前置き

↓の本を読みながら「なぜわれわれは中国人ではないか」問題について考えていたら解決した。

以下はえらそうに書いているが、ほとんど人間原理の応用である。


多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス

三浦 俊彦 (著)

青土社、2007


「なぜわれわれは中国人ではないか」問題をわたしが考えるにいたったきっかけについては、以下を参照。

http://www.at-akada.org/blog/2008/03/2008314.html#id_p1




「なぜわれわれは中国人ではないか」問題

「なぜわれわれは中国人ではないか」問題とは改めて定式化すれば下のような問題である。

わたしは平凡な人間であり、とりたてて特別なところはない。

いわば全人類のなかからランダムに選ばれたサンプルのようなものである。

しかし、本当にランダムなサンプルだとすれば、わたしは中国人である確率がもっとも高いはずである。

しかるにわたしは中国人ではない。

なぜだろう。

この場合、「わたし」は自分が平凡であると思えば思うほど、自分が中国人でないことが不思議に感じられる。

では、このような問題に悩む「わたし」に対して何を言ってやればよいだろうか、というのが「なぜわたしは中国人ではないか」問題である。


ちなみに、

「わたし」はランダムなサンプルではない

というのは不完全な解答である。

どういう点で偏ったサンプルであるかまで指摘しなければ答えにならない。


もちろん実際には、中国人である確率はそこまで劇的に高いわけではないので、中国人でないことはそれほど不思議ではない。

しかしこれと同種の謎に人が直面することはままある。




「なぜわたしは生き残ったのか」問題

別の似たような問題を取り上げよう。


郵便的不安たち# (朝日文庫)

東 浩紀 (著)

朝日新聞社、2002


東浩紀のデビュー作である「ソルジェニーツィン試論 - 確率の手触り」という論考がある。

実は本が見つからなかったので記憶から再構成するが、この論考は以下のような問題を論じていた。

(ここから)

ソルジェニーツィンが小説に書いたスターリン体制下のソ連では、人はさしたる理由もなく収容所に入れられ、殺された。

そのような状況に置かれた人々はしばしば「なぜ彼は殺されたのに、自分は生き残ってしまったのか」という問いに直面する。

しかしこの問いに答えが与えられることはなく、人々は理由の無い端的な事実に直面するしかない。あとはただむなしく答えのない根源的な問いを投げかけつづけるか、問い自体を放棄するしかない。

ソルジェニーツィンの小説が描いているのはそのような世界である。

(ここまで)


「わたしが生き残る理由なんて無かったのに(=平凡なのに)」「なぜ生き残っているのか」という風に定式化すれば、「根源的問い」と「なぜ中国人ではないか」問題の類似は明らかだろう。しかしこの「根源的な問い」に答えが無いというのは間違いであり、むなしく問い続ける必要はない。実際にはきちんとした答えが出る。




主観確率

さてこの場合、問題になっているのは、「わたしは中国人ではない」「わたしは生き残った」というすでに確定した事象である。

すでに確定した事象の確率を問う場合は、通常の確率(=客観確率)ではなく、主観確率*の考え方を採用しなければならない。


主観確率の場合、「推論者がどんな情報を得ているか」がきわめて重要になる。

マージャンを例に考えよう。マージャンのソーズ牌がすでにたくさん場に出ている場合と、まだ1つも場に出ていない場合では、「対戦相手がソーズを抱えている確率」は大きく異なる*。なぜならば前者と後者では、推論者が得ている情報が異なるからである。ソーズ牌がたくさん場に出ているならば、「対戦相手がソーズを抱えている確率」もそれに応じて低くなる。

* これが客観確率ではないことに注意。実際には対戦相手が抱えている牌はすでに確定している。「対戦相手がソーズを抱えている確率」とは、あくまでも対戦相手の牌姿を見ることができない他のプレイヤーにとっての主観確率である。


なお、一般に「なぜpか」と問う人に対しては、「すべての情報を考慮すればpの主観確率はきわめて高いですよ」という答えが適切な解答となりえるだろう。たとえばマージャンのゲーム中に「中」を捨てたあと、「なぜ誰も鳴かないのか」とたずねる人がいた場合、「すでに3枚見えてますよ」つまり「すでに中は3枚場にでており、しかも中は4枚しかないので、誰も鳴かない確率は1ですよ」と答えたならば、きちんとした解答を与えたものと考えてよいだろう。

