2008年4月
以前shimと会ったとき、「コントをつくろう」ということになってコントをつくった。しかしこのままだと放置され忘却の彼方に忘れられそうなので、ここに書き残しておきたい。
■ ペーパーレス
会議室。
「わが社もペーパーレスをめざしましょう」と決定している。
オフィス。
石板がつみあげてある。
(他の部分はふつうのオフィス)。
「課長に、お電話がありました」と社員が石板を机の上に置いていく。
他の場所では、電話中の人が電話しながらメモを石板に掘っている。
「会議までにコピーお願い」
OLの集団がピラミッドをつくる人夫のようにコロで石板を運んでいる。
コピー室。
人夫たちが石板を掘っている。
なぜか集団で円柱を回転させている人や、船のカイのようなものを動かしている人たちがいる。
シュレッダーと書かれた一角では、ドリルで石を粉砕している。
■ えらそうなボイラー技師
ある家族。
「ボイラーってまだ使えないの?」
「今日修理の人が来るはずよ」
チャイムの音。
「おなーりー」と声。
技師たちが入ってくる。
作業服のまま技師は赤じゅうたんを広げる。
無理やり家族を脇によらせる。
「親方、どうぞ!」
親方が入ってくる。法王のようなローブを着用している。水平器を高らかにかかげる。
職人、家族を平伏させる。
「親方をボイラー室に案内しろ!」
ボイラー室。
親方、じっと立ったまま祈りをささげる。
職人は修理をしている。
職人が音を立てると親方が目を開ける。
他の職人「バカ! 音をたてるな!」
職人たちは、音をたてないよう細心の注意を払って修理する。
ときどき親方が苦しみだし、ボイラーの一角を指さす。
親方が指さすと職人は一斉にそこに飛びついて作業をはじめる。
ときどき変なところを指さして職人が困惑する。
家族が様子を見にくる。
「あの、ボイラーは...」
職人「しっ!」
職人が家族を追いはらう。
職人が帰ったあと。
家族がボイラーを確認しにやってくる。
ボイラーの前に巨大な石碑が残されており、ラテン語で「親方ボイラー修理の碑」と書いてある。
■ メイド留置所
留置所に入れられると、職員がメイドの服装をしており、「お帰りなさいませご主人さま!」と言われる。
- 他の案
宇宙が一巡し、永劫回帰を繰り返した後、「お帰りなさいませご主人さま!」と言われる。
宇宙の果てまで逃げたけれど、お釈迦さまの手のなかから出られず、「お帰りなさいませご主人さま!」と言われる。釈迦に。
■ 今思いついたもの
- 30世紀のカラオケ
ボーカロイドがかわりに歌ってくれる。のどにやさしい。
- 30世紀のゴルフ
ゴルフボールのかわりに電子を飛ばす。はためには集団で顕微鏡をのぞき込んでいるように見える。
- 30世紀のコント
素数を列挙すると全員大爆笑。
- 30世紀の人
本当は全員水槽のなかの脳だった。
■ Project Euler
ワーイProblem 12 - Project Eulerが解けた。
Problem 12でつまって1、2週間試行錯誤していた。
三角数(1,1+2,1+2+3,...)のうち、最初に約数が500以上になるものってやつ。
三角数を順番に生成し、素朴に約数の数を計算していたら計算が終わらず、「約数が500以上の数を生成して、それから三角数の判定に持ち込んだ方がいいかなあ。でも約数が500以上の数を網羅的にあげていくのはむずかしくないか?」と思っていた。
最終的にはあきらめてググるさまにお伺いをたてた。
ヒントがあれば意外に簡単だった。
↓以下ヒント。
約数の数を求めるには素因数分解。計算を速くするためには、素因数分解する際、小さな素数だけで分解すればいい。大きな素数は無視しても大勢に影響ない。
とりあえず他にもここでつまっている人がいるのがわかって安心した。
よくみんなこんなの解けるなあ。
■ 就職
組織は大きく、個人は小さい。
組織に飲み込まれないためには、自分の時間、自分の世界を持つことが大切だと感じる。毎日、1時間でも30分でもよいから、何とか自分のためだけの時間を捻出しようと思った。
■ 携帯
最近仕事で機会があってよく携帯をいじっていた。
携帯で電車に乗れるようになったのですげーと思った。携帯を使えばカードや口座からチャージできるし、改札も携帯をかざすだけで通れるので、発券機でSuicaをチャージするのは馬鹿らしいなあと思った。
あと、携帯サイトはものすごく閉じた世界なので、変なアマチュアが作ったものと会社組織が金をかけてつくったものの中間くらいの妙なものがあったりする。雰囲気としては初期のファミコンのソフトに似ているかもしれない。参入障壁が高いせいで、たまたま都合のいい位置にいた「なんか妙なコンテンツ」が生き残るような土壌になっている。
きっと、今アレで遊んでいる子どもたちは、大人になったあと、「なんだったんだろうなあ、あのFlashゲーム / Javaアプリ / デコメ」などと思うんだろう。そしてその世代のなかから、携帯版のクソゲーライターみたいな人が登場し、「あの幻のアプリ制作者を追え」みたいな記事を書いたりするんだろうなあと思った。
真面目にやってみるとモバゲーも結構楽しかった。「硫化水素で自殺できるって本当ですか? つくり方教えてください」「無理に決まってんだろ」「死ね」みたいなやりとりに心和む。アバターなども全体的に厨なセンスに貫かれていて「うわー」と思うがグッとくる。現実にはちょっと仲間に入れてもらえなさそうな気がするが、わたしの精神年齢の低さと相まって、はまったとたんに時間を費やしてしまいそうだなあと思った。
■ 就職
なんか楽しくなってきた。
■ 就職
研修中でいろんな部署をまわっている。先週は営業の部署にいた。
今まであまり営業の仕事の実態をイメージできていなかったが、営業とは要するにリストを管理する仕事だ、ということがわかった。
営業の人は、検索サイトなどを利用して顧客候補のリストをつくり、リストのなかの会社に順番に電話をかけてアポイントをとり、有望でない顧客はリストから外し、リストのなかの会社を訪問し、有望そうな顧客や、契約ずみの顧客は別のリストに移動する。また契約更新やたまたま近くまで来たなど、さまざまな機会にリストの会社を訪れ、つねにリストをケアしている。定期的に新しいリストをつくり、リストをアップデートすることも忘れない。ほとんどの仕事は顧客リストを中心に回転する。
今後営業の人のことを、LISP(List Processor)と呼ぶことにしたい。
1週間いただけなのに営業の本質がわかったのでひょっとすると営業に向いているかもしれない。
■ もよおし
わたしが所属する秘密結社遊究社の会合で抽象会というものを開いた。抽象会は抽象的な話しかしてはいけない会である。
毎回ルールは適当だが、今回はそれぞれ抽象的なテーマをあげて議論し、飽きてきたところで多数決で決定する方式をとった。
以下の問題に答えが出された。
- 穴は回転するか?
