

うー、なんだかわからなくなってきた。

「わたしが他の星に生まれる」とか「わたしが他の家族に生まれる」という可能性がまず想定できないので (もし別の環境に生まれた人がいたとしても、それはわたしとは関係のない人であるように思う)、やっぱり問い自体が間違っているのかなあ。

しかし、そう考えていくと、

  • 「わたしが中国に生まれていたかもしれない、などとは考えられない(=不可能である)」
  • 「それ以外の国についても、わたしがそこの国に生まれていたかもしれないなどとは考えられない」
  • 「よってわたしが日本人として生まれたのは必然である」

となって、国籍* がわたしの必然的属性であることになってしまうなあ。

それもちょっと変な感じがするんだが......よくわからない。

やっぱり本当は中国人なのかもしれない。

* 正確には、生後国籍を変える可能性があるので、「生国」と言うべきか。



あとパラパラ見ていて一箇所だけ気になった点があった。

  • 017「バベルの図書館~対角線論法」

の箇所。


バベルの図書館を、無限の長さの本をも含む無限に広い図書館と定義していて、対角線論法を使って、「バベルの図書館にも収録されていない本がある」という議論を構成している。しかし、これは変だと思う。

いや、この定義に従うなら正しい議論なんだけど、バベルの図書館はそういう図書館じゃないんだ。


伝奇集 (岩波文庫)


原作では、バベルの図書館にある本の長さは決まっているんだ。

全て同じ大きさの本であり、一冊410ページで構成される。さらにどの本も1ページに40行、1行に80文字という構成である。

だからバベルの図書館には有限個の本しか収録されておらず、対角線論法は成り立たないんだ。

想定を変えてもかまわないけれど、一応原作における設定がきちんとあるんだから、一言説明をつけ加えるなどしてそっちも尊重してほしかったなと思った。



クワイン

論理的観点から―論理と哲学をめぐる九章 (双書プロブレーマタ)

W.V.O. クワイン (著), Willard Van Orman Quine (原著), 飯田 隆 (翻訳)

勁草書房、1992


上のイベントとは別口で、「経験論の2つのドグマ」をオンライン読書会で読んだ。

前半の論旨がちょっと整理できたのでメモしておく。自分用。


  • 分析的言明なるものをきちんと説明できるかどうか試してみよう
  • 分析的言明は、「言語の意味だけによって正しいことがわかる言明」のこと
  • つまりまず「意味」について説明できないといけない
  • 「同義性」を説明できれば意味について説明できる
  • 「同義性」は「真理値を変えることなく、2つの語が交換できること」(交換可能性)として定義できる
  • 交換可能性に加えて「必然的」という副詞があれば、ここで必要な、強い意味での同義性を導きだせる
  • しかしそもそも「分析的」という概念について知りたかったはずなのに、それとほとんど同じ意味に見える「必然的」という副詞を使うのはずるい
  • どうやら「同義性」という概念を使って「分析性」を説明しようとしても、説明が循環してしまうらしい

「可能世界というものが存在していて、われわれはなぜかそのことを無意識に知っていて、すべての可能世界で成り立つかどうかを考えながら『必然』とか『可能』とかを判断している」という (途方もない) 仮定を認めると、議論がすべてひっくりかえる気がした。認めたくないけど。

(その場合、分析性を前提することなく必然性を説明できるので、交換可能性によって同義性を説明でき、同義性によって意味を説明でき、意味によって分析的言明を説明することができる。あと桶屋も儲かるし)。

速読

速読の訓練がしたいなあとよく思っている。

以前に自分なりに練習して多少は速くなったのだが壁にぶちあたり、それ以上先に進まなくなってしまった。



経緯

ある日速読をしようと思いたったわたしは以下のような練習をした。

(ただしわたしはもともと目読 (心のなかで声を出すのではなく目だけで読む) ができた。目読ができない人はたぶんそっちを先に練習した方がいい)。


まず、目を速く動かすようにした。「目を速く動かしても内容は理解できないだろう」と人は言うかもしれないが、それは嘘で、「まず目を速く動かす」はかなり大事。はじめに目を速く動かすようにしないと訓練にもならないので能力も向上しない。