以下では上記の問題に対し、この種の解答を与える。すべての情報をきちんと考慮すれば「わたしが生き残った確率」「わたしが中国人でない確率」はほぼ1である。




解決

ところで、「なぜわたしが生き残ってしまったのか」を問う推論者は、実際には推論者自身について1つの重要な情報を得ている。

それは、推論者自身は「なぜわたしが生き残ってしまったか」という問題について考えているところであるという情報である。

生き残らなかった人がこのような問題について考えるとは想定しがたい。よって「推論者は生き残った人である」という情報がほぼ確定する。

つまり、「わたし」はすべての人々からランダムにサンプリングされた人ではありえない。もし「生き残っていない人」であれば、そんな問題を考える可能性はきわめて低いからだ*。

* 「自分は生き残った」と信じている人が、実際に生き残った人である確率はきわめて高いだろうが、確率1ではないかもしれない。死んだ人が霊として存在しており、しかも「自分は生き残ってしまった」と勘違いしている可能性を考慮すれば、確率は1より少なくなるからだ。しかしいずれにしても確率はほぼ1である。


もし「わたし」がどれほど平凡に思えたとしても、この問題に悩んでいる時点で偏ったサンプルであるのは間違いない。仮にランダムなサンプルであったとしても、「自分が生き残ったと信じている人の集合からサンプリングされた人」である。

つまり、前提となる情報をきちんと明示するならば、実際に説明されるべきであったのは「自分が生き残ったと信じている人であるところのわたしが生き残っている」という事象である。つまり、自分が生き残ったと思っている推論者の集合からランダムに選ばれた人が、実際に生き残った人であったという確率を考えればよい。言うまでもなく、この事象が生じる確率は (生き残った推論者が1人でも存在するならば) ほぼ1である。



「なぜわれわれは中国人ではないか」問題も同様の論法で解決する。

「わたし」がこの問題について悩んでいるということは、「わたし」が中国人でない確率はきわめて高い。もしわたしが中国人であれば、「なぜわたしは中国人ではないのか」などという問題に悩む確率は低い*。

* ただし小さな子どもなどの場合には自分の国籍を誤解している可能性がある。たとえばわたしは子どもの頃、「自分は白人である」と誤って信じていた。自分の国籍を誤解した中国人の子どもが「なぜ自分は中国人ではないのか」と考えている可能性を考慮すれば、「わたし」が中国人である確率もわずかながら存在する。


よって「わたし」は、たとえどれだけランダムなサンプルであったとしても、「自分が中国人ではないと信じている人の集合」という偏ったサンプルから抽出された人である。

つまり問題となっている事象は、「自分が中国人ではないと信じている人であるところのわたしが中国人でない」という事象である。つまり自分が中国人でないと信じている推論者の集合からランダムに選ばれた人が、実際に中国人でなかったという確率を考えればよい。この事象が生じる確率は (中国人でない推論者が1人でも存在するならば) やはりほぼ1だろう。起きて当然の事象である。




言いわけと教訓

以上のように、「なぜわたしは生き残ったのか」「なぜわたしは中国人ではないのか」という問題にはきちんとした答えがある。

ただし上記のような答えを「なぜわたしは生き残ってしまったのか」と悩む人に伝えると相手が怒るかもしれない。

なぜならば上記のような確率論的な答えは、「根源的問い」に対し、あまりに世俗的な答えであるように見えるからだ。


しかし「怒るだろう」と決めつけるのはいささか失礼な想定である。

真剣に答えが知りたいと思って悩んでいる人であれば、正しい答えを聞いて怒るはずなど無いからである。もちろんわたしの答えが間違っている可能性もあるが、それならば不備を指摘し、一緒に (またはひとりで) 別の答えを探ればよい。

答えを聞いて怒るのは「深刻な根源的問いに悩んでいるポーズにひたりたかった人」だけである。


無論、親類や家族や友人を収容所で殺された人が、しばし悩むポーズにひたりたかったのだとしてもそれほど責められるべき点は無い(褒められるようなことでもないが)。

しかしはなから上記の問いをただの修辞疑問文だと決めつけるのは失礼である。もしわたしがそのような立場に置かれれば、実際に真剣に考えると思う。そして真剣に考えている問題に答えが与えられても、喜びこそすれ怒りはしないだろうと思う。むしろ「絶対に解決しない」と思っていた問題に、あまりに世俗的な答えが与えられれば、拍子抜けしポンと救われたような気分になるような気がする。