(レコードやドーナツが回転するとき、レコードやドーナツの中心にある穴も回転しているのか)
=>回転する。
(正円でない場合のみ回転するという意見を含む)
- コンピューターとにらめっこできるか?
(人間に対して感じるような羞恥心を感じることができるか)
=>できる。
- 論理とは何か。
(3択)
- 世界のしくみである。
- 脳のしくみである。
- 言葉のしくみである。
=>世界のしくみである。
- 科学は定義できるか?
=>できない。
- 浮気は定義できるか?
=>できない。
- 人間は他人を理解できるか?
=>できない。
また、「新しい税を考えよう」というテーマで以下の税などが考えだされた。
- 年齢税(年齢が高いととられる)
- ページランク税(ページランクが高いととられる)
- マイミク税(マイミクが多いととられる)
- 都市税(都会に住んでいるととられる)
■ 読書
ちなみに「穴は回転するか」という問題はわたしが読んでいた↓の本から取った。
春秋社、2008
加地大介(著)
「穴」の章と「境界」の章と存在論を紹介する章があるのだが、まだ穴の章しか読んでない。
当日の議論では、わたしは穴が移動することを認めた(レコードが移動すれば穴も移動する)ため、「移動を認めるなら回転も認めないといけないだろう」と、「穴は回転する派」になった。
でもそういえば、この本の著者は「穴は移動するけど回転しない」という派閥だったのだ。
なんでだったか読みなおしてみると、
- 穴には輪郭がある(形がある)
- でも穴の境界は穴の一部じゃない(3未満の実数などと同じで、限界はあるけど境界は含まない)
- 穴の部分は同一性を持たない(穴が移動したとき、穴のある一部分がどこに移動したかはわからない)
という3つを認めるせいだった。
さらに著者によれば、穴とは、「ものを充填できるという機能を持った形」であるらしい。
つまり穴そのものが占める領域が移動するので、移動はありえるが、穴の一部分に固定点を置くことができないため、穴は回転できないのだ。たとえば穴の境界の壁などは回転するが、境界は穴の部分ではないし、穴の一部分に固定した点を考えられないので回転は不可能ということらしい。著者は、移動できるけど回転できないものの例として他にも「影」をあげていた。
しかし卍型の影や穴だったら、影や穴が占める領域が回転しているように見えると思うんだが、それは見かけ上だけということになるのか。卍型の穴を回転させた場合、ものを充填させる機能もそれにつれて変化する*と思うのだが、その可能性は考慮しなくていいんだろうか。
■ 思いつき
たくさんの哲学的ゾンビが襲いかかってくる「哲学的ゾンビ映画」というのはどうだろう。
問題は、単に暴徒に襲われるだけの映画から区別しがたいところだ。
■ 問題のオリジナリティ
みんなが悩んでいた問題に解決を出した人は当然すごい。
でも個人的には、誰も悩んでいなかった変な問題を考え出した人というのが好きだ。
たとえば「穴は回転するか」は結構好きだ。
以前わたしも修論を書いていたとき、以下のような問題を考え出した。
本来あるジャンルに属さない作品、たとえばミステリとは呼べないような作品に対しても、「『罪と罰』はミステリとしてもおもしろい」などと言うことがある。
しかし反対に、「『罪と罰』はミステリとしてつまらない」などとは言わない。そんなことを言うと変な人だと思われる。
なぜか?
この問題に気がついた人はわたし以前にはいなかったのではないか、と自負している。
難点は、「べつに非対称でもいいだろ。ふつうだろ」って言われてしまいそうなところか。
■ 危機
シフトキーの反応が悪くなってきた。SKKユーザーとしては大ピンチである。
いざとなったらCaps Lockとシフトキーを交換しよう。
■ 就職
いろんな部署をまわって研修中。今週は営業の部署にいる。
人に会ったりするのは苦手な仕事の1つなのでアレだ。まあでも新人にはとりあえず雑用っぽい仕事をまわすじゃないか。議事録とったり調べものしてまとめたりとか。その手の作業は早い方だと思うので、気軽にやっている。まだまわりの社員の人が新人に遠慮していてハードな仕事をさせないのをよいことに、なるべく厚顔かつ適当にやろうという感じで過している。
■ ライフゲイム
昨日何となく「何分でライフゲームがつくれるかやってみよう」と思い、Wikipediaを見ながらライフゲイムをつくった。
15分くらいできるかと思ったのだが1時間くらいかかったのでおれはアホだと思った。
朝なにげなくテストして、そのまま会社に行って、帰ってきたらセルオートマトンがまだ動いていたので、「おれの帰りを待っていてくれたのか」的なことを思った。
■ 勉強
富田 悦次 (著), 横森 貴 (著)
森北出版、1992
本文を読み直して確認しつつ、第2章の演習をもう1回解いていたらそんなに難しくない気がしてきた。要するに理解度が低かったのだろう。
やはり勉強に話をかぎると、反復は美徳である。
■ Project Euler
やっと10問とっぱ。C++むずい。
■ 思った
先日、読書会で話題にでたが、人は条件法の論理を把握するのが苦手だ。「または」「かつ」「ない」は誰でも比較的自在にあやつれるのに、「ならば」だけこんなに苦労するのはおかしな話だと思う。スティッチの有名な実験 (カードをひっくりかえすやつね) の例もあるし、きっとこれは日本語の問題ではないんだろう。
たとえば
- 「3の倍数と3がつく数字のときに馬鹿になります」
って言ったら、3の倍数と3がつく数字のときに馬鹿のまねをするってことじゃないか。でも、それ以外に5の倍数のときにも馬鹿のまねをしても別に間違っているわけではない。3の倍数と3がつく数字のときに馬鹿になるとは言っているけど、それ以外の場合については何も述べていないわけだから。
これが十分条件。
一方
- 「3の倍数と3がつく数字のときにかぎり馬鹿になります」
