雑記2008年5月7日(水)


新刊とか

モテモテ王国の7巻がでるらしい。

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仕事に時間をうばわれてもブログは更新すべきだと思うがなかなか時間がとれず、放置ぎみになっている。のでよくないと思った。




読書

自己欺瞞と自己犠牲 (双書エニグマ)

柏端 達也 (著)

勁草書房、2007



前置き

本書は自己欺瞞の部と自己犠牲の部に分かれている。一応2つは別の話だと思うが、どっちも完全に合理的な主体を前提にはありえないような「不合理」の話になっている。どっちの部も、恐しく濃い内容が淡々と書かれているので簡単ではないが、どっちかというと自己犠牲の方がわかりやすいと思う。自己欺瞞の方は話の構造が見えにくく、最初はよくわからなかった。

しかし読み返していたら、前半(自己欺瞞の部) の論旨が少し整理できたのでまとめておく。




補足

一般に不合理というと、「人間ってやっぱ不合理をひめたものでさー。あんまり合理的な主体を仮定するようなモデルはよくないよねー」というありがちな落しどころがある。しかし本書はこの逆で、非合理な現象を扱いつつ、むしろ徹底して合理性にこだわっている(無論不自然に合理的なモデルは否定しているが)。

「不合理な現象があるから、人間は合理的じゃない」ですませた場合、たとえば「自己欺瞞はなぜ不合理に見えるのか? どこが不合理なのか?」はわからないままにとどまる。そうではなく「合理的な人が従うべきルールがある程度共有されているからこそ、不合理を理解できる。不合理っていうのはルールに反するから不合理なのであって、そもそもルールがなきゃ『不』合理なんてあるはずねえだろ」と考えねばならない。

特に自己欺瞞の部は、感情と論理のからみあいを解きほぐしていくような話になっており、なかなかおもしろい。




要約

自己欺瞞は不合理なものだ。

しかし自己欺瞞とは一体どのような現象なのか。また、一口に不合理であると言っても、それはわれわれのなかのどんなルールに反するのだろう。

たとえば自己欺瞞は、単なる誤った信念とは異なる。「町田は神奈川県の一部だ」などといった誤った信念は訂正すればそれで話はおわりだ。しかし自己欺瞞にはもっと困った部分があるように思われる。

本書前半は、自己欺瞞はどういう意味で「困った」現象なのかを説明している。



自己欺瞞とはどのような現象か。

本書では自己欺瞞の2つの型が取り上げられている。ただし一般に自己欺瞞と呼ばれる現象が、この2つで尽されるのかどうかはわからない。

  • (1)フロイト=デイヴィドソン型
B(p) & B(not p) & not B(p & not p)

「pを信じている。pでないを信じている。しかし、pかつpではないとは信じていない」


例.

Aさんは『まわりのみんなが自分を嫌っているの』と知っている(信じている)。明らかに嫌われているのを知った風な行動をとっている。しかし一方でAさんは『みんなが自分を嫌っていない』とも信じている。自分がみんなから愛されているかのように振舞うこともある。

しかし、Aさんは『まわりのみんなが自分を嫌っており、かつまわりのみんなが自分を嫌っていない』と信じていない。つまり、『まわりのみんなは1人の人間を嫌うと同時に愛するような混乱した人たちだ』と思っているわけではない。Aさんは自分の信念をうまく把握できないような状態になっている。



  • (2)モンテーニュ=ヒンティッカ型
B(not p) & BB(p)
B[ B(not p) & BB(p) ] & not B[ B(not p) & BB(p) ]

「pを信じていない。しかし自分はpを信じていると思っている(信じている)」

一方で「自分がそういう状態にあることを認めつつ(信じつつ)、そう信じていることを認めようとしない(信じようとしない)」


例.

Bさんは『自分は博愛主義者であり、すべての人間は善良だと信じている』と思っている(信じている)。しかし、Bさんは実は、自分の同僚のZさんは心底邪悪だと考えている。つまり、実際にはすべての人間が善良だと信じているわけではない。

もしもこれだけならば、Bさんは単に自分について間違った認識をしているだけであり、欺瞞ではない。自分の年齢を間違えるという事態に、特に論理的な問題がないのと同じように、Bさんは単に不注意なだけである。

しかし、Bさんは自分は博愛主義者ではないことに薄々感づいている。「おれって普段はすべての人間は善良であるをモットーにしてるけど、実際同僚のZは心底邪悪だし、おれ自身そう認めざるをえないなあ」と思っている。しかし博愛主義者という自称を捨てるのがいやなので、そのことを直視しないようにしている。

つまり、本当は知っているけど、知らないふりをしている。



自己欺瞞はどんなルールに反するのか

(1)のフロイト=デイヴィドソン型は、付加率と呼ばれる推論規則に反している。付加率というのは、p, q という2つの命題が成り立つとき、その2つをアンドで結んだもの、つまり「pかつq」も成りたつというルールのことだ。


例.

  • 雨が降っている
  • 風が強い
  • よって雨が降っており、かつ風が強い

(雨が降っている上に風が強いので外出するのはやめよう、みたいな場合を想定されたい)


これはあまりに簡単なルールであるため、ふつうの人は付加率を使ったからと言って、何か推論を行なったとさえ思わないだろう。

従って、Aさんが、この単純な推論に到達できないのは、論理的思考ができないからではない。他の状況であれば、簡単に同種の推論を行なうことができるはずだ。

Aさんが簡単に気がつけるはずの結論に到達しないのは、むしろ「まわりのみんなが自分を嫌っているかもしれない」という事態を認めるのが恐いからだと考えられる。


要するにここでは、感情的原因のために、ふだんなら簡単に気がつけるはずの結論になぜか気がつかないという形で自己欺瞞が生じている。



(2)のモンテーニュ=ヒンティッカ型は次のようなルールに反する*。

B(p)→BB(p)
推論主体がpと信じているならば、その人は自分がpと信じていることを知っている(信じている)。

* ちなみにこのルールには「4」という名前がついている(ただし、ここであげているような信念に関するルールではなく、様相論理の公理として知られている)。しかし「4」という名前はあんまりだと思う。もっと適切な名前があるかもしれないが、わたしは知らない。


ふつう誰でも自分が認めていること(信じていること)は、すぐにそれとわかる。何かを信じているけれど、自分がそう信じていることを知らないということは、(変な状態を想定しないかぎり)ない。

(上でちらっとでてきたように、自分が信じていないことを信じているかのように思ってしまうことはある。しかしそれはこのルールの反例にならない。このルールは、

「信じていれば、信じていることがわかる」と言っているだけなので、その逆は保証していない)


しかしBさんはこのルールに反している。Bさんは、自分が間違っていることに気がつきながら(信じながら)、気がついていることを認めようとしない。つまり、「自分が間違っているなどと認めたくない」という感情的原因のために、ふだんなら簡単に気がつけるはずの自分の信念に気がつかないという形で自己欺瞞が生じている。

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