目の速度をあげる練習をしている内に、目を上下に動かすのは無駄であると気づいた。以前は目を上下に動かして字を1文字ずつ縦に追っていたが、そんなことはしなくても理解できるので止めることにした。

1行の中心で目を止め、その位置を保ったままその上下を把握できるように練習する。1ページを読む際はページを横一列に横切るように目を動かしていく。この練習をはじめると、わりとすぐに目が慣れ、1行を一目で把握できるようになった。


ここまでは大体半日くらいの練習でできるようになり、結果、かなり読書スピードはあがった。

「よし、じゃあこの調子で練習しよう」と思って、次は複数行を把握する練習をした。3行を一塊と見なし、まんなかの行に目を固定して前後の行を把握する。

これもしばらく (1日くらい) 練習している内にある程度はできるようになった。


しかし、そこから先がつづかなかった。

3行以上になると、どうもわたしの目の把握能力が追いつかないらしく、それ以上向上しない。3行にしても、多少時間をかければ理解できるが、なかなか一目で把握するところまではいかない。

どうやらこの辺にわたしのボトルネックがあるらしい。

結果、「すごく速くはないが、平均よりは速い方」という程度で満足してしまっている。


たぶん多くの人は速読の訓練をしないまま一生を終える。なんか知らんが、この手の話をすると強い抵抗感を覚える人もいるらしく、条件反射的に反発する人もいる。

大方の速読術の本やセミナーも (広告を見ただけだが) 胡散臭い。

しかし上のような経験から言っても、速読のスキルは練習しだいで伸びるものだと思っている。

何だかよくわからない理由でチャンスをつぶすのは非常にばからしいし、速く読む必要が無いわけではないので、もう少し訓練をつづけたい。

本質的ではないが、速読の練習をするとシューティングがうまくなるという話もあるし。

(シューティングは反射神経も必要なので、空間把握だけではだめだと思われるが)。



現状

今日測ったところ、少し速めのペースで

1500字/分

くらい。


文庫本や新書の1ページは500-700字程度なので、1分に2-3ページ読める計算。

1ページ20秒くらい。新書一冊が200ページとすると、1時間に新書1冊読める程度の能力。


試しに、『はじめての進化論』をいそぎ目で全部読んで時間をはかってみた。ちょうど1時間。まあこんなものか。


なお「少し速め」というのは、大まかなストーリーは理解できるが、ゆっくり読めば気づいたかもしれない細部のちょっとおもしろい部分を取りこぼすくらいのスピード。どうでもよい本や、速く読まねばならない本はそのくらいのスピードで読むのを常態にしたい。これくらいで読まないと訓練にならない気がするので速読を意識する場合は、このペースを保って読む。


なんとかしてこのスピードを4倍くらいに引き上げたい。

6000字/分

だと、大体5秒で1ページ読む計算。新書1冊が15分で読める。

ボトルネックを何とかすればできそうな気もする。


ひとまず、最近は訓練自体していなかったので、

  • 「速読を意識して (可能なかぎりペースを上げて) 読む」のと、
  • 「定期的にタイムを測って読む訓練をする」

という2つをやることにしよう。


あと速読の本やソフト、訓練法の類は試してみてよいのがあったら報告する。




生成文法

大学の書店に行ったらid:shokou5氏に会った。

生成文法の入門書についていくつか教えてもらった。


  • 教科書としてはラドフォードという人のものが標準的らしい。
  • 田中某の本は評判が悪いらしい。

入門ミニマリスト統語論

アンドリュー・ラドフォード (著), 外池 滋生 (訳)

研究社、2006


↑これが新しいの。


アンドリュー・ラドフォード (著), 吉田 正治 (訳)

研究社出版、1984


こっちは古いやつ。ミニマリストプログラム以前のやつかな。


スティーブン ピンカー (著), Steven Pinker (原著), 椋田 直子 (翻訳)

日本放送出版協会、1995


↑あと概要を掴むにはこれがよいらしい。




おれは順列都市ではちょっとしたもんだぜ?