一方、悩んでいるふりをしていた人が怒ったとしても、わたしはそれほど気にしない。なぜならばその人は嘘をついていたわけであり、嘘をつくのは基本的には悪いことだからだ。わたしがうっかり「考えるふり」を信じて馬鹿正直に答えてしまったとしても、特に責められるようなことをしたわけではない。

無論、悩んでいる人が目の前にいれば、わたしだってそれほどスマートには行動できないかもしれない。しかし少なくとも理念としては、「正しい答えを知っている」と思っている以上、それがどれほどつまらない答えであろうと教えるべきだと思う。



以上。

教訓としては、

「どれほど平凡な人間であっても、悩んでいるふりをしている暇があれば頭を使って目の前の問題を解決しろ」

ということだと思う。

(こんな風にかっこうをつけて間違えていたら恥しいが、わたしに思いつくのはこの程度である。質問・異論があれば適宜教えてください)。

コメント(10)

# 貴子

赤田君は、子供の頃、本当に自分を白人だと信じていたの?

(2008/03/19 3:20)
# shim

お、NYからほぼ同時にタカコイノウエがコメントを。
まさにネット。まさに世界。


>中国人問題
素晴らしい解答ですね。
主観確率というのがウィキペ読んでも
よく意味が解らなかったので、
全体の理解度はあまり高くないが、
だいたい納得できた。
基本的な構造はパラドクスの会でやった
西暦3000年問題と同じなわけだな。


あと、ウィキペの記事読んでいて思ったのだが、
3人の囚人の問題とモンティホール問題は
似ている気がするな。
結果は違うようだが。これどう思う?

(2008/03/19 3:26)
# shim

あとおれマージャンわかんねーから
途中何いってるのか理解できなかった。

(2008/03/19 3:29)
# at-akada

>貴子
信じてたよ。正確に言うと「日本人は白人だ」と思っていた。

(2008/03/19 7:51)
# at-akada

>shim
いやあありがとう。
説明能力に自信が無いので、ぜんぜん誰にも伝わらなかったらどうしようかと思っていた。
主観確率についてはわたしもあまりよくはわかってない。「情報量が変われば主観確率が変わるのは直観的に納得がいくな」というくらい。
サンプルの偏りという風に考えるなら西暦3000年問題と確かに似ていると思う。


モンティホールと3囚人問題は確かに似ているが、よくわからないなあ。ただ3囚人問題でも、「Aが死ぬ」と聞いたあと、「Bと立場を交換する」という選択肢があれば、選んだ方がいいように思う。

(2008/03/19 8:06)
# at-akada

>マージャン
-トランプの大富豪を例に考えよう。「2」がすでにたくさん場に出ている場合と、1つも場に出ていない場合では、「対戦相手が『2』を持っている確率」は大きく異なる。
-なお、一般に「なぜpか」と問う人に対しては、「すべての情報を考慮すればpの主観確率はきわめて高いですよ」という答えが適切な解答となりえるだろう。たとえば大富豪のゲーム中に「なぜ誰も2を出さないの」とたずねる人がいた場合、「2はぜんぶ出てますよ」、つまり「すべての情報を考慮すれば『誰も2を出さない』確率は1ですよ」と教えてやれば、きちんとした解答を与えたものと考えてよいだろう。

(2008/03/19 8:09)
# итОген

>悩んでいる振り
答えを出さずに同じ考えをぐるぐる回していると、時間が潰せるからな。
答えを出してしまうとその後何をしたら良いのか分からなくなって途方に暮れるので、悩んでいる振りは空虚を埋めるに必要な行為と言える。
生産的で前進する輩はそこを失念している事が多い様に思う。

(2008/03/20 1:11)
# at-akada

>悩んでいる振り
むずかしいのは、他人からは本当に悩んでいるのか悩んでいる振りなのかがわかりにくいところだ。

(2008/03/20 8:57)
# Tsjxtrrb

9WYZ2C

(2009/07/14 10:13)
# Tsjxtrrb

9WYZ2C

(2009/07/14 10:13)

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