わたしと就職

という記事を昔読んだ。

不正確かもしれないが要約しよう。

外国に行くのと職につくのはどちらも大きな経験のはずなのに、外国に行った経験について雄弁に語る人は多く、就職した経験について語る人は少ない。

なぜならば、外国に出かけて得た経験は個人的な学びとして消化されるけれど、就職で学んだことは「知っていて当然の常識」として消化されるからだ*。常識を知ったからと言って、それをドラマチックな話にしたてあげるのは難しい。

* それが本当に「常識」であるかどうかは別にして、就職に際して得た知識や経験の多くは「当然の常識」として受け止められてしまうという話だ。


これはなかなか傾聴すべき意見だと思う。確かに誰も自分の就職について語らなさすぎるように思う。世に旅行記はあふれているのに、就職記というのはさっぱり見つからない。むしろ就職の話を求めている人が多いと思うのだけど。

しかし、そういうのはいやなので、わたしはなるべくわたしの就職について語りつづけたいと思う。

就職すると時間がとりづらいとか、具体的な仕事の話は守秘義務があって喋りづらいという側面はあるのだろうと思われるが、なるべく抽象的に引きのばして語ることにしよう。




わたしと文系

ここ数日研修などを受けていて、強く実感したのはやはり「文系」という言葉の奇妙さだった。

「技術系の人」「文系の人」という2つが対義語として使われるので、わたしのように文系の学校を出て技術系で就職した人はちょっと困る。

「誰が文系で誰が技術系なの?」「文系で技術系です、ごめんなさい」みたいな。


しかし、以前から気になっていたのだが、世の多くの人は「文系」という言葉を「研究と無縁な学生生活を送った人」「特に専門を持たない人」という意味で使っているのだな。そうじゃないと「文系だからマネジメントが得意なはず」「文系だからコミュニケーションが得意なはず」などという発想はでてこないよなあ。

(むしろ文系だろうと理系だろうと、研究生活に打ち込んだ人はコミュニケーションに難をかかえている場合がままある、と思うのだが (←婉曲表現))。


なんかもっと「おまえは文系だから自然言語解析が得意だろう」とか「文系だからアンケート結果を重回帰分析しろ」とか「文系だから複雑な概念を整理するのは得意だろう」とか「文系だから離散数学は得意だろう」とか、そういう期待を負わせるべきだと思うんだけどなあ。「文系だから企画・営業」とか「文系だから総務」というのはまるでわからん。

(いや、マーケティングが専門だから企画・営業という話ならわかるんだが、たぶんそうじゃなくて、「文系 = 専門性の無い人」で、他にできることがないからその手の仕事をやらせているだけに見える)。


なぜそんなことになるのだろうと考えてみたが、おそらく文系で研究生活に進む人の数が圧倒的に少ないせいもあるんだろう。まわりに文系の研究者がたくさんいすぎるせいで気がつかなかったのだが、実際理系の研究者に比べれば文系の研究者は圧倒的に数が少ない。そのため、世の中に対してさっぱり存在感がないのだろう。

なので、世の中に対して少しずつ文系研究者が何をしているかを説明していくとよい感じであるように思う。

(わたしの影響力が小さいのは仕方ないとして、こういうのはひとりひとりのこころがけだと思うんだ)。




読書

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

サイモン エヴニン (著), Simon Evnine (原著), 宮島 昭二 (翻訳)

勁草書房 (1996/02)


読んでなかったので読んだ。大変良い解説本だった。

やはり決定的な論点は以下だろうと思った。


合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)

ドナルド・デイヴィドソン (著), 金杉 武司 (翻訳), 塩野 直之 (翻訳), 鈴木 貴之 (翻訳), 信原 幸弘 (翻訳)

春秋社、2007

  • われわれが彼らの言語を理解しているのだとすれば、共通の土台が存在し、「生活様式」が共有されているのである。
  • われわれ自身の信念や価値評価、コミュニケーション方法によって理解することが原理的に不可能であるような生物は、われわれの思考と異なる思考を持っているかもしれないような生物なのではない。
  • それは、われわれが「思考」で意味するものを持たない生物なのである。

p70-71


これは、「理解不可能な他者」というのは、そもそも論理的に矛盾しており、想定不可能な観念であるという主張である。

別の言い方をすれば、「翻訳不可能な思考」「翻訳不可能な言語」「翻訳不可能な理論」なるものは存在しないという主張である。

いわば他者理解に対する懐疑主義の否定である。

ただしデイヴィドソンの議論は、懐疑主義を反証できるほど決定的なものではない。しかし懐疑主義を守勢に追い込んでいる点で評価に値すると思う。


わたしなりにかみくだくと以下のようになる。


反懐疑主義者は、「理解不可能な他者がいる」「翻訳不可能な言語がある」という懐疑主義者の主張に対し、次のような反論を持ち出すことができる。

「どうして理解不可能なのに思考しているとわかったのだ」

「どうして翻訳不可能なのに言語であるとわかったのだ」。

懐疑主義者が懐疑主義をつらぬくならば、そもそもそんなことがわかるはずがない。

反懐疑主義者は、さらに先へ進み、以下のようにも主張できるだろう。

「理解不可能なのではなく、そもそも思考を持たないのである」

「翻訳不可能なのではなく、そもそも言語ではないのである」。

理解不可能な他者は、「他者」ではなく、思考を持たない無生物なのかもしれない。


懐疑主義者は当初の主張を守るために、これらの反論に応えなければならない。「思考」や「言語」を見分けるための有効な手法を提示しなければならないのである。

すなわち、われわれの知るいかなる言語にも翻訳できないことを擁護しつつ、それらの思考や言語は、当の体系の内部では有意味であると主張しなければならない。そのためには、それらが翻訳不可能であるにもかかわらず、有意味であることを見分けるための方法を提示しなければならないだろう。

おそらくそれは、きわめて難しいことだろう。



ところで、

言語はなぜ哲学の問題になるのか

イアン・ハッキング (著), 伊藤 邦武 (訳)

勁草書房、1989


パラパラ見直していて気づいたのだが、ハッキングは、通約不可能 (翻訳不可能) というアイデアを擁護した人として、ピーター・ウィンチをあげているな。

しかもこの点について考えるために、マックス・ヴェーバーを読むように示唆している。へー。

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