■ 人間原理と多宇宙
三浦 俊彦 (著)
青土社、2007
上の本を読んで以来、人間原理おもしろいなーと思っている。
- 「この宇宙は知的生命の誕生を許容するようなかたちをしている (=ファインチューニングされている)」
- 「宇宙がそのようなかたちをとる確率は低い (=宇宙はほかのさまざまなかたちをとりうる)」
という2点を認めると、「宇宙は複数存在する」という推論が導かれるそうだ。
以下のような実験を考えよう。
[A]
3つのサイコロがある。
あなたは眠らされ、サイコロの出目が「6,6,6」だったときだけ起こされ、質問を受けることになっていた。この実験の設定はあなたにも知らされてある。
あなたは目が覚め、質問を受ける。
「最後に出たサイコロの目はいくつだったと思う?」
「6,6,6」
「『6,6,6』が出る確率は1/216。こんなに低い確率の出来事が起きたのはなぜだと思う?」
「サイコロをふる回数は特に制限されていなかった。つまりサイコロを何度もふったんでしょう?」
また別の実験。
[B]
宇宙の初期条件が「6,6,6」だったときだけ、知的生命が誕生することになっていた。
「6,6,6」を満たす宇宙のなかで知的生命が誕生し、考える。
「調べてみたところ、この宇宙の初期条件は『6,6,6』であり、知的生命が誕生するのはこの場合だけであることがわかった」
「初期条件が『6,6,6』となる確率は1/216。こんなに低い確率の出来事が起きたのはなぜだろう?」
「宇宙が1つしかないという仮定には特に根拠はない。つまり宇宙はたくさんあるんだろう」
ただし以下の推論は間違っている(逆ギャンブラーの誤謬)。
[C]
甲という生徒が教室でサイコロをふっている。乙という他の生徒がふと見ると、サイコロの出目はちょうど「6,6,6」だった。
乙は考える。「『6,6,6』が出る確率は1/216。こんなに低い確率の出来事が起きたのだから、甲は何度もサイコロをふったんだろう」
[C]が[B][A]と違うのは、[C]の場合、「6,6,6」という出目にはとくに意味がないこと。「1,1,1」や「1,2,3」や「2,6,6」の場合でも乙は同じことを考えるかもしれない。
一方[A][B]の場合には、「6,6,6」という出目があらかじめ固定されており、確率を考える推論者もそのことを知っている。
無論これは「推理」や「推論」であって「証明」ではないが、(宇宙が1つしかないという仮定に特に根拠がないという想定のもとで)「多宇宙の方がもっともらしい」という推論自体は特にまちがっていないように思った。
ちなみに人間原理から神の存在を導こうとしても無駄だそうだ。「神が存在するという条件のもとで宇宙に知的生命が誕生する」確率がいくら高くても、神が存在するという仮定の事前確率が低いので、仮説が破棄されてしまう。結局人間原理から独立に神の存在証明をしなければならない。
■ 感想
三浦 俊彦 (著)
青土社、2007
「この宇宙はファインチューニングされている」という仮定から、「宇宙は複数存在する(多宇宙説)」「『わたし』は歴史上何度も繰り返しあらわれる(輪廻転生観)」という2つの説を導く本。大変おもしろかった。もしもマッドサイエンティストならぬ「マッドフィロソファー」というカテゴリーがあれば、三浦氏こそそれだ、という思いを強くした。
ただし「輪廻転生観」は正しいのかどうかよくわからんけど。
細部の議論にはまだなかなかついていけてないが、どうしても「それ、輪廻転生ちゃうやん」という気がしてならない。
ずるく感じられるのは、本書の議論は結局のところ、『わたし』の概念を変えろという主張だからだろう。
「魂というものがあって、それがさまざまな人にやどっていく」という説じゃなくて、「『わたし』というものを、歴史上何度も繰り返しあらわれるようなものと考えるようにしなさい」、または「よくよく考えてみると『わたし』という概念はもともとそういう概念だったんだよ」という話だ (違うのかもしれないけど、どうもそういう風にしか読めない)。
しかし東洋の哲学者がまじめに輪廻転生を論証するというのは、ガイジン受けが非常によろしいだろうから、英訳するとよいのではないかと思った。
人間原理そのものより、「観測選択効果」がおもしろい。
「なぜわたしは中国人ではないのか」と問う推論者が自分をデータとして扱う場合、サンプルとしての『わたし』には「自分は中国人ではないと思っている」というバイアスがかかっている(という話を書いた)。人間原理の話にもこれによく似た話がたくさん出てくる。
人間原理の場合も、サンプルとなるのは『知的生命』=自分たちの存在なので、「自分はどういうサンプルなのか」「自分はなぜこんな問題を考えるようになったのか」が問われ、しばしば話が非常にややこしくなる。
見た目はずいぶん違うけれど、よく見ればこれは伝統的な論理学・分析哲学の問題と非常によく似ている。
「命題の隠れた前提を明示しろ」というのはラッセル以来の伝統的な方針だし、「自分自身を確率論的なデータとして扱う」のは自己言及的な命題の一種である。
↓標準的な教科書だそうだ。たぶん読まないけど。
■ 読書
以前コメント覧に、検索でみつけた意思決定理論の教科書っぽいものをいくつか書いた。
http://www.at-akada.org/blog/2008/03/2008315.html#comment-16739
実際に書店で見たところ、「意思決定の際に気をつけるべきこと」などを書いた本もまざっていた。
↓しかし以下は良い本だった。
グレアム・プリースト (著), 菅沼 聡 (翻訳)
岩波書店 (2008
論理学の入門書だが薄いなかにトピックをつめこんであっておもしろい。意思決定理論やベイズ確率についても触れられていた。
同一性や時間の話もあり、どちらかというと論理学ならぬ論理哲学入門に近い内容かもしれない。
■ 読書予定
高橋 伸夫 (著)
朝倉書店、1993
↑これを読もうかなと思っている。4月以降。読書会のかたちにするかもしれない。
ダグラス・R. ホフスタッター (著), Douglas R. Hofstadter (原著), 野崎 昭弘 (翻訳), 柳瀬 尚紀 (翻訳), はやし はじめ (翻訳)
白揚社、2005
あと↑なぜかこれの読書会をすることになったが、参加希望者いないですか。
今のところ参加予定者は2人で、わたしと詩人のMRさんです。
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>高橋
ほほう。なかなかいい本を選んでますね。
その人はいい経営学者ですよ。
>ホフスタッター
』 (2008/03/21 22:05)読みたいが、ちょっと4月以降の
予定がわからんので、また連絡する。
>shim
』 (2008/03/21 22:11)評判がよさそうだったので買ってみた。
ホフスタッターもいいが、高橋さんの本の方も読まないか。
まだ全然未定だが、M山も誘う予定。
この輪廻転生は永劫回帰に近い考え方だな。
』 (2008/03/21 22:42)>永劫回帰
』 (2008/03/21 23:04)うーん、まあそうなのかもしれん。