「可能な出来事はすべてどこかの世界で実際に起っている」という妄想というか思想というか考え方がある。

わたしはこの手の考え方がわりとリアルに想像できるんだが、あまり想像できない人もいるらしい。


以下の順番で考えるとよいと思う。

  • 選択肢のある類いのノベルゲームを想像しなさい。
  • このゲームには、選択肢での選択に応じて分岐していくような複数の「ルート」がある。
  • そのルートを実際にプレイしたプレイヤーがいたかどうかというのは、このゲームにとって本質的なことではない。
  • 偶然にも選択肢が選ばれず、プレイヤーが誰ひとりプレイしなかったルートがあるとしても、やはりそのルートは存在する。
  • なぜならばそのルートはあらかじめゲームに組み込まれたものだから。
  • 次に人生がそのようなゲームであることを想像しなさい。
  • 「人生はゲームではない」と言うものの、われわれは実際に「選択に応じて人生が分岐していく」というイメージを抱くことがある。
  • 従ってそのようなイメージはすでにわれわれの世界の一部なのだし、やみくもに否定するもんじゃないと思う。
  • あなたが現在いるルートにいたる以前にはおそらくたくさんの分岐点があった。そのそれぞれが別のルートにつながっている。
  • それら選択されなかったルートのそれぞれもまた、「現在のプレイヤー」がプレイしなかったというだけで、今あなたが歩んでいるルートと同じだけ強く存在している、のではないか。

という具合。

想定に無理があるんじゃないかという話もあるだろうが、少なくともわたしは、そのような妄想というか思想というか考え方を理解はできると思う。


あと仮に、現在のルートでさえない人生を歩んでいたとしても、おれは順列都市ではちょっとしたもんなんだぜ?と思っていると現在のルートでも幸せになれるのでよいかもしれない。

ふつうの日記


金曜日

バイト後、某氏と某氏の (一ヶ月遅れの) 誕生会に行った。ベトナム料理の食べ放題に行ったあとカラオケ。

カラオケでいきなり椎名へきるを歌いだすとおもしろいので今後椎名へきるの歌を聴いて練習することにしようかと思ったが、みんな椎名へきるの歌ってわかるのかなあ。




土曜日

新銀行東京について考える会が13:00からはじまる予定だった。行こうかどうか迷っていたが、起きたら昼だったので面倒になってやめた。「来ないなら連絡しろ」と怒られた。暇になってしまったので別の人に「暇なのだが何かアイデアはないか」と尋ねるとネットサーフィンを薦められた。

結局新宿にハードディスクを買いに行くことにしたので、mmwwを誘った。mmwwは元々イタリア文学専攻だったのだが、今は理系出版社につとめており、家で地道に数学の勉強などをしている。最近は会うとその辺の話を聞くことが多い。ニコ厨のくせに、しかも社会人のくせに「勉強がすすまない」という理由でネットを解約したのがすごいと思う。




文学とスターの話

あと文学とスターシステムの話をした。「平野啓一郎は何となく全体からリア充っぽいオーラがたちのぼっているので文学者っぽくない」と言うと、「多分リア充っぽい生活をしてそうだが、何となく親しみの持てる顔なのでリア充っぽさを感じない」と言われた。わたしとしては、島田雅彦や村上龍については、「根がリア充じゃないやつが無理してリア充のふりをしている」という感想を覚えるので笑ってみていられるが、平野啓一郎は本当にリア充っぽいのでちょっとイラっとするという感じなのだが。


いや、リア充の話はどうでもよくて本当は文学って昔からスターとカリスマの商売だよねっていう話をしていたのだ。以下はmmwwと話したことというより、話をしていてわたしが思ったこと。

