生活

スーパーのなかをぼけーと歩いていたらワインの瓶をひっかけて割ってしまった。

そのあとも、レンタルビデオ店で (こりずにまたDVDを借りに行った) 会員カードがみつからずパニくっていたら、スーパーの袋を落してひっくりがえした。

こういう行動を、うまいこと萌え要素としてアピールできないものか...。


あとスーパーの店員さんが、こぼれたワインの上に糠をふりかけ、ほうきで糠をかきあつめるという掃除技法を駆使していてすごいと思った。糠ってそんなことにも使えるんだすげー。




読書

堀越 英美 (著)

幻冬舎、2008


名著でした。

では、宮沢賢治は妹にハァハァすることはなかったのでしょうか。宮沢賢治と妹の兄妹相姦的な関係性についてはさまざまな評論家が触れていますが、なかでも中沢新一『哲学の東北』に収められている賢治論は、すがすがしいほどに妹エロス全肯定です。母性から閉鎖性と肉体性を削ぎ落としたものが「妹」であり、愛情を固着も肉体接触もない「輝く粒子」としてとらえていた賢治は、だからこそ「妹」という存在を愛していたといいます。


(...メカ沢新一先生による妹萌え全肯定のおことばが引用されるが省略)


妹萌えはきれいな性欲......。宮沢賢治が実は「妹ハァハァ」な人だったとしても、彼の詩の透明性はなんら損われることはないのです。


p27-28、強調は引用者。


まだ全部読んでないけど、各章のまえがきがどれもすばらしい。

強い相手と対等に対することができず、弱いものにひたすら萌えるしかない、そういった「どうしようもない日本文学」の姿を描きつつ、それでいて完全に突き離すわけでもない適切な距離感が良いと思いました。日本文学のどうしようもなさというか、過剰な柔弱さみたいな変なところを冷静に描きつつ、でもそんな日本文学に萌えー、という複雑さ?(ちがうかも)

無論本筋は、萌える小説を集めたブックガイドなわけだけど、萌え対象だけでなく、ちゃんと「萌えるわれわれ」の姿も描き込まれているので、「トホホ...な日本文学と日本人」論としてもおもしろいかと思います。比較するもんでもないけど、冴えているときの斉藤美奈子みたいな感じ。



あわせて読みたい。

リビドー・ガールズ―女子とエロ




読書

現代形而上学論文集 (双書現代哲学2)

  • 『現代形而上学論文集』

勁草書房、2006


  • デイヴィド・ルイス「普遍者の理論のための新しい仕事」

がおもしろかった。

うそつきのパラドックスとラッセルのパラドックスとゲーデルの不完全性定理とカントールの対角線論法のあいだにつながりがあるように、グルーのパラドックスとウィトゲンシュタインのパラドックスと根源的翻訳の不確定性のあいだにはつながりがあると、少なくとも直観的に感じる。

「どうもこれは関連した問題のようだな」と思いつつ、関係を整理できずにいた。しかしこの論文は種々の問題のつながりに大変見通しのよい展望を与えていると思う。


エキゾチックなまでに形而上学的なのに、とても論理的で、よく整理されていて、さまざまな立場に対し中立的で、バランスのとれた記述だった。よい論文だなあ。

あとこの人、実はすごくプラグマティックだな。どの論点についても「これを認めるとこの問題とこの問題の解決に役立つので認めた方がいいだろう」みたいな姿勢だ。

↓イメージとしてはこんな感じ。

「おいおいボブ、ちょっと待ってくれよ。法則や因果関係をうまく定義できないと科学者は仕事にならないだろ? でもな、この普遍者っていうクレイジーなやつを認めて、そこに仮定をいくつかつけたすと、それが定義できちまうんだぜ。HAHA!」