の場合、3の倍数と3がつく数字以外の場合には、馬鹿にならない。でも、3の倍数と3がつく数字のとき、かならず馬鹿になるとは言っていない。馬鹿になることがあるとすれば、それは3の倍数と3がつく数字のときだけって言ってるだけだから。実際には3の倍数の内のいくつかのときだけ馬鹿になるのかもしれない。
これが必要条件。
必要十分条件を述べるには
- 「3の倍数と3がつく数字のとき、そしてそのときにかぎり馬鹿になります」
と言わなければならない。
でも、↑こんな言い方をすると変な人だと思われるじゃないか。変な人だと思われるのをよしとしても、そもそも通じないだろう。
必要十分条件を自然に述べるための接続詞があればよいと思うんだけど無い。
現実的には必要十分条件をはっきり述べようと思うなら「3の倍数と3がつく数字のとき、馬鹿になります。そして馬鹿になるときは、3の倍数と3がつく数字です」って言わなければならないのだろう。冗長だ。
「ならば」に強くなるための対策としては以下の3つくらいしか思いつかない。
- ベン図を書く。「p ならば q」だと、p の方が広い円になる。これを想像すると、必要条件、十分条件は把握しやすい。
- 対偶に変換する。対偶に変換すると、非対称がはっきりするのでだいぶ見やすくなる。「馬鹿にならないならば、3の倍数と3がつく数字ではない」。3の倍数、3がつく数字のときは必ず馬鹿になるって言っているし、それ以外の場合については何も言っていないことがわかりやすくなる。
- 条件法を使わない。「p ならば q」は「pでないか、またはq である」と同値なので、すべてこれに変換する。「3の倍数と3がつく数字ではないか、または馬鹿になります」。
■ 近い未来の話
なぜか、社会人なのに、人さまの博論の評者をつとめることになっている。
たぶん命題の話をすると思う。どうやって準備しようかな。
とりあえず『知識の哲学』の復習でもするか。
■ エピソード
少し前にmmwwに聞いた話。
数学者のグロタンディークが素数についてのセミナーで話していたところ、参加者から「ちょっと抽象的でよくわからんので、具体的に説明してほしい」と頼まれた。「じゃあ具体的な素数の例を1つあげればいいんだな」と了解したグロタンディークは何を思ったか、57 の話をはじめた。
(57 は3の倍数である)。
聴衆は大いに動揺したという。
これはいい話だと思ったので、忘れないうちにメモしておく。
今、軽く検索したところ↓の本にソースが載っているっぽい。
アミール・D・アクゼル (著), 水谷 淳 (翻訳)
日経BP社、2007
■ 勉強
富田 悦次 (著), 横森 貴 (著)
森北出版、1992
本文の方は、4章まで進んだ。ようやっとプッシュダウンオートマトンと文脈自由文法。
しかし、
,o/ ∠先生!演習がむずかしすぎます! lミiニ!
本文の通りにやろうとすると解けないんだが...。演習には発展的な問題ではなく、確認用の問題を置いてほしいな。
心がくじけてきて、人にすすめられた別の本にとっかえようかという気持ちになってきた。
いかん。こういうときは考え方を変え、解法を暗記するまで繰り返しやるんだ。
■ 買った本
ひさしぶりに古本屋に行った。
ネットで見たら、ヒンティッカの『認識と信念―認識と信念の論理序説』があるということだったので行ってみたのだが、置いてなかった。
かわりに以下の3冊を買った。
ドナルド ギリース (著), Donald Gillies (原著), 中山 智香子(訳)
日本経済評論社、2004
最近確率に関心がある。わたしとしては、「統計」にも「金融」にも関心がなく、純粋に「確率」に関心があるのだが、なかなかぴったりくる本がなくて困る。
もっと確率論をゴリゴリやるべきかなとも思うのだが、確率過程とかブラウン運動になるとなんかちがうかなーという気もしていて、どっちかというともっと論理との関係などが知りたいので、遠回りに哲学系の本を読んでいる。
ちなみにこの本は、Amazonによると翻訳がひどいらしい。はやく英語の本を不自由なく読めるようになりたいものだ。
野本 和幸 (著)
法政大学出版局、1997
これは勉強用。
内井 惣七 (著)
ミネルヴァ書房、1989
内井先生の本もきっといい本なんだろなーと思いつつ、「やっぱ情報系の人が書いたものの方が...」という権威主義のため、以前かわりに『論理と計算のしくみ』という本を買ったのだ。
でも、この本はちょっとむずかしくてなあ。とりあえず不完全性定理とチューリングマシンの部分だけ証明を追ってみたが、細かい部分まで理解できたとはとても言えない。
で、今日古本屋でぱらぱらこいつを見てたらやさしそうだったので買った。オートマトンと言語理論の本もむずかしいなあと思ってたのでちょうどよかった。論理回路もあつかっているらしいのでちょっと楽しみ。
■ 新刊とか
「岩波講座 哲学」の新しいやつがでるらしい。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/011261+/top2.html
「形而上学の現在」(2巻)、「言語/思考の哲学」(3巻)あたりに期待。「知識/情報の哲学」'(4巻)はなかを見て決めよう。「芸術/創造性の哲学」(7巻)も内容がよければ読みたいのだが、目次をみるかぎりどうかなあ...。むしろ「哲学史の哲学」(14巻)がおもしろそうかもしれない。
■ 思ったことのメモ
自分用。
俗に「慣習[Convention]」と言うと「とりきめ(規約)」という意味と「ならわし」という意味の2つがある。
これをどっちで理解するかで、大きなちがいがでてくることに最近気がついた。
一般に、とりきめの方は人間が自由に変えられるものだが、ならわしの方はそうではない。
「お金に価値があるのは、そういうとりきめなのである」と言った場合、「ほんとは価値がないけど、価値があることにしているよ」という意味だし、「明日からお金には価値がありません」ということも可能である。しかし「お金に価値があるのは、そういうならわしなのである」と言った場合、「ほんとは価値がない」とはかぎらないし、簡単に価値をなくせるともかぎらない。われわれは誰かがそう決めたから挨拶をするわけではないし、明日から挨拶をやめなさいって言っても無理なのと同じことだ。
