■ 近い未来の話
なぜか、社会人なのに、人さまの博論の評者をつとめることになっている。
たぶん命題の話をすると思う。どうやって準備しようかな。
とりあえず『知識の哲学』の復習でもするか。
■ エピソード
少し前にmmwwに聞いた話。
数学者のグロタンディークが素数についてのセミナーで話していたところ、参加者から「ちょっと抽象的でよくわからんので、具体的に説明してほしい」と頼まれた。「じゃあ具体的な素数の例を1つあげればいいんだな」と了解したグロタンディークは何を思ったか、57 の話をはじめた。
(57 は3の倍数である)。
聴衆は大いに動揺したという。
これはいい話だと思ったので、忘れないうちにメモしておく。
今、軽く検索したところ↓の本にソースが載っているっぽい。
アミール・D・アクゼル (著), 水谷 淳 (翻訳)
日経BP社、2007
■ 勉強
富田 悦次 (著), 横森 貴 (著)
森北出版、1992
本文の方は、4章まで進んだ。ようやっとプッシュダウンオートマトンと文脈自由文法。
しかし、
,o/ ∠先生!演習がむずかしすぎます! lミiニ!
本文の通りにやろうとすると解けないんだが...。演習には発展的な問題ではなく、確認用の問題を置いてほしいな。
心がくじけてきて、人にすすめられた別の本にとっかえようかという気持ちになってきた。
いかん。こういうときは考え方を変え、解法を暗記するまで繰り返しやるんだ。
■ 買った本
ひさしぶりに古本屋に行った。
ネットで見たら、ヒンティッカの『認識と信念―認識と信念の論理序説』があるということだったので行ってみたのだが、置いてなかった。
かわりに以下の3冊を買った。
ドナルド ギリース (著), Donald Gillies (原著), 中山 智香子(訳)
日本経済評論社、2004
最近確率に関心がある。わたしとしては、「統計」にも「金融」にも関心がなく、純粋に「確率」に関心があるのだが、なかなかぴったりくる本がなくて困る。
もっと確率論をゴリゴリやるべきかなとも思うのだが、確率過程とかブラウン運動になるとなんかちがうかなーという気もしていて、どっちかというともっと論理との関係などが知りたいので、遠回りに哲学系の本を読んでいる。
ちなみにこの本は、Amazonによると翻訳がひどいらしい。はやく英語の本を不自由なく読めるようになりたいものだ。
野本 和幸 (著)
法政大学出版局、1997
これは勉強用。
内井 惣七 (著)
ミネルヴァ書房、1989
内井先生の本もきっといい本なんだろなーと思いつつ、「やっぱ情報系の人が書いたものの方が...」という権威主義のため、以前かわりに『論理と計算のしくみ』という本を買ったのだ。
でも、この本はちょっとむずかしくてなあ。とりあえず不完全性定理とチューリングマシンの部分だけ証明を追ってみたが、細かい部分まで理解できたとはとても言えない。
で、今日古本屋でぱらぱらこいつを見てたらやさしそうだったので買った。オートマトンと言語理論の本もむずかしいなあと思ってたのでちょうどよかった。論理回路もあつかっているらしいのでちょっと楽しみ。
■ 新刊とか
「岩波講座 哲学」の新しいやつがでるらしい。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/011261+/top2.html
「形而上学の現在」(2巻)、「言語/思考の哲学」(3巻)あたりに期待。「知識/情報の哲学」'(4巻)はなかを見て決めよう。「芸術/創造性の哲学」(7巻)も内容がよければ読みたいのだが、目次をみるかぎりどうかなあ...。むしろ「哲学史の哲学」(14巻)がおもしろそうかもしれない。
■ 思ったことのメモ
自分用。
俗に「慣習[Convention]」と言うと「とりきめ(規約)」という意味と「ならわし」という意味の2つがある。
これをどっちで理解するかで、大きなちがいがでてくることに最近気がついた。
一般に、とりきめの方は人間が自由に変えられるものだが、ならわしの方はそうではない。
「お金に価値があるのは、そういうとりきめなのである」と言った場合、「ほんとは価値がないけど、価値があることにしているよ」という意味だし、「明日からお金には価値がありません」ということも可能である。しかし「お金に価値があるのは、そういうならわしなのである」と言った場合、「ほんとは価値がない」とはかぎらないし、簡単に価値をなくせるともかぎらない。われわれは誰かがそう決めたから挨拶をするわけではないし、明日から挨拶をやめなさいって言っても無理なのと同じことだ。
また、「なぜそんなとりきめがあるのか」と問うた場合は、「誰が、いつ、何のために、そのとりきめをしたのか」が答えになる。
一方、「なぜそんなならわしがあるのか」と問うた場合は、進化(ゲーム)論的な説明とか、機能主義的な説明とか、歴史的事情の説明などが答えになるだろう。
どっちかというと「ならわし」の方が実在よりなのだと思う。
たとえば、クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』という本がある。
この本にでてくる、規則についての共同体説のことを、わたしはずっと「ならわしによる説明」だと理解していたのだ。しかし、きっと多くの人はこれを「とりきめによる説明」だと理解しているのだろう。
どおりで人と話があわないわけだ。
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