■ 音楽
最近MOSAIC.WAVばかり聴いている。なぜかiTunesストアで売っているのでついつい買ってしまう。
最初は違和感のあった曲も聴いている内に、フレーズが聞き取れるようになってきてだんだん「いい歌だなあ」と思うようになった。
ところどころに好きなフレーズがあったりする。
「第0セクター忍び込んで きっとメモリー常駐」 (Magical Hacker ☆ くるくるリスク!)
「Let's Go Dive Into トリプルダブリュー」「フォトショで小麦色の素肌はまるでハイビスカス」(Dive into Web)
「ブロックノイズが時代の象徴 アナウンサーはロボット 流行りの音楽BPM900」(光のエレメント)
「べ、べつにあんたのためじゃないんだからねっ! ロボット3原則に抵触しないように服従してるだけなんだからっ!」(魅惑のツンデロイド)
「よくできた科学が魔法と区別がつかないせいで、よくできていない科学も魔法と区別がつかない」(ギリギリ科学少女ふぉるしぃ)
最近は毎日「Magical Hacker ☆ くるくるリスク!」で目覚めている。寝覚めに音楽を使うと、その後その曲を聴くたびに不快になるので避けていたが、最初からキモい曲を使えば、むしろ味わいがますということに気がついた。
最近よく聴いている、Dive Into Webもとてもいい曲だと思う。
Webのなんだか不健康でキモい感じと全能感の両方がよく表現されていると思う。
■ 自己分析
新しい環境にいるせいか、自分のことを振り返って考える機会がままある。自分の長所だと思ったものを書いておこう。
- 間違いを認めるのが早い。
わたしはよく「やっべーおれ間違えてるよー」みたいなことを叫ぶのだが、人を見ているとなかなか間違えを認めない人もいるので、「これは長所かな」とも思った。でも最近、やはり自分は頑固な部分もあるかもしれないと思ったのでこういう長所はないかもしれない。
- 柔軟である。
新しい価値観を受け入れるのが早いと思う。ときどき「最近の文化はなげかわしい」みたいなことを言う人がいるが、あまりそういうことは思わない。たとえば本気で携帯小説の興隆を嘆いている人とかを見ると「こいつ頭かたくてキモいなー」と思う。しかし、リア充は許せないので別に寛容というわけではないかもしれない。単に新しい文化を嘆くようなやつが嫌いなだけかもしれない。
- 勉強が好きである。
これは単純に好きだと思う。世の中には勉強が好きだけど、特定の分野しか勉強したがらない人もいるが、わたしの場合、勉強できるなら分野は何でもよいと思っている節がある。もちろん、自分のなかで「こういう方向を深めたい」というビジョンはあるが、別にそれと関係なくても勉強なら何でもいいという部分はある。
- いろいろなものに興味を持てる。
最初「何にでも興味がある」と書きかけたが、「何にでも興味があるなら、任意の時空点を選んだとき、そこにあるものは必ずわたしにとって興味のあるものであるはずだ」と考え、さまざまな時空点を選んでみたが、結果として大半のものには興味がないということがわかった。興味があるかないかというのは、あくまでも他人との比較の問題であり、他人と比べて興味のあるものは多い方かもしれないが、いずれにしてもそれは宇宙に存在するものの内のごく少数にすぎず、宇宙にあるほとんどのものには興味がないと思う。
それはそれとして興味を持てるものの幅は広い方だと思う。1度興味を持ったものに対して興味を失なうことは滅多にないのだが、わたしの時間は有限であり、わたしはたえず新しいものに興味を持つので、結果的に飽きっぽい人のようになっていると思う。
■ メモ
先日博論の評を書いていたとき、
- 戸田山和久「ウィトゲンシュタイン的科学論」
をひさびさに読み返した。
論文の本筋とは関係ないが、何度も読んでも「クリプキはウィトゲンシュタインを誤読している」という説の意味がわからない。
これ、すでに幅広く認められた説らしいんだが、まったく説得力のある議論に思えないのだが。
疑問を少しまとめておく。
たとえば、物の本を読むと「クリプキは懐疑主義的議論だがウィトゲンシュタインはそうでない」とよく書いてある。
しかし「懐疑主義的議論(懐疑主義者を登場させ、それに答えるような形をとった議論)かどうか」というのは本の書き方の違いにすぎないじゃないか。
「クリプキは懐疑主義的議論だから誤読だ」というのが許されるなら、「ウィトゲンシュタインは断章形式だが、クリプキはそうでないので、クリプキは誤読だ」というのもアリだし、もっと言えば「ウィトゲンシュタインはドイツ語で書いているが、クリプキは英語で書いているのでクリプキは誤読だ」というのも許されるじゃないか。しかしそれは馬鹿げた意見に思える。
「誤読だ」という指摘をしたいなら、本の書き方の違いをいくらあげてもダメだ。本の書き方の違いではなく、書き方の違いが、結論の違いにつながっていることを指摘しなければならない。
しかしわたしには、懐疑主義的議論かどうかというのが、結論の違いにつながるような重要な違いであるように思えないのだ。
クリプキの議論は(ものすごく省くと)↓こうなっている。
- 規則に従っているって何となく自明なことのような気がするけどー
- これこれという懐疑主義者があらわれてこういういちゃもんをふっかけれらたらどうする? 答えられなくない?
- でも大丈夫共同体というものを考えるとちゃんと答えられるんだよ
この論旨の順番を変えてもかまわないと思う。
- 規則が自明なのは共同体があるからだ
- だからこれこれという懐疑主義者があらわれても、この人たちの懐疑はなりたたない。最初からそんな人の相手はしなくていい。
物の本を読むと、「クリプキの議論は上のような形をとっていて、ウィトゲンシュタインの議論は下のようなものなので、クリプキは誤読だ」というようなことが書いてあるようにわたしには読める。
しかし、それって畢竟、結論を前に持ってくるか後ろに持ってくるか程度の違いにしか思えない。
「誤読」説とわたしの間で観点がズレているようにも思えるのだが、どこがズレているのかはよくわからない。
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