また、「なぜそんなとりきめがあるのか」と問うた場合は、「誰が、いつ、何のために、そのとりきめをしたのか」が答えになる。
一方、「なぜそんなならわしがあるのか」と問うた場合は、進化(ゲーム)論的な説明とか、機能主義的な説明とか、歴史的事情の説明などが答えになるだろう。
どっちかというと「ならわし」の方が実在よりなのだと思う。
たとえば、クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』という本がある。
この本にでてくる、規則についての共同体説のことを、わたしはずっと「ならわしによる説明」だと理解していたのだ。しかし、きっと多くの人はこれを「とりきめによる説明」だと理解しているのだろう。
どおりで人と話があわないわけだ。
■ 思い
いまだにときどき「やっぱおまえの卒業はなしだから」って言われて卒業取り消しになりそうな気がする。
■ 思考とは世界の集合と自分の集合を選び出すこと
昨日の寝る前だったか今朝方目覚めるときだったか、思考をしようと奮闘していたら、思考することは、世界の集合と自分の集合を選び出すことなのだと思った。半分寝ているせいで、無数の世界と無数の自分をかきあつめるのが困難で、「思考するのはむずかしいなあ」と思った。
世界を論理的に可能なすべてのあり方に分割しよう。
いかなる命題も、それを満たす世界の集合を選び出す。
たとえば、
- 命題「わたしが就職した」
は、一部の世界のみで成り立つので、世界の部分集合がこれに対応する。
(というのはたぶん一部の人にとっては常識であるわけだが)。
だから、わたしの就職について思考するためにわたしはまず、命題「わたしが就職した」が成立した世界のみを選び出さねばならない。さらにそれらの世界に散在した無数のわたしを選び出さなければならない。
これら無数のわたしが同時に重なりあって、わたしの就職について思考する。
思考することは、一般性に触れることであり、それは複数の世界と複数のわたしを束ねて1つにすることだ、とそのときわたしは感覚した。上方から世界の集合を俯瞰しつつ、自分と世界をかき集めていくようなイメージが展開された。
ふだんはそんなことを考えたことはなかったが、ひょっとすると思考のバイナリレベルではいつもこんなことしているのかもしれないなあと思った。
■ 進化は個体を最適化しない。
進化することは、個体が生存のために最適化していくことだ、と考えてしまうことがある。適者生存などという言葉もある。
しかしこれは正しくない。進化は遺伝の継承を最適化するだけである。
というのは進化学の常識であった気がする。
たとえばある種には、命を捨てて家族を助ける本能があったとする。これは個体の生存にとっては何の役にも立たないばかりか有害である。にもかかわらず自然選択はこの手の本能を残存させるようにはたらくことがある。
なぜならば家族は、命を捨てた個体と同じ本能を保有している確率が高いからだ。細かい計算はわからんが、「1人が命を捨てて他のメンバーを助ける」という戦術が有効なものであり、しかも家族が同じ本能を持っている確率が一定以上高ければ、この種の本能が広まっていく可能性はあるだろう。
要するに問題は、進化で継承される特性が個体の生存を助けるかどうかではなく、うまく継承されるかどうかである。
つまり、進化論的に最適化された機能というのは、個体に貢献する機能でもなければ、種に貢献する機能でもなく、継承メカニズムに貢献する機能であるはずだ。
だから、進化というしくみのなかで一番得をするようにできているのは、個体でも種でもなく、継承メカニズムの部分であるわけだ。
人間の慣習のなかにも、こういう部分はあるんだろうな、とある日思った。ミームっていうか何ていうか。
(ドーキンスを読んでないので何とも言えないんだが)。
■ 「ので」の3つの用法
最近はたらいている最中に気がついたこと。「ので」を2つ含む文には3つの解釈の可能性がある。
再帰(入れ子) がどんな風に構成されるかに関して分かれるのだ。
なぜ気がついたかというと、「なんとかなのでー、なんとかなのでー、なんとかなのでー」と、延々と「ので」を繰り返す人がたまにいるからだ。
用語がないと不便なので、
- A ので B
のAを「左項」、Bを「右項」、2つの項と1つの「ので」から成るものを「節」と呼ぶことにする。
- 直列型
A ので B ので C
# または A ので B, B ので C
ex. 「雨が降ったのでイベントは中止なので今日は暇だ」
1つめの「ので」の右項が、そのまま2つめの左項になるパターン。
- 右再帰型
A ので (B ので C)
ex. 「野外イベントなので雨が降ったので中止だ」
2つめの「ので」が結ぶ「ので」節が、1つめの「ので」の右項になるパターン。
- 左再帰型
(A ので B) ので C
ex. 「雨が降ったので中止なので野外のイベントだろう」
1つめの「ので」が結ぶ「ので」節が、2つめの「ので」の左項になるパターン。
内省では、それぞれ以下のように感じる。
右再帰型はなんとか自然に受け取れるが、強いていえば2つめの「ので」を「ため」などに変えたくなる。直列型は理解できるが、口語っぽいというか稚拙な感じがする。左再帰型も理解できるが、2つめの「ので」を「ということは」などに変えたくなる。
解釈過程を考えてみると、右再帰型については「野外のイベントなので雨が降った」まで読んで、「野外のイベントであることが雨を降らせる可能性はないだろう」と判断し、バックトラックして、「雨が降ったので中止だ」までを右項として解釈し直しているように思う。「AのでB」の部分がもっと自然に解釈できそうなものだった場合、解釈に相当な困難を感じそうだ。
また左再帰型の場合、因果の成立が、また別の「ので」節の原因になるということで、実際には判断の根拠を示している場合が多そうだ。もっと例をあげて考えないとわからないが、因果の成立が純粋に原因を構成するという事例は想像しにくい。