最近は若い美人の作家が文学賞を取ったりすることが多く、そうした傾向に文句をつける人もいる。しかし文学というのは昔からスターやカリスマに支えられるものだったわけで、じゃあ文句を言う人はいったい何に文句を言っているんだろう、と思う。たとえば夏目漱石や森鴎外が明治の知識人の苦悩を書くのと、現代の美人のエキセントリックな女性が現代の美人のエキセントリックな女性の苦悩やリアリティを書くのに、いったいどんな違いがあるというんだろう。

いろいろ考えた末に、わたしとしてはその手の文句を言う人は、文学者の像が変化することに文句を言っているのではないかという結論に達した。つまり「そういうのはおれの思うカリスマと違うのでもっと文学者っぽい文学者じゃなきゃいやだ」ということなんじゃないか。


そういう線で考えると平野啓一郎はわりと真面目に伝統的な文学者像をなぞろうとしているように思う(という話をしていたのだ)。真面目だからそうするのだと思うのだが、しかし全身からこぼれる真面目さとリア充っぽさのせいでそれが台無しになっているというのがわたしの感想である。梅田もちおと対談するとか、よっぽどだと思うよ。

一方、中原昌也や笙野頼子の方がむしろ伝統的な文学者像を現代化しているという感じが強い。「中原昌也って太宰治みたいなもんだよね」というのはM川に言われて気がついたが、確かに言われてみればその通りだ。逆にそう考えると、太宰治が現代に生きていたらB級映画を見たりノイズミュージックをしたり中原昌也みたいなことをしてそうな気もしてくるから不思議だ。あとやっぱミュージシャンはスター性を売る商売なので、ミュージシャンが文学賞を取るのは自然な気もする。


あとゆでたまご先生が2人とか誰も気にしていなかったので漫画はすごいよねー、というか (音楽以外の) エンターテイメントはすごいよねーみたいな話とか。




アイドルの話

そもそもなぜそんな話になったかというと、「アイドル産業は零細産業だが、諸々の人気商売にプチアイドル、ローカルアイドルみたいな人たちが浸透し、アイドルの種子が拡散していく」というわたしの自説を開陳していたからである。アイドル声優しかり、子供番組の司会しかり、仮面ライダーの俳優しかり、アイドル市議しかりである。




docomoの話

まったく関係ないが、mmwwはdocomo 905i の広告を見ると「これがリア充かー」と思うらしい。そう言われてみるとリア充を展示している広告にしか見えなくなってくる。

あとdocomoで思い出したが、ワードマップエスノメソドロジーの「9-2 映像を見る(1)『チラシの表』で社会学」がおもしろかった。

前田泰樹(編), 水川喜文(編), 岡田光弘(編)

新曜社、2007

http://emca.jp/books_2007wordmap.php


この論文ではドコモダケ (docomo の広告に出てくるキノコのキャラクター) の家族について、「なぜあれが家族に見えるのか」「だってキノコに家族とか無いだろう」という問題を扱っているのだが(それだけじゃないけど)、言われてみればキノコが家族に見えるのは不思議なので、「おーそれはすばらしい問題のたてかただなあ」と思った。

いつでもドコモダケ

ドコモダケ - Wikipedia


あと「チラシの表」というタイトルもおもしろいと思う。

       r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/      >::::::::::ヽ 
 .      〃  ヽル1'´        ∠:::::::::::::::::i 
        i′  ___, - ,. = -一   ̄l:::::::::::::::l 
 .      ! , -==、´r'          l::::::/,ニ.ヽ 
       l        _,, -‐''二ゝ  l::::l f゙ヽ |、 ここはお前の日記帳じゃねえんだ 
         レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_   !:::l ) } ト 
        ヾ¨'7"ry、`   ー゙='ニ,,,`    }::ヽ(ノ  チラシの表にでも書いてろ 
 :ーゝヽ、     !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、       ,i:::::::ミ 
 ::::::::::::::::ヽ.-‐ ト、 r'_{   __)`ニゝ、  ,,iリ::::::::ミ 
 ::::::::::::::::::::Vi/l:::V'´;ッ`ニ´ー-ッ-,、:::::`"::::::::::::::;゙ ,  な! 
 :::::::::::::::::::::::::N. ゙、::::ヾ,.`二ニ´∠,,.i::::::::::::::::::::/// 
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 ::::::::::::::::::::::::::::::! :|.\;::::::::::::::::::::::::::::::/ / 

