よし決めた

今後中沢新一のことを「メカ沢新一先生」と呼ぶことにする。

http://sowaka.s-dog.net/op.html




茂木健一郎の話

先日hitogomi氏に会ったとき、茂木けんいちろうの話が出て、「あいつは研究者じゃなくて芸能人とか知識人の類だろうm9(^Д^)プギャーーーッ」みたいなことを言った。

すると、「茂木氏がテレビでいい加減なことを言いまくっているのに研究者はなぜ訂正したり批判したりしないのか」「研究者って内輪の世界にしか関心ないんですね!」みたいな印象を与えてしまったような気がする。

なので多少フォローを入れておきたい。


  • 茂木けんいちろうがおかしいとわたしが思うのはなぜか。

これについては、随所に胡散臭いフラグが立っているので、周辺事情を調べれば茂木氏のあやしさに気づくのは簡単だと思われる。

まず茂木氏は「脳科学者」を名乗っている。しかし本人も自称している通り、彼は「クオリア」を研究していることになっている。

この段階でかなりおかしい。なぜならば「クオリア」はそもそも脳科学で扱われるようなテーマでは無いからだ。クオリアというのは定義上測定できないものなので、実験や生理学的な研究とは相入れない。大半の脳科学者は「クオリア」について聞けば、「へー、そんなんあるんですねー、おもしろいですねー」くらいのことは言うかもしれないが、その研究が自分たちの研究と同じものだとは考えないだろう。

クオリアの研究というのは実際に存在するが、それを研究しているのは哲学者である。どういう風に研究しているかというと、

  • 「これこれを満たすクオリアというものが存在してもよいように思われる」
  • 「しかしクオリアの存在を認めると以下のような不合理な帰結が導かれる」
  • 「だが、こういう風に考えればその不合理も受け入れられるかもしれない」
  • 「いや、とても受け入れられない」
  • ...

といったような論理的・演繹的な研究をしているのである。上のように噛み砕くと簡単そうだが、実際には論理式がずらーと並ぶようなおっかない研究ばかりでどちらかと言えば怖いので近寄りたくない類のものばかりである*。

↓一例。

意識する心

* 念のため補足

哲学者はなぜそんな研究をするのか。実際のところは個々の哲学者に聞かなければわからないが、一般的には「露払い」とか「交通整理」にあたる作業をしているのだと思われる。なので哲学の研究が理想的に進んだ場合、

  • 「哲学の人が面倒な議論に好き好んで突入する」→
  • 「問題があらかた整理され、哲学の人はその領域に興味を無くす」→
  • 「ふつうの科学者の仕事がはじまる」

という具合に進行するはずだ。

(これはあくまで、哲学の学生ですらないわたしの哲学観だけども)。


では茂木氏は哲学の専門家なのかと言えば、違う。経歴を見ても違うし、そもそもまともに哲学の話をしているところも見たことがない。

茂木氏が操る「クオリア」という概念のあやしさについては、わたし以外の人が丁寧に批判しているので、最後にそれを紹介するだけに留める。


  • 次、なぜ研究者は茂木氏の批判をしないのか

わたしは脳科学の専門家でも心の哲学の専門家でもないので想像にとどめておく。

まず芸能人とか評論家とか「テレビで喋る人」と、「研究者」というのは何の関係もない別の職業である。一般論として考えれば、異なったルールで動く別の職業の人を自分たちのルールで批判するのは人によい感じを与えないし、そもそも別の職業の人を自分たちの基準で批判しようと考える人も少ないだろう。たとえばオリンピックに出るレスリングの選手が自分たちの基準でプロレスを批判すれば、多くのプロレスファンは違和感を感じるのではないか。

また、たとえば中川翔子がテレビで経済について適当なことを言ったとしても、経済学者はそれほど怒らないのではないかと推測する。

茂木健一郎はどちらかと言えば研究者よりもしょこたんの方に近い存在なので、テレビで茂木氏が適当なことを言っても、大半の研究者は「もぎたんってば、ただの主観とクオリアのちがいもわかんないんだ☆ でもそんなところもかわいー(≧∀≦)」としか感じないだろう。


  • しかしもちろん怒って批判している人もいる

実は単に以下の記事を紹介したかっただけだったのだが、前置きが長くなってしまった。




自己責任の話

雪山遭難すると救助隊が救援に行くじゃないか。その話をしていて、「特に要請が無い場合はわざわざ助けに行く必要ないんじゃないか。国家が国民の命に対してそこまで責任を持つ必要があるのか」みたいなことを言っていたら、「おまえ昔ブログでイラクで捕虜になった人が『自己責任』と非難されていた件を批判してたぞ」と指摘された。このブログではなく、昔はてなで書いていたブログで、そういうことを書いていたらしい。

全然記憶にないが、昔とはいえ「国家が国民の命を助けるべき」などとは言わない気がするなーと思って記事を探してみた。

「危険な地域に行ったら捕まった」

ここまでは自分の選択の結果で、当然責任は引き受けざるを得ないというか、とりあえず自分で割を食うのが必然なわけです。

 

「捕まったら外務省なり内閣なりが救援に動いた」

(本当に「救援」なのかどうかは微妙ですね。「マスコミ対応」とか、「とりなし」とか、という方がほんとうかな)。

この段階になると、少なくとも、意志とか責任とかを前提にして語る場合、「外務省」やら「内閣」やらも自由意志を持っていると見なされるわけなので、彼らの選択対してほかのひとが責任を負うという風にはいかないわけです。何しろひとが決定したことですから。毀誉褒貶・賞罰のあて先は「外務省やら内閣やら」になります。

当時の文脈についてきちんと説明してくれていないので何を言ってるのかよくわからないが、ともかく「国家が助けるべき」という意見ではなさそうだ。

想像するに、当時「多くの人がおまえのためにこんなに動いたことについてはどう責任をとるんだ」という世論があったのかな。数年前のわたしはここでそうした世論に対し「まわりの人が動いたのは捕虜になった人の選択ではないのだから責任などないだろう」という批判をしているように思える。

今思うことをつけくわえると、要するに当時のわたしは

  • 「責任というのは当人が自分で選択した行為に付随するものである」と考えていて、
  • 「周囲の人が勝手に動いた件」については「借りがある」とか「感謝すべき」と言うことはできても、
  • 「責任を負うべきだ」とは言えない、

と判断したのだろう。

おおむね今でも同意できる意見だ。


何となくむかつく文体なのでちょっとイラっとしたが、「コロッと意見を変えた」わけじゃないらしいのでとりあえず安心した。

コメント(3)

# LovelyAngle

That IS progress. Your blogging skills are getting better and better. I had a great time reading this post.

(2008/04/ 7 2:14)
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My point of view may differ from the other’s, but anyway I have may things to say on this subject. First, everything here is true. Second, check the information first, then comment it

(2008/04/ 9 20:07)
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(2009/02/ 8 14:51)

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