人間に解釈できるかどうかは別にして、3つ以上組み合わせてさらに複雑なパターンを生成することもできるだろう。
われながらこいつは大発見だと思った。
しかし、こういうのはおそらく言語学方面ですでに研究があるんだろうなあ。生成文法の人がすでにやりつくしてそうな気もする。
■ 就職
同期が何人かいる。あまり大きな会社ではないのでそれほど人数は多くない。
お互い右も左もわからない状態で放り込まれているので妙な連帯感が生まれたりする。
自由な状態であればまったくかかわりがなかったであろう人々がこういう場合にかぎり交流を持つのはおもしろい。
学生時代、寮に放り込まれた当初の同期の連帯が強かった時期などを思い出す。どうせいずれみんなバラバラになるんだけど。
とはいえ毎日一緒に飯食いに行って、帰社時もわざわざ他の人が帰るのを待っていたりするとだんだんだるくなっていくわけだが。
あと、こういう集団は何だか残酷な部分もあるので、外れもの扱いされるといやだなあという恐怖もある。みんなそこそこ大人だし数も少ないのでそんなこともないだろうと期待しているが。
しかしだんだん採用担当者の仕事ぶりが大雑把な上に無責任でひどい、という方向にみんなの不満がたまってきたので、このままアンチ採用担当者で固まっていくのかもしれないなあと観測している。
■ 読書
富田 悦次 (著), 横森 貴 (著)
森北出版、1992
コンピュータサイエンスの基礎学力が足りないのが気にかかっているので勉強しようと思っているのだ。とりあえず家にあったこれを読んでいる。
電車のなかで少しずつ読んで、今日ようやく1章読み終わった。
有限オートマトンと正則表現が対応することを知った。
電車のなかで数学の本はきついかなあと思っていたが、意外といけることがわかった。通勤途中は歩く時間や待っている時間が多く、自然と、少し読んでは考えるというリズムになるのでむしろ数学の本を読むのに向いているかもしれない。
電車を降りて、オフィスまで歩く間に、ε動作を持つオートマトンから非決定性オートマトンへの変換について考えたりする。複雑な話を適度に消化するのは健康に良いようだ。
あと適当に時間を見つけて章末演習をやらねば。
読むときのコツとして気をつけようと思ったこと。
- あせらない。
あせって読もうとするとわからなくなり、わからないまま読んでいると「おまえバカ」と言われているような気分になる。気分が悪くなると読むのを止めてしまったりするので、あせらず1つずつ消化していかねばならない。
- 図を見て確認する。
頭のなかでやるだけでも良いのでなるべくきちんと例を確認する。手を動かして問題を解く時間がとれないのは仕方ない。しかし代わりにせめて頭のなかで問題を解いてみる手間は惜しまないようにする。
- 完璧主義にならない。
問題を解きながら復習するのは章末問題まで延期し、さしあたり話が理解できれば先に進んでよいことにする。ただしわからなくなってきたら何度でも前に戻って再確認する。
- つづける
長つづきしないパターンとして一番ありそうなのが、飽きて他の本を読みはじめることだ。急用で他の本を読まねばならないなどの場合をのぞき、通勤時には1冊が終わるまでこの本のみを読むことに決めよう。
■ 日常
雨に降られた。
■ 生活
もう少し就職のことを書きたいが何を書くかの取捨選択がむずかしい。
同期にひとりわりといい感じに野蛮でダメそうな子がいて、マナー研修の際などにも「何のためにそんなことするんですかー?」とか反発しててよいなあと思った。
あと今は研修中なので、会社が手がけているいろんな業種やビジネスの話を聞くのだが、業界・業種による文化や雰囲気の違いなどはおもしろく思う。
また「こういう旧態依然とした状態だったので、こういう点にビジネスチャンスを見出し、こういう新しい技術を持ち込んで、こういう新しいことをしました」といったストーリーをさまざまに聞くのだが、それもなかなかおもしろい。アートは文脈だ、と誰かが言っていたが、それを言ったらビジネスだって文脈だよなあと思う。しごく当たり前のことだが、文脈がわかってくると何でもおもしろいのではないか。
改めて考えると、今のところ淡々と研修を受け、説明を聞いているだけといった風情なので、特筆すべきことは何もなかった。
■ 文系
文系研究者のマッピングについてあれこれ考えている。
- 理系系
文系のなかでもディシプリンのしっかりした分野。心理学や、経済学や、言語学の一部など。
この手の専門分野にいる人は理系の研究者とほとんど変わらない生活をしていると思う。研究はしばしば国際的なものであるし(国際的というか、要するに主として英語の論文を読み書きするし)、雑誌論文が中心だし、特定の数学分野ができないと話にならない場合が多い。
またディシプリンがしっかりしているかどうかのめやすとして「学説史と方法論が分かれている」という点があると思う。微積分を学ぶためにライプニッツを読む人がいないように、ディシプリンのしっかりした分野では、学説史を知らなくても、原典を読まなくても、教科書を通じて基礎的な方法論を学べる。下手をすれば誰がつくった理論であるかさえ知らないままに学ぶ人が多い。
無論最新の動向やたちいった内容は教科書ではわからないのだが、教科書で基礎を勉強し、さらに専門的な内容については論文で最新の研究動向を押えるのが基本という感じなんじゃないかと思う (やったことないので知らないんだけど)。
- 人文系
文学部などに在籍する人々の多くは、文献学と歴史の研究をしている。文学研究者は文学史の研究をしているし、哲学研究者は哲学史の研究をしている。いわゆる「人文系」と呼ばれるのはこの手の人たちだろう*。
この手の人々は、博識を広げる訓練と、テキストをひたすら細かく読みこむ訓練と、そこからストーリーをでっちあげる訓練をしている。人文系の場合、雑誌掲載論文もあるものの、いまだに研究は著作中心の傾向があるし、ジャーナリスティックな評論家と専門家の区別がつきにくいし、数学はまるで使わない場合が多い。
