思い

いまだにときどき「やっぱおまえの卒業はなしだから」って言われて卒業取り消しになりそうな気がする。




思考とは世界の集合と自分の集合を選び出すこと

昨日の寝る前だったか今朝方目覚めるときだったか、思考をしようと奮闘していたら、思考することは、世界の集合と自分の集合を選び出すことなのだと思った。半分寝ているせいで、無数の世界と無数の自分をかきあつめるのが困難で、「思考するのはむずかしいなあ」と思った。


世界を論理的に可能なすべてのあり方に分割しよう。

いかなる命題も、それを満たす世界の集合を選び出す。

たとえば、

  • 命題「わたしが就職した」

は、一部の世界のみで成り立つので、世界の部分集合がこれに対応する。

(というのはたぶん一部の人にとっては常識であるわけだが)。


だから、わたしの就職について思考するためにわたしはまず、命題「わたしが就職した」が成立した世界のみを選び出さねばならない。さらにそれらの世界に散在した無数のわたしを選び出さなければならない。

これら無数のわたしが同時に重なりあって、わたしの就職について思考する。

思考することは、一般性に触れることであり、それは複数の世界と複数のわたしを束ねて1つにすることだ、とそのときわたしは感覚した。上方から世界の集合を俯瞰しつつ、自分と世界をかき集めていくようなイメージが展開された。

ふだんはそんなことを考えたことはなかったが、ひょっとすると思考のバイナリレベルではいつもこんなことしているのかもしれないなあと思った。




進化は個体を最適化しない。

進化することは、個体が生存のために最適化していくことだ、と考えてしまうことがある。適者生存などという言葉もある。

しかしこれは正しくない。進化は遺伝の継承を最適化するだけである。

というのは進化学の常識であった気がする。


たとえばある種には、命を捨てて家族を助ける本能があったとする。これは個体の生存にとっては何の役にも立たないばかりか有害である。にもかかわらず自然選択はこの手の本能を残存させるようにはたらくことがある。

なぜならば家族は、命を捨てた個体と同じ本能を保有している確率が高いからだ。細かい計算はわからんが、「1人が命を捨てて他のメンバーを助ける」という戦術が有効なものであり、しかも家族が同じ本能を持っている確率が一定以上高ければ、この種の本能が広まっていく可能性はあるだろう。

要するに問題は、進化で継承される特性が個体の生存を助けるかどうかではなく、うまく継承されるかどうかである。


つまり、進化論的に最適化された機能というのは、個体に貢献する機能でもなければ、種に貢献する機能でもなく、継承メカニズムに貢献する機能であるはずだ。

だから、進化というしくみのなかで一番得をするようにできているのは、個体でも種でもなく、継承メカニズムの部分であるわけだ。


人間の慣習のなかにも、こういう部分はあるんだろうな、とある日思った。ミームっていうか何ていうか。

(ドーキンスを読んでないので何とも言えないんだが)。




「ので」の3つの用法

最近はたらいている最中に気がついたこと。「ので」を2つ含む文には3つの解釈の可能性がある。

再帰(入れ子) がどんな風に構成されるかに関して分かれるのだ。

なぜ気がついたかというと、「なんとかなのでー、なんとかなのでー、なんとかなのでー」と、延々と「ので」を繰り返す人がたまにいるからだ。


用語がないと不便なので、

  • A ので B

のAを「左項」、Bを「右項」、2つの項と1つの「ので」から成るものを「節」と呼ぶことにする。



  • 直列型

A ので B ので C

# または A ので B, B ので C

ex. 「雨が降ったのでイベントは中止なので今日は暇だ」

1つめの「ので」の右項が、そのまま2つめの左項になるパターン。


  • 右再帰型

A ので (B ので C)

ex. 「野外イベントなので雨が降ったので中止だ」

2つめの「ので」が結ぶ「ので」節が、1つめの「ので」の右項になるパターン。


  • 左再帰型

(A ので B) ので C

ex. 「雨が降ったので中止なので野外のイベントだろう」

1つめの「ので」が結ぶ「ので」節が、2つめの「ので」の左項になるパターン。



内省では、それぞれ以下のように感じる。

右再帰型はなんとか自然に受け取れるが、強いていえば2つめの「ので」を「ため」などに変えたくなる。直列型は理解できるが、口語っぽいというか稚拙な感じがする。左再帰型も理解できるが、2つめの「ので」を「ということは」などに変えたくなる。

解釈過程を考えてみると、右再帰型については「野外のイベントなので雨が降った」まで読んで、「野外のイベントであることが雨を降らせる可能性はないだろう」と判断し、バックトラックして、「雨が降ったので中止だ」までを右項として解釈し直しているように思う。「AのでB」の部分がもっと自然に解釈できそうなものだった場合、解釈に相当な困難を感じそうだ。

また左再帰型の場合、因果の成立が、また別の「ので」節の原因になるということで、実際には判断の根拠を示している場合が多そうだ。もっと例をあげて考えないとわからないが、因果の成立が純粋に原因を構成するという事例は想像しにくい。



人間に解釈できるかどうかは別にして、3つ以上組み合わせてさらに複雑なパターンを生成することもできるだろう。


われながらこいつは大発見だと思った。

しかし、こういうのはおそらく言語学方面ですでに研究があるんだろうなあ。生成文法の人がすでにやりつくしてそうな気もする。

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