プラグマティズムと形而上学って両立するんだwというのが新鮮だった。



わたしによる整理

  • グルーのパラドックス、ウィトゲンシュタインのパラドックス、根源的翻訳の不確定性に共通するのは、経験的データだけを利用して帰納的に推論しようとすると、どうしてもまともな結論に到達できないという問題だ。
  • 参考: グルーのパラドックス - Wikipedia
  • 論理的に可能なすべてのカテゴリーを認めると、「グルー」や「クワス算」のような変態的カテゴリーを排除できない。データと帰納法だけを使おうとすると、「すべてのエメラルドはグルーである」という変な結論まで支持されてしまう。
  • 未知の言語を話す人がウサギを見るたびに必ず「ガヴァガイ」と言うとしても、「ガヴァガイ」は「ウサギ」という意味だとはかぎらない。「ガヴァガイ」は、「ウサギとともにある時間」「すべてのウサギおよび東京タワーからなる単一の実体」「ウサギの諸部分にはたらきかける重力」「耳の長いもの、あるいはブラックホール」などを意味するかもしれない。
  • あまりにも数多くのカテゴリーを考えうるから、帰納的判断や翻訳の可能性はつねに過剰なのである。
  • しかし論理的に可能な性質の内、少数のものだけが自然な性質であるという仮定を認めると、これらの問題の解決に役立つ。
    • グッドマンの「擁護された概念」、クリプキの「共同体」などは、この「自然さ」に対する分析のバリエーションと言えるかもしれない(←これはわたしの意見)。

要約

  • オーストラリアのアームストロングさんは個物のなかに現われる普遍者について論じてきた。アームストロングさんの議論の多くの部分には賛同できないが、普遍者の存在を認めるといろんな問題に片がつくのは確かだ。普遍者は次の問題の解決に役立つ。複製、スーパーヴィーニエンス、因果関係、法則、唯物論のミニマルな定義、言語と心の内容。
  • 普遍者と性質のちがい。性質というのは、単に個物を集めたクラスのことだ。一方、普遍者は実体であり、個物のなかにまるごと存在する。たとえば「赤」の普遍者は、すべての赤いもののなかにまるまる顕現している (もしそんなものがあるとすれば)。
  • さて、普遍者くんの存在を認めよう。普遍者くんの重要なところは、まばらにしか存在しないってことだ。論理的に可能な多数の性質の内、普遍者を例化したものはごく少数だ。
  • すると、「自然的性質とは、すべてのメンバーが共通の普遍者を例化した性質である」などの形で自然的性質を定義できる。普遍者くんの仕事はここまででおわり。明日からは自然的性質くんに働いてもらう。
  • 複製の分析。複製とは、自然的性質は同じだけど、異なる2つのもののことである。これを認めると、スーパーヴィーニエンスや決定論をうまく分析できる。
  • 法則の分析。良い理論とは、現実に合致するだけではなく、自然的性質を含む理論である。法則は、良い理論のなかに現われる規則性である。
  • 因果関係の分析。因果関係は反事実的条件文によって分析される。しかしこの分析には、自然的性質が必要である。
  • 唯物論の分析。省略。←ここは結構おもしろかった。けどちょっと大変なので省略。
  • 言語と心の内容の分析。
  • 理論の意図された解釈とは理論を充足される解釈である、と考えると、あまりにも多くの解釈が可能になってしまう。無理矢理変な解釈をこじつければ、理論を充足させることができるからだ。理論や言語の指示対象が約定によって定まるとすると、この問題は解決しがたい (なぜならば約定もまた言語によってなされるしかないからだ)。しかし「述語を自然的性質に関連づけるべし」という制約をもうけると、自然な解釈だけにしぼれる。
  • 信念 (心の内容) についても同様である。信念の解釈については、「適合の原理」と呼ばれる制約がある。
  • 主体の状態Sがある行動Aをひきおこすとしよう。状態Sは何らかの信念として解釈される。われわれはこのとき、主体の抱く価値観がAを合理化するようなかたちでSを解釈しなければならない。これが適合の原理である。
  • 主体の信念体系を確率分布Cとし、主体の価値観を効用関数Vで表現すれば、適合の原理はCとVの関係として表現できる。
  • しかし、C とV (信念と欲求) のめちゃくちゃな組み合わせでも適合の原理が満たされてしまう(「わたしが月曜日生まれであれば長生きしたい。それ以外の場合には寿命が偶数年であってほしい」とか)。
  • だから、適合の原理に加えて「寛容の原理」が要求される。これは「主体の信念がなるべく現実に合致するような解釈を選べ」という原理だ。
  • 自然的性質は寛容の原理を補助する。信念が現実に合致するだけではなく、信念をなるべく自然的性質に関連づけるべし、という制約をくわえるのだ。

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