学説史と方法論は分かれていないので、原典を読んでいないなら何も知らないと見なされたりする。理論研究というのは実質的には学説史研究のことである場合が多い。
ちなみに、わたしはたぶん人文系である*。
大まかに言うと、大昔のえらいフランス人の名前などをいっぱい知ってそうな感じの人たちである。
- フィールド系
フィールドに行って、データを採取して論文をまとめる研究をしている人。社会学と人類学とフィールド系の言語学がそうだろう。
ただわたしはひきこもり的傾向の人間であるため、この手の分野にはぜんぜん詳しくない (社会学の研究室にいたはずなんだが)。フィールド系の人はわりと野蛮で雑駁な感じで、一瞬友達になれそうかなと思うが、わたしはどうも基本的な性向が机上の人間であるため、実際にコミュニケーションを取ろうとするとどうも難しさを感じる。
あと歴史学や法学のコアの部分はまたちょっとちがうと思うんだが、その辺は全然わからないや。
また教育とか会計とか、実務系はだいぶ雰囲気がちがうと思うんだが、その辺は学問的な内容ではなく雰囲気がちがうだけのような気がする。
ところで、いま突然思いたったが、「文系だからコミュニケーションやマネジメントが得意」というのはひょっとしてフィールド系の研究をイメージして言ってるんだろうか。
...よくわからんが、たぶんちがうだろう。
■ 役に立つかどうかについて
研究者に対してしばしば「その研究って何の役に立つんですかー」というような質問がなされる。
人文系の研究者などは、この手の質問をされると特に何とも答えられず「ククク...」とつらい思いをしながら泣き寝入りをするのが通例であり、結果としてやたらとひねくれ世をすねた人格を身につけてしまったりしがちで、かわいそうだなあと思うのだが、それはそれとして。
わたしになりに「役に立つ」ことについてはいろいろと考えてみたことがある。
まず「役に立つ」というのはどういう意味かというと、ふつうは工学的な応用が効くという意味なのである。
大体どんな研究でも同僚にとっては役立つものなので「カントの晩年の認識論の発展について知るために非常に役立ちます」みたいな役立ちがあるはずだと思われるのだが、おそらくそういった答えは期待されていないし、あまりそういった答えを返す人もいない。
ふつうの人はおそらく、「何の役に立つんですか」と質問をしたら、遺伝子について研究したおかげで不老不死の薬ができましたとか、宇宙の研究をしたら宇宙船ができましたとか、そういう答えを期待しているのだと思われる。
また社会科学であれば、政策決定にかかわるかどうかが重要である。「今すぐ通貨量を2倍にすれば恒久的な世界平和が訪れます」みたいな研究であれば、多分胸をはって答えられるんだろう。これもまた制度の設計にかかわるという意味で、広い意味での社会工学に含まれると言ってもよいかもしれない。
そして大半の人文系研究者が答えにつまる理由もわかる気はする。
なぜかと言えば、人文系の人の大半は歴史や過去の文献の研究をしているからだ。わたしの知るかぎり、歴史を使った工学というものはまだ存在しないので、だからこそ人文系研究者に「何の役に立つんですか」は禁句なのであろう。
しかし考えようによっては、人文系研究の方が役に立つんじゃないかと思うんだ。
大半の科学的な科学の研究というのは、ふつうの人が学んで役に立つものではない。なぜならば、世のなかの大半の人はエンジニアでも研究者でも技術者でもないからだ。そんな人にいきなり科学的な方法論を教えてもほとんど何の役にも立たない。いや、勉強するのは楽しいし、本人が楽しめればそれでよいとわたしは思うんだが、使いどころが無いんじゃないかと思うんだ。
それよりは歴史的な事例や知識をたくさん仕入れた方がよっぽどものを考える助けになるのではないか。
たとえば経営。ふつうの経営者にとっては、数理的な経営学の理論をいきなり学ぶよりは、経営史や現代史の知識を身につける方がよほどためになるんじゃないかと思う。
(もちろん実務にかかわることを勉強した方がさらにもっと役に立つわけだが、それは置いておいて)。
大体において、科学的な理論というものは、実はそれほど「知識」を重んじない。たとえばミクロ経済学やマクロ経済学をいくら勉強しても、経済史の知識はほとんど手に入らない。なぜならば科学的な理論は、個別的な事情にかかわらず成り立つような法則の発見を目指しがちであり、個別的な事例については何とも教えてくれないからだ。その点で知識を身につけることからは離れていくように思う。
しかし、ふつうの人にとって、役に立つのは理論を身につけることじゃなくて、知識を蓄えることではないかという気がした。
無論本当に役に立つのは、知識でも理論でもなくて、抽象的で曖昧でオカルティックな響きなのであまり好きな言い方ではないが、考え方のセンスのようなものであったりするわけだが、知識を蓄えることの方がセンスを身につける助けになるのかもしれないと思った。
■ わたしと就職
という記事を昔読んだ。
不正確かもしれないが要約しよう。
外国に行くのと職につくのはどちらも大きな経験のはずなのに、外国に行った経験について雄弁に語る人は多く、就職した経験について語る人は少ない。
なぜならば、外国に出かけて得た経験は個人的な学びとして消化されるけれど、就職で学んだことは「知っていて当然の常識」として消化されるからだ*。常識を知ったからと言って、それをドラマチックな話にしたてあげるのは難しい。
これはなかなか傾聴すべき意見だと思う。確かに誰も自分の就職について語らなさすぎるように思う。世に旅行記はあふれているのに、就職記というのはさっぱり見つからない。むしろ就職の話を求めている人が多いと思うのだけど。
しかし、そういうのはいやなので、わたしはなるべくわたしの就職について語りつづけたいと思う。
就職すると時間がとりづらいとか、具体的な仕事の話は守秘義務があって喋りづらいという側面はあるのだろうと思われるが、なるべく抽象的に引きのばして語ることにしよう。
