■ 気づき
電車のなかで速読の練習をしていると、電車を降りた後しばらく視野が広くなる。周りの人の動きが妙にくっきりと見えるのでおもしろかった。
あと、すごくがんばって集中して読むと2000字/分くらいまでは速くできることがわかった。
■ なぜわれわれは中国人ではないのか。
三浦 俊彦 (著)
二見書房、2002
「パラドクスの会」(仮称)というイベントに参加しました。
↑の本を読んでさまざまなパラドクスについてあれこれ考えるイベントです。
バランスよくさまざまな分野からいろんな問題をとってきている本で、会話のネタとしては非常におもしろかった。種々の問題の紹介の仕方も、特に専門知識がなくてもあれこれと考えて楽しめるようにうまく整理されていたと思う。
「哲学において大切なのは、問いをたてることではなく、解くことである」と豪語する著者だけあって、著者自身がずばずばと解答を出しているところも好感が持てた。自分たちなりに考えたあと、著者自身の解答に文句をつけていくのも楽しい。
とりわけ、
など、答えのない問題の方が考える余地があっておもしろい。
またフェルミのパラドクスに付随してでてきた下のような問題が印象深かった。
「宇宙にはどれくらい知的生命体が存在するのか」という問題に対し、次のような主旨の推論が紹介されていた。
「宇宙に知的生命体がたくさん存在するなら、われわれはそのどこに生まれ落ちてもよかったはずだ。しかし、われわれは現に地球に生まれたのだから、『地球に生まれる確率はそれなりに高かった』と判断すべきだろう。従って地球というのはこの宇宙のなかでも、歴史が長く知的生命体がとりわけたくさん集まっている場所の1つだと考えるべきだ (その極限的な場合として、知的生命体は地球にしか存在しない、というケースが考えられる)」
これに対し、参加者のひとりが、
「その推論が成り立つなら、『地球上では中国に生まれる確率が一番高かったはずなのに、なぜわれわれは中国人ではないのか』という問題も成り立つはずだ (しかしこれは問いの立て方が間違っているように思える)」
という疑問をはさんだ。
この「なぜわれわれは中国人ではないのか」という問題提起がなぜか一番心に残った。
これは確かに疑似問題のようにも思えるのだが、改めて考えると、一度くらいそういう疑問を心に抱くことがあってもよかったのではないかと思う。しかしそんなことまったく考えたことがなかった。
どうしてわたしは中国人ではないんだろう。これは果して説明のつけられるような問題なんだろうか。
あるいはひょっとすると本当は中国人なのに、そのことに気がついていないのかもしれない。
あとこういう風に何でも確率で考えるのがおもしろかったので、その後も「死んでいるか生まれる前の期間の方がはるかに長いはずなのに、どうしてわたしは今生きているのか」などとずっと言っていた。
しかし今考えるとやっぱりよくわからなくなってきたな。
日本人に生まれる確率は5分の1くらいだったわけだから、起きても不思議は無い程度の偶然であると言える。
しかしこれが10億分の1の確率となると、説明が必要なほどの強い偶然であるように思える。だから、「なぜわれわれは地球に生まれたのか」という問題に対し、「地球に生まれるのはそんなに低い確率ではなかった」と考えてもよいように思える。
しかし「わたしはなぜこの家族の一員として生まれたのか」とか「わたしはなぜこのわたしなのか」というのはとても低い確率で起きた出来事で、しかも解答を与えようがない疑似問題に思える。
うー、なんだかわからなくなってきた。
「わたしが他の星に生まれる」とか「わたしが他の家族に生まれる」という可能性がまず想定できないので (もし別の環境に生まれた人がいたとしても、それはわたしとは関係のない人であるように思う)、やっぱり問い自体が間違っているのかなあ。
しかし、そう考えていくと、
- 「わたしが中国に生まれていたかもしれない、などとは考えられない(=不可能である)」
- 「それ以外の国についても、わたしがそこの国に生まれていたかもしれないなどとは考えられない」
- 「よってわたしが日本人として生まれたのは必然である」
となって、国籍* がわたしの必然的属性であることになってしまうなあ。
それもちょっと変な感じがするんだが......よくわからない。
やっぱり本当は中国人なのかもしれない。
あとパラパラ見ていて一箇所だけ気になった点があった。
- 017「バベルの図書館~対角線論法」
の箇所。
バベルの図書館を、無限の長さの本をも含む無限に広い図書館と定義していて、対角線論法を使って、「バベルの図書館にも収録されていない本がある」という議論を構成している。しかし、これは変だと思う。
いや、この定義に従うなら正しい議論なんだけど、バベルの図書館はそういう図書館じゃないんだ。
原作では、バベルの図書館にある本の長さは決まっているんだ。
全て同じ大きさの本であり、一冊410ページで構成される。さらにどの本も1ページに40行、1行に80文字という構成である。
だからバベルの図書館には有限個の本しか収録されておらず、対角線論法は成り立たないんだ。
想定を変えてもかまわないけれど、一応原作における設定がきちんとあるんだから、一言説明をつけ加えるなどしてそっちも尊重してほしかったなと思った。
■ クワイン
W.V.O. クワイン (著), Willard Van Orman Quine (原著), 飯田 隆 (翻訳)
勁草書房、1992
上のイベントとは別口で、「経験論の2つのドグマ」をオンライン読書会で読んだ。
前半の論旨がちょっと整理できたのでメモしておく。自分用。
- 分析的言明なるものをきちんと説明できるかどうか試してみよう
- 分析的言明は、「言語の意味だけによって正しいことがわかる言明」のこと
- つまりまず「意味」について説明できないといけない
- 「同義性」を説明できれば意味について説明できる
- 「同義性」は「真理値を変えることなく、2つの語が交換できること」(交換可能性)として定義できる
- 交換可能性に加えて「必然的」という副詞があれば、ここで必要な、強い意味での同義性を導きだせる
- しかしそもそも「分析的」という概念について知りたかったはずなのに、それとほとんど同じ意味に見える「必然的」という副詞を使うのはずるい
- どうやら「同義性」という概念を使って「分析性」を説明しようとしても、説明が循環してしまうらしい
「可能世界というものが存在していて、われわれはなぜかそのことを無意識に知っていて、すべての可能世界で成り立つかどうかを考えながら『必然』とか『可能』とかを判断している」という (途方もない) 仮定を認めると、議論がすべてひっくりかえる気がした。認めたくないけど。
(その場合、分析性を前提することなく必然性を説明できるので、交換可能性によって同義性を説明でき、同義性によって意味を説明でき、意味によって分析的言明を説明することができる。あと桶屋も儲かるし)。
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あたしも普段はそんなもんですよ。<2000字/分
』 (2008/03/16 22:03)新書とかだともっと早いけど。
>2000字/分
』 (2008/03/17 0:25)がんばって集中して速く読めたときでそれくらいなので、もう少し高めたいです。
Forgive ME, but more about the subject, please!! You are going away from the topic too frequently, therefore it is uneasy to read your posts.
』 (2008/04/ 7 2:45)