■ ロジカルシンキングについて
クリティカルシンキングと呼ばれているものがロジカルシンキングで、ロジカルシンキングと呼ばれているものはクリティカルシンキングじゃないかとふと思った。
どうでもいい話だけど。
俗にロジカルシンキングと呼ばれているものは、まずあまり論理の話をしているように見えない。問題を整理して解決を導き出すための手法が紹介されていたりして、それはどっちかと言うと発見法(ヒューリスティックス)をシステマティックにやりましょうという話であって、論理とはそれほど関係ないのではないかと思う。発見法というものは、そりゃシステマティックにやった方がいいかもしれないけれど、ぶっちゃけ勘でもフィーリングでも何でもいい、アイデアさえでればいいという部分がある。論理ではない。科学で言うと、仮説の元になるアイデアを発見する部分は「夢のなかで思いついた」でも何でもいいけど、証明とか検証はきちんと形式的にやらないといけないねという話があって、論理というのは後者の話であると思う。
一方クリティカルシンキングと呼ばれているものは、科学哲学の人が書いてたりして、適切な論証の条件を論じていたりなどして、これはロジカルシンキングであると思う。
↑ブログの下書き帳を見たらこれが書いてあったのだが、時間を置いてから見ると本当にどうでもいい内容だと思った。
■ 就職
最近は、ActionScriptを書いている。
rascut便利だなーとか、Flexビルダーじゃなくてflash developでも意外といけるんじゃないか?とかいろいろ思うところはあるが、その内また書こうと思う。
とりあえずrascutは激しくおすすめなので、FlexなどでActionScriptを書く人は今すぐぐぐるとよい。
■ 経験諸科学について
最近「経験的」という言葉の意味がよくわからなくなってきた。
わたしは一市民として研究会などに参加することがときどきあるのだが、そういう場所ではやはり多くの人が「経験的研究は大事である」という話をしていたりなどする。
大筋としてはもちろん私もそう思うのだが、何だかだんだん経験的って言葉の意味がわからなくなっていて、「これは経験的研究じゃないのか?」とかいちいち疑問がわいてきて、人に聞くのだが、何でそんなことになるのかよくわからない。
「経験的」と聞いたとき、わたしはまず、それを「偶然の事実にかかわる」に置き換えていると思う。
偶然の事実というのは、可能だけど必然ではなく、事実であるという意味だ。
必然とは何かというと、宇宙の状態がどうあろうと、歴史がどんな変遷をたどろうと、依然として事実であるようなことだ。
(そんなものあるのか、と思う人は不可能なことをひとつ思い浮べてほしい。なぜなら、必然をイメージできない人でもたいてい不可能をイメージすることはできるからだ。あとは、不可能な命題に否定をつければよい。たとえば「この独身の人は結婚している」という不可能命題の否定である「この独身の人は結婚していない」は必然命題である)。
ここまで考えた段階で数学とか純粋な形而上学は経験的な研究の枠から外れる。こういうものは、基本的に「定義からして正しい」ということばかりやっているものなので、この宇宙の歴史を全然参照する必要がないものだと思う。だから経験的ではない。
しかしあとはまあ、良い悪い、正しい間違いの違いはあるにせよ、基本的には経験的研究なんじゃないかと思う。
たとえばゲーム理論というのは、それだけとりだしてみれば数学の理論だが、なんでああいう合理的なプレイヤーみたいなものを想定しなければならないかというと、やはり現実の人間がある程度そういう姿をしていたり、そういう姿を要求されているからだと思う。
ああいうものもまた、広い視点で見れば現実の人間にそっくりだと思う。タニシと合理的なプレイヤーを比較すると、タニシよりは合理的なプレイヤーの方が人間に似ていると思う。でもひょっとするとタニシはタニシなりに合理的なのかもしれないと思ってしばらく考えてみたが、そもそもなぜタニシがでてきたのかよくわからない。
...などと思っているとぜんぜん人と話があわない。あとタニシともぜんぜん話が合わないし、合理的なプレイヤーともぜんぜん話が合わない。
じつはわたしはよく、「風呂に入ろう」と思って服をぬぎ、そのままPCにむかって文章やプログラムを書きつづけてしまうことがよくあるのだが、実は今もその状態であり、書いている内容が適当になってきたのは、いい加減寒くなってきたからだと思う。
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