■ わたしと文系
ここ数日研修などを受けていて、強く実感したのはやはり「文系」という言葉の奇妙さだった。
「技術系の人」「文系の人」という2つが対義語として使われるので、わたしのように文系の学校を出て技術系で就職した人はちょっと困る。
「誰が文系で誰が技術系なの?」「文系で技術系です、ごめんなさい」みたいな。
しかし、以前から気になっていたのだが、世の多くの人は「文系」という言葉を「研究と無縁な学生生活を送った人」「特に専門を持たない人」という意味で使っているのだな。そうじゃないと「文系だからマネジメントが得意なはず」「文系だからコミュニケーションが得意なはず」などという発想はでてこないよなあ。
(むしろ文系だろうと理系だろうと、研究生活に打ち込んだ人はコミュニケーションに難をかかえている場合がままある、と思うのだが (←婉曲表現))。
なんかもっと「おまえは文系だから自然言語解析が得意だろう」とか「文系だからアンケート結果を重回帰分析しろ」とか「文系だから複雑な概念を整理するのは得意だろう」とか「文系だから離散数学は得意だろう」とか、そういう期待を負わせるべきだと思うんだけどなあ。「文系だから企画・営業」とか「文系だから総務」というのはまるでわからん。
(いや、マーケティングが専門だから企画・営業という話ならわかるんだが、たぶんそうじゃなくて、「文系 = 専門性の無い人」で、他にできることがないからその手の仕事をやらせているだけに見える)。
なぜそんなことになるのだろうと考えてみたが、おそらく文系で研究生活に進む人の数が圧倒的に少ないせいもあるんだろう。まわりに文系の研究者がたくさんいすぎるせいで気がつかなかったのだが、実際理系の研究者に比べれば文系の研究者は圧倒的に数が少ない。そのため、世の中に対してさっぱり存在感がないのだろう。
なので、世の中に対して少しずつ文系研究者が何をしているかを説明していくとよい感じであるように思う。
(わたしの影響力が小さいのは仕方ないとして、こういうのはひとりひとりのこころがけだと思うんだ)。
■ 読書
サイモン エヴニン (著), Simon Evnine (原著), 宮島 昭二 (翻訳)
勁草書房 (1996/02)
読んでなかったので読んだ。大変良い解説本だった。
やはり決定的な論点は以下だろうと思った。
ドナルド・デイヴィドソン (著), 金杉 武司 (翻訳), 塩野 直之 (翻訳), 鈴木 貴之 (翻訳), 信原 幸弘 (翻訳)
春秋社、2007
- われわれが彼らの言語を理解しているのだとすれば、共通の土台が存在し、「生活様式」が共有されているのである。
- われわれ自身の信念や価値評価、コミュニケーション方法によって理解することが原理的に不可能であるような生物は、われわれの思考と異なる思考を持っているかもしれないような生物なのではない。
- それは、われわれが「思考」で意味するものを持たない生物なのである。
p70-71
これは、「理解不可能な他者」というのは、そもそも論理的に矛盾しており、想定不可能な観念であるという主張である。
別の言い方をすれば、「翻訳不可能な思考」「翻訳不可能な言語」「翻訳不可能な理論」なるものは存在しないという主張である。
いわば他者理解に対する懐疑主義の否定である。
ただしデイヴィドソンの議論は、懐疑主義を反証できるほど決定的なものではない。しかし懐疑主義を守勢に追い込んでいる点で評価に値すると思う。
わたしなりにかみくだくと以下のようになる。
反懐疑主義者は、「理解不可能な他者がいる」「翻訳不可能な言語がある」という懐疑主義者の主張に対し、次のような反論を持ち出すことができる。
「どうして理解不可能なのに思考しているとわかったのだ」
「どうして翻訳不可能なのに言語であるとわかったのだ」。
懐疑主義者が懐疑主義をつらぬくならば、そもそもそんなことがわかるはずがない。
反懐疑主義者は、さらに先へ進み、以下のようにも主張できるだろう。
「理解不可能なのではなく、そもそも思考を持たないのである」
「翻訳不可能なのではなく、そもそも言語ではないのである」。
理解不可能な他者は、「他者」ではなく、思考を持たない無生物なのかもしれない。
懐疑主義者は当初の主張を守るために、これらの反論に応えなければならない。「思考」や「言語」を見分けるための有効な手法を提示しなければならないのである。
すなわち、われわれの知るいかなる言語にも翻訳できないことを擁護しつつ、それらの思考や言語は、当の体系の内部では有意味であると主張しなければならない。そのためには、それらが翻訳不可能であるにもかかわらず、有意味であることを見分けるための方法を提示しなければならないだろう。
おそらくそれは、きわめて難しいことだろう。
ところで、
イアン・ハッキング (著), 伊藤 邦武 (訳)
勁草書房、1989
パラパラ見直していて気づいたのだが、ハッキングは、通約不可能 (翻訳不可能) というアイデアを擁護した人として、ピーター・ウィンチをあげているな。
しかもこの点について考えるために、マックス・ヴェーバーを読むように示唆している。へー。
■ 生活
社会人マナー講習会を受けたりしている。「名刺のわたし方なんてファックオフ!」と言っているとパンクな感じで素敵だが、意外とおもしろくて、「あーおれ、こういうの好きかも」と思える瞬間があったので新鮮だった。席順とか名刺のわたし方とか、まったく何の意味もないのに隅々まで仕様が定められていると思うと何だかワクワクしてくる。やっぱりわたしは慣習や仕様が好きなんだなあと改めて感じた。
- 別にどの文字に、2進数のどの数字をわりあててもいいんだけど、統一した仕様を決めておかないと困る
- => 文字コード策定
- => 一度普及した文字コードの仕様は、残存しつづけるよう圧力がかかる
- どっちの席順が目上であるかなんて、べつにどれでも変わらないけど、正しい方法がわからないと困る
- => 昔からやっているやり方を、正しいやり方として受け入れる