直した

だいぶ直した。

わりとわかりやすくなったのではないかと思う。

短かい説明もできるようになった。

追記: さらにまた直した。


  • decode(x) に x 自身を【代入】したものを x の自己適用文と呼ぼう
  • 以下の関数 P(x) を考えよう。
  • 「P(x): x の自己適用文は【証明】できない」
  • P(x) に P(x) によく似たレベル1の【式】p を代入しよう。
  • 「P(p): p の自己適用文は【証明】できない」
  • 「p の自己適用文」って P(p) と同じものじゃないか。つまり「この文は証明できない」って言ってるのと一緒。
  • 「この文は証明できない」は証明できるか? 証明できないか?



なくした

第一不完全性定理について考えながらうろうろしていたせいで、1万円を引き出したあとキャッシュディスペンサーから回収するのを忘れた。

ご飯を食べたあと、回収し忘れたことに気がついて戻ったが、当然もうなくなっていた。

シミュレーターをつくった。

http://www.at-akada.org/works/simulator/

名前が下品なので伏せ字にしようかと思ったが、伏せ字にするとよけいにいやらしいので堂々とすることにした。


「お→ち→ん→ち→ん→タ→イ→ム完成で ハイパーオチンチンタイム」

という類のスレッドが某所に立つことがある。

(完成させる言葉と完成後の祭りは場合によって違うが、おそらくこれが一番メジャー)。

たぶん本当はもうあまり流行ってないけど、少し前まではこういうスレッドがよくあった。


これは、掲示板に1字ずつ文字を書き込んでいき、決められた言葉が完成したら祭という感じの遊びだ。

↓完成すると大体こんな感じになる。

http://2log.blog9.fc2.com/blog-entry-1365.html

http://blog.livedoor.jp/michaelsan/archives/50536034.html


↓以下も参照。

すべらない名無し | ハイパーオチンチンタイム


起源はわたしもよく知らないのだが、完成させるのが意外にむずかしいのと、完成時の祭が下品かつシュールということで受けているような気がする。

以前からこれってシミュレーションできそうだなあと思っていたので、実際につくってみた。




参考にした

コンピュータのなかの人工社会―マルチエージェントシミュレーションモデルと複雑系


上の本をちょっと参考にした。




しくみ

一定時間ごとにエージェントが掲示板を確認する。

掲示板を確認するとエージェントは一定の確率で書き込みをする。

友好的なエージェントは必ず単語を完成させようとする。敵対的なエージェントは必ず邪魔しようとする。

ただし、エージェントが確認してから、単語を書き込むまでにちょっとだけタイムラグがあるので、書き込みが衝突し、友好的エージェントが邪魔してしまったり、敵対的エージェントが単語を完成させようとしてしまったりすることもある。掲示板を確認する間隔を短くすると、書き込みが衝突する頻度も増える。

エージェントのなかには、通常の2倍の速度で掲示板を確認する「速いエージェント」が一定数存在する。

単語が完成するか書き込みが1000に達するとシミュレーションは終わる。


ほとんどのパラメータは自分で変更できる。


いろいろパラメーターを調整しながら試してみるとおもしろいのだろうが、まだ自分でもあまり試していない。




実物

http://www.at-akada.org/works/simulator/

第一不完全性定理を説明してみる


話が複雑すぎて何とか自分で説明してみないと理解できそうになかったので説明を書いた。面倒な話なので読まなくてもいいです。


追記: 夜になってからかなり直した。

短い方の説明は以下。

http://www.at-akada.org/blog/2008/03/200836.html#id_p0

追記2: またちょっと直した。直しすぎでごめん。




スタート地点

話は↓ここからはじまる。

  • こうすれば任意の論理式に自然数が一対一で対応ですよ?
  • つまり、「これは適切