- => 一度普及したマナーは、残存しつづけるよう圧力がかかる
理由はよくわからないがたぶんこういう現象が好きなんだと思うんだ。
目上とか目下とかも、現実の上下関係だと思うと腹だたしいが、あまりに無意味に仕様が定まっているので、現実とは無関係な社会人マナー理論という特殊な理論のなかの理論的概念のような気がしてきた。「ミクロ経済学的には価値0」って言っても実際に価値がゼロであるとはかぎらないのと同じように、「マナー理論的に目下」ってうのは、理論のなかだけの話に思える。まあ実際「訪問者が目下」などの規約は、社会的威信や収入などとはほぼ無関係に決まるわけだし。
■ わたしが独裁者になったあかつきには
わたしが独裁者になったあかつきには、文字コードはユニコードに統一する予定である。
キーボード配列も変える。
世の中にはもっと合理的な仕様が他にあるのに、なかなかそちらに以降しないものというのがさまざまにある。
キーボード配列とか。暦とか。
思うに物事には「仕様が1つに定まっているべき」というのと「合理的にすべき」という2種類の側面があって、前者が優先されるような物事の場合、しばしば変なところで均衡が成立し、まずい仕様が定着してしまうのだろう。本当は仕様を変更した方がよいのだが、仕様の変更に大きなコストがかかるので、変更されないまま変な慣習が存続していく。
わたしはこの手の現象が好きなのだが、一方で、合理的な仕様に変えたいという欲望も持っている。
もし万が一独裁者になったら、いろんな仕様を一番合理的なものに統一したい。始皇帝もこんな気持ちだったのだろうかと想像するが、違うかもしれない。
■ 買った本
- 『心の概念』
ギルバート・ライル(著)、服部裕幸(訳), 宮下治子(訳),
みすず書房、1987
勉強用。『ジレンマ』も買うかなあ。
■ 読書
スティーブン ピンカー (著), Steven Pinker (原著), 椋田 直子 (訳)
日本放送出版協会、1995
おもしろかった。ところで、ピンカーは GNU Emacsユーザーだそうだ。M-x doctor について触れている箇所があった。
■ 日常
学生じゃなくなった。
学生の頃はよかった、とか何とか言ってみたいが、よく考えるとまだ2日くらいしかたってない。
■ 読書
伊藤 邦武 (著)
勁草書房、1997
意思決定理論の解釈の歴史とそこで生じる哲学的問題のアレコレって感じの内容だった。
数式部分はまだあまりきちんと読んでない。これは、もう一回読んでみてもいいかも。
しかし縦書きにまざる数式は大変読みづらいな...。横書きでもよかったんじゃないか。
特に結論は無く、歴史と紹介という感じで手広く紹介しているのだが、内容は結構レアな気がする。
出てくる人は、パスカルとコンドルセ、ラムジーとケインズ、スタルネイカーとデイヴィド・ルイスなど。
デイヴィドソンにも触れてほしかったな...。
ところで、ラムジーはフォン・ノイマンがゲーム理論を考案するよりも以前に、今日の意思決定理論と同じようなものをつくりあげていたらしい (しかし、その理論はあまり一般には知られていなかったそうだ)。ラムジーえらいな。
■ 思ったこと
割れ窓理論が完全に成り立つ世界があり、そこでは、割れた窓の数と犯罪の数が正確に対応するとしよう。
数の設定はどうでもよいが、たとえば割れた窓1つにつき、1週間に1つの犯罪が起きる。
割れ窓世界の誰かがそのことに気がつき、割れ窓理論を考案する。
割れ窓理論の公理は次のようなものである。
C_t = L * BW_t.
C_t は期間 t に起きた犯罪の総数、BW_t は期間 t の間に割れていた窓の総数とする。L は期間 t の長さと対象とする範囲の広さによって決まる。
割れ窓理論によって割れ窓世界の犯罪学は格段に進歩した。
「『犯罪』は曖昧な概念であり、より厳密な概念によって置き換えられねばならない。犯罪の総数を数えることは困難であるが、割れた窓を数えるのはそれよりももっと簡単であり、間違いも少ない。よって今後は『犯罪』を『割れた窓』によって定義することにしよう」
割れ窓世界の犯罪学では、以後、『犯罪』に変えて『割れた窓』の概念が用いられる。ただし割れ窓理論だけは例外である。なぜならば割れ窓理論家は、割れ窓と犯罪の対応を研究しなければならないからだ。
誰かが割れ窓理論を批判する。
「割れ窓理論はトートロジーに陥っている。割れ窓理論は、割れた窓の数によって犯罪の件数を説明しようとするが、『犯罪』を厳密に定義しようとすれば、割れた窓の数に頼るしかあるまい。この理論は結局のところ、割れた窓の総数は割れた窓の総数であると言っているにすぎない」
割れ窓理論家はこれを一笑に付したが、割れ窓世界の人々にとって『割れた窓』と『犯罪』を別々に理解するのは大変な困難だった。
人はなぜ割れ窓理論が存在するのかよく理解できなかった。なぜなら、彼らにとって割れた窓とは犯罪のことであり、犯罪とは割れた窓のことであり、そんな当たり前のことが研究に値するものであるとは考えられなかったからだ。当たり前のことを確認しているだけに見える割れ窓理論家よりも、「犯罪は存在しない」とか「割れ窓など幻想である」などと言っている人々の方がむしろ斬新な主張を述べているように思えた。
しかし、言うまでもなくこの割れ窓世界をもっともよく説明する理論は割れ窓理論である。
つまり、あまりにも理論がうまくいくと逆にそれを理解できなくなってしまう人がいる、という話。
■ 思ったこと
「音楽は五線譜ではない。5本の線は音楽の一部ではないし、音楽にとって何の役割も果していない」
これは当たり前だ。音楽と五線譜を取り違えてはならない。
しかし、だからと言ってそれが五線譜を使わない理由になるわけではない。
依然として五線譜は便利であるし、それでもあえて五線譜を使わないでいようと思うなら、せめて「五線譜なしですませることは、五線譜を学ぶよりももっと大変なことなのだ」ということくらいは知っておいてもよいかもしれない。








